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 2019年11月の独想録


 11月22日 腰痛を通して学んだこと
 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月16日と17日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第11回「怒りを捨てる瞑想」というテーマで授業を行いました。怒りは仏教では三大煩悩のひとつであり、怒りによって多くの人は自ら苦しみや不幸災難を招き寄せてしまいます。そんな不幸の元凶とも言える怒りから解放される瞑想法について解説しています。また、臨死体験瞑想法についても紹介しています。
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 次回は哲学教室で「交流分析とエゴ」というテーマで行います。久しぶりの心理学の授業で、自分が他者とどのような関係性を築くパターンの傾向があるかを実際に心理テストをしていただくことで判定し、よりよい人間関係を築くヒントと、エゴを消滅するヒントとなる情報を提供する予定です。人間関係がうまくいかず悩んでいる人はきっと役に立つと思います。
 
 さて本題にうつります。
 私はほんのちょっとしたことで腰痛(ぎっくり腰のような)になることがときどきあり、いまその腰痛に悩まされています。今までは一週間か、長くても二週間もすれば自然に治っていたのですが、今回は一ヶ月たっても治らないので、昨日、医者に行き、レントゲンなどを撮って診察してもらいました。そうしたら、とりわけ問題となるようなものは見つからず、筋肉が炎症を起こしているのでしょうということで、湿布薬や痛み止めなどの薬をもらってきました。
 特に問題はないということで安心しましたが、腰が痛いと日常生活がかなり制限されます。そのために、しばらく運動らしいこともしておらず、ヨガもできず、瞑想は椅子に座って行っています。デスクワークをしていても、鈍い痛みがじわりじわりと感じられて、集中できません。
 ということで、いま現在の私は、いつものペースがかなり乱された状態にあります。
 日常生活のペースが乱されるということなど、人生にはいくらだってありますから、こんなことで負けてはいられないのですが、今回、思ったことは、ひとつ何が悪い状態になると、それが他のことに普及してしまい、いろいろとやっかいなことが生じて、それが慢性状態になりかねない危険がある、ということです。たとえば、運動もヨガもしていないので、頭がうまく働きません。「運動やヨガと頭の働きがどう関係するのか」と思われるかもしれませんが、運動したりストレッチをすると頭の働きがあきらかによくなるのです。これは医学的にも立証されています。また、運動していないと、意欲が低下して、何をするにも「おっくう」になってきます。これも医学的に立証されています。今は、仮に腰痛がなかったとしても、運動するのがおっくうに感じられるようになってしまいました。腰痛が治ったらまた運動やヨガをするつもりでいますが、そのときには強い意志力を発揮しないとできないような気がしてきました。
 このように、人間というものは、何か少し悪いことが起きるとその影響があちこちに波及してペースが乱され、その結果、悪い習慣が形成されてしまい、一度それが習慣になると、再び健全な習慣を取り戻すのに強い意志力やエネルギーが必要になるため、そのままずるずると悪い習慣が続いてしまう……、ということになりかねないように思われます。
 最近、芸能人の麻薬事件がニュースで盛んに報道されていますが、一度麻薬に手を染めて悪い習慣に馴染んでしまうと、そこから這い上がるのは並大抵のことではないことは、想像に難くありません。麻薬依存は一生治らないとまで言われているほどです。
 麻薬は極端であるにしても、たとえばちょっと何らかの贅沢を覚えてしまうと、その贅沢がやめられない、ということはよくあることです。これもある種の依存症と言えるかもしれません。依存症になると、それに縛られて人を不自由にしますし、また禁断症状に苦しむことになります。
 人間が堕落するきっかけというものは、案外、最初はささいなことなのかもしれません。「これくらい大丈夫だろう」と油断していると、みるみる強力な潮流に飲み込まれてしまい「これはまずいぞ!」と思ったときには、そこから抜け出すことが困難になってしまうのです。
 なので、ペースが乱されたら、それが悪しき習慣になる前に、早期のうちに対処することがとても大切であると思います。
 こうしたことを、今回、腰痛を通して学びました。


 11月8日 仏教の本質は実践にある
 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月2日と3日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第11回「易経に学ぶ運命の法則2」というテーマで授業を行いました。今回はいよいよ宗教書としての易経に焦点を当て、易経には霊性進化のために64の教えが書かれており、その教えはキリスト教と共通点があるという、興味深い説をご紹介いたしました。おそらくこのような視点で易経を解釈した人は他にいないと思います。易に関心のある方はもちろん、霊性進化をめざしている方はぜひ動画(ダイジェスト版)をご覧になってください。
 動画視聴
 今月はもうひとつ瞑想教室(16日、17日)が行われます。「怒りを無くするにはどうすればいいか」というテーマでアプローチしていきます。怒りは仏教では三大煩悩のひとつであり、怒りによって多くの人は自ら苦しみ不幸災難を招き寄せてしまっています。そんな不幸の元凶とも言える怒りから解放される瞑想法について紹介する予定です。

 さて、本題に入ります。
 前回、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということを書きました。
 そして、多くの人が、単に頭や観念で教えを学んだだけで、それを実践することなく満足してしまっていると書きました。これでは、宗教もスピリチュアルも単なる「娯楽」に過ぎず、救済への「道」とは成り得ません。
 仏教、すなわち釈迦の教えは、そのことを強く戒めています。それを端的に物語っているのが「毒矢のたとえ」です。簡単に紹介しますと、ある弟子が「宇宙の究極の本質とは何か、あの世はどんなところか、それを教えてくれなければ修行しません」と釈迦に言いました。釈迦はこう答えました。「ここに毒矢に射られた人がいて、周りの者が矢を抜こうとしたところ、ある人が、この毒矢の毒の成分は何か、誰が何の目的で矢を放ったのか、それがわかるまで矢を抜いてはいけないと言ったとしよう。そんなことを調べていたらその人は死んでしまうであろう。同じように、おまえの疑問は生涯かかっても解き明かせないもので、そうしたら肝心の解脱という修行ができずに死んでしまう」。
 スピリチュアルの本などを読むと、この釈迦の戒めが頭に浮かんでしまいます。スピリチュアルの本には、宇宙の究極的な本質だとか、五次元、六次元の世界はどうだとか、霊界はどうだとか、あげくには陰謀論のようなものが書かれてあり、人気を博しています。そうしたことを学ぶことは一概に否定はしませんが、このようなものは、本当かどうか確かめようがないのです。どうあがいてもわからないのです。それなのに、こんなことにばかり面白がって夢中になっていたら、「自分を変える」という肝心の修行がおろそかになってしまいます(趣味でスピリチュアルを学んでいる人はそれでいいでしょうが)。

 釈迦が、「仏教とは何か」について、それを一言で表現した言葉が、『法句経』(185節)に見出すことができます。次のように書いてあります。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである」
一見すると、まったく当たり前のことであり、陳腐にさえ思えてしまう言葉です。しかし、これが仏教なのです。ところが仏教というと、複雑怪奇な縁起論だとか唯識論だとが無我論といったことばかり有り難がって、たくさんの本が出されて研究されています。
 言うまでもなく、仏教の目的は学者を輩出することではありません。仏教理論を学べば解脱できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずです。
 人を解脱させるのは、煩悩という汚れを除去して、心を浄めることにあるのです。
 心を浄めるには、悪しきことをなさず善いことを行うという実践が不可欠なのです。悪しきことをなさず善いことを行うという実践がなければ、いくら仏教理論を学んでも、瞑想をしても、心が浄まることはなく、解脱はできません。また、逆も真なりで、心が浄まるにしたがって、人は悪しきことはしなくなり善いことができるようになってくるのです。
 つまり、「悪いことはするな善いことをせよ」というのは、単なる道徳的な戒律というレベルではなく、まさにそれが解脱修行の中心である、という位置づけをするべきなのです。瞑想だとか仏教理論の学びというのは、その周辺に位置するべきものなのです。さらに言うならば、瞑想だとか仏教理論は、悪いことはせず善いことができるようになるためにあるのです。
 ここを誤ると、仏教修行はおかしなところに行ってしまいます。
 このように、仏教というのは、小難しい理屈を振り回す観念的な哲学ではなく、あくまでも「実践哲学」だということです。仏典を熱心に読むのも大切ですが、目の前に困っている人がいたら、仏典をしまってその人を助けてあげる、どんなに小さな親切であっても、善行をする、これが、真の仏教徒のありかたです。
 もちろん、実践することの重要さは仏教に限りません。キリスト教でも、あるいは他のまともな宗教なら、実践を重視しているはずです。実践こそが宗教の本質であり、スピリチュアルの本質なのです。

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