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8月24日(日) 薔薇の名前2
「難解だ、当然のことながら」 プロローグの書き出しを真似て言えば、こんな風になる 「薔薇の名前」に関する予備知識がひとかけらでもあったら、たぶん「読もう」などという気にならなかったであろう 作者ウンベルト・エーコという人が名立たる記号論学者で、「薔薇の名前」がその記号論を素地とした作品だという程度の知識もないのが幸いして、4、5日前に読み終えた
私は記号論には興味がないし、入門書を読んでもわからないだろう(わからないことの意味という表現が、本文中には出てくる) ただ、読んでいてだんだんわかってきたことがある この小説は、ワカラナイコトガ多過ギルシ、描写ガシツコクテ細カクテ眠クナルことしばしばだが、「それでいいのだ!」ということ 敢えて訳出していない文言もたくさんある、変な本なのだ
気になったのは、果たして謎が解かれたのかどうかよくわからないという点である 犯人(らしき人物)を追い詰めはしたが、結末がはっきりしないまま突然の大火災・大破局でうやむやのうちに終わってしまった 最後に真犯人がわかって大団円という、スカッとするミステリー小説では全然なかった そして「冬」と再三言いながら、何故か季節感にはきわめて乏しかった
8月16日(土) 柔道二直線
柔道とJUDO もはや交わることのない「平行」もしくは「ねじれ」の関係にあって、素人眼にも別個のスポーツだ 北京五輪の柔道が終わった後で始まったレスリングを見ていると、柔道がいかにレスリング化しているかが、なるほどよくわかる 掴む襟の有無と足技の有無しか、見分けがつかない 土俵が厳密な相撲と違い、フィールドの大雑把なところも似ている^^;
男子柔道の不振に斎藤監督を始め柔道関係者が、世界に通用する柔道、即ちポイント制に即応した柔道選手の育成を目指したいと発言している 1度や2度完敗したからって、焦ってはいけない 私などは、むしろ「いつもいつも勝たなくていいから、技そのものを競う本来の柔道を頑なに(かたくなに)続けてほしい」と、少し小声で言いたいのだ
無形文化財、世界遺産としての柔道である JUDOの単なる一流派になってもいいから、こせこせしたJUDOとは一線を画した、堂々たる柔道として生き残ってほしい そして時々勝てばいい いや、常に勝ってほしいけれども、古式の柔道(といっても講道館スタイルの近代柔道だが)を選ぶ限りは、潔い敗北もよし、である 尊敬に値する柔道を残してほしいと思うのだ
8月10日(日) ママで銅は立派
昨日の準決勝で敗れた谷亮子選手 本当に残念だった 敗れたと書いたが、本当に敗れたと言えるのか… 敗退するような失策は何もしていないように、私には思えた 何もしていないことが失策であり、マイナスになったと、TVも新聞も解説してはいるが… それは勝者も全く同じだったように思う 谷選手自身、負けた気がしていないのではないだろうか
オリンピックの準決勝にしては、稀れに見るつまらない試合であった とうとう最後まで柔道が始まらなかったと言っていい 谷選手は柔道で負けたというより、つまらない国際ルールの犠牲になっただけと言った方がいいだろう あんな試合をなくすためには、例えば「10秒間どちらも襟を組み合わなかったら双方とも即失格」というようなルールを作るしかないと思う
ママになったことと関連があるかどうか、あの試合での谷選手は危険を回避し過ぎた 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」「死中に活を求める」という言葉がある 柔道界ではよく使われそうな気がするけれど… 唯一の救いは、判定に驚いて一瞬顔を動かしただけで、後は判定への不服を微塵も表すことなく会場を去ったことだ アトランタの憮然顔から随分成長したと思う
8月9日(土) 五輪の薔薇
北京五輪の開会式 時々2、3分見ただけだが、繊細にして壮大な開会式であったとは思う しかし虚しいことに変わりはない 選手団入場がなかなか始まらないのも虚しいが、始まった選手団入場がなかなか終らないのは更に虚しい ここまで虚しい時間を費やされると、大きくなり過ぎたといえどもシンプルではある高校野球の開会式が、むしろ新鮮に思えてくる
巨大オリンピックは、あることを連想させる 私が読んでいるミステリー「薔薇の名前」は第2巻に入ったところだが、話の7割はキリスト教の教義に関する論争で、その9割はまるでわからない^^; わかるのは、巨大かつ強大になり過ぎたローマ教皇の権力に対し、十三世紀から十四世紀にかけて、ヨーロッパ各地で様々な分流運動、抵抗運動が頻発したことである
清貧と金(かね)の問題、指導層の政治への接近・癒着など、今日のオリンピックが抱える問題と驚くほど似ている また十四世紀の大半はローマ教皇がフランスに捕らえられていた「アビニョン捕囚」の時期で、この点でも今日、IOCがアメリカTV局に首根っこを押えられている図式とそっくりである アメリカTV局の無理矢理な要求を、中国がよく受け入れたものだ
7月27日(日) 雑音の安心感
マンションにビラ投函した東京国分寺市の市議が訴えられた……この報道を聞いて、全く別の、ある体験が脳裡に浮かんだ 昔、友人の住まい探しに付き合って、とあるマンションを見学した まだマンションというものが珍しかった頃だ 部屋に入って説明をしていた係員が、バス通りに面する窓を閉めたら、外の音が全く聞こえなくなった 驚くとともに恐怖を覚えた
こういう所には住めない、住みたくないと思った いわゆる「閉所恐怖」ではないのだが、外部の雑音が多少は聞こえていた方が、生活空間としては自然な感じがする 録音など特殊な用向きで必要な場合を除いては、完全な遮音状態は生活の中には存在しない 通常は誰でもある程度の外部雑音にさらされて生活しており、音楽を聴く時でもマァ雑音の中だ^^;
冒頭のビラ投函に戻るが、勝手に置いていくのはダメというのなら、ダイレクトメールはどう扱われるのだろう 宅配便・郵便屋さんルートは正規版としてOKなのか 新聞折り込みチラシは、大新聞に挟まっているからいいのか そう考えると、このような取り決めをしている管理組合は、何がいけないからビラ投函がいけないのか、よくわからないではないか
7月18日(金) 「薔薇の名前」
90年代にベストセラーになった「薔薇の名前」というミステリー小説を読み始めて4日目になる アマゾンにあった「残部僅少」の表示に慌てて買ったのが4、5年前のこと しかし宅配便で届いた現物2巻を見て、そのあまりの厚さに驚愕し、それ以来手を付けることができず、完全な積ん読(つんどく)状態が続いた それがふと読む気になり、読み始めたら止まらなくなった
止まらなくなったといっても、読める時間は1日にせいぜい30分から40分ぐらい それでも、読み始めてわかったのだが、これは私の好きな中世の物語なので、細部にわたり興味が尽きない 歴史はいつの時代でもおもしろさはあるが、特に中世という時代は、中世ヨーロッパでも中世日本でもよくわからない面が多く、勝手に想像できるのでかなり好きである
昔受けた大学の講義で心を惹かれた数少ないものが、専門外の「中世ドイツ史」だったし、ラジオの朗読番組で'90年代頃に放送していた「私本太平記(吉川英治)」はほぼ全部聴いたし、ホイジンガの「中世の秋」は持ってるし…持ってるだけ^^; で、「薔薇の名前」だが、建物の描写が長過ぎて細か過ぎて、読むにつれて眠くなる眠くなる眠くなる
7月15日(火) フェルメールが来る
昨年の秋にフェルメール只一作品展覧会を見たばかりなのに、今年も間もなくフェルメール展が開かれる しかも七作品だ こうなるとフェルメール・ブーム便乗の商魂が丸見えで、もしも「小路」という作品が来なかったら、行く気になったかどうかわからない しかし「小路」だ PCを始めて間もなく、ネットで見つけた「小路」を壁紙にしていたくらい、好きな作品である
昨秋の展覧会では、会場に行って驚いたことがある 当日券売場が長蛇の列とはいかぬまでも雑踏と化し、「あぁ、券を持っていてよかった」とつくづく思ったのだ 今回はそれ以上の混雑が予想されるから、チケットは前売りに限る 値段の安さもさることながら、会場で並ばなくて済む セブンイレブンで買った 昨年利用したampmの「CNプレイガイド」より簡単だった
しかし考えてみれば、雑踏混雑喧騒、それに大掛かりな宣伝講演シンポジウムなどは、フェルメールに全然似合わないではないか フェルメールの醸し出す世界とは逆である もちろんそこを通らなければフェルメール作品に対面できないのだが、何とも変な話ではある それにフェルメールに関しては、実作を見て画集以上の感動を覚えたことがないのだ
7月14日(月) 当たらない天気予報
数日前、携帯の気象予報サイト「ウェザーマップ」に、気象庁を批判する記事が載り、読んで少し驚いた PC用の「ウェザーマップ」でもたぶん同じ記事が掲載されたはずだから、読んだ人は多いかも知れない 名前は忘れたが男性の予報士が書いたコメントで、「気象庁の出す予報はコンピュータ任せで、梅雨どきの実態に全く合っていない」というような内容であった
梅雨どきは地上付近にも水蒸気が多いので、気象庁コンピュータはその水蒸気を「雲」と判断してしまうそうだ つまり実際には「晴れ」や「うす曇り」でも、気象庁は「曇り」「曇り一時雨」と発表するらしい これを読んで、ここ20日ほどの予報のはずれ具合に合点がいった とにかく毎日「曇りのち雨」「曇り一時雨」「午後から雷雨」という予報が続き、そして殆ど当たらないのだ
少なくとも私の住む千葉県松戸では、雨が降ることはあまりなかったし、「曇りのち雨」の予報の日で「のち雨」になったことは、全くないと言っていい ずっと曇っているだけだ 今日も「曇りのち雨」の予報だったが、日中わずかに日が射し、布団が干せた 夕方になってなにやら夕焼けの気配さえあった 折り畳み傘を持って出かけ、むなしく帰った日が幾度あったことか
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