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2013年
1月29日(火) 聖戦士
最近耳にした、ちょっとイヤな言葉 「企業戦士」「聖職者」 前者は安倍首相の口から出たもの 後者はいろいろな人が退職金減額問題で言っていた どちらも死語ではないだろうが、あまり使われなくなった 「企業戦士」と聞いて、第一線で働く女性会社員を思い起こす人はいない 時代にそぐわない言葉なのだ 女性会社員をも想起させる言葉はないものか
もうひとつ、「聖職者」の方は「企業戦士」なんかよりずっとタチが悪い 「聖職者なんだからお金より子供のことを云々」のように言う人がいた ここで言うお金とは、3月まで勤め上げた場合の退職金と、1月で中途退職する場合の退職金との差額70万円ほどのことだ 中途退職の方が給料分を差し引いても多くなる仕組みで、幾つもの自治体が年度末を待たずに施行した
地方分権などと勇ましいが、目の行き届かぬことだ 卒業式の日の丸君が代問題では厳格な処分をちらつかせて「立った座った、お口の動きは?」などチェックするのに… 教員の仕事は、お金と引き換えにアレをやるコレはやらないという世界とは少し違うのは確かだ 善意なしではできないものだろう だからこそ善意に甘えないでちゃんとお金を払ってやるべきだ
2012年
8月23日(木) デコネーム
1、2年前からその妙な名前を散見するようになって、またヘンなのが出てきたなと思ってはいた ただ、歌番組もバラエティー番組も殆ど見ないのでタレント事情に疎く、単に新しいアイドルグループだとばかり思っていた それがたったひとりの個人芸名だとわかったときの驚きといったら… ここまで書くと大方は想像がつくというもの きゃりーぱみゅぱみゅのことである
しかも本人が自分の感覚と意思でこの名前にしたというからエラい 今のところきゃりーぱみゅぱみゅに関する知識はそれだけだが、この後もきゃりーぱみゅぱみゅのことは、その活動にとくに関心があるわけでもない私の耳目に自然に入ってくるに違いない つまりこの名前からは、一定のレベルを保ってマイペースで長続きするタレントになる感じがするのだ …え?
なんということだ Wikipediaによると、きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅというのが正式名のようだ あぁ、夏の暑さに溶け出しそうだ^^; ちゃろんぷろっぷの辺りにとくにセンスがある 未成年らしいので今は無理だが、選挙に出たらトップ当選間違いなしだ 橋下維新対抗馬としてひとりで受けて立てるだろう デコデコして寿限無な名前だなぁ
7月13日(金) だじゃる丸拾遺
PC内のファイルを整理していたら、<ここんとこのニッポン>に活を入れてくれるような第1級のだじゃるメモが発見された^^; 今となっては意味不明なものが多いのは仕方がない だが今でも十分…いやむしろ今こそ大きな意味を持つものもある 「貧困さん、いらっしゃい」 発案当時は自分を笑って元気づけていただけだろうが、今日の社会と見事にリンクしている
こんなのもあった 「ゆりか語 早期英語学習より大切」 家庭の穏やかな時間が子どもを育むという視点 なかなかいいではないか 親子の関係では次のような短句もあった 「外飯母子(がいはんぼし)」 品数が少なくてもやっぱり家でのご飯がいちばんいいのになぁ 母さんはこんなこともしている 「ためてガッテン」 父さんやめてよ「ステテコをはいた猫」
女房がご飯作ってくれないからって「味噌地の女」に入れ込む旦那もいかがなものか たとえ家族で食卓囲んでもTVを見たりしてめいめいが「黙飯(だまめし)」じゃあなぁ おっ、旦那が読んでるのは読売社会面だね 「→コボんちにこいよ←」 こんなモノを考えていたなんて昔のオレはどうかしてた 「上に曲がります、ご注意下さいbyムスコ」あぁ、恥ずかしい
5月7日(月) 本当は凄い日本人
日本人の言語能力が卓越していることは昔から言われてきた ただしそれは、近年の流行語を援用していえば、言語におけるガラパゴス能力が優れているということだ 中国を始め世界のあちこちの影響を受けながら、世界に流通させることは不可能な独自の進化を遂げてきた 別の言い方をすれば、英語のあまりの単純さに対し、日本人はもっと呆れたり驚いたりしていい
いちばんいい例が「数詞+単位」の表現だ たかが鉛筆にも日本人は敬意を払い、「いっぽん、にほん、さんぼん」と呼び方を変える 「いち」が「いっ」になるのはもちろんのこと、「ぽん」「ほん」「ぼん」と目まぐるしく変わる これを、小学1年生ですら平然と言ってのける どんなに勉強ができない子でも、鉛筆の数え方は世界最高水準の複雑体系をクリアしてるのだ
「あっ、ゴキブリだ」「いっぴき、にひき、さんびき」 ここでも世界最高水準の会話が交わされている "Oh, no! cockroaches!""One、two、three."とはわけが違うのだ ゴキブリだろうが鳥だろうが"One、two、three."で済ませるのが英語である そこには事物の単純化と支配欲しか感じられない 日本語は万物への敬意を内包する言語だといえるだろう
4月21日(土) かと期かと
例えば田中防衛大臣が予算委員会などで「尖閣諸島はどこのモノかご存知ですか」と質問されたとする 大臣は「日本固有の領土であることは明白です」と、たぶんこれは普通に答えるだろう だがひょっとしてこう言うかも知れない 「日本固有の領土であることは明白かと」 そこまで言って大臣席に戻ってしまう 答弁を途中で打ち切るとは何だと大騒ぎになりそうだ
かとは注目すべき表現である ネット上で時折目にするのだが、かとの用法と心理は微妙だ とくに質問・相談掲示板などで、アドバイスする立場になる人が使う場合が多いようだ 「かと思います」まで敢えて言わない複雑難解な心意気 「新幹線なら1万円、飛行機なら9500円ですが、空港を出てからの足代も考えると、新幹線の方が安上がりかと」 だとじゃダメ?
(1)新幹線の方が安上がりだと思います (2)新幹線の方が安上がりかと思います (3)新幹線の方が安上がりかと 他にも言い方はあろうが、この3つのうち読んで心地良いのは(1)である 断定している一方「思います」で謙虚味を醸している かとで終える人は質問相談のその分野には詳しいようだ だが、真の専門家は決してかとで終える答え方はしない
1月31日(火) スマートフォン私記
憧れのスマートフォン 指先で展開したり繰ったりの操作にはちょっと惹かれる でも問題多発のスマートフォン 本人が使ってないのに勝手に通信しているという話だから、多くのスマートフォンファンにとっては全く意外な展開になっているのではないだろうか ちょっと不気味だ スマートフォンは私には今のところ用のないものだけれど、ひとつだけ言いたいことがある
それはスマートフォンと書いておきながらカッコしてスマホと略語を記す慣習についてだ スマートフォン(スマホ)… 何でこうなるのか スマートフォン(スマフォ)ではないでしょうか だってGoogleでスマートホンと検索すると、大きな文字で「もしかしてスマートフォン」などと、無知を叱られるんだよ だからきっとスマートホンじゃなくてスマートフォンが正しいのだろう
ネット上にはスマフォと呼ぶ正しい人も結構いるようだが、新聞TV雑誌などの表記は、私の知る限りスマホになっている スマフォとスマホは、音数は同じだが、字数が異なる より字数を少なくという要請があって、スマホになったのかも知れない そこで私の提案だが、スマートフォン(スマン)はどうだろう わかりやすい謝罪会見 スマンに通信障害が起きてスマン
2011年
12月26日(月) 日本人でよかった
仕事上の必要で「Asahi Weekly」という英字新聞を取っている 時々、変な言葉に出くわす 英語でいちばん変な言葉 それは「approximately」だろう 「約」に当たる言葉だ 英語でも「yaku」って言えばいいのに、「approximately」だ 恐らく私も大学受験当時には覚えていたんだろう 私が忘れるくらいだから、アメリカ人はもっと忘れるに違いない^^;
普通は「about」「around」で済むだろうし、事実「Asahi Weekly」の記事では「about」を使う記者や筆者が多いようだ 私が読むのは初級からせいぜい中級レベルの一部だけであり、上級の語彙頻度は全く知らないが、「approximately」を使うのは、記者ではなくて依頼されて記事を書く外部ライターかも知れない 初級中級レベルに合わない語を平気で使うわけだから
ネットで調べると、使い方に多少の違いはあるようだが、どちらを使っても通用するようだ それならなぜ「approximately」は淘汰されないのだろうか また、そもそもアメリカ人やイギリス人は「approximately」を書けるのだろうか 非常に疑問である それともこの語は自分が知識階層にいることを示す知識人言葉なのだろうか 日本語のある種の言葉のように
11月23日(水) 語り芸三様
昨日、中日の落合監督が退任の記者会見を開いた 相変わらずボソッボソッとした口調で、ときに皮肉めいた言い方をしては記者たちを喜ばせていた …と思った矢先、落語家の立川談志が亡くなった 落合と談志、何となく似ている 風貌も語り口も… 二人とも皮肉めいたことをよく言うが、言ってることは真っ当なことが多く、珍しいほど虚飾というものが感じられない
20年ぐらい前、談志の落語ビデオの販売広告を見て即座に買ったことがある なぜ買ったかというと、弟子の誰かの言葉として紙面の片隅にこう書いてあったのだ 「師匠の気が変わらないうちにどうぞ!」 見事なキャッチコピーだった 立川談志、気が変わりそうでホントに気が気じゃなかった^^; あのつまんなそうな語り口で、気がついたら何度も笑わされていた
もうひとつ、語り口ということで書いておきたいことがある 3ヶ月ぐらい前に聞いたラジオドラマ「私本源氏物語(原作・田辺聖子)」だ このドラマには笑った 傑作である 先程偶然にそのHPと出会い、私が聞いたのは再放送で、しかもその後また再放送したことを知った 芸術祭で賞を取ればまたやるだろう 京本政樹がこういう腕前を持っているとは知らなかった
10月22日(土) 久々の一句
秋蝶や瓦礫の端の水溜り
先日江戸川土手を自転車で走っていたら、おびただしい数の蝶々がひらひら舞っていた 色も様々で、いったいどうしたのだろうと思った 私自身、秋に蝶を見ることはあまり多いわけではないが、俳句を作るようになって秋に蝶が出るのは必ずしも珍しいことではないことを知った
俳句を作るようになってと書いたものの、冒頭に掲げた句は、久しぶりに浮かんだ一句だ 当HPの俳句ページ(句帳)も既に片隅に移動させたほど、ここ数年は俳句が浮かんでこない 昨年、一昨年と一応はいくつか掲載してはいるが、以前に比べ無理矢理作った感が強い 詩に至っては最後に形をまとめてアップしてから4年半近い 詩関連の書籍も多くは捨てた
兵士らは小さき靴に合掌し 無季になってしまったが、まァいい
冒頭の句の「瓦礫」という言葉は、もはや大震災とのつながりを思い起こさずにはおかない 瓦礫なる言葉は、特定の瓦礫を指すものではないだろうに、3月11日以降はどうしても特定の映像に結び付いてしまう 時が経てば薄れるものなのか、もう分かち難いものなのか…
9月13日(火) まちまちな町
経済産業大臣辞任のことを書いていて「死の町」だったか「死の街」だったかと気になり調べたら、朝日新聞では意外にも「死のまち」になっていた 特殊な表記である 記者会見の際にこの表記の会見要旨が配られていたのだなと思った そうすると、それを書いたのはスタッフか経産省官僚かという問題になる 本人が書いたとしても周囲がチェックするはずだし…
しかし違った 各新聞のオンライン版では、「死のまち」「死の町」両方ある 言葉としては単純なものなのに、報道会社ごとに表記が違うのはかなり興味深い 何の疑問もなく「町」と書いた私のように、普通は「まち」ではなくて「町」を使う 「まち」と書いた報道会社は、「町」と書くと特定の町を想起させる恐れがあると考えたか だが、「まち」という表記は浮いている
失言大臣の脳裏では、映画や物語の「世界破滅ストーリー」の1シーンと重なっていたのかも知れない 「死の町」というのはそういうシーンでよく使われるものだ そういう所でのみ使われるというべきか 前回、あの発言が「感想」だと書いたのは、「死の町」という表現が、虚構作品の内部でセリフやナレーションとして、あるいは虚構作品自体を語るときの言葉だからだ
7月15日(金) 個の時代
戦後65年、日本国憲法と教育基本法のもとにあって常にそしてひそかに続けられてきた教育の水脈がある それは言うまでもなく「個を重んじる」教育ということだ あまり上手くいったとはいい難い面のあることは否定できないが、たとえ成功事例とは言えなくても、個を重んじない教育を受けるよりは、比較できないほどの自由な発想を子どもたちや私たちにもたらした
その最大の成果のひとつが、何にでも個をつけて表す怠惰な表現の蔓延である 「1個前の時代」…平成のひとつ前の時代の話になったとき、こう言う子どもがいた 「電車2個行っちゃったよ」…駅で待ち合わせをしていてずいぶん待ったのだろう、こんな言い方で遅れた相手を責める青年を見た これほどまでに個が重んじられた時代は本朝開闢以来初めてだろう
鉛筆は1本2本で、本は1冊2冊、ノミは1匹2匹で、象は1頭2頭 詳しいことは知らないが、英語ではこういう言い方はしない たんに one pencil 、two pencils のように言ったり、場合によっては one とか two で済ませるだろう 1個2個で済ませる簡略傾向は英語から来たのだろうか… 私には何となく「関西系お笑い芸人」が絡んでる気がしてならないのだが
2月11日(金) 0120で流行るモノ
電話をかけて「お電話ありがとうございます」というフレーズを聞くようになって久しい 電話応対界を席巻しているといっていいだろう このフレーズに続いて「サザエ&カツオコーポレーションオールジャパンシステムズオペレーションセンターのイソノでございます」という、うら若い(と思われる)オペレーターの自己紹介があるから、こちらもやや緊張気味にならざるを得ない
で、たいていは「サザエ&カツオコーポレーションオールジャパンシステムズオペレーションセンターですか?」と、間が抜けたことを聞く羽目になるのだ 私が聞きたいのは、これから買おうとしていて、でもよくわからないことがあるので、というケースが多いのだが、どうもダイレクトに質問させて貰えない 仮に質問できたとしても、別の部署に回されてまた同じやり取りだ
電話の応対はたしかに難しい しかし「お電話ありがとうございます」は要らない ビジネス書の邦訳で「Thank you for calling.」が「お電話ありがとうございます」となっていて、それがひとり歩きしているのだろうか ビジネス界における「Thank you for calling.」の正しい訳は、「はい、○○です」の後に続く、相手の身になった親身な受け答えのほかにはない
2010年
8月20日(金) 朝日にあたる家
≪総務省消防庁がまとめた全国の熱中症による死者は5月31日から8月15日までで132人。昨年の7〜9月の16人を大きく上回り、このうち東京都の死者数は1人となっている 一方、東京都監察医務院によると、東京23区内で熱中症で亡くなったと確認された死者は、梅雨明けから8月18日までの約1ヵ月で111人と、過去最高を更新した
消防庁の統計は、搬送後の初診で医師が死亡と判断した場合に限られる 搬送前に亡くなった人や、搬送数時間後に熱中症による死と判断された人は含まれていない いわば氷山の一角だ≫ 以上は今朝の朝日新聞東京版1面の文章だ この文章を一読して、これを書いた記者が何を伝えたいのかが、スグにつかめる人はあまりいないであろう
総務省消防庁と東京都監察医務院の統計数値に大きな差があることを伝えたいのなら、2行目の「昨年の7〜9月の16人を大きく上回り」は全く不要である この部分があるために比較対象が増え、文意を把握しにくくしているのだ ≪総務省消防庁がまとめた全国の熱中症による死者は5月31日から8月15日までで132人。このうち東京都の死者数は1人となっている 一方、東京都監察医務院によると、…≫ どうだ朝日、わかりやすいだろう(^○^)
2008年
4月14日(月) は?2
助詞「が」と「は」の使い方の違いなら、私にもよくわかる …というよりも、意識したことはないけれど使いこなしている 「私が行きます」は、「私」を特に言いたいのであり、「私は行きます」は、「行きます」を特に言いたいのだ 前回も書いたが、私が理解できないのはもっと素朴なこと 主語を作る助詞が、2つのカテゴリーに分類されていることの理不尽さだ
「が」「は」のほかにも、「私も」の「も」、「私すら」の「すら」、「私こそ」の「こそ」など、主語を作る助詞は数多い そして「が」以外のものは皆、副助詞として分類されていて、「体言(名詞)にくっついて意味を添える」などと説明されることが多い そうすると、格助詞である「が」は、主語を作るけれどもさしたる意味は添えないのか
「誰か行ってくれる者はいないのか」「私が行きましょう」 この場合、「私が」の「が」には、実に大いなる意味があろう 誰も行きたがらない所へ行く心意気が、強く感じられるではないか 日本語では、主語を作る助詞が何故ひとつのカテゴリーにまとめられないのだろうか 少なくとも「は」は、主語を作る場合は格助詞「が」と同類扱いでいいのではないだろうか
3月30日(日) は?
今日の朝日書評欄で、助詞「は」に関する本が紹介されていた それを読みながら、つくづく思った うまく言語化できない漠然とした疑問、ふに落ちない感覚、どっちつかずのままの迷いに満ちた態度、自分の中にあるそういう幾つもの弱みは、実はもっと自信をもっていい疑問・漠然感・迷いだったのではないかと… 私は助詞「は」が、どうしてもわからなかったのである
助詞「は」は、助詞「が」と同じように、主語を作る働きをもつ しかし、「が」は格助詞で「は」は副助詞なのだ いや、別に何助詞でもいいんだよ いいんだけど、呼び方に一貫性がないではないか 特に英語を習っている中学生にシメシがつかない 英語では、例えば「I」は「私は、私が」と訳し、それを主格と呼ぶ この「格」は、「格助詞」の「格」とは無関係なのか
国文法において、「私は」の「は」が副助詞に分類されるのはなぜなのか 以前、そういう思いに駆られたことがあった しかし私が理解できたことはごく少なく、子どもたちにうまく説明できないままだった 今日の書評によると、助詞「は」は、本居宣長の時代から国文法上の大問題だったらしい 私がわからないでオロオロするのも当然であった(^○^)
2月14日(木) 牛は来るか
洗い物をしていた時だ 突然、脳裏に「牛が来るまで待とう」という言葉が浮かんだ 牛が来るまで待とう これは一体何だ その直前の行動や思考のどこにも、牛とのつながりなどなかった まして私には、わざわざ来てもらうほど牛との付き合いはない もしかしたらこのフレーズは、以前読んだ誰かの詩の一節なのか いや、こんな妙なフレーズは記憶にないぞ
そもそも牛が来るまで仮に待ったとして、その後何が始まるんだろう そこがわからない 牛が来るその時まで何かを耐える決意 何に耐えるのか それもわからない かつて牛が来るのを待った人は存在するのだろうか 牛が来るほどだから賢者や世捨て人のような人だとは想像がつくが、そういう人がいれば少しは安心できるというものだ
あるいは私の見当違いで、正しくは「牛が車で待とう」であったかも知れない そうなるとますますわけがわからなくなる わけがわからなくなりついでに、もしかしたらもっとわけがわからない「ウシガクルマで待とう」の可能性も否定できない ウシガクルマが何処にある地名かは知らないが… こうしている間にも、刻々と牛が近づいて来る 心配だ
2007年
9月13日(木) 忘れ得ぬ英文2
またやってしまった 先日書いた2文、Nobody loves me. と、What's the matter with you? が、知らずして安倍首相の辞意表明を予見していたとは… たんに記憶に残る2つの英文を、来し方を顧みつつ行く末の励みにと書いただけなのだが、私の思いをはるかに越えて、政局の激動を暗示していたのだった^^; 何も知らなかったから予言ではないが
Nobody loves me. 支持率低迷と参院選大敗による党内孤立 What's the matter with you? 通常ではあり得ない局面での退陣 参院選大敗直後には想定していなかった健康面の問題が、外遊を機に隠しようもなく表面化してきたということだろう 手をつないで夫の脈を測るほど健康を気遣ってきた昭恵夫人が、泣いて「もうやめてくれ」と言ったのだと思う
しかしいちばん想像できるのは、外遊中に党内でクーデターが起きていたということだ 帰国したら四面楚歌だったのだ 今回、どのメディアにもコメントや動静で名前の出ない有力者が幾人かいる シナリオは彼らが書いたのではないだろうか 参院選大敗後に辞任すべきところを、「この外遊まで」と区切りをつけてわがままをさせた 案外真相かも知れない
9月10日(月) 忘れ得ぬ英文
なぜそれだけを覚えているのか、興味あるフレーズを2つ 大昔に習った中学英語教科書に載っていた、とっておきの(?)2フレーズだ ひとつは「Nobody loves me.」というもの 他のひとつは「What's the matter with you?」というもの 前者はアメリカの少年更正施設「少年の町」創始者フラナガン神父を題材にした話 後者は怪談「むじな」の一節だ
ほかの文は全く覚えていないから、この2文はよほど自分に引き寄せて考えさせる内容をもつということなのだろう Nobody loves me.は、少年の町で暮らすようになった「元不良少年」が、過去を振り返って語った言葉だ 私は不良少年では全然なかったけれど、このひとことが表す何かが心に刺さったのかも知れない 当時私は、誰にも心を開かなくなっていったから
What's the matter with you? の方は日常よく使われるから覚えていても不思議ではないが、私は日常生活に英語は全く使わないし使ったこともない これを覚えていること自体、やはり何か深いワケがありそうだ 「おまえ、どうしたんだ」と誰かに言ってほしかったのだろうと、今は推測できる それほどに、14、5歳の頃は周囲に脅え将来に脅えていた
6月14日(木) へい、お待ちィ!
「いらっしゃいませこんにちは」という挨拶が困るのは私だけだろうか 数年前に初めて耳にした気がする 札幌や名古屋、大阪、福岡などの事情はわからないので、もしかしたら関東南部限定かも知れない 店に入るなり「いらっしゃいませこんにちは」とやられると、私の頭はおおいに混乱する 普通「いらっしゃいませ」に対しては「はい、来ましたよ」と、何となく思うものだ
それに加えて「こんにちは」が覆い被さるから、「はい、来ましたよ、おっと、こんにちは」などと思考回路が働くことになる 親しい関係でもない限り、言葉にはしないけど、頭の中では挨拶系回路が働いているのだ いったい誰が始めたんだ、「いらっしゃいませこんにちは」などという長ったらしい出迎えの言い方を… すし屋魚屋なんか「らっしぇい」「へい、お待ちィ!」だぞ
朝は「いらっしゃいませおはようございます」なのだろうか 言葉に限らずあらゆる事象が短縮簡素化されるのが日本文化の特色だから、「いらっしゃいませこんにちは」は日本人の心性からは出てこない 欧米系あるいはアジア系企業の接客マニュアルから始まったに違いない この過剰な挨拶は日本人には合わない そもそも、笑顔の「いらっしゃい」で何が悪いんだ?
2月23日(金) 男の敵は男性だった
ときおり目にし耳にもするニュースだ
「6日夜、○市△町の路上で男性が鋭利な刃物で刺されて、死亡しました 事件当時、血の着いたナイフを持って現場から走り去る男が目撃されています 警察では、この男の行方を追うと共に、死亡した男性の身元確認を急いでいます」
容疑者とされる男は男性と呼ばれず、被害者の男性は決して男と呼ばれない 事件事故の報道では、「男」は容疑者を表す表現であり、「男性」は被害者を表す表現である(女、女性も同様だ) 報道では、「性」という接尾語が丁寧さや人格畏敬を表しているのだ 私の知り得る全てのメディアがそうだから、そういう取り決めがあるのかも知れない 珍しい用語実例だ
上の例を逆にしたらどうなるか 「警察では、この男性の行方を追うと共に、死亡した男の身元確認を急いでいます」 死亡した男は、さぞや悪いことしていたんだろうと、申し訳ないけど納得できる また、走り去った男性に対しては、よくよく深い事情があった上での犯行なのだなあと、同情を禁じ得ない メディアにおける性の扱いが、私の中で見えない差別を生むようだ
2006年
10月22日(日) からからの話
二十歳前後の女の子が、はっきりしない男の子に向かってこう言うのは日常なのだろうか 「絶対、信じてるから」 ここで問題にしたいのは「絶対」ではなく、「から」の方だ 私が二十歳前後の頃には、そういう言い方は絶対存在しなかった 言うとしたらこうである 「絶対、信じてるから、学食で待ってるよ」 「から」何なのだと続けるのが普通であった
善意の人が、やむにやまれぬ事情から罪を犯し、刑務所に入ることになったドラマの定番シーンはこうだ 連行される後姿に向かって妻が(夫でもいい)叫ぶではないか 「待ってるから みんなで待ってるから」 待ってるから何なのだ いや、わかる 待ってるから安心して罪を償ってきてとか、待ってるから元気でいてとか、そういうことなのだろう
誤解してるのか私は… ここで使われる「から」は、「から」何だと後へ続くのではなく、本来「絶対、信じてる」で打ち止めになるところを、何か間(ま)がもたない雰囲気を覚えてつい言ってしまった、そういう種類の「から」なのか 仮にそうだとすると、「千円からお預かりします」の「から」よりも、ずっと深刻な問題を孕んでいる気がするから
10月10日(火) ウイルコムの悪文
少し長いが、約1名の被害者が出ているσ^^;ので、看過できず載せることにした
<これまでご利用いただいておりました「Pic@nic」は「My WILLCOM」と統合いたしました。つきましては、以下より「My WILLCOM」への移行手続きをお願いいたします。なお、以下のかたは、「My Roomキーをお持ちでないかた」より、新規会員登録のお手続きをお願いいたします。
・請求照会アクセスキーはお持ちだが、My Roomキーはお持ちでないかた ・My Roomキー、請求照会アクセスキーともにお持ちでないかた
すでにウィルコムストアの会員のかたは移行していただく必要はございません。…(以下略)>
ウイルコムは携帯PHSシェア4%だから、上掲の文章を読んでもそれが何を言ってるのかわからない人が殆どだろう ユーザーである私は数行読んでわかったつもりになり、手続きしようとして失敗、完全ロックされてしまった 「すでにウィルコムストアの会員のかたは移行していただく必要はございません」 肝心なことを最後に書く、悪文の典型だ…←言い訳の典型か^^;
不特定多数相手の依頼文では、冒頭で該当者と非該当者を「振り分ける」書き方が望ましい 世の中には、書いた人が思いも寄らぬほどに愚昧な者がひそんでいるものなのだ(爆)
7月20日(木) ●●●について
やまだに「ドレレ」と旋律をつけると「山田」であり、「ドレド」だと「山だ」なのだ 「レドド」は、「ヤマ」という愛称の人を指すだろう 「あれは?…ヤマだ!」
「ドレレやドレドのパターン」を●●●、●●●のように表すことにする
携帯電話用語の「ショップ」について、「ショップ」を連発するビックカメラの人に聞いたことがある その人はこういう風に言うのだった 「それはショップじゃなければできないですね」 連発される「ショップ」は、何度聞いても●●●であった もう1度言わせて確かめようと、わざとつまらぬ質問をしても、返ってくるショップは●●●なのだ
いつのまにか●●●というイントネーション(抑揚)の「ショップ」が日本を席捲しつつあった 携帯電話用語としては、既に●●●は全国制覇を遂げたのではないだろうか
かつて「チーム」に似た現象が起きたとき、若者の言語感覚と結びつける解説者が結構いたが、私は違うと思う 例えば「キャップ」だ 老若問わず●●●が多いのではなかろうか
4月5日(水) やわらかな0
3、2、1、0 左の数字を、今あなたはどう読んだだろうか 「さん、にぃ、いち、ゼロ」と読む人が多いのではないかと想像する とくに意識しなければ、たぶん私もそう読んでいたはずだ しかしこの読み方はかなり変だ スペースシャトル打ち上げ時の管制コールで「スリー、ツー、ワン、れい」とコールしたら変なのと、寸分の差なき等しさにおいて変なのだ
JRでは、「0番線」をもつ乗り換え駅が少なくないが、「ゼロ番線へお廻り下さい」のようにアナウンスされている 数学の数直線は、数の読み方自体「プラスいち」のように読むから、そもそも和英混在だが、多くの場合原点は「ゼロ」と読む 言語統制のあった軍国日本においても海軍は別格だったせいか、「零式艦上戦闘機」は、当時から通称「ゼロ戦」と呼ばれていたそうだ
もちろん「ゼロ」と言われるのを断固拒絶するモノもある テストだ 「れい点」という恐ろしい呼称が「ゼロ点」に変わる日は、決して来ないだろう 「れい点」保持者は「ゼロ戦」賛美者よりも忠義だと、言えなくもない^^; 時刻の零時も普通は「れい時」だ いや、世の中にはもっと頑固な0もある 「ゼロ」とも「れい」とも呼ばれたくない0 渋谷109の0は「まる」だ
3月21日(火) 古いについて考える
古いということにも2つの側面がある 「古くて役に立たない」というように使うときの古いと、「古いけれども大切だからとっておこう」というときの古い 放っておけばゴミの溜まり場となる生活あるいは人生 捨てなければならない古さに対し、ときには敏感さも必要だろう
一方で、古層となり日々しまわれていく「大切なもの」としての古さがある 生きる上で忘れてはならないものの大半が、たぶんこの「古層」に属する 例えば「道は歩くためにある」は私にとってひとつの古層を成している 道の始まりは「歩く」ことだ これを忘れてはならない
(古いキャラで恐縮だが、金八先生ならこう訓戒を垂れたろう) 「古」という字は、神の冠(かんむり)を表す象形文字です 「古」は、そもそも「大切だからとっておく」という意味が始まりなんです 古いから捨てるという使い方は、ずっと後になってできたものです PSEマークにこだわる経産省の皆さん、古いから捨てていいという発想は、どーぞ捨てて下さい
2005年
8月23日(火) わからない言葉3
小学生の頃、好きな女の子がいて、そういう子を何と言うのかわからない 散々考えた挙げ句、「愛人」という言葉を造語した(爆) しばらく使ってた(爆c爆)
「愛」は知っていても「恋」は知らず、仮に「恋人」と書いてあったら「へんじん」と読んだであろうほどの、バラバラな知識
「愛人」が既にある言葉で、しかもコドモ界の人には縁のない言葉であることは、後で知った それ以来私は、「愛」という言葉を封印したのである この言葉は危険だ、うかつに使ってはならないと、子供ながらに感じた
さらに宗教や哲学の本を読むようになると、「愛」そのものの定義に人類が二千年以上悩み続け、それを巡って死闘すらあったことがわかり、極めて厳しい言葉なのだと、封印のひもをますますきつく締め直すこととなった
もう封印を解いてもいい頃かと思うが、ひもの解き方がわからなくなっている〜(/・o・。)/
8月22日(月) わからない言葉2
「愛」という言葉は、生活言語としては成り立ちにくい それなのに、「愛」に対する感覚(センス)が広く共有されているかのごとく、おとな界では普通に用いられている 「お母さん、お子さんをうんと愛してあげて下さい」のように どうしろと言ってるのだ…
せめて、「うんとかわいがる、うんとなでてあげる」と言ってほしいものだ
「愛」は言葉の意味するところが広過ぎて、聞く側はそれをTPOに合わせて^^;翻訳しなくてはならない 「愛」「愛す(る)」は、個別の生活現場における心の様を示すものとしては、どうしても馴染まず、使いにくいのだ
もしかしたら江戸期以前の日本では、「愛」とか「愛す」1語で使われる用例は、生活上でも文芸でもそれほど多くはなかったのではないか 日本人には、愛着、相愛、郷土愛のような熟語や、愛くるしい、愛らしいなどの複合語の方がわかりいい 少なくとも私はそうだ(^_^)゛
8月21日(日) わからない言葉
(1)かわいがりいつくしむこと(ふむ、これは慈悲とか慈愛だな) (2)恋(えっ、ホント?!) (3)価値を認めて大切に思うこと(ウーム、敬愛、愛惜か)
これらは、手元の辞典で「愛」の項目にある説明だ
「愛」という言葉には、よくわからないままでも付き合いを強いる世俗パワーがある 最近は子供でも普通に使う言葉だが、私は語の意味がどうしても身にならず、使わないことにしている 当サイトは言葉中心であるにも拘わらず、「愛」が単独で使われている場所はない(はずだ^^;
(2)恋と同義なのは特に不可解である 恋は恋でしょうo(〃^▽^〃)o♪ 連動する心性かも知れないが、少なくとも同義ではあるまい
(1)かわいがりいつくしむことを「愛」というのか… 慈悲の方がいいな 私にはストンとくる
6月22日(水) 大言壮語
梅雨なのに少雨カラ梅雨、といって晴れるわけでもなし、パッとしない いつもは言えない大きなコトを、こんな時にこそ言ってみよう
「私のカネは今世間を往来している」
ブラボーでべラボーな貧乏の中でしか掴み得ない究極の言葉だ(^○^) 「私のカネは世間様に貸してある」という変形バージョンもある どちらもいちおう自作のつもりだが、いにしえの昔から貧乏なひとは連綿と続くのだから、誰かが既にのたもうているであろう
「富士山が頭下げてくるまでは富士山に登らない」
なぜ山に登るのかという有名な問いがあるが、そういう人生ばかりではない なぜ山に登らないのかという問いが必要な人生もある どちらかというと言い訳だが
やはり自作のつもり これはたぶん実際にそうであろう 唯一のモンダイは、富士山が頭下げてくる時っていうのが、噴火・崩落を連想させてしまうことか^^ゞ
5月29日(木) 最近の朝日から
月末になると朝日新聞に「最近の言葉から」が載る 記事ジャンルや有名無名を問わず、良くも悪くも印象に残る発言の再掲である それにならって「最近の朝日から(いずれも東京版)」
国産人工心臓 初の手術 こぶし大(26日朝刊・見出し)
こぶし大…どこにある大学だか、なかなかいい名前だな^^; …こう思うのには深いわけがある
心臓手術で真っ先に連想するのは、1968年札幌医大の「日本初」の心臓移植手術である その手術の是非はさておき、当時高校生だった私と同世代以上の層にとって、「心臓手術」と「○△大」は、「心臓手術」と「大学名」として分かち難く結びつけてしまうのだ
野菜充実 より「便利」(27日夕刊・百円ローソン開店の見出し)
野菜充実より「便利さ」を優先する… _(・。・;)ゞ 「充実」と「より」の間が、狭いのである
野菜も充実していて、従来のコンビニより便利になる そういう意味なのだろうが…
5月22日(日) 新聞記者に挑む^^;
朝日新聞から一部引用する(22日朝刊・東京版社会面13版)
「東京都港区六本木6丁目の複合施設「六本木ヒルズ」のブティックで働く店員が強盗に襲われたと装って店の売上金を盗んだとして、警視庁は21日までに、○△区(以下住所)の○△容疑者(年齢)を窃盗の疑いで逮捕した」
この文章のわかりにくさの主因は、誰が・どうしたというポイントに辿り着くまでに、延々と修飾語句を連ねているところにある
しかもその長い修飾語句の中ほどに、文全体の主語を予想させる「店員が」があるのだ 文全体の主語は「警視庁は」なのだが、呑み込むのに時間がかかる
あまつさえ、「襲われた」り「装っ」たり「盗んだ」のは店員だが、「襲われたと装って…盗んだとし」たのは警視庁である つまり、「として」までの修飾部全体を警視庁の行動として読み取るべきことに、読者はここで初めて気がつくことになる
なおかつ、その長い冒頭修飾部が修飾するのは文末の「逮捕した」 不安定な文構造である
加えて、1文中で同一人物を「店員が」と「○△容疑者を」の2通りの表記で示し、別の要素(太字に注目)として用いているのも、わかりにくくしている一因であろう
3月31日(木) 塩こしょうして…
塩こしょうするって、おもしろい言葉だ NHK料理番組を見ていて、そう思った 「塩する」はない 「こしょうする」もない 「塩こしょうする」で初めて成立する
これはまともな日本語なのだろうか 正確に言うと、NHK教育TVが許容できる日本語なのだろうか 意味が通じるという点では、何ら問題はないのだが… 意味が通じればいいということなら、「有識者」が顔をしかめる多くの「若者言葉」と変わりはないのだ
お酢しょうゆする、とか、一歩進んで(?)ネギ香りする、鍋強火する、とかはどうなんだろう 一般化はしていないが、何となくわかる気がする…ような気がする(^。^;;
塩こしょうで下味を調えておく、というのは、多くの場合、暗黙の了解になっている それで、動詞化したわけだろうが… 「塩する」「こしょうする」が存在しないのに、何故その複合名詞の動詞化したものが存在し得るのか、釈然としないのだ^^;
2004年
12月3日(金) たかが大賞
先日発表された、今年の流行語大賞というのがチョー変である
真の大賞は「たかが」ではないだろうか 「たかが選手」の「たかが」である
理由1 関係者や興味のある人のみならず、広く社会に衝撃と波紋を与えた
理由2 「選手」の部分にほかの言葉をあてて、バリエーションが楽しめる
つまり、コミュニケーションの道具として適している
理由3 頂点に立つ人が言ったから、庶民の反骨感情を永遠に刺激し続ける
理由4 来年も再来年も使える上に決して古びない
理由5 古い考え方と新しい考え方が交錯した、「時代の屈折点」にふさわしい
理由6 「tAkAgA」と、音韻上明るくて言い易い
当分は「たかが」だけで通用するだろう 紅白出場辞退?!「たかが」 (^^ゞ
11月19日(金) いま、会いに…
「アイル・ゴー・トゥー・シー・ユー・スーン」…話題の邦画タイトルの勝手英訳
やはり気合が喪失しそうだ これでは、いま、見にゆく気がしない (^。^;;
洋画タイトルがソノマンマカタカナ化現象を始めて久しい
内容を手短に、見事なタイトルに表現する労力を放棄して、宣伝文句・キャッチコピーの方をひたすら大仰にする 洋画の日本上映で、今行われているのは、そういうことである
ベースボールを野球と呼んで広めた正岡子規と周辺の人々は、その楽しみの本質が「蒼天下の野趣にある」とみたのだろう 「ベース」にこだわらない訳語ができたのは、当人たちがベースボールに夢中で、机上の訳語には無縁だったからだ
冒頭の邦画、本当に海外上演されるときは「Soon」とかになるだろな (^。^)ゞ
11月7日(日) 青空シール
「いつもそばにいるよ」「pure heart」「きみに会えてよかった」「涙を虹に変える」「all for your smile」「いつかきっと」…
これは歌詞の一部や題名ではなく、塾の子どもたちに総スカンを食ったシールである
青空の絵を背景に、これらの言葉が小さく印刷されている、明るい感じのシール
「イヤだァイヤだァ」「とんでもねえ!」「こんなのいらネ!」…その気持ち、私にも少しはわかるのだが、「だって君たちがいつも歌ってる歌によくあるセリフだぜ」とも思う
歌詞としては受け入れても、それがノートにペタンと貼ってある状況には、激しく抵抗する
とても健全な反応だと思った
思ったが、何か釈然としない感じもする おもしろい落差だ (^^;
10月22日(金) 記号より名前
記憶に残る最初の台風は、第2室戸台風である 小学3年であった
翌日、学校に来られない友だちも多く、誰々さんちに水がこのくらいまで上がった、誰々さんちの豚が流されたなどと、子どもながらに緊迫した雰囲気は、今でもよく覚えている
それは、第2室戸台風という名前のおかげであろう
仮に、「昭和36年の台風18号」と呼ばれていたら、果たして濃密な記憶と結びついたかどうか…
最近、台風の被害レベルを表す際に、「平成△年の台風○○号以来」のような言い方をする
それがアノ台風であったか、コノ台風であったか、その当時の「時代の空気」みたいなものと共に瞬時によみがえらせることは到底できない
単なるデータとは違うのである 固有の名前をつけられないものなのだろうか
H2SO4 より硫酸でしょ (^^;
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