ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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6月28日(木) コンビニ初体験

店員に案内されて店の奥に連れていかれた私は、そこで今まで見たこともない空間を体験することになった  「この番号にかけて、確認した後で注文すればいいのです」丁寧な店員でよかった  言われるままに、消費者金融機能を備えたゲーム機のようなボックス型電話機で、消費者金融ではなく、とあるプレイガイドの番号を回したのであった


コンビニで前売り券を注文するのは初めてで、この後どうやって自分がその券を手にできるのかさえ知らなかった  券を注文して受話器を置いた私は、電話機のスグ脇に「物凄い雑誌群」が並んでいることに気づいた  う〜む、見たい!  いや、ちょっと待てコラ!  たった今注文したのは「国立新美術館、フェルメールとオランダ風俗画展」の券だ、がまん、がまん(爆)


フェルメール関連の展覧会は今までに3回見たが、どれもフェルメールの絵は1枚のみであった  何かの企画展の目玉として、フェルメールが1枚使われていたに過ぎない  まとめてたくさん見たいものだが、世界に三十四点ほどしか現存せず、どれも超一級品であることを思えば、しかたない  至宝「デルフトの眺望」の実物が日本に来ることなんか、まずあり得ないだろう

6月25日(月) 舟木一夫・この1曲

舟木一夫といっても、今の若者にとっては、ちょうど私が「東海林太郎」と聞いて思い浮かべるイメージと近似するだろう  有名なので名前ぐらいは知っている、親や祖父母の世代が懐メロ番組を見るから古い映像も少しは見ている、そして何よりもあまりに生真面目な歌いっぷり…  舟木一夫は私より0.5世代つまり4、5年上の人である、いちおう言っておきたい^^;


舟木一夫の歌は、普段はとても歌えない  大の大人が歌うには純朴過ぎて、いささか気恥ずかしいのだ  でも私はとても好きだ  他の古い歌手(の歌)もそうだが、古いけれど好きな歌を、昔懐かしい歌・懐メロ・若い頃の思い出の歌として歌ったり聴いたりする感覚は、私には全然ない  好きな歌はすべて、今の私と共にある、現在進行中の歌なのだ


つまりいつかは作ってみたいのだ、そういう曲を…  舟木一夫・この1曲は「高原のお嬢さん」である  私はこの曲の編曲に大変惹かれている  ヒット当時どういう評価がされたのかは知らないが、「高原のお嬢さん」の編曲はあらん限りの技術を駆使した名編曲と言っていいと思う  まだ編曲のレベルが今ほど高くはなく、編曲という作業自体が低く見られていた頃のことだ

6月22日(金)本田路津子・この1曲

本田路津子(るつこ)といっても、今の若者でその名を知る人はいないだろう  ただ、「風がはこぶもの」が音楽教科書に掲載された時期があり、歌った経験のある人はいるかも知れない  本田路津子はTVに出なかった  「TV向きの顔じゃないから」と本人が語っていたのを、雑誌記事で読んだ記憶がある  TV向きの顔じゃないというのは、どうも少しホントのようだ…


それは冗談  実際には、路津子という名前が示す通り、両親からクリスチャンとして育てられたため、欲望世界の窓口であるTVを避けていたのではないかと思う  (路津子という名は、聖書の「ルツ記」から採ったもの)  現在は教会シンガーとして活躍していると聞いたことがある  本田路津子の「この1曲」、それは「誰もいない海」である


越路吹雪をはじめ、実に多くの人が歌った名曲だが、トワ・エ・モア版が最も親しまれたことは記憶に新しい(^_^;)\(^。^。) オイオイ37年前だぞ  居並ぶ名唱のうち、最も抒情味豊かに歌唱を展開しているのは本田路津子だ  ダントツといっていい  歌の上手い人はほかにもいるだろうけれど、この曲でみせる本田路津子の歌い方は、聴いた後に濁りを残さない名品である

6月19日(火) 森山良子・この1曲

森山良子といっても、今の若者は全然ピンとこないことだろう  数年前「さとうきび畑」がヒットしたとはいえ、せいぜい「歌の上手いおばさん」に過ぎない存在だと思う  しかし、実は「歌の上手い少女」だったのだ  何を歌わせても「こんなに上手く歌う人は見たことがない」と言われた  オリジナル曲ではなくカバー曲で名を上げていった歌手であった


オリジナル曲を含めた全楽曲の中で、森山良子の白眉といえば「遠くへ行きたい」だ  '69年に買った全曲集アルバムに入っていたから、デビュー数年のうちに録音したものだろう  洋楽のカバーなど、他にも当時の日本のレベルを遥かに超えた、特筆できる歌はいくつもあるが、「遠くへ行きたい」での抒情性溢れる絶品の歌唱は、今に至るまで誰も越える人がいない


森山良子の「遠くへ行きたい」を聴いてしまったために、私はホントに遠くへ行きたがる、一所不住のフラフラ者になりました  人の人生の向きを定めた意味でも、恐ろしい歌唱力です  そして同時に、私の作る音楽も「遠くへ行きたい」方向、即ちあくまでも抒情性を前面に出すわかりやすい方向、歌謡曲と唱歌を合わせたような方向を向くようになったと、自分で考えています

6月14日(木) へい、お待ちィ!

「いらっしゃいませこんにちは」という挨拶が困るのは私だけだろうか  数年前に初めて耳にした気がする  札幌や名古屋、大阪、福岡などの事情はわからないので、もしかしたら関東南部限定かも知れない  店に入るなり「いらっしゃいませこんにちは」とやられると、私の頭はおおいに混乱する  普通「いらっしゃいませ」に対しては「はい、来ましたよ」と、何となく思うものだ


それに加えて「こんにちは」が覆い被さるから、「はい、来ましたよ、おっと、こんにちは」などと思考回路が働くことになる  親しい関係でもない限り、言葉にはしないけど、頭の中では挨拶系回路が働いているのだ  いったい誰が始めたんだ、「いらっしゃいませこんにちは」などという長ったらしい出迎えの言い方を…  すし屋魚屋なんか「らっしぇい」「へい、お待ちィ!」だぞ


朝は「いらっしゃいませおはようございます」なのだろうか  言葉に限らずあらゆる事象が短縮簡素化されるのが日本文化の特色だから、「いらっしゃいませこんにちは」は日本人の心性からは出てこない  欧米系あるいはアジア系企業の接客マニュアルから始まったに違いない  この過剰な挨拶は日本人には合わない  そもそも、笑顔の「いらっしゃい」で何が悪いんだ?

6月10日(日) 乗るに乗れないバス

その日はかなり暑かった  とあるバス停には私を含め7人ほどが並んでいた  やってきたバスに乗り込もうとしたら、乗車口が開かない  見ると、部活動の試合帰りとおぼしき女子中学生が数人、運転席脇の降車口から降りてきた  その後にまた数人が、今度は両替をしているようだった  遅い  暑い  普段ここから乗るときには、サッと乗れたのに、まあ仕方ないか


それが甘かった  先の数人が降りると次の集団が座席から立ち上がるのが見えて、なんだァ、まだいたのか、ということが繰り返された  次から次に、いったい何人乗ってるのかわからない  あとからあとから立ち上がるのが、ガラス窓越しに見えた  ときに両替をし、やたらに時間を食う  驚いたことに、彼女たちはひとりひとり運賃を支払っていたのだ


普通は引率教師かキャプテンが一括して支払うとか、あるいはバス共通カードでまとめて支払うとか、何か策があるだろう、こういう場合  このチームは状況判断ができずバラバラで、かなり弱いとみた(笑)  生徒は全部で30人はいたようだ  結局10分ほど、炎天下の開かない扉の前で待たされた  引率教師がいたはずだが、♪誰が生徒か先生か、わからなかった^^;

5月17日(木) ヒカルの電話

昔、といっても八、九年前、固定電話機を買い換えたとき、どうしても欲しいと思っていた機能が存在しないことに愕然とした  着信時に光で知らせる機能だ  今では当たり前になったこの便利な機能が、当時私が買える価格内で調べた限り、どこにもなかったのである  店員に尋ねたら、何を言ってるのだこの客は、というような顔をされた


なぜ光る機能が必要だったかというと、ヘッドホンで音楽を聴いている最中に、着信がわかるようにしたかったから  それまでに1、2度、そういう状況で電話に出損なったことがあった  趣味と仕事の両立という観点から、着信お知らせ光線^^;は、ぜひ必要なのだった  今では着信に限らず、多くの操作に光合図が利用されている  見たか、時代の読めぬ店員め(^0^)


言うまでもないことだが、この機能の充実・発展は、ヘッドホン愛好家の声が大きくなったからではなく、聴覚障害者や彼らをサポートする人々の努力のおかげだろう  あるいは、騒音に悩まされる地域の人々の声もあったに違いないし、自らの騒音で呼び出し音が聞きにくい工場内電話の改善策として考え出された面もあったろう  ただ、…ちょっと光り過ぎてないか、この頃…

5月16日(水) 再び・平家物語3

「平家」初読は、とにかく読み通すことが先決であった  再読は、もう少し念入りに読んでいる  巻末の平家家系図や年表、それに京都周辺の地図などをコピーして目の前に置き、それらに時々書き込みしながら読んでいる  完全な勉強態勢、まるで修学旅行の事前学習だ(笑)  おかげで、結構見えてきたモノもある  京都市街の西半分は殆ど舞台に現れない、など


2度の読みで、読むほどに私の中で評価が下がったのは、源義経その人だ  本欄で、かなり以前の東北旅行のことを書いたが(昨年5月末)、その最終目的地は平泉の高館  義経最期の地だ  その場所に立って、はらはらと涙を落とすのが目的であった^^;  暑くて腹減って、それどころではなかったけど  それほどに義経の生涯に傾倒していたわけだ、何も知らずに…


「平家」の中の義経は、徹底した戦鬼である  戦(いくさ)のためには何でもやる  平然と民家に火を放つ(2度ほど、その場面があった)  TVドラマなどでは、放火の指図は恐らく直接は出さないのではないか  また、「しゃつ(奴)の首掻き落とせ」のような命令も、カンタンに出す  家来思いの面はたしかに描かれるけど、かなり残酷な面も併せ持つ、気短かな男であった

5月14日(月) 再び・平家物語2

長大な「平家物語」にあって、友・友情・友誼が語られるのは、木曾義仲と今井四郎兼平の間柄においてのみである  他にも少しはあるかも知れないが、印象に残るほど詳しく述べられるのは義仲のみだ  そもそも、日本人が友情という概念をもつのは明治以降だと、何かで読んだ記憶がある  武士の主従社会にあって、友にこだわる義仲は、当時は珍しい存在なのだ


義経はどうか  合戦の華麗さや悲劇の後半生が常にクローズアップされるが、一緒に戦った者の中に友と呼べる人物はいない  弁慶も佐藤兄弟も伊勢三郎も、義経との関係では主従関係の域を出ない  ただし奇妙な主従関係ではある  自身の土地や財力を持たない義経は、たとえ彼らが功績を上げても、恩賞を与えることができないのだ


弁慶たち家来の側からすれば、初めから見返りを求めない関係ということになる  しかも家伝来の従者などひとりもおらず、全員が自らの意思で義経について回っているのだ  義経はともかくとして、こういう家来集団もまた、当時は珍しい存在であったに違いない
…2月末に読み終えた「平家」、すぐに再読を始め、早くも壇ノ浦にさしかかったところである

5月10日(木) 再び・平家物語

「平家物語」には、たくさんの人間の様々な死に方が描かれている  中でも強い印象を得たのは、木曾義仲の最期だ  義仲は幼い頃に合戦で親を失った家なき子であり、中原兼遠という信濃国の豪族に預けられた  源氏の御曹司として大切に育てられたという  兼遠の子供・今井四郎兼平とは、乳兄弟として、また無二の親友として、「死ぬ時は共に」と誓い合う仲だった


義仲は、同じ源氏の義経軍に追撃され、琵琶湖岸の湿地帯で最期を遂げるのだが、その有り様が涙を誘う  共に死のう共に死のうと駄々をこねる義仲に対し、合戦の場では家来である今井四郎兼平が、大将らしく自害するように諭す  一度は納得してひとり湿地帯の奥へ分け入る義仲が、「友」たる今井四郎兼平の方をふと振り返った瞬間、敵の放った矢が顔面を射たのである


義仲には、大将としての自分がどうなるかよりも、苦楽を分け合った友人と、最後の最後になって別れることの方が問題だったのかも知れない  家族がなく天涯孤独の義仲にとって、妻の巴御前と友人の今井四郎兼平だけが、心を許せる相手だったに違いないのだ  自害を覚悟して湿地帯を歩き出し、しかしふと「今井は…」と振り返った義仲の心のうちこそ憐れである


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