ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
Top page  詩の1 詩の2 詩の3 句帳 音楽照葉樹林 アンダン亭から だじゃる丸 いいぞ、ハイドン 映画『道』のこと
リンク集 掲示板

アンダン亭から アンダン亭トップ アンダン亭・過去の記録

2012年

10月21日(日) 朗読の時間

土日のNHKラジオ深夜便が翌日午前零時開始になって以来、夜11時台前後は他局をさまようようになった  土曜はもっぱらNHK第2の朗読再放送を聴いている  この再放送は1週間分を続けて聴かせるもので、先週まではパール・バックの「神の火を制御せよ〜原爆を作った人びと」を、ずいぶん長くやっていた  初めて知る作品だが、橋爪功の朗読で聴き応え十分


昨日は村上春樹作品を松たか子が朗読していた  「かえるくん、東京を救う」という、地震をテーマにした奇妙な内容であった  しかも作中に何度か「キ××マ」という箇所があって、それを松たか子が事もなげにかどうかはわからぬが、あの顔あの声で朗読するのだ  ラジオだから顔は想像するしかないが、大丈夫なのかと思った  むしろ、さすがは舞台俳優というべきか


数回に及ぶ松たか子の「キ××マ」コールのおかげで、久し振りに最後まで聴くことができた  先述の「「神の火を…」はいい朗読だったのだが、さすがに11時半を過ぎると眠気に負けることが多かった  それはともかく、土日のラジオ深夜便はどうして翌日午前零時開始になったのだろう  土曜のアンカー柴田祐規子の上手なインタビューを聞けなくなってとても残念だ

4月12日(木) 十一面観音像

琵琶湖北岸に高月という所がある  現在は「観音の里」として売り出し中のようだが、前世紀の終わり頃、まだ駅前が殆ど観光客向けにはなっていなかった時分に、1度行ったことがある  その高月をこの春先にまた訪れた  前回も今回も目的はただひとつで、渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音像を見ることだ  前回の印象があまりにも良く、再訪の機会を長い間待っていた


静かな里に不釣合いなほどの駅舎  以前とは違った駅前の雰囲気にまず驚いた  決してにぎやかになっているわけではないが、駅前に立派な学習塾ビルがでんと構えているなど、観音様に会おうと現実逃避の旅に出たにしては、私には残念な駅前と化していた  案内板がわかりやすかったり、トイレが綺麗だったりと、助かることは助かるが…  実はとても助かった^^;


さて観音様であるが、以前来たときとはどうも様子が違って見える  たしかもっと古ぼけた御堂の中にたたずんでいた気がして、係の人に聞いたら、空調設備などを完備した新しい展示館を造って、それがここだと言う  うーむ…  建物が新し過ぎて、何となくしっくりこないのだ  そういうわけで、宿題が発生した  2、30年後、建物が古びた頃にまた訪問するという宿題が

4月6日(金) ラジオ深夜便

明日と明後日の夜、事情を聞いていない中高年の人々の「アレ?!」というつぶやきと驚きが日本の至る所で渦巻くかも知れない  NHKラジオ深夜便の土曜日曜の開始時間が大きく変わったのだ  先週の土曜に別の番組を聞くともなしに聞いていたら、「来週から新番組…午前0時まで…」というような表現が聞こえてきたから、言い間違いか聞き間違いだと思っていた


どうやら本当に、土日の深夜便は午前0時に開始のようだ  そしてココが肝心なのだが、日曜の深夜便の前に放送していた「新・日曜名作座」は、午後7時のニュースの後に移った  朗読を基本とする「ラジオ文芸館」という番組は、とうに見放されて土曜の朝に移っている  さまよえる文芸もの  ラジオに耳を傾けたい  それも静かに傾けたい  それは夜しかないと思う


深夜便の話から始まったが、別に深夜便にこだわっているわけでもない  最近の深夜便はちょっとつまらなくなった  昔に戻れないだろうか…  深夜便が始まる前だ  「ラジオ文芸館」や「(新・)日曜名作座」、それに「吉川英治名作選」などから始まる静かな夜をまた味わいたいものだ  明日から始まる土日の夜はすべて若者向け番組らしい  騒々しい予感がするなぁ

1月14日(土) 行列のできる風俗画

上野駅公園口向かいの東京文化会館は、昨年3月11日の大震災の夜、帰宅困難な大群衆のひとりとなった私がようやく休息できた場所だった  会館に老若男女赤ん坊までが雑魚寝状態  余震で何度も大きく揺れるなど、今でも記憶は生々しい  10か月が過ぎ、先日私が向かったのは公園奥の殿堂に潜む「清明上河図」ただ1巻  北京故宮博物院展の呼び物だ


行ってびっくり唖然呆然  物凄い行列だ  入場まで50分待ち  最前列で「清明上河図」を見る特別行列はなんと180分待ちだという  これほどの大行列に並ぶのは、子供の頃父親に連れられてツタンカーメン展に並んで以来だ  記憶があまりないので今調べたら、あれはどうやら真夏だったようだ  今回は真冬  寒さに震える行列の殆どがなぜか爺さん婆さんばかり


中国のメディアはこの行列を誇り高く報じていることだろう  たしかに「清明上河図」は世界最高レベルの絵画だと私も思う  自国の文化に誇りをもつのはいいことだ  さて、最前列180分待ちの特別行列には並ばなかった私が、実際に見られたのは長い巻物の上半分ぐらい  素晴らしい上半分であった(^0^)  あとはネット上にある「切れ端図版」を鑑賞するとしよう

2011年

8月30日(火) そうだ、映画館に行こう

夏の終わり、仕事が一段落してポッと空いた平日の丸一日をどう使うか  考えた末、映画館に行くことにした  映画館で映画を観るのは私にはかなり非日常だ  何しろ過去20年で4本  ’92年頃「エイリアン3」を観て、もう映画なんか観ないぞと決めた  それ以来3本も観た  さすがに全然観ないわけにはいかないものだ  そして今日、選びに選んだのはスペイン映画


切符売り場で、全席指定だと言われたので「じゃぁ、ここ」と頼んだら、「かしこまりました、シニア料金1000円でございます」と言われた  シニアか  いいのかなホントは一般料金1800円なのに…  娘のような係員からシニア指定され、まぁいいかと券を受け取って中に入った  映画館に来たこと自体あまりにも久し振りで、見るもの聞くもの珍しくてきょろきょろしてしまった


「ペーパーバード」というそのタイトルは、私の好きな「ペーパームーン」を擬しているのかも知れない  内容は全く違うがどちらもませた子供が活躍する  今日の「ペーパーバード」は大変おもしろかった  場面の切り替えが速く所々つながりのわからない箇所はあったが、笑いあり涙あり良い映画を観た  隣席の真正シニアのご婦人などは途中から顔を覆って泣いていた

1月27日(木) 雑知識の素

国語の問題集・参考書などに載っている文章は、殆どの場合全文のごく一部が掲載されているだけだが、それゆえにかえって手軽にいろいろな文章に接することができるおもしろさがある  かなり以前、ヨーロッパ建築を論じた文章の抜粋が載っていたことがある  それを読んで目からうろこが落ちた  ヨーロッパの建築というと石造りであり、その代表格が大聖堂である


あのドーム型の内部に入った著者が感じたのは、森林であったそうだ  薄暗さ・上部の湾曲・ステンドグラスや装飾、すべてに森林の雰囲気を感じたそうだ  つまり教会とか大聖堂などは、彼らが滅ぼした森林の再現だというのがその文章の主題で、子どもに問題を解かせながら、私は著者のこの見解に興奮したものだ  こういう文章が、子どもと同じレベルで読める


見開き2ページ程度の中に文章と問題があるので、実際に読むのは賞味1ページ程度の短い文章で済む  ときには10行ほどの詩であったりする  谷川俊太郎の「どうしてか、捨てられない」で終わる成長過程の子どもとおもちゃの詩も、国語問題集で知った  題名は忘れたが、たぶん「きかんしゃトーマス」がらみの詩だと思う  今度図書館に行ったら確かめてみよう

2010年

12月12日(日) 本を買う2

送料無料のアマゾンで買えば、正味「本代」だけで済む  でも今回「孤宿の人」を買ったのはアマゾンではない  近くに書店がないので、わざわざ駅まで自転車15分、途中上り坂では降りて押し歩き、さらに電車に乗り喧騒の街路を抜けて書店に行ったのだ  エネルギーと時間と電車賃が、余分にかかった  それでもとにかく書店へ行きたい気持ちが強くあった


ここ何年も、書店へ行くと疲労感・徒労感に苛まれることが多くなった  あまりにも本が多過ぎて、気分が一点に収束しないのだ  それもあって、もう本は買うまいなどと心に誓うわけだが、今回ばかりは書店で買うことにした  それは、アマゾンで買うことにもそろそろ飽きてきたからだ  自分の関心外の本に出会う機会の多さでは、やはり書店に軍配が上がる


「自分の関心外の本に出会う」ということが、ネット書店では少し物足りないのではないかという気がする  例えばアマゾンでは、「この本を買った人はこんな本も云々」と表示されて、それを面白いと言う人もいるだろうが、私にはどうでもいいことなのだ  むしろ「あんたそんな本ばかり読んでるけど、たまにはこっちにしたら?」みたいな機能があれば、その方が面白い

11月29日(月) 本を買う

もう本を買うのはよそう、前に読んだ本をまた読む方がいい年齢になっているから…  おもしろかった本も、あまり理解できなかった本も、ある程度の年齢になって改めて読めば、若い頃とは違った風に読めるのではないか  そういう年齢に差し掛かって以来、これまでに何度も「買うのはこれが最後」と決心をした  そのたびにそれを破ってきた  つい先日も…


買った本をすべて取っておくのは無理で、2度と読まないだろうと予想できるものも多いから、時折は処分する  処分を何度か繰り返し、そして何も買わなくなって1年以上が経過した  少し気が緩んだか  散歩がてらに近くの図書館へ行き、文庫本になってる「孤宿の人」(宮部みゆき)を発見したのが運の尽きだった  以前「読みたいリスト」に入れていた作品である


2年ほど前、NHKラジオ「日曜名作座」で「孤宿の人」を聞いて、大変心惹かれた  終わりの方しか聞けなかったのでストーリー全体がどうなっているのかはわからなかったが、竹下景子演じる「ほう」という小さい女の子が印象に残った  ただ、文庫本になっていないのが幸いして今日まで読まずに済んだが…  図書館で見かけた翌日、文庫本を買いに走る私がいた

3月20日(日) 伊能忠敬日本全図

伊能忠敬の作った日本全図が国宝に指定されるという  今まで指定されていなかったのが不思議なくらいだ  国宝というと、価値の高い美術工芸品や古文書、あるいは優れた建築物というイメージが強いが、伊能忠敬の地図は間違いなく国宝に値するもので、それは実物を見ればわかる  数年前、千葉の佐原という所へ物見遊山に出かけた折り、偶然伊能全図を見た


偶然というのは、長いこと千葉に住んでいながら、佐原が伊能忠敬ゆかりの地であることに気がついてなくて、心を構えて見に行ったわけではなかったのである  私は歴史が好きではあるが、誰それゆかりの地が何処でという話には滅法弱い  このときも、佐原が小江戸などと呼ばれているのに惹かれて、その雰囲気を味わいに出かけただけであった  行ってびっくりした


伊能忠敬の精細な日本全図  写真などでは知っていたが、出入りの多い日本列島を微細に描いた実物を見て感嘆したものだ  実は、地図は美術品といえるのだ  古地図を壁掛けにしている人はたぶんかなりいる  本来実用品であったはずなのに、おもしろいことだ  地図Tシャツ、地図ハンカチ、地図のデザインは何だってOKだ  地図パンツ…これはまずいか^^;

2月3日(水) 坂の上の雲

TVドラマが始まる前に駈け込みで「坂の上の雲」(司馬遼太郎・作)を読んだ  さすがに司馬作品だけあって、文庫本全8巻を読ませ続ける筆力はあった  とくに秋山兄弟や正岡子規を始め主要人物や周辺人物の人物像はユニーク  当時の政治家や軍人も数多く登場して、あァこういう人だったのかと興味深いものがあった  児玉源太郎という傑物も初めて知った


しかし同じ作者の「竜馬がゆく」ほどには小説としての面白さはない  戦闘描写や作戦分析がむやみに細かい印象をもった  戦争の素人にはあまりよくわからないのだ  日清・日露戦争前後の資料が多過ぎて、小説としてまとめあげるには難しいところがあったのではないか  この時代の戦争がこれほど「記録されるもの」とは思わなかった


例えば日清戦争で、日本と清の艦船が撃ち合ってる  それを遠巻きにして他の列強の船が観戦していて、「観戦記」を本国に報告していたそうである  囲碁将棋や大相撲の勝負審判みたいだ  そんなふうにして戦争当事国だけではなく、各国に記録が残った  結果として、資料が多過ぎた  資料に乏しいところのある「竜馬がゆく」から、わずか30年後の話である

2008年

8月24日(日) 薔薇の名前2

「難解だ、当然のことながら」  プロローグの書き出しを真似て言えば、こんな風になる  「薔薇の名前」に関する予備知識がひとかけらでもあったら、たぶん「読もう」などという気にならなかったであろう  作者ウンベルト・エーコという人が名立たる記号論学者で、「薔薇の名前」がその記号論を素地とした作品だという程度の知識もないのが幸いして、4、5日前に読み終えた


私は記号論には興味がないし、入門書を読んでもわからないだろう(わからないことの意味という表現が、本文中には出てくる)  ただ、読んでいてだんだんわかってきたことがある  この小説は、ワカラナイコトガ多過ギルシ、描写ガシツコクテ細カクテ眠クナルことしばしばだが、「それでいいのだ!」ということ  敢えて訳出していない文言もたくさんある、変な本なのだ


気になったのは、果たして謎が解かれたのかどうかよくわからないという点である  犯人(らしき人物)を追い詰めはしたが、結末がはっきりしないまま突然の大火災・大破局でうやむやのうちに終わってしまった  最後に真犯人がわかって大団円という、スカッとするミステリー小説では全然なかった  そして「冬」と再三言いながら、何故か季節感にはきわめて乏しかった

7月18日(金) 「薔薇の名前」

90年代にベストセラーになった「薔薇の名前」というミステリー小説を読み始めて4日目になる  アマゾンにあった「残部僅少」の表示に慌てて買ったのが4、5年前のこと  しかし宅配便で届いた現物2巻を見て、そのあまりの厚さに驚愕し、それ以来手を付けることができず、完全な積ん読(つんどく)状態が続いた  それがふと読む気になり、読み始めたら止まらなくなった


止まらなくなったといっても、読める時間は1日にせいぜい30分から40分ぐらい  それでも、読み始めてわかったのだが、これは私の好きな中世の物語なので、細部にわたり興味が尽きない  歴史はいつの時代でもおもしろさはあるが、特に中世という時代は、中世ヨーロッパでも中世日本でもよくわからない面が多く、勝手に想像できるのでかなり好きである


昔受けた大学の講義で心を惹かれた数少ないものが、専門外の「中世ドイツ史」だったし、ラジオの朗読番組で'90年代頃に放送していた「私本太平記(吉川英治)」はほぼ全部聴いたし、ホイジンガの「中世の秋」は持ってるし…持ってるだけ^^;  で、「薔薇の名前」だが、建物の描写が長過ぎて細か過ぎて、読むにつれて眠くなる眠くなる眠くなる

7月15日(火) フェルメールが来る

昨年の秋にフェルメール只一作品展覧会を見たばかりなのに、今年も間もなくフェルメール展が開かれる  しかも七作品だ  こうなるとフェルメール・ブーム便乗の商魂が丸見えで、もしも「小路」という作品が来なかったら、行く気になったかどうかわからない  しかし「小路」だ  PCを始めて間もなく、ネットで見つけた「小路」を壁紙にしていたくらい、好きな作品である


昨秋の展覧会では、会場に行って驚いたことがある  当日券売場が長蛇の列とはいかぬまでも雑踏と化し、「あぁ、券を持っていてよかった」とつくづく思ったのだ  今回はそれ以上の混雑が予想されるから、チケットは前売りに限る  値段の安さもさることながら、会場で並ばなくて済む  セブンイレブンで買った  昨年利用したampmの「CNプレイガイド」より簡単だった


しかし考えてみれば、雑踏混雑喧騒、それに大掛かりな宣伝講演シンポジウムなどは、フェルメールに全然似合わないではないか  フェルメールの醸し出す世界とは逆である  もちろんそこを通らなければフェルメール作品に対面できないのだが、何とも変な話ではある  それにフェルメールに関しては、実作を見て画集以上の感動を覚えたことがないのだ

3月23日(日) 幼年期の終わり

先日、SF作家A.C.クラークが亡くなった  いくつもの追悼記事に目を通したが、こんなに偉大な作家だとは知らなかった  迂濶だった  代表作である「幼年期の終わり」を読んだのは25、6年前  いろいろな作家のSFを次々と読んでいた時期だ  「幼年期の終わり」は話のスケールが大きくて、面白いとは思ったものの、後半は読むことに疲れた記憶がある


読み進むにつれて、だんだんと息苦しい感じ、堅苦しい感じが増幅してくる  そういう作品だった  何よりも、いつまでもいつまでも頭上に巨大な円盤が居座り続けるシチュエーションに、気が重くなるのだった  高度なレベルに達した宇宙人が、我々地球人類のレベルアップを図る物語なのだが、作品への世上の評価は知らず、その発想にちょっといやな感じをもった


そばにいつも偉い先生がいて評価を下される出来の悪い生徒  そんな気分がしてきて、たいへん疲れたのであった  その時はよくわからなかったが、A.C.クラークのもうひとつの代表作、映画「2001年宇宙の旅」に出てくる巨大石盤モノリスも、人類のレベルアップを促す役回りであった  そういえばこちらもよくわからない所のある、後味のスッキリしないSFだった

2007年

11月21日(水) ケータイ小説2

…って言うか、こういう小説なら私にも読めるじゃん!  今まで何というムダな努力をしてきたんだ  例えば「魔の山」だ  ある時、トーマス・マンの大作「魔の山」を読もうと決意し、本屋で試しの立ち読みをしてみて、冒頭の一文に驚いた  よくは覚えていないが、「…を歩いていたのは、ごく普通の男だった云々」というような書き出しなのだ  「普通の男」とは何だ!


ホントにこれが20世紀を代表する名作なのか  あまりにも情けない書き出し  訳文がいけないのだろうと思い、ほかの出版社から出ているものを探して読んだが、冒頭の一文はどれも似たような訳であった  私はさらに図書館まで出かけ、可能な限りのすべての「魔の山」冒頭一文を読み比べた結果、この後どんな物語が始まろうと、この一文は変だとの結論に達した


私にとって「魔の山」はこの一文で終わった  つまり、まだ読んでない^^;  冒頭一文に限れば、「魔の山」恐るに足らず  標高何千メートルの第一歩だけなら、ケータイ小説の文体と似たり寄ったりだ  五合目ぐらいまでなら付き合っていられそうだ  背伸びして難しい本ばかり読んできて、損した感じすら抱く  「等身大の」…これが今日(こんにち)のキーワードなのかな

11月20日(火) ケータイ小説

もう少しで女子高生が群がり渦巻く惑乱の世界にはまり込むところだった  と言ってもバーチャル世界の話  「魔法のiランド」というケータイ小説のサイトだ  このサイトに関する新聞記事を一昨日読み、あァ、現在上映中の「恋空」がケータイ小説っていう売り文句だったっけな、あまり興味が湧かないな…と思っていたら、昨日テレビで「ケータイ小説」特集をやっていた


女子高生が「泣きたい時にアクセスするよね」と仲間と語っているのを聞いた  私も泣きたい時があるんだ…おじさんじゃダメかい?(爆)  それでさすがにちょっと興味が湧いて、アクセスしてみたら…  面白い  ランキング上位の作品はそれなりに面白くて、少なくとも読みやすい  読みやす過ぎてページを次々にめくり、危うくいつまでも溺れるところだった


私が小説と思っているものとは当然のことながら随分違うが、シナリオみたいに読みやすく漫画みたいにスジを追いやすい  江戸時代の戯作、草紙(双紙)ものを連想した  草紙(双紙)ものもまた、こんな風に読まれたのかも知れない  ところで、これ以上つないでたらパケット代金がたまらないと残念ながら切ったが、彼・彼女らはその点をどうクリアしてるんだろう

10月30日(火) 国立新美術館2

「アムステルダムの孤児院の少女」は大変評判がいいようだ  フェルメール作「牛乳を注ぐ女」目当てで国立新美術館に行った人の多くが、会場の最後の方にある「孤児院の少女」に魅せられたと思う  私もそうだった  「牛乳を注ぐ女」が、画集や映像から予想させられていた大きさよりずっと小さく、少々落胆しつつ巡回を続けてやや疲れた所に、「孤児院の少女」である


「孤児院の少女」の前に立ち、本展で初めてすがすがしさを覚えた  展覧会の主題が「風俗画」だから、庶民や貴族の日常を描いた作品ばかりであり、例えば台所仕事をする女、洗濯をする女などの画題が中心なのだ  別の意味でのすがすがしさ・潔さはあるかも知れないが、立ち居振舞い自体が垢にまみれていないすがすがしさを求めるのは無理というものである


「孤児院の少女」の主人公はすっと立って小さな書物を読んでいる  真横を向いているから可愛いいのか綺麗なのか、全くわからない^^;  私が惹かれたのはその服装の色合いである  黒・赤・白の単純にして大胆な組み合わせ  説明板によると、孤児院の制服らしい  掃除の途中で書物が目に止まり夢中で読み出した…  日常のそんな風情が、フェルメールに通じる

10月29日(月) 国立新美術館

そこを中庭と呼んでいいのかどうかはわからない  何しろ3階にある空中庭園みたいな場所なのだ  広いテラスと言った方がいいかも知れない  紙コップ珈琲片手に巨大なガラス窓から外を眺めていたら、そのテラスを小雀がチョッチョッと歩き回っているではないか  こんな所になんで雀が…と思ったが、テーブルからこぼれ落ちた食べ物のカスをついばんでいたのだった


国立新美術館は月曜も開いているのでありがたい  本欄6月に書いた「フェルメール」関連の絵画展に、ようやく足を運ぶことができた  年に一度は美術展か映画館に行くのを楽しみにしているのだが、金がある時は暇がなく、暇がある時は金がなく、とかくこの世は生きにくい  しかしフェルメールとあれば「たとえ異土の乞食(かたえ)となるとても」会場近くまでは足を運ばん


フェルメール展はいつも一品料理だ  フェルメール作品のただ1作を目玉に、あとは企画の勝負である  今回の企画は「オランダ風俗画」  フェルメールが選んだ画題が当時の流行画題であったことを、今回はっきりと知ることができた  そして私は、フェルメールから250年ほど後、1900年前後に描かれた「アムステルダムの孤児院の少女」という絵にとても惹かれた

5月16日(水) 再び・平家物語3

「平家」初読は、とにかく読み通すことが先決であった  再読は、もう少し念入りに読んでいる  巻末の平家家系図や年表、それに京都周辺の地図などをコピーして目の前に置き、それらに時々書き込みしながら読んでいる  完全な勉強態勢、まるで修学旅行の事前学習だ(笑)  おかげで、結構見えてきたモノもある  京都市街の西半分は殆ど舞台に現れない、など


2度の読みで、読むほどに私の中で評価が下がったのは、源義経その人だ  本欄で、かなり以前の東北旅行のことを書いたが(昨年5月末)、その最終目的地は平泉の高館  義経最期の地だ  その場所に立って、はらはらと涙を落とすのが目的であった^^;  暑くて腹減って、それどころではなかったけど  それほどに義経の生涯に傾倒していたわけだ、何も知らずに…


「平家」の中の義経は、徹底した戦鬼である  戦(いくさ)のためには何でもやる  平然と民家に火を放つ(2度ほど、その場面があった)  TVドラマなどでは、放火の指図は恐らく直接は出さないのではないか  また、「しゃつ(奴)の首掻き落とせ」のような命令も、カンタンに出す  家来思いの面はたしかに描かれるけど、かなり残酷な面も併せ持つ、気短かな男であった

5月14日(月) 再び・平家物語2

長大な「平家物語」にあって、友・友情・友誼が語られるのは、木曾義仲と今井四郎兼平の間柄においてのみである  他にも少しはあるかも知れないが、印象に残るほど詳しく述べられるのは義仲のみだ  そもそも、日本人が友情という概念をもつのは明治以降だと、何かで読んだ記憶がある  武士の主従社会にあって、友にこだわる義仲は、当時は珍しい存在なのだ


義経はどうか  合戦の華麗さや悲劇の後半生が常にクローズアップされるが、一緒に戦った者の中に友と呼べる人物はいない  弁慶も佐藤兄弟も伊勢三郎も、義経との関係では主従関係の域を出ない  ただし奇妙な主従関係ではある  自身の土地や財力を持たない義経は、たとえ彼らが功績を上げても、恩賞を与えることができないのだ


弁慶たち家来の側からすれば、初めから見返りを求めない関係ということになる  しかも家伝来の従者などひとりもおらず、全員が自らの意思で義経について回っているのだ  義経はともかくとして、こういう家来集団もまた、当時は珍しい存在であったに違いない
…2月末に読み終えた「平家」、すぐに再読を始め、早くも壇ノ浦にさしかかったところである

5月10日(木) 再び・平家物語

「平家物語」には、たくさんの人間の様々な死に方が描かれている  中でも強い印象を得たのは、木曾義仲の最期だ  義仲は幼い頃に合戦で親を失った家なき子であり、中原兼遠という信濃国の豪族に預けられた  源氏の御曹司として大切に育てられたという  兼遠の子供・今井四郎兼平とは、乳兄弟として、また無二の親友として、「死ぬ時は共に」と誓い合う仲だった


義仲は、同じ源氏の義経軍に追撃され、琵琶湖岸の湿地帯で最期を遂げるのだが、その有り様が涙を誘う  共に死のう共に死のうと駄々をこねる義仲に対し、合戦の場では家来である今井四郎兼平が、大将らしく自害するように諭す  一度は納得してひとり湿地帯の奥へ分け入る義仲が、「友」たる今井四郎兼平の方をふと振り返った瞬間、敵の放った矢が顔面を射たのである


義仲には、大将としての自分がどうなるかよりも、苦楽を分け合った友人と、最後の最後になって別れることの方が問題だったのかも知れない  家族がなく天涯孤独の義仲にとって、妻の巴御前と友人の今井四郎兼平だけが、心を許せる相手だったに違いないのだ  自害を覚悟して湿地帯を歩き出し、しかしふと「今井は…」と振り返った義仲の心のうちこそ憐れである

3月7日(水) マイホーム維盛

「平家物語」を音読しながら、全巻の最終局面でようやくわかったことがある  この長大な物語は、平家が衰え敗れ血統断絶していく姿を描いたものだということだ  「平家物語」なんだからそれはそうだろう  でも全巻を読んでみないとわからないことでもある  私が「平家」の主題をやっと実感したのは、平維盛(これもり)一家の記事を読んでからだ  維盛クン、気に入ったよ


維盛は、平清盛の孫だが、たんなる孫ではない  清盛─重盛─維盛と続く平家の長男系統、つまり嫡子・嫡孫の立場である  二代目重盛は父清盛を越える政治家であったが、三代目維盛はどう見ても「マイホーム・パパ」だ  平家都落ち以降、維盛は一族の将来よりも、「自分ちの将来」ばかり気にかけている  都に残した妻子を案じ、ついに戦線離脱、逃亡するに至る


熊野の沖で入水するまで、幾度も「自分の生死を聞いたら、悲しんだ妻が尼になってしまう」「妻が後を追って死ぬのが哀れだ」と口にする  この人、既に平家嫡流とか大将とかの気概は消えていて、「うちの女房が」「うちの子が」と嘆いたり誇ったりする普通の親父だ(^0^)  六代と呼ばれるその遺児が謀殺される所で、長大な「平家物語」は終わるのだった  ♪ベベンベンベン

1月26日(金) 3人の御前

私が読んでいる「平家物語」は、新潮日本古典集成というシリーズの中のものである  このシリーズは読みやすいことで知られている  岩波本等に見られる「古典文学特有の、とっつきにくいオーラ」はない  頭注や傍注に優れた編集能力を見せているのだ  その頭注に、歴史や言葉への意外なヒントが載っていたりするのも楽しい  例えば「何々御前」という言葉である


常盤御前(源義朝の妻、即ち頼朝義経の母)、巴御前(義仲の妻)、静御前(義経の恋人)、この「御前」という呼称が、盲目の旅芸人である「瞽女(ごぜ)」に通じるものであるという頭注があった  義朝も義仲も義経も、最後は合戦に敗れた非業の武将であり、常盤や巴や静は、彼らの菩提を弔いつつ彼らに関する語り部としての後半生を生きたというのだ


特に巴は武芸の達人で、夫と共に合戦に臨むことも度々であった  戦場のキャリアウーマンである  多くの敵を殺めたために、後世(ごせ)を願う菩提心もひとしおであったろう
3人の御前は出自が定かではなく、少なくとも当時の貴顕の姫君ではない  歴史上、常盤・巴・静は確かに実在したけれども、その名を継いだ語り部としての御前が幾人も存在したらしい

1月25日(木) 義仲のニヒリズム

「平家物語」を読んでいると、伊豆に配流された頼朝に対し、都の平氏が大変警戒感を持っていたことがわかる  折に触れて「兵衛佐(ひょうえのすけ)云々」という文言が登場するのだ  (兵衛佐とは源頼朝のこと)  隠然たる力を持つ後白河法皇と対等に渡り合う、超一流の政治家としての役回りを、「平家物語」は頼朝に与えている  実際に頼朝はそうであった  義経はどうか


義経の活躍までは読んでいないから推測だが、たぶん「平家」中最大の花形として扱われると思う  しかし政治力とは無縁で、後白河法皇の政略に乗せられてしまう武人としての役回りを、「平家」は与えるのではないか  今回私が最も興味を持ったのは、木曾義仲の役回りである  義仲の物言いの無神経さや下人たちの無秩序無統制、ニヒリズムは、どこから来るのか


当時、都と地方の経済力がどういう関係にあったのか、よくは知らない  都は人が多い分、流通も盛んで、かつ綺麗な姫君も多かったであろう^^;  しかし生活は「地方よりも」豊かであったかどうか  一皮剥けば「なんてことない」都の実態に、木曾の軍団がむなしさを覚えてしまったのかも知れない  だから敢えて後白河法皇の挑発に乗る、損な役回りを演じもしたのだ

1月24日(水) 木曾義仲の言葉

ずいぶん前になるが「言語明瞭意味不明」と揶揄される首相がいた  最近では小泉前首相の物言いが、物事を一面で切り捨て過ぎて中身が乏しかった  政治家にとって物の言い方は大事である  政治家の言葉は、民主主義だから大事というよりも、そもそも政治家だから大事なんだといえるだろう  「平家物語」に、その恐るべき例が載っているので驚いた  木曾義仲だ


義仲は、横暴な振舞いで都人の反感を買い、運命が暗転していったといわれる  でも町なかで実際に横暴な振舞いをするのは雑色と呼ばれる下人たちである  義仲自身は、相手の気持ちを逆なでする無思慮な物言いで、都人の非難を買ったようだ  「平家」には、義仲悪語録が3話もあるから、言葉の面で都人にとっての為政者像からはほど遠かったのであろう


居住地の通称から「猫間中納言」と呼ばれる公卿を猫殿とからかった話  鼓の名手ゆえに「鼓判官」と呼ばれる武将を「皆に打たれ張り倒されるから鼓か」とからかった話  さらに、当時の天皇が幼児だったことから、「自分が主上(天皇)になるには童にならねば」と言い放ち、「法皇になるには頭を丸めねば」と言い放つ  宰相の言とは到底思えない惑乱ぶりなのだ

1月15日(月) 「平家」中間報告

声を出して「平家物語」を読んでいることは前にも書いた(昨年9月18日)  ようやく舞台が廻って、平家都落ちの辺りまで読み進んできた  ページ数から推すと、全巻のたぶん半分ぐらいの所だろう  読みながら、当時の情報伝播の偏りにちょっと興味をもった  例えば伊豆に流されていた源頼朝の挙兵についてだ  挙兵の記事はあるものの、意外に簡略なのである


頼朝が石橋山での挙兵に失敗して敗走中、当時は平家方であった梶原景時という武将に助けられる有名な逸話がある  しかし「平家物語」では全く触れられていない  まだ読んでいないもっと後の方で、挿話として語られるのかも知れないが…  また、義経の動向についても、今のところ記載がない  梶原景時も義経も、源平合戦ドラマには欠かせないキャラクターだ


彼らに比べて案外詳しく書かれているのが、木曾義仲である  やはり都に近いか、直接関係の深い地域の合戦情報が優先されているのだろう  もうひとつ不思議なのは、たくさん出てくる「手紙」などの文書だ  これらの文書をどうやって入手、または少なくとも閲覧し得たのだろう  手紙を出したり貰ったりした際、スグに複数枚書写する習慣があったように思えてならない

2006年

12月21日(木) ケータイ俳句

私のような怠け者にはちょうどいい  今日も朝8時、ケータイに俳句が一句届いた  一日一句なのがラクである  俳人・黛まどかが、子どもたちのために最近始めたまぐまぐメールマガジン  今朝は山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」とその簡単な解説が載っていた  エッ…この句は特攻機を暗喩してたのか  そんな比喩折り込まなくても、とてもいい句なのに


偶然だろうが、今朝の朝日朝刊にも誓子の「学問のさびしさに堪え炭をつぐ」が載っていた  これも名高い  この句をいつ何処で知ったか…  たぶん仕事で使ってる国語教材に掲載されていたんだろう  私にとって、作品とともに名前を覚えた最初の俳人が山口誓子である  高校時代の教科書に「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」が載っていて、こんな俳句があるのかと驚いた


驚いて俳句に眼を開かれたかというと、これが全然…  家では、父の書棚に並ぶ「山口誓子全集(?)」「何の誰兵衛全句集」などというモノを手に取ったことがない  今でも、俳句はこそこそ作っている  俳句を思いつくと、携帯メールで自分宛に送信するのだ  今までの殆どの句がケータイ句だ  本と紙に埋もれていた父の姿を見てるから、その反動かも知れない^^;

12月7日(火) 今売れる詩人

出席停止言わなかったな教育再生会議  しかし発表された提言を見てみると、別段どうということもない内容じゃないか  その証拠にもう誰も何も言わない…  それより年内にカタをつけたいことが前々からあって、私は久し振りに松戸駅頭へ降り立ったのだ  行く先は市立図書館  しばらく歩いてちょっと驚いた  ごみごみした街の感じがほんの少しだがきれいになってる


しかし市立図書館斜め前のNTT支店は閉鎖されていて、ああそういえばずっと以前に通知が来た気がする  大きなアンテナがあるから施設としては稼動しているのだろうけど、人がいないのはやはり寂しい  図書館へは黒田三郎という詩人の、ただ一篇の詩を探しに来たのだ  書架を調べてもなし、検索機を使ってもなし  詩集は思潮社の薄い現代詩文庫しかないようだ


ネットでは黒田三郎は根強い人気があり新しい読者も得ているらしいのに、詩集は殆ど入手不可  詩集は売れないとはよく聞く言葉だが…それは商売の切り口が下手なだけではないのか  クラシック界「のだめ」効果を見よ  アルバイトパート派遣失業フリーター…わけがわからない迷走労働市場の昨今、働くことの喜びや痛みを綴った黒田三郎の詩集を出せばきっと売れる

10月17日(火) 増刷夜露死苦

近隣の大型書店を巡っても、Amazon ほか主な本屋サイトをいくら探しても、8月に出たばかりの「夜露死苦現代詩」がない  出版元の新潮社HPを確かめたら、なんと在庫なしと書いてあった  評判の高い連載モノだったらしいから、単行本化されるのを大勢の人が待っていたにしても、詩関連の本が発売早々在庫なしなんて、今まであっただろうか


そもそもいったい誰が買ってるんだろう  私は上述の理由でこの本を読んでいないままに言うのだが、まさか夜露死苦系の兄ィたちが、まとめ買いしてるわけでもないだろう  だって夜露死苦系の兄ィたちが本を読むようになったら終わりじゃん、というようなことが書いてある気がするから  ちなみにAmazon では、定価を遥かに上回る価格で、新古本として出品されている


私が「夜露死苦現代詩」を読みたいのは、読んでわかりそうだからである(笑)  実は、詩論は読んでわからないのが多い  現代詩論を読むより現代詩に直接触れた方が早ェえやと思う(当たり前か…)  この本は、世間一般には詩とは認知されない、レールを外れたつぶやきや言葉の数々に言及しているという  増刷が楽しみだ  早く文庫化してくれた方がもっといい

9月18日(月) 赤ズボンちゃん

千葉県松戸市のとある民家の窓から、「平家物語」らしき古文の下手な音読が聞こえてきたら、そこが私の家だ(爆)  数年前に「声に出して読みたい日本語」というのがブームになったことがある  その途端に読む気が失せて^^;それ以来中断していた「平家全巻制覇を音読で果たす」という個人事業をこの夏再開した  口三味線ならぬ口琵琶つきだ(^○^)べんべんべべん


この際だからまた始めから読むことにしたが、何度読んでも「ウ〜ム」と考え込ませる箇所がある  冒頭「祇園精舎の鐘のこゑ」はどの教科書にも載ってるから、誰でも一度は目にすると思う  実はその少し後に、とっても興味を惹くくだりがあるのだ  平家支配を蔭で支えた「禿(かむろ)」と呼ばれる少年監視密告団の存在である  記述はほんの数行だがおもしろい


その姿は、おかっぱ頭に赤い直垂(ひたたれ)というから、ちびまる子ちゃんが赤い雨合羽と赤いズボンをはいたようなものだ  結構目立つ  平氏批判をする人を探り出しては「夜露死苦」とか言って^^;家々に押し入ったりするんだから、京の人々はたまったもんじゃない  ただ、禿(かむろ)の多くは戦災や飢饉で家族をなくした少年で、世に受け容れられぬ弱者でもあるようだ

8月30日(水) 青空の方法

「青空の方法」(宮沢章夫・朝日文庫刊)は大変おもしろい  夜遅く、笑いを抑え切れずに苦しんだ挙げ句ゲッヘッヘ、ムッヘッヘと奇笑を止められなくなった  満員の通勤電車だったら大変である  人込みの中から何処からともなく忍び笑いが…  次の駅で引きずり降ろされるのがオチだ  「青空の方法」は新聞連載コラム集なので、ひとつの文章は短くて読みやすい


例えば「人生いろいろである」というフレーズに関する章  大上段に振りかぶった物言いの後にこの言葉を使うと、事態が急転、終結してしまうのである  「製紙最王手の王子製紙は29日、同5位の北越製紙との経営統合を断念する意向を正式に表明した  人生いろいろである」これは今日の新聞に付け足したものだが、「青空の方法」では次の例文がある


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった  人生いろいろである」…ホラ、終わってしまったじゃないか(笑)  Yahoo!ニュースからこんなのはどうだ  「WBA世界ライトフライ級王者の亀田興毅(19=協栄)が10月18日、東京・有明コロシアムで初防衛戦に臨むことが29日、明らかになった  人生いろいろである」  やはり、話は終わりを告げてしまうようだ

8月3日(木) ラストシーン

ラストシーンがすべてを決める  ラストシーンだけが名編ということもある  何十年も前に読んだものなのに、ラストシーンが(ラストシーンだけが)忘れられないマンガがいくつかある  戦記マンガの「紫電改のタカ」では、主人公が特攻出撃するシーンと、それを知らない母親と恋人が主人公の好物を持って飛行場最寄り駅に到着するシーンとが交錯して、泣けるのだった


「火の鳥」未来編で、半ロボットのロビタが「神よ、ロビタを救いたまえ」と地に臥すラストシーンも、泣ける  どうしても忘れられないシーンである  「紫電改」も「ロビタ」も、ストーリーの殆どは忘れてしまった  でもこのふたつのラストシーンは、私にとって何か大切なものが含まれているシーンなのだろう、わりあい鮮明に覚えているのだ


亀田興毅である  試合直後、コーナーの椅子に腰掛けて、恐らくは自ら負けを覚悟したであろう亀田である  昨日の対ランダエタ戦での、拳闘史上最も醜悪なラストシーン、彼のタレントぶりで何とかならなかったものか  「みんな、ありがとう  でもこのベルトは、今日は貰えない」と言って、チャンピオンベルト受け取り拒否に及んだなら、凄い奴だということになったろうに…

3月10日(金) アニメ日米格差

アメリカ・アニメに比べて、日本のアニメは動きがぎこちないとしばしば言われてきた  TVアニメ初期の「鉄人28号」は、その「粗雑な動き」の典型であった  これに対し「ポパイ」「フェリックスちゃん」など当時から既にアメリカ・アニメは動きが滑らかで、可能な限り「一瞬前」の動きに忠実につなげようとしていた  日米のその違いは今のアニメでも歴然と存在するようだ


しかしアメリカ・アニメに見られる、滑らかな動きのヌメッとした感触が私には肌が合わない  ディズニーアニメを思い浮かべてみるとわかるが、登場人物(動物)の動きは、滑らかゆえにかえって不自然である  単位当たりのコマ数を多くすれば自然な動きになるという発想は、かなり単純だ  繊細と省略の歴史が長い日本人の感性に到底適うものではない


日本人は、平安絵巻の「屋根を省いて室内の様子を俯瞰(ふかん)する」手法など、大切な要素が欠けていても決して不自然さを覚えない  俳句短歌など省略の文学に多くの人が親しむのも、「あるべきものがない」状態を楽しみ、必要なら頭の中で補うだけの知性が、誰にでもあるからだ  日本人にとっては、現実の忠実な再現はかえってリアルから遠ざかる

1月9日(月) 博士の愛した数式3

映画化された「博士の…」はまだ見ていないが、小説と比べていちばん異なるのは、たぶん義姉の存在感ではないかと想像する  小説では、義姉は影のような存在から次第に存在感を高めていく経過を辿る  一方、映画ではたしか浅丘ルリ子が演じており、初めからインパクトが強いに違いない


ところで、この小説の最大の妙味は、博士と義姉との関係ではなく、eπi+1=0 なる数式が博士と義姉とにもつ意味でもない  いや、本当はそこを想像させたい小説なのかも知れないが…  私が妙味と思うのは、子供に注ぐ博士の情愛の深さである  登場する子供は「ルート」しかいないから、情愛の対象はルートだけだが、ほかに子供が出てくれば同じように接したに違いない


子供に対する博士の情愛は「無条件」である  博士にとって子供は、まず「何をおいても守るべき存在」であり、「ほめながら方向をつけてあげる存在」であり、過ちをも「選択できる道のひとつであった」と「勇気づけ道筋をつけてあげるべき存在」なのだ  つまり、何ひとつ否定しない  子供の人生では、たとえ0を掛けて一切が0になっても、そこに1を足せばいいのである

1月8日(日) 博士の愛した数式2

80分間しか記憶が保てないという設定は、大変に微妙なさじ加減だろう  60分では短か過ぎ、120分ではたいていの日常事が完了してしまう  この80分設定について、小説の進行の中で整合性が疑われる場面もなくはないが、細かい理屈で辻褄合わせをしないままなのは、かえってよかった  この小説にとって大事な整合性は、数式だけなのだ


数式や素数が頻繁に登場する  それについて述べる博士の言は、そういった内容が殆ど理解できない語り手である「私」や、同じく理解できない読者である私が心打たれるほどに、一途な思いに溢れている  語り手の「私」は、それが現世とやりとりする際に博士が交換できる唯一の名刺なのだと早くに悟るのだ  大投手江夏でさえも、博士は数で語っている


この小説のいちばんの見所は、江夏を巡る博士と「私」、「私」の息子(愛称ルート)の三者三様の熱いエピソードだろう  有名なノンフィクション「江夏の21球」など、現役時代すでに多く語られてきた江夏も、不祥事以後は球界人としてまともに語られることは殆どなかったのではないか  この小説で、江夏は完全復帰を果たしたといえるかも知れない

1月5日(木) 博士の愛した数式

これほど内容が予期できない小説も珍しい  単行本発売時に文庫本化を願い待ち望んでいたほど、この小説が気になっており、期待もしていた  その上、「第1回」本屋大賞を受けたとあって、更に期待は膨らんだ  「第1回」本屋大賞は、最初しか受けられない栄誉である(笑)
正月三が日で、「博士の愛した数式(小川洋子・作)」読了^^



この小説のいちばんの美点は、作中の誰もが、誰に対しても、また何に対しても、悪口を言わないことであろう  不平不満をこぼす場面は結構あるが、人でも物でも、悪く言ったり悪意をもって接したりということは、全くない  これひとつだけでも、架空のおとぎ話としての「博士の…」を読んだ値打ちはあろうというものだ


職業意識の強さということも、特筆できる美点だ  語り手である「私」は、家政婦として偶然接するだけなのに、本来の字義通りに「家政」を全うしていく  必要にして十分に、全うしていく
これはまた、老人介護の物語でもある  取り繕いようのない、どうしようもない場面も少なくないのだが、「私」の職業意識の強さが全編を清潔で清冽な感じに仕上げている

2005年

11月20日(日) ノルウェイの森5

精神医学と心理学はどう違うのか、恥かしいが長い間わからないでいる(^^ゞ  まして精神分析と心理分析、精神科医と心理カウンセラー  何となく精神科医の方が立派そうではあるが…  現場関係者には差異が明確かも知れないが、私にはさっぱりわからないのだ
それでも、心の問題に触れる場合、最低限の心得が要ることはわかる


問題を抱える人に直面したとき(あるいは自分自身が問題を抱えているときでもいい)、いったいその人は(自分は)何処へ導かれるべきなのかについての謙虚さである  普通と言われ世間と言われ一般社会と言われる世界、「ノルウェイの森」で村上春樹が「こちら側」と呼ぶ世界に戻すのか  そこは、世間智・常識・金・出世がリボンを結ぶ「体制」と言われる箱の中である


あり得る話ではないが、仮に「反体制の精神科医」という人がいるとして、その人が相談者を導いていこうと目指すのは、どう考えても「支配体制」の内側であろう  心を再構築するには、規範とかモデルが必要なのだから  「ノルウェイの森」は、その辺りの描き方がとても謙虚であった  「枠からはみ出した人に帰る所はあるのか」が主題ではないかと思ったほどである

11月17日(木) ノルウェイの森4

すべての物事について距離を置いて関わる  作中にもブックカバーにも、このようなことが書かれていた  小説を読むのがあまり得意ではない私は、この言葉を案内役のひとつと考えて読んでいった  すべての物事について距離を置いて関わるとどうなるか  結果は、「とてもつまらない世界が現出した」と感じた


小説がつまらないのではない  小説の描いている(描こうとしている)世界がつまらない  どこから読み直してもOKだと、4日に書いたが、別の言い方をすれば、どこを取っても平板で、順序を入れ替えて書いても(読んでも)大丈夫な印象である  ただ、独特の雰囲気をもつ会話部分は、この作品のいちばん優れている点だろう  まるで食事をしながら殺人をしているようだ


傷つかないように、傷つけないように、しかし傷つき傷つける、私たちはまぎれもなくそういう世界に生きているから、ちゃんと生きようとする者ほど、生きていくには勇気が要るのだ  負荷と言ってもいいだろう  作品の最後の方でワタナベ君がこの負荷を覚悟したとき、ようやく本当の恋愛譚が始まった気がする

11月13日(日) ノルウェイの森3

「1969、1970」という西暦が、作中3、4箇所に注釈のように出てくる  また、ギターで弾かれる曲目は、いかにもその時代らしい曲目が並ぶ  しかし、「ノルウェイの森」がいつ頃の物語なのかを知るわかりやすい手がかりは、せいぜいそのぐらいだ
作者が敢えて触れなかったに違いない、同時代の「もう一方の側の物語」というものがある


物書きを自認する人が’69年と’70年の学生生活を語るとき、急速に終焉していった大学紛争に触れないわけにはいかないだろう  直接関わった人は勿論だが、無関心だったり遠巻きにしてただけの人にだって、折り畳んだ何らかの思いはきっとある  ところが当の大学生であるワタナベ君の周りには、その雰囲気が微塵もないのだ


思い起こせば’80年前後にコドモ界で使われ始めた「シカト」が、ここにはある  存在を巡る長大なこの小説で、完全にシカトされている膨大なヘルメットと投石  「1969、1970」という西暦を刻印しながら、なぜ徹頭徹尾シカトしているのだろう

11月11日(金) ノルウェイの森2

「ノルウェイの森」を通読しようと思ったのは、書店での「立ち読み効果」である^^ゞ  出だしの文章の素晴らしさに衝撃を受け、「読んでがっかりする本じゃあないナ」と直感し即購入した  ビニール密閉コミック本では、こういう買い方はあり得ない(/・o・。)/


この作品の文体が与えた影響なのかどうかはよく分からないが、「ノルウェイの森」風の文体が、’90年前後から今に至るまで、「読まれる文章」のベースになっているのは確かなようだ
幾分ユーモアを漂わせ、軽く機転の利いた会話さばきで場をつなぐこと  本質には関わらない部分での人間関係を積み上げていくのにふさわしい文体なのだろう


しかし最後の方で、ワタナベ君が心を乱し当てのない旅をする辺りは、それまでとは打って変わって読みにくい文章になっている  呑み込み難い現実をそのまま文体化したかのように
そうであるなら、しばしば言われる「近頃の若者の文章力のなさ」「ネット語の粗悪さ」は、複雑になり過ぎた現実社会を前にして、若者が呑み込み不能に陥っている正直な姿なのかとも思う

11月4日(金) ノルウェイの森

「ノルウェイの森(村上春樹・作)」を、何と2年がかりで読んだ^^ゞ  こんなにかかった理由のひとつは、その文章が大変読みやすかったからだ  読みやすければ早く終わりそうなものだが、いつどこから読み始めてもすっと小説に入り込めるので、気の向いたときに読んだり読まなかったりした  4、5ヶ月ブランクがあっても、ストーリーがすぐよみがえり不便はなかった


屈指の恋愛小説という定評だけは聞いていたので大いに期待したが、主人公ワタナベ君は女の子といてもドキドキしたりオロオロしたりがまるでない  私の知ってる恋愛状態(爆)が始まるのは10章あたりからで、長い長い道中の終わりになってようやくワタナベ君、取り乱し始めた


主要登場人物が皆とても知性が高く、私はそれがかなり気になった  辟易(へきえき)することもしばしば  これも、読了に2年かかった理由のひとつである  知性が高いと恋愛もこんなにつまらなくなるのかと、別世界の人々に毒づきたくなった  しかし、終わり近くなるまでのやり取りは恋愛ではなかったのだな  10章以降の「緑」さんは、本当に救いであった

6月18日(土) アール・デコの子2

先日訪れた「アール・デコ展(14日記事参照)」で、興味深い日本のポスターを見た
日本初の地下鉄開通(上野〜浅草間)を紹介する1枚のポスター  アール・デコ調らしい大変モダンな格好をした老若男女が、駅のホームでそれぞれのポーズで立っている図柄であった  私が興味を持ったのは、脇の説明書きに「1927(昭和2)年開通」とあった点だ


この年は、関東大震災の復興政策の不手際で、金融恐慌が起こった年なのだ  春から夏にかけ、多くの銀行が休業・倒産したということである  その2年後、1929年には世界大恐慌が起こる  庶民には把握できない「経済破綻の水たまり」が、庶民の足元をひたひたと濡らしていたに違いないのだ


金融恐慌の嵐の中で進められていた、未曾有の大事業である地下鉄工事  そのポスターの図柄に選ばれた、経済不安など微塵も思わせぬモダンな人々
日本の「今」と同じではないかと、穴の開くほどポスターを見てしまった^^ゞ

6月14日(火) アール・デコの子

アール・デコって何だ…上野の東京都美術館に行くまで殆ど何も知らなかった  1920・30年代のフランスを中心にした、主に身体室内装飾美術や家具調度品、広くは建築などのスタイルを指すらしいとわかった  大変おもしろく、持って帰りたい展示品が多かった (^_^;)


公園内では、修学旅行の中学生グループと何度もすれ違った  あるグループの中から「次どこ行くの」という男子の声と、「つまんねぇよ、つまんねぇよ〜」という女子の声が聞こえてきた  そういえば、アール・デコはジェンダーフリーの潮流とも関係があると、展示品の説明に書いてあったっけ…  「つまんねぇよ〜」は、まぎれもなくアール・デコの系譜に連なるデコ語じゃ


帰りの電車(常磐線)では、私の目の前3mぐらいの所で、二十歳前後の女性が延々と化粧をし続けた  上野駅から日暮里・三河島・南千住・北千住…「♪お手入れは続くよどこまでも♪」  見ていたわけではない^^; 駅に進入した気配に顔を上げると、その人が目に入るのだ  私は松戸駅で乗換えたので、アール・デコ顔の完成が見られなかったのが残念!

6月7日(火) ラ・マンチャの男

ミュージカル「ラ・マンチャの男」がまた上演されている
’80年前後、映画版をTVで見てすっかり気に入り、そのビデオ版を入手し、帝劇の舞台にも行き、あまつさえ「対訳・スペインのことわざ集」でスペイン語を勉強し始めた(数日で挫折^^ゞ


このミュージカルには、日常の価値をひっくり返す名せりふが多い  ドン・キホーテが叫ぶ「義務ではない!特権だ!」も含蓄に富み、応用範囲の広いせりふである
決められた仕事や勉強を日々こなしていくのは並大抵ではないが、それを権利(しかも特権)と捉えれば、世界が明るくなり視界が広くなるように思うのだ


憲法にある「勤労の義務」は、「勤労の権利」と読み替える  私どもには、働く権利がある(当たり前か…)  義務があるのは、安全と統治を委託された国である
働く場を失った人が溢れている状況は、政策義務を怠った、または誤ったからに他ならない
         この記事には憲法条文の知識不足があった  訂正せずそのまま世界に恥を曝そう(^^ゞ(7月6日記)

4月23日(土) 新聞連載小説

1度だけ、新聞連載小説をほぼ毎日読んだことがある  宮尾登美子の「柝の音」という作品  新聞連載小説を毎日読むとはどういうことなのか、それが知りたかった  たまたま作品完成度に波が少ない宮尾登美子の連載が始まったのを機に、通して読むことにしたのだ  始めはおもしろかったが、次第に苦痛になっていったのを覚えている


今年の大河ドラマ「義経」の原作が宮尾登美子なので、多少の期待をもって時々見ている  中井貴一演じる源頼朝が、温和なのに冷たい感じで、何を考えているのかわからない怖さをよく出している  滝沢秀明の義経もなかなかいいではないか  運命に殉じて一途だが、国政を執る器ではない感じが、現代の若者そのままである


…結局「柝の音」は、全部読んだがまるで覚えていない  そもそも新聞連載小説を、バブル景気の余韻の中で毎日読めたということ自体、真っ当な暮らしとは言えないだろう^^;  いかにバブルと無縁だったかということの、ムダな記念碑ではある

1月26日(木) モーゼスおばあさん

昨日モーゼスおばあさんに会いに行った  渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムでの絵画展  出かけるときは雪が降っていて、冬の好きなおばあさんにふさわしかった
モーゼスおばあさんは、70歳を過ぎてから初めて絵筆をとったアメリカの素人絵描き  その絵の柔らかさは、画面一杯に広がる丘や牧場の、うねうねとした不規則さから来るのだと、今回改めて知った


帰宅して、おばあさんの絵の切抜きを探した  かなり以前、切抜いて保存した記憶があって、切抜き帳数冊をすべて探したが、なかった  保存したと思い込んでいただけかと、がっかりしたら、夜になって、仕事で使う重要過去ファイルフォルダの中にあるのが見つかった  そうだ、モーゼスおばあさんの絵を、塾のお守りにしよう^^;と、ここにはさんだのを思い出した


その切抜きに、こんな言葉があった  「彼女の絵と生涯は、国の根源が田舎に、辺境にあることを思い出させてくれた」…モーゼスが亡くなったときの、ケネディ大統領の言葉である

1月7日(金) おこげ丸

再び石垣りん
家計を助ける  ただそれだけのことから押し寄せるさまざまを、生涯歌い続けた稀有の詩人
世界の中心から最も遠い所を棲み家と決め、鍋の底のおこげを掻き出しているような詩人


その人物を知っているわけではないが、恐らく声を荒げることは決してなかったであろう
声を荒げるとき人は既に倣岸にシフトしているものだ  大きな声でものを言うのは、この詩人に最も似つかわしくない  台所や、便所や、布団の上や、その他もろもろ家の中で黙ってメモを走らせている姿が美しい


彼女がなくなったのは昨年12月26日午前5時35分  その4時間半後、世界の中心から最も遠い地域の無名の人々が、15万の鍋釜もろとも海に投げ出された

1月6日(木) 顔丸詩人

インド洋大津波で15万人もの犠牲者が出たが、私はたった1人の死さえも上手に書けないでいる
石垣りん  昨年暮れ、都内の病院でなくなった


彼女の詩を読み返したら、「黒田(三郎・詩人)さんの言うことはいつも正しい、その黒田さんが、おりんちゃんは下り坂だねと言うのだから、自分は実際にそうなのだろう」というのがあった  むやみに高ぶらないところが石垣りんらしいと、ちょっと嬉しくなった


ただしその根っこは、家・家庭・夫婦・結婚といったことに対する疑いであったように感じる
若き日の詩に、父や義母との同居を「いやだ、いやだ、この家はいやだ」と、少女のように激しく叩きつけるものがある  後年の穏やかさから入った者はちょっとびっくりするのだ

2004年

12月21日(火) 冬至・長い夜に

ネット上で詩を探す  私が「詩」と思いひれ伏して頭を垂れているものとはまるで異質の詩に、よく出くわす
それは、恋愛詩というジャンルに入ることが多い(それ以外のこともあるが…)
恋愛詩自体が異質というわけではない  恋愛詩こそは奈良平安以来の詩の王道だから


私が異質な感じを抱く詩は、失恋を詠んでも得恋を詠んでも、既に世界を失っている感じがする詩だ  ブラックホールの逆で、すべてのものをはじき出すホワイトホール  自分または自分たちに、対峙し屹立する世界が存在しない  だからか、つるつるした印象を残すのだ
のどごしはいい  しかし私には「突っ込み所」がない (^。^;; ので困るのだ


「お前の詩を詩と呼ぶのはいかがなものか」と言われたら、返す言葉はないが。。。ρ(。-、)

11月26日(金) 詩の無題

詩に題名がない(つけられない)理由は、「プロフィール」に書いたことのほかにも、思い当たるフシがある


父が俳句をやっていて、「誰某が、こんなヘンなのを作った」「誰某にはこんな愉快な句がある」などと、生前よく家族の前で朗詠していた
そして、当然それらに題名はないのである  空中でパッと放たれる短い詩篇
10歳のときも20歳のときも俳句に何の興味も示さない拍子抜けっ子に、父が折りに触れ見せてくれたのは、説明不要・題名無用の世界であった


以前は、詩に題名がないことの理由を、もっと理屈っぽく考えていた  せっかく詩を読んでもらうのに、なぜ作り手自ら概念の囲みを設けてしまうのだ、などと…
最近は、単純に「それが自分の生理なのだ」と思っている

11月19日(金) いま、会いに…

「アイル・ゴー・トゥー・シー・ユー・スーン」…話題の邦画タイトルの勝手英訳
やはり気合が喪失しそうだ  これでは、いま、見にゆく気がしない (^。^;;


洋画タイトルがソノマンマカタカナ化現象を始めて久しい
内容を手短に、見事なタイトルに表現する労力を放棄して、宣伝文句・キャッチコピーの方をひたすら大仰にする  洋画の日本上映で、今行われているのは、そういうことである


ベースボールを野球と呼んで広めた正岡子規と周辺の人々は、その楽しみの本質が「蒼天下の野趣にある」とみたのだろう  「ベース」にこだわらない訳語ができたのは、当人たちがベースボールに夢中で、机上の訳語には無縁だったからだ


冒頭の邦画、本当に海外上演されるときは「Soon」とかになるだろな (^。^)ゞ

10月19日(火) 永遠の出口3

ふっと自分の十代を呼び起こされそうになるが、もはやそれも覚束ないほど遠くのこと
「永遠の出口」は、新聞書評に誘われてネットで衝動買いした(^^ゞ もしも店頭に買いに行ったら、立ち読み数分で終わったことだろう
「永遠の出口」のような作品は幾らでもある(気がする)  気がする、でいつもストップをかける自分がたしかにいる  読む機会は幾らでもある(気がする)  気がする、で先延ばしを続ける怠慢な自分がたしかにいる


「永遠の出口」は、(気がする)者とたたかい続ける、今風ジャンヌ・ダルクの話であった

10月15日(金) 永遠の出口2

昨日から1章読み進んだだけだが、主人公は既にまっとうな中3を終えてしまったようだ
ちょっとがっかり (^_^;)\(^。^。) オイオイ


大きな家族旅行をして、ようやくここで父親と母親のことが詳しく語られることになる
姉の上手い画策で実現した家族大旅行が、実は家族ひとりひとりが「自分とは関わりのない所で」とんでもない問題に直面していたことを、主人公に思い知らせることとなった
「親が何だ、家族なんか…ペッ」と唾棄していた主人公が、家族の危機に大きくいちばんうろたえた(それでも、どこまでも「自分の危機」である所が、正直でおもしろいのだが)


家族旅行顛末記によって、「永遠の出口」はようやく小説世界へ入ったと言える

10月14日(木) 永遠の出口

去年買ってヌカ漬け状態だった「永遠の出口(森絵都・著)」を読み始めた
普通の(と誰もが・本人も思っていた)少女による、「小学生」「中学生」というレッテルへの、思う存分の甘えと脱「小」「中」レッテル。恐らくは事実に近い小説であろう
まだ半分ぐらいしか読んでいないが、郷愁の力は実に偉大である  少なくとも、リビングの戸棚に入ってた葡萄酒ビンが大爆発するまでは
ここからがたぶん本題で、「歯がボロボロになるから」シンナーだけはやらないけどほかはいろいろやる、手のつけられない少女に…この辺まで読んだ
少しずつ重ねられていく、外の世界への違和感、軋みのエピソード
果敢にワルい子路線を走るのか、途中で何かに上書き更新されるのか、後半が楽しみである

10月7日(木) 電線と景観

電線を地中に埋設すると、街の景観がすっきりするという論があるが、どうも疑わしい


日本では、都市の無計画さに対して、電線が一定の幾何学区分美を与えているように思う  縦に横に斜めに抑制し、揃え、まとめる
日本の都市景観から電線をなくしたら、無計画に造られ続けたみっともない建造物が、抑制する力をなくしてむき出しになるだけだ
よく引き合いに出されるヨーロッパの国々は、電気のない時代から既に都市景観計画のようなものがあって、その上で、後から登場した電線の「埋設化」を進めている事情がある


思いが詰まり詩文が生まれ(そうな気がす)るのは、どちらかというと電線の錯綜した街の方で、その安っぽい景観を私は好きだ

10月6日(水) 雲の変容

空がたいへんに魅力のある1日だった
大きな入道雲が次々に現れ、ほかの薄黒い雲と混ざり、不規則に移動する
遠くに目をやると、確かに雨を含んでいる怪しい黒雲が、地平線一杯に広がっている
かと言って私のいる真上辺りが曇りというわけでもない。いちおう晴れている  ただ、ひっきりなしに雲が現れては消え、移り、混ざる。変容がきわめて大きい


西洋絵画の背景には、絵そのもののテーマとは(たぶん)無関係に、このような動き回る空がよく描かれている。何かの象徴なのだろうか
しばしば起こる原発の事故で、TV映像が流す原発建造物の背景には、異様なまでに美しい青空が広がっていることが多い  凄惨な事故との断裂に、いつも息を呑む


Top page  詩の1 詩の2 詩の3 句帳 音楽照葉樹林 アンダン亭から だじゃる丸 いいぞ、ハイドン 映画『道』のこと
リンク集 掲示板