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10月30日(月) 私の未履修単位
人生の其処彼処(そこかしこ)において、無駄な努力というものを私はしてきた 努力したけど結果が出なかったというのではない はじめから、意味がなく無駄だとわかっていても、どうしてもそこに足を踏み入れてしまう かつて日本人の心性について、本居宣長が「もののあはれ」を言い、九鬼周造が「いき」を言ったように、私はここで「むだなどりょく」を言いたい(^0^)
大学4年のときだ 教育学部生であった私が、どうしても経済学部の講義を受けたい誘惑に駆られ、ある講義の受講票を出した その授業の教授は「きみがこれを受けても卒業に必要な単位にはなりませんよ」と忠告してくれた 「わかっています」と応え、教室の端に座らせてもらうことになった ただでさえ不足単位取得にやっきになる時期に、正気の沙汰ではない
見知った顔のひとつもない教室に半年間通ったが、始めから終わりまで、何を言ってるのか皆目わからなかった 話されているのは日本語なのに、言葉が頭に入らない しかし奇妙に、わからないという時空間を愉しんでいたようなところもある 意味のない時間ではあったが… 高校生の必修単位未履修などの言葉を毎日聞きながら、そんなことを思い出した
10月22日(日) からからの話
二十歳前後の女の子が、はっきりしない男の子に向かってこう言うのは日常なのだろうか 「絶対、信じてるから」 ここで問題にしたいのは「絶対」ではなく、「から」の方だ 私が二十歳前後の頃には、そういう言い方は絶対存在しなかった 言うとしたらこうである 「絶対、信じてるから、学食で待ってるよ」 「から」何なのだと続けるのが普通であった
善意の人が、やむにやまれぬ事情から罪を犯し、刑務所に入ることになったドラマの定番シーンはこうだ 連行される後姿に向かって妻が(夫でもいい)叫ぶではないか 「待ってるから みんなで待ってるから」 待ってるから何なのだ いや、わかる 待ってるから安心して罪を償ってきてとか、待ってるから元気でいてとか、そういうことなのだろう
誤解してるのか私は… ここで使われる「から」は、「から」何だと後へ続くのではなく、本来「絶対、信じてる」で打ち止めになるところを、何か間(ま)がもたない雰囲気を覚えてつい言ってしまった、そういう種類の「から」なのか 仮にそうだとすると、「千円からお預かりします」の「から」よりも、ずっと深刻な問題を孕んでいる気がするから
10月17日(火) 増刷夜露死苦
近隣の大型書店を巡っても、Amazon ほか主な本屋サイトをいくら探しても、8月に出たばかりの「夜露死苦現代詩」がない 出版元の新潮社HPを確かめたら、なんと在庫なしと書いてあった 評判の高い連載モノだったらしいから、単行本化されるのを大勢の人が待っていたにしても、詩関連の本が発売早々在庫なしなんて、今まであっただろうか
そもそもいったい誰が買ってるんだろう 私は上述の理由でこの本を読んでいないままに言うのだが、まさか夜露死苦系の兄ィたちが、まとめ買いしてるわけでもないだろう だって夜露死苦系の兄ィたちが本を読むようになったら終わりじゃん、というようなことが書いてある気がするから ちなみにAmazon では、定価を遥かに上回る価格で、新古本として出品されている
私が「夜露死苦現代詩」を読みたいのは、読んでわかりそうだからである(笑) 実は、詩論は読んでわからないのが多い 現代詩論を読むより現代詩に直接触れた方が早ェえやと思う(当たり前か…) この本は、世間一般には詩とは認知されない、レールを外れたつぶやきや言葉の数々に言及しているという 増刷が楽しみだ 早く文庫化してくれた方がもっといい
10月13日(金) 合コンの愉しみ
合コン即ち合唱コンクールである^^; ここでいう合唱コンクールは、NHK教育などが休日に長時間放映するアレだ アレは、小学校の部は別として、中高校生の部になると、かなり退屈なものを感じる アレを始めから終わりまで隅々まで聴いて堪能できるのは、自身も合唱をやっている人か、または合唱連盟など関係者だけではないだろうか
小学校の部は別として、と書いた 小学校の部の歌は、わかりやすいからである ちゃんと調性を持ってるし、1番2番といった歌謡形式を明確に持ってるものが結構あるので、親しみやすい 中高校生の部、とくに高校生の部は、もはや合唱のための合唱だ 上手いなあと思うこともあるが、楽しめるものは少ない 1、2校聴いて、もう沢山という感じがする
TV放映する以上、日頃合唱に無縁の者にも楽しめる工夫をしてほしい そこで、提案がある 中高校生の部出場の皆さんに、選考対象曲後の余興でいいから、「うさぎ追いし(ふるさと)」や「秋の夕日に(もみじ)」などを歌ってもらえないだろうか よく知られた単純な曲で、力をみせてほしい 料理と同じだ 凝りに凝ったコテコテの料理の後はお茶漬けでっせ(^0^)
10月10日(火) ウイルコムの悪文
少し長いが、約1名の被害者が出ているσ^^;ので、看過できず載せることにした
<これまでご利用いただいておりました「Pic@nic」は「My WILLCOM」と統合いたしました。つきましては、以下より「My WILLCOM」への移行手続きをお願いいたします。なお、以下のかたは、「My Roomキーをお持ちでないかた」より、新規会員登録のお手続きをお願いいたします。
・請求照会アクセスキーはお持ちだが、My Roomキーはお持ちでないかた ・My Roomキー、請求照会アクセスキーともにお持ちでないかた
すでにウィルコムストアの会員のかたは移行していただく必要はございません。…(以下略)>
ウイルコムは携帯PHSシェア4%だから、上掲の文章を読んでもそれが何を言ってるのかわからない人が殆どだろう ユーザーである私は数行読んでわかったつもりになり、手続きしようとして失敗、完全ロックされてしまった 「すでにウィルコムストアの会員のかたは移行していただく必要はございません」 肝心なことを最後に書く、悪文の典型だ…←言い訳の典型か^^;
不特定多数相手の依頼文では、冒頭で該当者と非該当者を「振り分ける」書き方が望ましい 世の中には、書いた人が思いも寄らぬほどに愚昧な者がひそんでいるものなのだ(爆)
10月3日(火)さあ太陽を呼んでこい
その歌の作詞者名を見て驚いた 作詞・石原慎太郎とある 昭和38、9年頃の歌だから、十分にあり得る話だが… 活気に満ちた格好いいメロディだけが耳に残り、正確な歌詞や曲名を思い出せないまま幾星霜が過ぎた 検索の手がかりは3つ NHK「みんなのうた」で流れたということ、歌詞の一部に「この世に夜はいらないぜ〜」があること、そしてメロディであった
最近やっと「さあ太陽を呼んでこい」という歌だとわかった 作曲・山本直純は予想の範囲だが、作詞が石原慎太郎とは意外である もっとも、いまや「さあオリンピックを呼んでこい」と陣頭に立つ人だから、首尾一貫してるといえばしてる 聖火は太陽光から採取するのだから… 出世作「太陽の季節」で障子を貫いた時から、貫く場所をはき違える傾向はあるけど(爆)
それにしても「さあ太陽を呼んでこい」は結構有名な歌だったんだなあ、迂闊だったよ 朝会で歌うのを強制されたとか、ネットにいろいろ書いてある 私は、朝会で歌いたかった(^0^)
9月25日(月) また、秋空の下で
叩けばスグ倒れるような園児の列に、車が突っ込んだ 多くの運転者には想像できないだろうが、「どんな場所でも運転者の技術とモラルを信頼する」という前提が、歩行者にはあるのだ 暗黙の信頼によって私たち歩行者は道を歩いている それなのに、何かを勘違いしてるような車に、最近はよく出くわす 歩行者は運転者に対し、道路権限を譲り過ぎたのかも知れない
私たちはまず、どこでも横断できる権利を「横断歩道」によって譲った そして、いつでも横断できる権利を「信号機」によって譲った 次に、「歩道橋」によって、横断できる権利そのものを放棄した 歩道橋を造ったことが、すべての勘違いの始まりだったろう 「人間をとりあえず上に上げて、と…」 その後、「とりあえず上に上げて」の「とりあえず」が、消えた
歩行者はさまざまな権限を運転者に譲ってきたが、譲られた側にその認識は殆どないだろう 道は本来歩くためのものだなどと、今更言うつもりはない(以前言ったけど…本年3/21) 運転者はせめて、「偉くもないのに道の大半を占拠してゴメン」ぐらいの気持ちを持てないか 現状では、運転者は大名行列の殿様であり、歩行者は道を譲って土下座してるのも同然だ
9月18日(月) 赤ズボンちゃん
千葉県松戸市のとある民家の窓から、「平家物語」らしき古文の下手な音読が聞こえてきたら、そこが私の家だ(爆) 数年前に「声に出して読みたい日本語」というのがブームになったことがある その途端に読む気が失せて^^;それ以来中断していた「平家全巻制覇を音読で果たす」という個人事業をこの夏再開した 口三味線ならぬ口琵琶つきだ(^○^)べんべんべべん
この際だからまた始めから読むことにしたが、何度読んでも「ウ〜ム」と考え込ませる箇所がある 冒頭「祇園精舎の鐘のこゑ」はどの教科書にも載ってるから、誰でも一度は目にすると思う 実はその少し後に、とっても興味を惹くくだりがあるのだ 平家支配を蔭で支えた「禿(かむろ)」と呼ばれる少年監視密告団の存在である 記述はほんの数行だがおもしろい
その姿は、おかっぱ頭に赤い直垂(ひたたれ)というから、ちびまる子ちゃんが赤い雨合羽と赤いズボンをはいたようなものだ 結構目立つ 平氏批判をする人を探り出しては「夜露死苦」とか言って^^;家々に押し入ったりするんだから、京の人々はたまったもんじゃない ただ、禿(かむろ)の多くは戦災や飢饉で家族をなくした少年で、世に受け容れられぬ弱者でもあるようだ
9月15日(金) ニッポンの裏技
靖国神社による「特定の御霊の分祀はできない」説明は、13日(水)とは別の言い方をすれば、<取りつく島がない典型>とも言える 一度神として祭られた御霊は二度と分離できないという教説が本当なら、宗教教理としては未熟であり不全でしかない気がする しかしホントに神道千八百年の歴史に御霊分離の前例がないのか、甚だ疑問である
PCやネットが普及した今、本居宣長が生きていたらこう言ったに違いない 「コピペせよ」
靖国の論理を打ち破るには、靖国の論理に入り込んで内側から突き破るしかないということだ つまり、「第2靖国神社」を造り、新たな御神体に一柱ずつ合祀の儀式を行うのである その際、一部の「特定の御霊」や、そもそも祭られることを拒否したい御霊は、省くところがミソだ
こうして「第2靖国神社」への御霊(祭神)移行が完了したら、現在の靖国神社は廃神手続きに入ればいい 資金や時間が必要な大仕事だが、いつまでも不経済な論争を続けるよりずっとましであろう 分祀の可否にこだわると何も変わらない いまやコピペの時代である^^; ファイル選択の切り替えやPCデータ移行をした人なら、たぶん納得できる方法だろう(^0^)
9月14日(木) 本居宣長の理由3
本居宣長は、国学者の中では神道をそれほど意識していない方ではなかったろうか たんに古代日本の神を対象に、「からごころ(中国文化)」以前の日本の姿を明らかにしていきたかっただけのように思う だから自分の行動には無頓着で、「からごころ」どころか南蛮渡来であるはずの煙草文化を、平気で受け容れていたわけだ
宣長の後継者を自認した平田篤胤は、自分個人の在り様(よう)と思想との乖離・ねじれを、意識して推し進めたらしい 江戸後期の知識人層が獲得し得たキリスト教を含む諸宗教の知識から、利用できるところを都合よくピックアップして、日本古来の神道の補完としたそうである 平田国学が尊皇攘夷運動の推進力となったのも、この「おでんの大鍋」効果に違いない(^0^)
ここ数日ネットで調べるうちに、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の古代日本思想に深く踏み込めば、たしかにそこは、おおかた潔く清らかな世界なのだとは想像がついてきた だからこそ尚更、その世界への憧憬を胸中に抱えているであろうロマンチックな人々と、あの街頭宣伝ビラの汚い表現やいわゆる街宣車の乱雑な街頭行動とが、どうしても結びつかないのだ
9月13日(水) 本居宣長の理由2
いわゆる「靖国・分祀問題」における神社側の発言は、<正しいかも知れないことを言われても全然納得できない典型>といえるだろう 「しかじかの理由で特定の御霊の分祀はできない」と、いかにも当たり前のように言われても困るのだ 特定の御霊の分祀を提案する人を「無知」呼ばわりする学者もいる こんにち神道の教義は、知らなくて当たり前だと思う
私は全然といっていいほど、知らない むしろ仏教やキリスト教の方が、知識としては多いくらいだ 最近は中東情勢報道でイスラム教の教義なども以前よりはわかるようになった それに比べて神道知識の貧弱さは何としたことか 神道にもいろいろな宗派があるだろうから一概には言えないとは思うが、おもに「個人」を相手にしてきた他の宗教とは大きな差がついている
本居宣長にとって、自分という個人は問題ではなかった 「からごころを清く離れよ」をモットーにした宣長が、古い日本には存在しないヘビースモーカーだったことからも、それは理解できる…そこからしか、私は理解できない^^; 実存し生活する個人と、もう存在しない「古き、清き、よき日本」の乖離・ねじれは、その後平田篤胤を通して近代日本へとヾ(^o^;)o ォィォィ
9月9日(土) 本居宣長の理由
本居宣長(もとおりのりなが)についてちょっと調べてみた 検索で上位にきた「松岡正剛の千夜千冊」というブログに行ってみた 物凄いブログである 凄いことでは「きっこのブログ」五千字だらだらもたしかに凄いが、「千夜千冊」は「きっこ」に一歩もひけを取らない 何しろ「千夜千冊」、千冊の本への書評である 実際にはとうに千冊を越えている しかも「大長文」だ
宣長は「しごくまつすぐに、はかなく、つたなく、しどけなきもの」こそが人間の本質だと考えたらしい なかなかいいではないか(^0^) 老国学者・賀茂真淵から「からごころを清く離れよ」というメッセージを受けたことが転機になった 漢語漢文による思考を離れれば、よき日本の姿を学べると悟ったそうだ (真淵は「まごころ」「まこと」「ますらをぶり」を提唱した先駆者)
宣長を調べるとか、宣長の考えに思いを向けるなんて、今回が初めてだ^^; 何故そんなことをしたかというと… 例えば繁華街の電柱などに貼ってある日章旗ビラだ 「やまと」とか「やまと心」といったものを探求したのが本居宣長 この人を尊崇しているはずの人々が書くものに、相手(敵)を罵倒する汚い言語表現が少なくないのを、かねがね不思議に思っていたからだ
9月1日(金) 新ロマン紀行・冥王星
「たとえ惑星扱いではなくなっても冥王星は冥王星であり、事実が変わるわけではない」と捉える人も少なくはないようだが、果たしてそうだろうか たしかに事実が寸分変わるわけではなく、私たちの勝手な区分けが変わるだけである…かのように見える しかし天文の世界では、この「勝手な区分け」というのがかなり大切なもののような気がする
夜の星々を見上げればわかるが、そもそも地球から見る星の散在は、殆ど無秩序だ わずかに、北極星を中心として何がしかの規則性を見出せる程度である それも星自体の規則性ではなく、あくまでも地球から見た規則性ではあるが… 古代、いろいろな地域で様々な星座や星物語が作られたのは、そのわずかな規則性に宇宙の不思議や秩序を感じたからであろう
その感覚に間違いはなかった 本来はバラバラな星々を、星座というイメージで区分けしたことが、こんにちの天文学の基礎になったと私は思うのだ 星座そのものに学問としての意味はないけれど、天文学が発達するために星座は必要だったということである 天文学にはロマンが要るのだ 冥王星が矮惑星一千個と共にあることは、新しいロマンの始まりである
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