ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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2月23日(土) 23.4度

数日前、横断歩道で信号が変わるのを待っていた時だ  顔が妙に熱い  何だろう、どうしたんだろうと見上げると、太陽が顔を直射していた  少し前までは、たとえ直射されてもそんな風には感じなかった  この日は、直射されると「熱い」ほどだ  地球が、地軸を少し傾けたまま太陽の周りを回っているため、季節によって光の強さというか、光の量、きつさが違うのだ


傾きの角度は23.4度  大変微妙な数字だ  この微妙さが何万年も保たれていることを思うと、地球はまさに精密機械だという思いを強くする  (世界の)ソニーもかなわぬ超高精度な精密機械と言っていい  なぜなら、ソニーのビデオデッキがつい先日壊れたのだが、購入後何万年というわけではない  わずか12年  …ブルーレイ・レコーダーを買えということか(泣)


地球の高性能に比べて人間のレベルは疑わしい  例えば毒薬ギョーザ事件、米兵による暴行事件、イージス艦による事故など、幾つもの出来事が点滅している  こういう事が続いたある日、突然「わが国は○○国と戦闘態勢に突入云々」 などという大本営アナウンスが流れて来るのだ、きっと…  太平洋戦争の始まりは、普通の国民にはどんな感じだったのだろう

2月14日(木) 牛は来るか

洗い物をしていた時だ  突然、脳裏に「牛が来るまで待とう」という言葉が浮かんだ  牛が来るまで待とう  これは一体何だ  その直前の行動や思考のどこにも、牛とのつながりなどなかった  まして私には、わざわざ来てもらうほど牛との付き合いはない  もしかしたらこのフレーズは、以前読んだ誰かの詩の一節なのか  いや、こんな妙なフレーズは記憶にないぞ


そもそも牛が来るまで仮に待ったとして、その後何が始まるんだろう  そこがわからない  牛が来るその時まで何かを耐える決意  何に耐えるのか  それもわからない  かつて牛が来るのを待った人は存在するのだろうか  牛が来るほどだから賢者や世捨て人のような人だとは想像がつくが、そういう人がいれば少しは安心できるというものだ


あるいは私の見当違いで、正しくは「牛が車で待とう」であったかも知れない  そうなるとますますわけがわからなくなる  わけがわからなくなりついでに、もしかしたらもっとわけがわからない「ウシガクルマで待とう」の可能性も否定できない  ウシガクルマが何処にある地名かは知らないが…  こうしている間にも、刻々と牛が近づいて来る  心配だ

1月30日(水) 真冬のトレイニング

スーパーなどで買うトレイ詰め食品を開けるときの要らぬ労力といったら、並大抵ではない  なんでこんなことに根(こん)を詰め力を注ぎ眼鏡を替えつまみ口を探し、挙句の果てには変な風に開けざるを得ないんだ  これを作る人は実際に自分で開けたことがあるんだろうか、もしかしたら私の開け方が、およそ人知の及ばぬほど見当違いなんだろうかと、毎回考えてしまう


そんなものははさみかナイフでスイッと開けてしまえばストレスがなくていいのかも知れないが、ではそういうものははさみかナイフで開けることを前提に作られているのだろうか  たぶん違うはずだ  台所仕事の片手間、例えば主婦がコンロの火に気をつけながら両手でサッと開けるようにできているはずだ  少なくともそれが前提でなくてはならない


私がトレイ詰め食品をきちんと開けようと苦心するのは、裏に貼ってある賞味期限や製造会社などのシールを残したいからだ  多くの場合、シールをバラバラにしなくては開封できないように透明カバーがかけてある  裏のシールはとても大切なものであり、買ったらスグに破砕されていいというものではない  開けやすく、シールを傷つけない梱包はできないのだろうか

1月28日(月) 小指湿布

昨年5月頃、新聞に載った健康雑誌広告に惹かれ、直ちにその雑誌「安心」を買いに走ったことがある  それが「小指湿布」との出会いであった  就寝時、小指に小さな湿布を貼る  それだけで深い眠りを得られるというのだ  この種の養生法には殆ど無関心であったが、「小指湿布」の広告を見た時、これは確かだ、間違いないとの直感を得た


以来8ヶ月余り、安眠を約束する白い湿布が小指の中央に貼られ続けている  たしかにこれは効いているようだ  夢を見ないほど深く眠るとか、布団に入ったらスッと眠りに落ちるとか、雑誌にあった体験談のようなわけにはいかないが、小指湿布を始める以前よりは格段に眠りの質が上がったのは事実である  それに、肩凝りも(あるにはあるが)気にならなくなった


雑誌記事によると、この小指湿布は神経科の先生が考え出したもののようだ  いろんな症状を抱える患者の多くが、小指の中央が硬くなっていることに気づいたそうである  そこに湿布を貼ると肩の僧帽筋が緩み、症状の緩和につながるらしい  「小指・僧帽筋・神経症状の多く」はつながっていたのだ  願わくは小指湿布専門の、小さな湿布剤ができればありがたい

1月7日(月) 敗北宣言

人混みの中、とりわけ駅のホームや階段などを歩いていて、「自分は何故こんなに気を遣いながら歩くんだろう」と思うことが、最近は多くなった  前を行く人とのタイミングが何だか合わない  あるいは向こうから来る人が何だか、そう、ホントにわずかだが何だか、斜めに歩いているので、このままだと数秒後にぶつかりそうな気がする


そういう人はたいてい携帯電話を見つめていて、その見つめ具合が並外れている  彼らとぶつからないように歩調や向きを変えるのは、私の役目だ  手に携帯電話を持っている彼らの脇を通る時は気をつけなければならない  私の身体が彼らの肘をかすめる  肘に当たって彼らが携帯を落としたりしないように用心して通り過ぎるのは、私の日々の務めだ


私は彼らに気を遣い、彼らが歩きやすくなるように環境を整えてやっている  無料で(笑)  いつの間にか私は通行整理ボランティアになっていたのだ  私のスグ前をゆらりゆらりと歩いている人  私は軽くぶつかりながらも、気をつけて追い抜いていく  一方彼らは、私に気を遣うことなく堂々平然と我が道を歩んでいる  明らかにこの場合、気を遣う私が負けている^^;

1月2日(水) リング

この年末年始は、普段の1年分を見たと言っていいくらい、TVを見た  その中でちょっと考えさせられた番組(正確には企画)があった  格闘技に挑む和泉元彌(いずみもとや)の姿である  狂言師ということのほかにあまり知らない人であるし、何よりも私はプロレス型の格闘技には殆ど興味がない  だから31日のK−1も、チャンネルを回す途中で2、3分見たに過ぎない


この企画を一昨年も行なったことは知っているが、和泉元彌本人の考えや彼の母親の思惑は全く知らない  しかしリングへの登場の仕方がきりっとしていて、臆することなく相手に喝を加えていく姿は、身体が小さいだけに格好がよかった  簡単に張り倒されたり投げ飛ばされたり、無残な姿をさらすのは当然だが、この企画自体をたいへん痛快なもののように感じた


失笑を買うほどに無残であり滑稽である  だが、狂言の本来の姿がそうなのではなかろうか  もともと生死の演劇である能の幕間に、リラックスした日常の演劇として発達したのが狂言だそうだ  滑稽ではあるがその滑稽な生を精一杯生きる人々、しかも小心と悪意のもとに誰かを笑って、あるいは貶めて、あるいは引っ掛けて…  そうされる側を選んだ元彌は間違っていない

1月1日(火) 雲にのりたい

初めて元日に更新をする(昨年末は当ページの更新をしないままに終わってしまった)  さて、正月には例年、運動不足解消を兼ねて1時間から2時間ほど散歩するのが常である  今年は好天に恵まれ、富士山を遠望しながら殊のほか気持ちのいい散歩となった  ただ、帰る頃になると富士山が雲に隠れ始め、ちぎれ雲が街の上空まで飛来し始めていた


私は雲が好きである  いくら眺めていても全然飽きない  たんなる青空は鑑賞の対象にならないが、そこに雲がひとかけあるだけで何か語りかける表情を持つようになる  しかも動いているから、こちらとしてもゆっくりとはしていられない  「乙女の姿しばしとどめん」と願うそばから崩れ果てていくのだから、特定の情動に浸っているわけにはいかないのだ


雲が作り出す何かの形を楽しむ面はたしかにあるが、それ以上に、それが崩れていきほかの雲と合わさり、より遠い雲の手前をぐいぐい進んでいくなどの、雲の変容自体がとてもおもしろい  「ご趣味は?」「雲鑑賞です」といった会話は、いまのところあまり確立しているとは言い難い  望遠鏡を持つでもなく、ただ空を見続ける大人が公認される日は…来ないだろう^^;


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