ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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4月22日(日) マタイ受難曲

バッハの「マタイ受難曲」は演奏が2時間半に及び、日常生活の中で気軽に聴く気持ちにはなかなかなれないが、まぎれもなく西洋音楽の最高峰である  聖書の中のイエスの死を中心とした物語を音楽にしたもので、キリスト教の教義云々以前に、音楽として素直に感動できる  これが長い間「過去の音楽」として埋もれていたのだから、西洋人の感性は不可解である


3部に分かれ、それぞれに幾つもの名曲を擁する「マタイ受難曲」  中でも第2部第10曲「憐れみたまえ、わが神よ」は、ひときわ傑出したアリアである  バイオリンの切々たる独奏がきわめて訴求力に満ち、それとオーバーラップして、アルトが世にも美しく悲しい旋律を歌うのだ  主人公はペテロ  民衆に責め寄られ、イエスの弟子であることを否定した、あのペテロである


怖くなって立場を偽る…  誰でも1度や2度は経験があるであろうこの迷いと悔いに、バッハは地球の裏側の人にもたしかに届く音楽を与えてくれた  孤立と激しい慙愧を通って、ペテロは真にイエスの弟子となったのだろう  もっと単独で歌われてもいい曲だが、バイオリン独奏部があまりにも繊細で難しいために、リサイタルなどで滅多に歌われることのないのが残念だ

4月15日(日) 武満徹の引出し2

まただ…;・ロ・)!!  昨日、武満徹のことをこのHP上で初めて書いたら、今朝の朝日新聞書評欄に、武満に関する数々の証言を本にまとめた大原哲夫氏へのインタビューが載っていた  まただ…と言ったのは、以前にも書いた(2006年8月21・23日)、私の身に起こる奇妙な感覚のことだ  ふと脳裡に浮かんだある事が、しばらく後に現実の中に姿を見せる…


武満の逸話に戻ろう  雑誌対談で、40歳前後の武満がこう告白していた  「今でも作曲にとりかかる前には、ピアノでこの曲(「マタイ受難曲」の中の有名なコラール)を弾く  これを弾かないと作曲に入れない」  雑誌が手元にないので正確ではないが、そんな内容のことを言って、対談相手を仰天させた  現代音楽の旗手が、作曲の前にバッハを弾く  驚きであった


10年以上前、NHK教育で武満の追悼番組を放送した際、オープニングに流れたのはたしか「マタイ受難曲」であった  ネット上の百科事典「Wikipedia」武満徹の項目には、「(武満の死を伝える)NHK…の無教養ぶり」と記載されている  飛び込んでくるニュースだから仕方ない面はあるだろう  追悼番組を制作したNHK教育は、武満の引出しをよく取材していたと思う

4月14日(土) 武満徹の引出し

現代音楽といえば武満徹だ  この作曲家を知ったのは中学生の頃で、読み方がわからず「ぶまんてつ」と呼んでいた  大河ドラマ「源義経」の主題曲が、高い評価を受けていた  私の中できちんと「たけみつとおる」となるのは、だいぶ経ってから、二十歳前後の頃である  背伸びして、現代音楽のレコードを買った  良いような、つまらないような、そういう印象をもった


私が武満で好きなのは、音楽よりも、様々な逸話である  例えば、国内の作曲賞を獲得し、副賞として米国留学した折りのこと  行った先の学校で、「希望する音楽家に師事する機会を与える」と言われ、即座に「デューク・エリントン」と答えた話  ジャズの巨人だが、娯楽音楽だ  教授陣が呆れ果て理由を問うと、「あの不思議なサウンドの秘密を知りたい」と、これも即答


後年の「タケミツ・サウンド」と言われる清潔で柔らかな音色を思えば、その根が作曲初期からあったとわかるエピソードである  また、次の話も好きだ  別の音楽家と2人、汽車で長旅をした  あまりにも暇なので、知ってる歌を交替で歌うことにしたら、武満の口からとどまることなく日本の流行歌が出てきて、しまいには独演会になったそうだ  引出しの多い音楽家なのだ

4月8日(日) 叫ぶ男

咳ひとつするのさえはばかられるクラシックの演奏会  そういうあり方もいかがなものかと思う今日この頃ではあるが、まことに遺憾に思う「お呼びでない光景」に直面したのは、2ヶ月ほど前のある演奏会であった  小さく静かになっていく管弦楽の音の中からピアノの音が鮮やかに立ち昇った時、初老の男性が「くだらん!」と大声を発したのだ  なんということだ


その曲は、現代音楽と呼ぶジャンルの曲であった  私を含め恐らく多くの聴衆が、苦手意識を覚えるジャンルだ  ただ、調性を採り入れていて、現代音楽にしては聴きやすい方であった  無調→調性→無調→調性…を繰り返しつつ無調のまま盛り上がり、最後に調性をもったメロディをピアノが奏で始めるという構成  音楽を多く聴いてきた人なら途中で予想がつく展開なのだ


携帯を切れアラームを切れと言われて始まった演奏の、静かなる最高潮  誰もが聴き入るか眠るかの中、その人は何故叫ぶに至ったのか  無名の指揮者に国内ローカル楽団という組み合わせが、安易な叫びをほとばしらせたのか  同じ曲を、オザワの指揮でベルリンフィルが演奏しても、その人は「くだらん!」と叫ぶに至るか  いろいろ考えさせられる出来事であった

3月29日(木)お呼びでない面々

春の選抜高校野球たけなわである  球場に響き渡るアナウンスが心地よい  「4番センター不始末クン」  一体どんな選手だ  目を凝らすと、「なんとか甘言水」をがぶ飲みしながら、あの人がバッターボックスに立った  法にのっとり適切に処理している姿が美しい  球審が札束を掲げてプレー再開を合図した  懸賞金か  いや、これがあの「不適切な金銭供与」だ


ピッチャーマウンドには不二家のペコちゃんがいる  女の子も出られるのか、春の選抜は…  いや待て、ペコちゃんが女の子だと誰が見分けたんだ  外見で判断してはいけない  ペコちゃん、謹慎が解けてよかったね  謹慎といえば、見分けがつかない「モー娘。」で、不祥事ゆえに唯一見分けがついたあの子がまた…  わかっちゃいるけどやめられないんだよ、人間だもの


植木等が亡くなった  私は小中学生の頃にリアルタイムでそのギャグと歌声を聴くことができて、日曜の夜「お呼び?お呼びでない↓」は大きな楽しみだった  声自体が既に歌声となっている、稀有な人だ  いちばんの聴き所は、「スーダラ節」の中の「わかっちゃいるけどやめられない」に続く挿入句、「あ、ホレ」という部分である  あの絶妙の浮遊感に、ニッポンが離陸した

3月19日(月)濁世を生き抜くのだ3

北寄りの猛烈な風の中を帰宅した  うがいのためコップにぬるま湯を注ぎ、ふと気がつくとイソジンではなく台所用洗剤を握っていた  濁世である  何が起きるかわからない毎日なのだ  街を歩けば、何処から出てくるのかと思うほどの人の波  向かい来る人を避け過ぎ行く人に道を譲り、今このスクランブル交差点にいるのは、本当にすべて人間なのかとの、素朴な疑い


中には人間でない者も混じっているのではないか  物の怪・生霊・死霊などが、いかにもそれらしくはもはや生きられない時代  彼らがほぼ人間として暮らしていることは、十分に考えられる  そういう化け物は「妄念の産物」と否定できても、「人間に限りなく近いけれど人間ではない」者が、私どもと共棲していることは確かだ  耳目を塞ぎたくなる「人でなし」事件の多発


日本語で「人でなし」と呼び、時には「ケダモノ」「虫けら以下」と、ケダモノや虫に失礼な言い方をしてきた、所謂「人でなし」は、実は本当に人ではないのかも知れない  類人猿と人間の間にもうひとつ、類猿人が存在するという説だ  私が作った^^;  肉体遺伝子は人間と同等だが、何かが…何かが足りない類猿人  この概念を使うと、猥雑な現実の多くが説明できる

3月17日(土)濁世を生き抜くのだ2

宗教が描く純然たる世界には、私はとても耐えられない  仏教では、弥勒菩薩がすべての人間を救い出すのは56億7千万年後だそうだ  私は其処でやっと救われるクチだろうけど、あまりにも長過ぎる  キリスト教では、最後の審判ですべての人間を篩(ふるい)にかけた後、選ばれた人間には永遠の命が与えられるという  私は、永遠の命よりも一切消滅したいくらいだ


むしろ、今ここが地獄であるとか天国であるとかいわれる方が、納得できる感じがする  世界を説明し尽くせる教義(と信者は信じている教義)を持つ大きな宗教というものは、必要ないのだ  少なくとも私は馴染めそうにない  私が神を頼るとしたら、エックハルトの言うような神であり、仏を頼るとしたら、かつて私の身代わりに折れた傘なのだ(傘さん、ありがとう)←かさじぞう


私がわかるたったひとつのことがある  自分が感じ取れないからといって、神仏が(あるいはそれに付随するものが)存在しないとは、決して言えないということだ  このことは「いいぞ、ハイドン」や「だじゃる丸」に、何年も前に書いたことがある  …つまり私はこの何年か、全然成長せずに、同じことを繰り返し言ってることになる  成長?これがまた問題を孕む言葉だ…

3月16日(金) 濁世を生き抜くのだ

仏教では仏、キリスト教では神  これらが特別な存在というわけではなく(本当は特別なんだろうが)、実は私の身近にいつもいる、という考えが私は好きだ  身近どころか、中世ドイツの異端神学者エックハルトの言では、「神は常に私と共にあり、私よりもよく私を知る」のである  あらゆる思い、あらゆる悩みは、まず神を通過したのち私に至る  これがエックハルトの説だ


仏教にも、仏は本来の威光を和らげて私や周囲の人、身辺雑物に現れるという教えがある  つまり目の前のすべての現象を仏の化身とみる考えである  あぁ、いいなと感応できることばかりではなく、あぁ、イヤだなと思うことも皆、私を悔心悟達へ導く機縁というわけだ  現実の日常生活では、イヤなことを受け入れるのは至難の技だが、考えとしては気に入っている


修行などの特別な努力をせずとも、神も仏もそこにいる、身に備わっているというのは、一見安易にみえる  しかしその感覚を本当に身につけるのは難しいことだ  逆に、「この修行をすればこのレベルに達する」という自力修行の方が、マニュアル頼りで安易だと、言えなくもない
私はこういう青臭い話が好きだ  というより、このほかに話せることなんか、ないかも…

3月13日(火) よくある質問

国会中継だ  質問者が立ち上がった
「美しい国日本を標榜しておられる総理のことですから、当然念頭にはおありかと思いますが、日本が美しくあるためには、わたくしは、日本がニッポンなのかニホンなのかJapanなのか、イッポンにまとめるべきだと思うものであります  名前の乱れは心の乱れではありますまいか


21世紀に入りまして、インターネットで世界が結ばれるといえば聞こえはいいですが、総理、あなたのお祖父さんの時代はもちろんのこと、お父上の時代にすら考えられなかった事態、やふーやぐーぐるといった米国発の検索技術に、我々は日々、ある意味で翻弄されているといっても過言ではないんですよ  情報検索やその蓄積までも米国の傘の下にいるわけです


総理、総理は初の戦後生まれ首相であり、先端技術への理解もあるお方と推察致します  その上で、総理ご自身はWeb0.02というものをご存知かどうか、お聞きしたい」
質問は最後のひと言だけである  時間稼ぎでしかない御託の数々  しかも終始焦点が何だかわからない  「何とか甘言水」を飲み続けているとこうなるのか  以上、滑稽中継でした

3月7日(水) マイホーム維盛

「平家物語」を音読しながら、全巻の最終局面でようやくわかったことがある  この長大な物語は、平家が衰え敗れ血統断絶していく姿を描いたものだということだ  「平家物語」なんだからそれはそうだろう  でも全巻を読んでみないとわからないことでもある  私が「平家」の主題をやっと実感したのは、平維盛(これもり)一家の記事を読んでからだ  維盛クン、気に入ったよ


維盛は、平清盛の孫だが、たんなる孫ではない  清盛─重盛─維盛と続く平家の長男系統、つまり嫡子・嫡孫の立場である  二代目重盛は父清盛を越える政治家であったが、三代目維盛はどう見ても「マイホーム・パパ」だ  平家都落ち以降、維盛は一族の将来よりも、「自分ちの将来」ばかり気にかけている  都に残した妻子を案じ、ついに戦線離脱、逃亡するに至る


熊野の沖で入水するまで、幾度も「自分の生死を聞いたら、悲しんだ妻が尼になってしまう」「妻が後を追って死ぬのが哀れだ」と口にする  この人、既に平家嫡流とか大将とかの気概は消えていて、「うちの女房が」「うちの子が」と嘆いたり誇ったりする普通の親父だ(^0^)  六代と呼ばれるその遺児が謀殺される所で、長大な「平家物語」は終わるのだった  ♪ベベンベンベン


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