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4月24日(月) 夕方のような朝に
まれにではあるが、学校教師の言動に違和感を覚えることがある 例えば、朝登校すると校門付近で先生数人が待っているシーン 少なからぬ人の記憶にあると思う 遅れてきた生徒をチェックする、アレだ 別に構わない さしたる理由もなく遅れた生徒が悪いんだから
それほど時間に厳しいなら、さぞや帰りも厳しかろう
と思いきや、帰りは案外ずぼらであるのが、近頃の学校のスゴい所だ 下校最終時刻というのがたぶん決まっているだろうに、従わない剛の者がいるのだ 朝、厳しく遅刻チェックをしていたアノ先生が、何故か刻限を過ぎても部活動を続けているという図は、おそらく全国かなりの数に上るだろう 矛盾である しかし相手は剛の者だ うかつなことは言えない
朝は1秒でも遅れたら遅刻扱いで担任に報告されたりするのに、夕方のずぼら加減は目を覆うばかり いや私としては、夕方はずぼらでいいから、朝も同様にずぼらにしてほしい どれほどの子どもが救われることだろう その子の意志の力ではどうにもならない事情による遅刻常習が、実はけっこうあるからだ 責任のないことで責められては、子どもはつらいよ
4月23日(日) 教育界カルい言葉
「児童生徒の内心にまで立ち至って強制するものではない」と明示のあった国旗国歌法 東京都は通達という「条例よりは弱めな感じの、しかし強制力のある」方法によって、当初の政府明示をなしくずしにした この「内心にまで立ち至って」という表現は、今考えれば実に巧妙な表現であった 「内心は問わないが、形だけは強制するものである」と暗示していたのである
もっとも、なしくずしにかけては教員サイドも負けてはいない 1992年、学校隔週5日制が始まった折り、週2回の土曜休みについて、この人たちは何と言ったか うるわしくもこう語ったのである 「子どもを家庭に返す」 休みが増えたことでますます部活動に時間を割かれるのを懸念した世論に対して、「土曜休みには部活なし」と学校の人たちは公言したのだ
それどころか、細々と営んでいる極小零細学習塾(私んち^^;にまで、名刺を持った学校長がやってきて、「どうか土曜休みの趣旨をご理解賜り云々」と、要するに「塾が子どもの時間を奪わぬように」と、頼みに来たほどだ ところが気がつけば、いつの間にやらすべてはなしくずしさ 土曜休みに部活動は当たり前 世間に向けて組織をあげてついた大嘘を、私は忘れない
4月18日(火) 私の五千円
今、松戸では(正確には千葉7区では)衆議院補欠選挙が行われている 偽メール引責辞職とは無関係の理由による選挙だが、時期が時期だけにかなりややこしい状況だ かつて「金権千葉」とあだ名がついたこともあったほど、千葉は日本有数の金鉱に恵まれていた 今日も選挙カーの人が「五千円、ありがとうございます」と叫びながら過ぎていくから、びっくりした
江戸川の水運を利用した醸造業などの発達で、松戸よりさらに上流の流山・野田といった地域には、いわゆるお大尽(金持ち)が沢山いたそうだ 彼らの遊びはカネに糸目をつけないお大尽遊び その名残で、選挙カーにおひねりを投げ込む人が後を絶たないという(←嘘です^^;
その日私は、ある食品の素材を買いにイトーヨーカドーへ赴いたのだった そして入り口の安売り服に目が眩み、食品素材はすっかり忘れて上階の服飾売場をさまようことになった これはと思う物は皆高い たださまよい、手持ち五千円をぐっと我慢して帰る羽目になった^^;
我慢の財布票は何処へいく 今日も聞こえる「ご声援、ありがとうございます」
4月11日(火) 挫折しないブログ
ブログは2度挫折した^^ゞ 最初は'04年 ひと月もたずに… 2度目は昨秋から今年の2月まで… どちらも「プリントゆうえんち」訪問者向け学習コラムだったが、「怠け日を自動表示するカレンダー(笑)」に気力体力が追いつかない それで、挫折しないブログを始めることにした トップの「緊急時用告知板」がそれである 書かないことを本来の姿とするブログ
トラブルの際に使うだけ 果たしてPCトラブルかネット接続トラブルか、自然災害かあるいは私自身が誘拐されるのかはさておき、トラブルに巻き込まれた時の迂回・連絡ルートを用意しておくことは、ネットに限らず現実世界でも大事なことだ 日に日にその必要性は増している
私の予感は結構当たるのだ 今日も当たった↓
1時間ほどの外出予定 あと2時間ぐらいは雨が降りそうにない空模様だった しかし西日本での大雨情報から、降るかも…と思い、折り畳み傘を持って出たら、帰る頃に降り出したのだ
スグには降りそうになくても折り畳み傘を持って出る理由は、もうひとつある 畳んだ折り畳み傘を手に歩いてると、決して悪人には見えないのだ(爆) 畳んであることがポイント^^
4月5日(水) やわらかな0
3、2、1、0 左の数字を、今あなたはどう読んだだろうか 「さん、にぃ、いち、ゼロ」と読む人が多いのではないかと想像する とくに意識しなければ、たぶん私もそう読んでいたはずだ しかしこの読み方はかなり変だ スペースシャトル打ち上げ時の管制コールで「スリー、ツー、ワン、れい」とコールしたら変なのと、寸分の差なき等しさにおいて変なのだ
JRでは、「0番線」をもつ乗り換え駅が少なくないが、「ゼロ番線へお廻り下さい」のようにアナウンスされている 数学の数直線は、数の読み方自体「プラスいち」のように読むから、そもそも和英混在だが、多くの場合原点は「ゼロ」と読む 言語統制のあった軍国日本においても海軍は別格だったせいか、「零式艦上戦闘機」は、当時から通称「ゼロ戦」と呼ばれていたそうだ
もちろん「ゼロ」と言われるのを断固拒絶するモノもある テストだ 「れい点」という恐ろしい呼称が「ゼロ点」に変わる日は、決して来ないだろう 「れい点」保持者は「ゼロ戦」賛美者よりも忠義だと、言えなくもない^^; 時刻の零時も普通は「れい時」だ いや、世の中にはもっと頑固な0もある 「ゼロ」とも「れい」とも呼ばれたくない0 渋谷109の0は「まる」だ
4月3日(月) 神はサイコロを…
一瞬先がどうなるのかについて、ちょっと考えさせられるドラマを見た もうとっくに終わってるが、小林聡美とともさかりえの「神はサイコロを振らない」である 見たのは最終回だけ^^; それゆえに尚更考えさせられたとも言える
事前の番組紹介での知識のほかは、ストーリー展開を全く知らない状態で見た
同僚であり友人である小林とともさかが話している どちらかが時空を超えてフッといなくなるはずなのだが、小林が消えるのかともさかが消えるのか、まるでわからなかった(爆) ほかにも、関根恵子と成海璃子の母子、尾美としのりと俳優X(名前がわからない^^;)の兄弟も、それぞれどちらかが消滅する設定らしいのだが、どちらが消えるのか、最後までわからなかった
最終回だけ見て言うのも気が引けるが、最終回は名編であったと思う どちらが消えるのかが、台詞だけでは見当がつかない設定になっているところが、とてもおもしろかった 普段の私たちの一瞬先にもつながるものを感じられて… しょんぼりうつむいてる方が消えるとは限らないわけだ(笑) 構成を多少変えれば、最終回だけで短編ドラマになりそうだった
3月28日(火) 上岡のブラームス
凄い指揮者がいた 上岡敏之という指揮者 活躍の場が主にドイツであるためか、よほど詳しい人でないと、その名を知らないのではないだろうか 先日その実演に接するまで、私も全く知らなかった 読売日本交響楽団でモーツアルト第36番とブラームス第1番の交響曲を指揮したのだが、とりわけブラームスには驚嘆した
どちらかというとブラームス自身は、リズムがずれていったり「もたる」中で音楽が形成されていくのが好みだったようで、聴く者に必ずしも明快明晰な印象を与えない 指揮者は──名指揮者といわれる人はもちろん──作曲者のそういう所を理解して、そして多くの名演が生まれた 私もレコードやCD、ラジオなどで、たくさん聴いてきた ブラームスが大好きだから^^
しかし上岡の演奏は、今まで聴いたどの演奏とも違っていた ブラームスの第1番で、音響とリズムがあんなに生気溢れる演奏を聴いたのは初めてであった 一緒に行った友人たちも口々に「素晴らしかった」と言い、何よりも演奏終了後の万雷の拍手が本物だった 昔「朝比奈のブルックナー」という言い方があったが、「上岡のブラームス」! 伝説の誕生である
3月21日(火) 古いについて考える
古いということにも2つの側面がある 「古くて役に立たない」というように使うときの古いと、「古いけれども大切だからとっておこう」というときの古い 放っておけばゴミの溜まり場となる生活あるいは人生 捨てなければならない古さに対し、ときには敏感さも必要だろう
一方で、古層となり日々しまわれていく「大切なもの」としての古さがある 生きる上で忘れてはならないものの大半が、たぶんこの「古層」に属する 例えば「道は歩くためにある」は私にとってひとつの古層を成している 道の始まりは「歩く」ことだ これを忘れてはならない
(古いキャラで恐縮だが、金八先生ならこう訓戒を垂れたろう) 「古」という字は、神の冠(かんむり)を表す象形文字です 「古」は、そもそも「大切だからとっておく」という意味が始まりなんです 古いから捨てるという使い方は、ずっと後になってできたものです PSEマークにこだわる経産省の皆さん、古いから捨てていいという発想は、どーぞ捨てて下さい
3月14日(火) 春宵一咳
指揮者が現れる 今までチラホラ聞こえていた咳が、にわかに場内に広がる 中には公然とくしゃみをする者も出る始末だ それらに無関心に指揮棒が上がる 有無を言わさぬ指揮者の権威 ようやく訪れた静寂の中から、音が立ち上がる そこへまた咳だ 群発咳
このように、演奏会に咳は避けられないが、その一方で次のような、納得しかねる事実はどうだ
「オーケストラの人は咳をしない」
オケだけではない ソリストもそうだ 小菅優が咳込みながらピアノを弾くだろうか 戸田弥生がシベリウスを弾くとき、咳を我慢しているようには見えなかった パバロッティもノーマンも、明らかに咳とは無縁である 咳をしないのだ、音楽家は
音大では、咳止め法を履修するのだろうか それともアレか、咳をしない人が音楽家になり、咳がちな人は小説家になるのか 友人を介して、オケ筋の人に訊(き)いたら、「とても緊張してるから咳が出ないだけ」という答えが返ってきた なるほどたしかに、一心にやる状況で人は咳をしない 執刀中の外科医に咳込まれるのはイヤだ 「緊張説」を信じるほかあるまい
3月10日(金) アニメ日米格差
アメリカ・アニメに比べて、日本のアニメは動きがぎこちないとしばしば言われてきた TVアニメ初期の「鉄人28号」は、その「粗雑な動き」の典型であった これに対し「ポパイ」「フェリックスちゃん」など当時から既にアメリカ・アニメは動きが滑らかで、可能な限り「一瞬前」の動きに忠実につなげようとしていた 日米のその違いは今のアニメでも歴然と存在するようだ
しかしアメリカ・アニメに見られる、滑らかな動きのヌメッとした感触が私には肌が合わない ディズニーアニメを思い浮かべてみるとわかるが、登場人物(動物)の動きは、滑らかゆえにかえって不自然である 単位当たりのコマ数を多くすれば自然な動きになるという発想は、かなり単純だ 繊細と省略の歴史が長い日本人の感性に到底適うものではない
日本人は、平安絵巻の「屋根を省いて室内の様子を俯瞰(ふかん)する」手法など、大切な要素が欠けていても決して不自然さを覚えない 俳句短歌など省略の文学に多くの人が親しむのも、「あるべきものがない」状態を楽しみ、必要なら頭の中で補うだけの知性が、誰にでもあるからだ 日本人にとっては、現実の忠実な再現はかえってリアルから遠ざかる
3月6日(月) 灯油ポンプ
20年使ってた乾電池式灯油ポンプがとうとう駄目になった 上部と下部の継ぎ目から油が滝のように流れ落ちる様は壮観であった(←違いますっ^^; ここ5、6年、継ぎ目から油が漏れる現象をごまかしながら使っているうちに、それが異常なことだという感覚がなくなっていた
前にも似たような経験をした 自転車の空気入れである(…空気入れだの灯油ポンプだの、なんか生活感が安手だなぁ…) その空気入れは、空気を押し込むたびにスカッスカッと抜けていくのであった ごまかしながら使っているうちに、それが異常だという感覚、余計な時間と体力を浪費している感覚がなくなっていた
新しい空気入れを買ったら、空気が少しも漏れずにグイグイ入っていくではないか 空気を入れるときこんなに充実感があったのか(笑)と、大変驚いたものである
物の見方や身体の具合も似てるな ちょっとした違和感を覚えても、その場は工夫して乗り越える そのうち感覚が慣れてしまい、気づいたときには交換も修正も効かない歳です^^;
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