ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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12月25日(日) イブの幸福論2

幸福は才能である… その才能は磨かなければ光らない  幸福を感じる才能にも、持って生まれた大小や出来不出来はたぶんあるに違いない  でも肝心なのは才能を磨く技術の方である  大きな才能も磨き方がまずければ汚く光る  逆に、持って生まれた才能が小さく不出来でも、磨き方が上手ければ美しく光り、周りの人々を温かく照らし喜ばせるのだ


幸福感得力を磨く技術といえば、世界名作アニメ「愛少女ポリアンナ」を思い出す^^;  今から19年ほど前に放送され、さしたる話題も呼ばずに終わったが、作中で繰り返される「よかったさがし」という技術が私には忘れ難い  (文庫本の表題は「少女パレアナ」)
「よかったさがし」は神を身近に感じる方法のようだが、一種の遊びであるのが大変いいと思う


私たちの多くは、生まれてこのかた「不幸は拡大レンズで、幸福は縮小レンズで」見る癖が染み付いているから、どうしても幸福に対する感覚が鈍っている
「よかったさがし」は意識して幸福を探す訓練であり、いい大人がやろうとしても始めは全然ダメだろう  ただし、限界はあってもそれが技術である限り、ある程度は身につくのだ

12月24日(土) イブの幸福論

「この歳になって…」の最たるものが、箴言の類いを読んだり作ったりするのをやめられないことだ  時折ふっと手に取って読む数行の、なんと目に染み入ることか  ブヨブヨになった日常を、少しではあるが締め直してくれるのだ
クリスマス・イブの今日、脳裡に何かが降臨したかのように、ある言葉が浮かんだ


──幸福は才能である──
億単位の資産を持ち妻子に恵まれ、事業も発展し続け、たとえ気持ちにゆとりがあっても、幸福を感じ取る能力がなければ、その人は幸福には決してならないだろう  幸福を感じ取る能力に長けていれば、その人は聖書に名高いヨブのように、真実、とっても羨ましい人生になる(^^)


幸福は才能である…  貧しく小さな暮らしの中に、幸福な人をより多く見ることがあるのは、幸福が一定の尺度で測り得るものではなく、人それぞれの感得能力に負っているからだ  そういう人は、ごく簡潔にニコニコしてるからわかる
なお、「幸福は才能である」の由来はわからないが、たぶん何かで読んだ、知られた箴言だろう

12月20日(火) 暮らしの円周率

いったい「不惑」などということを何処の誰が言い出したのか  孔子か…  孔子はそうだろうけど、孔子を基準にされても、私は困る  15日本欄に「この歳になって」と書いたが、ほかにも「この歳になって…」と言わざるを得ない事例・案件が私には大変多いからだ


例えば、自分がコンパスで描いてる円が、果たして本当に円なのかどうか、私は少し自信がない  円周率3.14…は割り切れないと教わり、どうしても終点に辿り着かないはずなのに、なぜサラリと円が描けるのか  このわけが少しわかったのは、なんと今日である(。・o・。)ノ


円周率を求める式は「円周÷直径」だが、この「円周」と「直径」の間には、本来何の関係もないのである  たまたま「3倍ぐらい」という一定の値が出るものだから、あたかも関係があるように見えるだけなのだ  ホントかどうかは別として、この発見は我ながら気に入った^^
あたかも関係があるかのような見かけをもつ無関係は、暮らしの中でも案外多いから

12月15日(木) ベッキー

私はベッキーが大好きだ  タレントのベッキーである  この歳になって(どの歳だ^^;、この気持ちは意外な展開で、我乍らちょっと驚いている
詳しく知ってるわけではないが、あの明るさと前向きさは只者ではない  明るいといっても、天真爛漫とは少し違う感じがするのは、ベッキーがもう二十歳?の大学生だからかも知れない


私は山瀬まみがかなり好きだ  デビュー当時「テレビ探偵団」に出ていた頃は、何だかミョーな感じがしてただけだが(たぶん誰もが同じだろうと思う)、外見や見た目(同じではないか^^;とは裏腹に、自分の頭で考えてそれを言葉にできる上、大方の支持を得られる中庸ポイントに立脚した、稀なタレントである


ふたりとも、自由な表情…いや、顔つき、顔面といった方が適切かも…と自由な仕草が持ち前である  ほかのタレントが拒むであろうようなシチュエーション(お〜!言えた^^;であっても、たぶんスタッフが望む以上の顔つき・仕草をしてみせる  その千変万化は、見ているだけで有難くなるような、今様観音といっていいのだよ

12月6日(火) 言葉は子ども向けに

子どもに伝えるべき言葉が、子ども向けでないままに子どもに届けられているのが以前から気になっている  中学生でも理解が一様ではない言葉が、小学低学年に向けて語られることが少なくないのだ  朝会、朝の点呼、運動会や遠足の注意などで、意味がわからぬままに流れに身をまかさざるを得ない子どもは、きっとかなりの人数になるだろう


「今日、教育委員会の方(かた)が学校の見学に来られます」──全校朝会でこんな言い方をする校長先生は多い  6年生から1年生までいるのだから、言葉の選び方が難しいのはわかるが、そういうときは1年生にわかるように話すのがいい  6年生にもわかるからだ  そして、易しい言葉で伝えることのできる先生は、おそらく6年生からも支持されるに違いない


「指導」という言葉を、平気で子どもに向かって言う先生も少なくない  指導とは教える側が持っていればいい言葉(概念)であって、子どもに向かって言うような言葉ではない  子どもは子どもで「指導」という言葉ぐらいは使えるかも知れないが、クラスの子ども全部が知っている言葉ではないはずだ  子どもに向かう言葉に練りが足りず、粗雑過ぎる

11月30日(水) ウイルス哲学2

というわけで、セキュリティ対策はオンラインで行なうのがいちばん妥当ではなかろうか  PC内に擬似ウイルスを抱え込まなくて済むからだ  数年前、McAfee社がオンライン型に変えたときは、あまり評判がよくなかったらしく、すぐにPCインストール型のソフトに戻した  オンライン型を行なうのは、当時の日本では時期尚早だったのだろう


韓国製のセキュリティソフト「バイドクター」は、DLファイルのサイズから、どうやらオンライン型のようだ  しかも、起動時に必ず配給元サーバに接続しようともがき苦しんでいる^^;  殆どの場合、接続できない  試用している人が大変多いとみえて、HPにも満足につながらない混雑状況である  ネット上には早くも「誤検出が多い」などと非難の声が載りつつある


誤検出はともかく、ブロードバンド先進国の韓国だから「バイドクター」が歓迎されたのだろう  仮に日本で歓迎されないのなら、ブロードバンド未発展国の証明になりかねない
オンラインでのセキュリティ対策は、今後もっと広まっていい  個々のPCに、今までの全ウイルス・全スパイウエアに対応した検知ファイルが内蔵されるなんて、スペースの無駄である

11月29日(火) ウイルス哲学

よく言われることかも知れないが、アンチウイルスソフトは、それ自体がウイルスである、または限りなくウイルスに近い  プログラム知識は皆無でも、何となくわかる  それは、ITの先端をいくアンチウイルスソフトが、実は古来からの身体解毒法にのっとってるということである


ウイルスを検知するには、2つの方法があるだろう  ひとつは、凸に対して凹が食らいついてはめ込むように、ウイルスを自らに取り込み一体となり無害化もしくは排出する方法  もうひとつは、ウイルスの害悪部分が「123abc」というコードなら、「delete-123abc」というようなコードで対応し検知削除する方法


どちらにせよ、パターンファイルとか定義ファイルなどの名前で、PC内に大量の擬似ウイルスを飼っていることには変わりない  無害化されているとはいえ、不気味な予感を覚える  上の例の「delete-」の部分を一挙に消すウイルスが出現しないとも限らないヽ(。・o・ヽ)  こんなことを思いつく私は「越後屋ぁ、おぬしもワルよのぅ」かも(爆)

11月25日(金) フリーウエア万歳

Win98にとっては超重量級・難起動巨艦「大和」と化した「ウイルスバスター」  本欄4月21日に書いた通り、常駐から外して久しいが、それを完全に削除することにした
理由は、ほぼ無駄と思われるお金がかかるからである^^;  サイトもPCも安軽単でいきたい  そんな気持ちからフリーのものを探したら、とてもいいものが3つ見つかった


「バイドクター」  本来はアンチウイルスソフトだが、「スパイウエア検索」に威力が大きいことがわかって、「スパイウエア」専用に使うことにした  ネット上に数日前に躍り出て、今やサーバーに繋がりにくい状態が続いている  韓国製だが、表記は日本語(奇妙な日本語訳だ^^)
「AVG」  すべて英語表記  ただ、軽くて高性能なので、アンチウイルスはこれに決めた


「ZoneAlarm」  何年も前から使いたかったが、海外製で英語表記のため、敬遠していた  今回調べるうちに、完全日本語表記版になっていることがわかり、ファイアウォールはこれを使うことにした(フリー版はファイアウォール機能のみ)
上記3つのうち2つを常駐にしたが、巨艦「バスター」に比べれば大変軽く、ありがたい

11月20日(日) ノルウェイの森5

精神医学と心理学はどう違うのか、恥かしいが長い間わからないでいる(^^ゞ  まして精神分析と心理分析、精神科医と心理カウンセラー  何となく精神科医の方が立派そうではあるが…  現場関係者には差異が明確かも知れないが、私にはさっぱりわからないのだ
それでも、心の問題に触れる場合、最低限の心得が要ることはわかる


問題を抱える人に直面したとき(あるいは自分自身が問題を抱えているときでもいい)、いったいその人は(自分は)何処へ導かれるべきなのかについての謙虚さである  普通と言われ世間と言われ一般社会と言われる世界、「ノルウェイの森」で村上春樹が「こちら側」と呼ぶ世界に戻すのか  そこは、世間智・常識・金・出世がリボンを結ぶ「体制」と言われる箱の中である


あり得る話ではないが、仮に「反体制の精神科医」という人がいるとして、その人が相談者を導いていこうと目指すのは、どう考えても「支配体制」の内側であろう  心を再構築するには、規範とかモデルが必要なのだから  「ノルウェイの森」は、その辺りの描き方がとても謙虚であった  「枠からはみ出した人に帰る所はあるのか」が主題ではないかと思ったほどである

11月18日(金) 冬のアフロディティ

その人とすれ違ったのは、或る小春日和の昼過ぎ、河原の土手を散策しているときだった  前からか後ろからか、どこから聞こえてくるのだか、綺麗な歌声が流れてくる  と思ったら、向こうから人が来る、それも髪の盛り上がった…いやあれはアフロヘアだ  ん?待てよ…  その時である、歴史が動いたのは^^;  それはアフロヘアなんかじゃなかった!


なんと、色とりどりの落ち葉をアフロヘアのように上手にまとめてかぶり、両手を大きく振って元気よく歩いていたのだ  しかも綺麗な歌声はその女の人のメゾソプラノだとわかった  落ち葉の帽子に天上の歌声  童話の国へ迷い込んだかと錯覚した  半円形にあまりにも膨満したアフロ落ち葉なので顔はきちんとは見られなかったが、三十前後の人かと思われた


落ち葉の中から小鳥が飛び出すかも知れない!  そう直感した私は、狭い土手をすれ違うときにちらっと落ち葉の間を盗み見た  これでもかというくらい、落ち葉がぎっしり詰められはめ込まれていたが、小鳥は留守らしかった  いや、初冬の青空のもと、高らかに闊歩(かっぽ)して歌うその人が小鳥かも知れなかった

11月17日(木) ノルウェイの森4

すべての物事について距離を置いて関わる  作中にもブックカバーにも、このようなことが書かれていた  小説を読むのがあまり得意ではない私は、この言葉を案内役のひとつと考えて読んでいった  すべての物事について距離を置いて関わるとどうなるか  結果は、「とてもつまらない世界が現出した」と感じた


小説がつまらないのではない  小説の描いている(描こうとしている)世界がつまらない  どこから読み直してもOKだと、4日に書いたが、別の言い方をすれば、どこを取っても平板で、順序を入れ替えて書いても(読んでも)大丈夫な印象である  ただ、独特の雰囲気をもつ会話部分は、この作品のいちばん優れている点だろう  まるで食事をしながら殺人をしているようだ


傷つかないように、傷つけないように、しかし傷つき傷つける、私たちはまぎれもなくそういう世界に生きているから、ちゃんと生きようとする者ほど、生きていくには勇気が要るのだ  負荷と言ってもいいだろう  作品の最後の方でワタナベ君がこの負荷を覚悟したとき、ようやく本当の恋愛譚が始まった気がする

11月13日(日) ノルウェイの森3

「1969、1970」という西暦が、作中3、4箇所に注釈のように出てくる  また、ギターで弾かれる曲目は、いかにもその時代らしい曲目が並ぶ  しかし、「ノルウェイの森」がいつ頃の物語なのかを知るわかりやすい手がかりは、せいぜいそのぐらいだ
作者が敢えて触れなかったに違いない、同時代の「もう一方の側の物語」というものがある


物書きを自認する人が’69年と’70年の学生生活を語るとき、急速に終焉していった大学紛争に触れないわけにはいかないだろう  直接関わった人は勿論だが、無関心だったり遠巻きにしてただけの人にだって、折り畳んだ何らかの思いはきっとある  ところが当の大学生であるワタナベ君の周りには、その雰囲気が微塵もないのだ


思い起こせば’80年前後にコドモ界で使われ始めた「シカト」が、ここにはある  存在を巡る長大なこの小説で、完全にシカトされている膨大なヘルメットと投石  「1969、1970」という西暦を刻印しながら、なぜ徹頭徹尾シカトしているのだろう

11月11日(金) ノルウェイの森2

「ノルウェイの森」を通読しようと思ったのは、書店での「立ち読み効果」である^^ゞ  出だしの文章の素晴らしさに衝撃を受け、「読んでがっかりする本じゃあないナ」と直感し即購入した  ビニール密閉コミック本では、こういう買い方はあり得ない(/・o・。)/


この作品の文体が与えた影響なのかどうかはよく分からないが、「ノルウェイの森」風の文体が、’90年前後から今に至るまで、「読まれる文章」のベースになっているのは確かなようだ
幾分ユーモアを漂わせ、軽く機転の利いた会話さばきで場をつなぐこと  本質には関わらない部分での人間関係を積み上げていくのにふさわしい文体なのだろう


しかし最後の方で、ワタナベ君が心を乱し当てのない旅をする辺りは、それまでとは打って変わって読みにくい文章になっている  呑み込み難い現実をそのまま文体化したかのように
そうであるなら、しばしば言われる「近頃の若者の文章力のなさ」「ネット語の粗悪さ」は、複雑になり過ぎた現実社会を前にして、若者が呑み込み不能に陥っている正直な姿なのかとも思う

11月6日(日) な人々

街角系  歩き煙草な人々  いまどき歩き煙草をする人がいること自体、私にはちょっと信じ難い  時代の空気が届かぬ所にいるか  その周囲には洋上の孤島のような雰囲気がある
電車系  車中で背負ったままのリュックな人々  持ち方が悪く階段やエスカレータで人の目を突きかねない後ろ傘な人々  (この2つは以前にも書いた)


交通系  何かに追われているように赤信号を無視して横断歩道を越えていくクルマな人々  「納期に間に合うかどうかぎりぎりなんだよっ、悪いけど…」こんな言葉を聞いたことがある  納期は死守しても信号は守らないか  守るモノを勘違いするなよ


歩き煙草な人々には、若干の気の毒さを感じる  長い間ある程度は黙認されていた行為が、急に白い目で見られるようになったのだから  習慣を変えるのはそうたやすいことではないと、百歩譲って思う  でも人なかで火はいけませんや、若旦那
以上、かく言う私も、きっと何らかの迷惑行為をしているだろうなと自戒しつつ

11月4日(金) ノルウェイの森

「ノルウェイの森(村上春樹・作)」を、何と2年がかりで読んだ^^ゞ  こんなにかかった理由のひとつは、その文章が大変読みやすかったからだ  読みやすければ早く終わりそうなものだが、いつどこから読み始めてもすっと小説に入り込めるので、気の向いたときに読んだり読まなかったりした  4、5ヶ月ブランクがあっても、ストーリーがすぐよみがえり不便はなかった


屈指の恋愛小説という定評だけは聞いていたので大いに期待したが、主人公ワタナベ君は女の子といてもドキドキしたりオロオロしたりがまるでない  私の知ってる恋愛状態(爆)が始まるのは10章あたりからで、長い長い道中の終わりになってようやくワタナベ君、取り乱し始めた


主要登場人物が皆とても知性が高く、私はそれがかなり気になった  辟易(へきえき)することもしばしば  これも、読了に2年かかった理由のひとつである  知性が高いと恋愛もこんなにつまらなくなるのかと、別世界の人々に毒づきたくなった  しかし、終わり近くなるまでのやり取りは恋愛ではなかったのだな  10章以降の「緑」さんは、本当に救いであった


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