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2013年
2月14日(木) 誠意
自分の企てた薄浅い策略が遂に日の目を見ずに終わったという経験が、私には何度もある 薄浅い策略といってもたいしたことではない 上手くコトが運ばなかったときにうっぷん晴らしをして相手をへこまそうという程度のこと 幸運にも、それがどうしても日の目を見ない 例えば宅配便が期日に来なかった 不在票も入ってない 夜遅く、近くの人が訪ねてきた
わざわざ不在票を届けてくれたのだ なぜ運送業者がうちとそのお宅を間違えたのか、どうしても理解できない 間違えようがないのだ そういうことが度々あり、いつも運送業者に連絡して(つまり電話代を使って)改めて持ってきてもらうのだが、ネットでいろいろ調べるうち、発送元に連絡した方が効果が大きいというようなことが書いてあって、なるほど気がつかなかった
それで発送元に伝える内容を事前に準備した 今までに何回もあった、間違える理由がわからない、御社が契約打ち切りをちらつかせないと改善されない等々… 考えるうちに眠りについた 翌朝いちばん 電話がかかってきた 誤配業者だ 連絡がないのでいちばんにかけたと明るい声ではきはき言われて、その誠意に薄浅い策略は雲散霧消した 甘い^^;
2012年
12月2日(日) 熊も八も忙しい
例年、12月1日になると私の活動が活発になる それはひとえに、この日が「終わりの始まり」だからであろう 終わりの始まりという表現は近年非常によく見聞きする言葉で、日本という国家の終わりの始まりとか、人類史の終わりの始まりのように使われる ただ、12月1日が終わりの始まりということに関しては、誰にも異論はないと思う 年末の始まりなのだから
で、なぜ私の活動が活発になるかというと、何をやったらいいか、何をやるべきか、とても明瞭に理解できるからである 11月まではそうはいかない 10月のカレンダーを破り捨てて11月が現れた時、あぁカレンダーが薄くなったなあという感慨に襲われはするが、それが直ちに何かの行動に移されることはまずない しかし12月のカレンダーが現れた時は、粛然とする
そして、まさに師走の名の通り、あれを済ませこれを済ませ、つまりはほぼ1年間やらずに済ませてきたいろんなことを、一気に片付け始めるという寸法だ そういえば、…という寸法だという表現を最近全く聞かない せいぜい落語や時代劇で、「…って寸法よォ」みたいに耳にする程度だ これはもう死語なんだろうか あぁ、そんな暇はない 今日はもう2日なんだから
11月22日(木) 1円玉エレジー
負けた…と思った ついにこの日が来たかとこうべを垂れた パンを買いに行ってレジで支払いを始めた時のことだ 例えば574円ですという店員さんの声に、以前の私なら迷うことなくまず4円か74円を素早く出して、その後おもむろに(…というほどでもないか^^;1000円を出す つまり忙しい店員さんが釣り銭を出しやすいように、まず端数額を出すことが多かった
それは取りも直さず、我が家の1円玉を減らすことになる 1円玉には悪いが、1円玉ほど厄介なものはない 100個たまっても100円に過ぎない 100個たまって100円というのは律儀といえば律儀だが、場所を取るだけだ だからSuicaを使えない店に行く時は、たいてい1円玉を持っていく 5円玉がある時は5円玉プラス1円玉4個 これで端数はクリアできる
しかし今日の私は惨めだった たしかに9円が入っているのだが、小銭入れの中からそれを取り出せないのだ 1円玉と5円玉と10円玉と50円玉と100円玉が入っている豪勢な(笑)小銭入れなのだが、それぞれの区別がはっきりわからず、小銭入れをごちゃごちゃとかき回してしまった 視力の衰えもあろうが、おたおたするばかりであった 私の青春は終わった…
11月9日(金) 秋の既視感
そこにそういうマンション群があり、そういう街路が続いていることは知っていた 数年前に何かふと道を曲がりたくなって、ある街角を曲がった しばらく進むとそのマンション群の周辺に出たのだ 秋であった 街路樹の黄葉が綺麗だった 黄葉はある程度は予想できたものの、マンション群の壮暗なたたずまいには驚いた 冷たく高くしんとして、厳かですらあった
心奥に宿る懐かしい場所という感じがするのだった その街路がマンション群の表側を通っていたなら、そんな感覚には襲われなかったろう 布団や洗濯物が陽に当たっているだけの、普通の明るい日常風景に過ぎない しかしその場所はたまたま裏側で、通路や階段のある冷え冷えとした面を通りに向けているのだ 時刻は昼頃 静かで、心の安らぐ空間であった
それ以来、年に1度、秋も深まる頃にその辺りを訪れるようになった 駅からそんなに遠くもなく、何千もの人間が住んでいるはずなのに、巨大なコンクリート塊と黄葉と青空に囲まれた真昼の時空は異様に静謐だ ずっと昔から、その日その場所にいることが約束されていたような、甘く刺さる感覚 少し離れた所で背を向けて歩く小さなお婆さん まるでフェルメールの絵だ
10月7日(日) シュウナカ休日
2、3日前の予報では、今日は快晴とはいかないもののまずまずの天気ということであった 電車で西に行くか東に行くか、細かいことは朝起きてから決めるとして、とにかく今いるこの場所を遠ざかろう どのみち数時間で帰ってくるんだけど、たまには足を延ばしたい 昨夜はそう思いつつ眠り、雨の音に目覚めた こりゃあ本降りだ 小さな秋の旅はおあずけとなった
この連休は体育の日が元になっているはずだが、その体育の日は今日だったか明日だったか カレンダーで確かめないとわからない今日この頃である 私はだいぶ前から、「振替休日」と「第2月曜の祝日」の区別がつかなくなった 祝日の基本形というものを小学校できちんと習った私の年代でもこうなのだ 今の子供たちが祝日の意味を知らないのも無理はない
土曜と日曜と月曜祝日で3連休というのは、私としてはありがたみの少ないやり方である 3連休よりも、週の中ほどに1日休みがある方がどんなにありがたいことか 休み中心に物事を考える私のような惰弱者^^;には、休みは「続く」よりも「パラ…パラ…と散在する」方がいい 仕事のある日も休みモードが侵食し心地よいのだ …って、それじゃダメじゃん(by昇太)
5月22日(火) 金環魂
昨日の金環日食は曇り空で見ることができなかった 同じ松戸市内でも、少し離れた所では見えたようだから、地上位置のわずかのズレで空の見え方も違ってくるということか TVや新聞などで見る金環映像や写真はたしかに見事だ しかし薄雲やむら雲を通して見る金環日食もなかなか風情がある 日本気象協会HPから拝借した3枚 侘び寂びの雰囲気すら漂う
金環日食が広範囲で見られたのは平安時代以来932年ぶりとのことだが、そういわれてもよくわからない 平安のいつ頃かと調べたら、大河ドラマ「平清盛」の始めに出ていた白河法皇の頃であった 伊東四朗がピッタリの適役だったな ドラマの中で、果たして金環日食がエピソードとなっていたかどうか… 時代考証に忠実のようだから、ひと言触れていたかも知れない
ところで金環日食にはいろいろな楽しみ方があることを、後になって知った 私がいちばん感心したのはこれである 発想がおもしろくて笑える ピンホールカメラで撮影したものらしいが、2度とできない金環魂に満ちた写真だ 日食観察メガネをかざして上を向くばかりが天体ショーの楽しみではなかった うーむ、もっと早く知っていればよかった 次は300年後か
2月24日(金) 不思議な勧誘電話
電話が鳴るので出たら、「なんとかなんとかドットコム」の自動アナウンス音声だった いかにも録音でございますという女声だ へえ〜、こういうことができるのか、と感心していたら、よくわからない何かに勧誘され始めた 人を勧誘するときは生身の声でお願いしたいものだ 初音ミクを使うとかの工夫があればもうちょっと聞いてあげてもいいけど… ハイ、さよならだ
ガチャンと切った後、ふと疑問が浮かんだ 私がその電話をずっと切らなかったらどうなるんだ 勧誘が延々と繰り返されるのか 1時間経ち2時間経ち… こちらの電話機能は完全にストップするが、向こうもストップだ それとも途中で切れるようになっているのだろうか もしかしたら新手の詐欺か 最後まで聞いたら自動入会なんていうシステム、あり得なくもない
自動アナウンス勧誘などもともと相手にすることはないが、毎年この時期になると勧誘電話がいろいろかかってくる もちろんそのすべてが生身の声で、だから私としては「今は要らないものです」「せっかくですが云々」と、断り方が少しは丁寧になる 相手にもよるが… 叫ぶように話す若輩者 言葉の語尾を捕まえて離さない手だれの者 そういうのはハイ、さよならだ
2011年
11月11日(金) パソコン処分
パソコン2台処分した パソコン・ブームの頃に買ったもので、塾に来る子どもたちに使わせていた 昨年、仕事の体制を一新したのに併せて使わなくなった ただ、処分に手間がかかる気がして、そのまま狭い部屋の片隅に1年半積んでおいた 手間というのは他でもない、データの消去である 折りに触れ消去法を調べるなどしたが、打ち毀しが最善だとの結論を得た
パソコンの筐体内部のことは、メモリー増設の際に蓋を開けた程度で、何もわからない わからないままとにかく解体して、ここに本体が入っているのだろうと思われる金属塊を取り出した 2台あるから2つ取り出した それ以外をすべて、パソコン処分のために設けられた正規ルートを通して処分したのである 既に法律ができて、自治体では回収しないのを初めて知った
正規ルートとはメーカー回収のことで、私が購入したのはiiyama製の安パソコン PC製造を打ち切ったiiyamaも、回収には取り組んでいた 私の安パソコンが引き取り品目の中に入っているのには感心した サイトから申し込み、安くはない金額を振り込むと、エコゆうパック票が送られてきた 郵便局に連絡してその日に引き取り完了 アトはPC本体の打ち毀しだ
10月8日(土) 人形を抱えて
雛人形、五月人形、応接間やリビングに飾っておいたような立派な人形… 高そうな人形たちが居並ぶのを目にして、ちょっとひるんだ ここに並べていいのか 私が持参したのは、小さな子どもが自分で作った手のひらサイズの粗末な一体だ 綿に布を巻いて胴体とし、頭には毛糸を並べて髪の毛としたもの 30年以上も前に貰った 目鼻はちぎれて私が糊で貼った
昨秋は雨で出鼻をくじかれてしまった人形供養会、今年は満を持して出かけた それにしても立派な人形ばかりだ まだ使える 見渡したところ、貧相でボロボロなのは私のだけのようだ 説明を聞くと、ぬいぐるみと同じ扱いになるようで、ぬいぐるみ集団の方へ並べられた 御祓いを受けたあと、ゴミとして捨てられるという あの子の顔が浮かび、ちょっと胸が痛い
この人形が30年以上ちょこんと座っていたのはスチール製の本棚 その本棚もつい最近処分した 60歳を間近に控え、いろいろともがいている 仕事や日常の記録類だの日記・手紙の類いなど、もはや殆ど用はない あれを捨てこれを捨てている やがて辿り着く60歳はゴール地点ではなく、もしかしたら120歳への新たなるスタート地点かも知れない(^0^)
8月7日(日) 蔵書のゆくえ
5月初旬に蔵書処分のことを書いたが、実はその後しばらく室内に積んだままだった 売れなかったのだ 引き取りに来てくれるという古本屋をネットで見つけて早速手配したが、やってきて古本の山を見るなり「旦那さん、これは全然引き取れないねぇ」ときたもんだコンチク書店め どこの家へ行っても開口一番そう言ってることが、その口調から鮮明に読み取れたほどだ
私がわずかに期待をかけていた新潮日本古典集成は、そこにある古本の山の中でいちばんダメで、店に置いても売れる代物ではないという話だった 岩波から古典新全集が出て以来、それがスタンダードとなり他は全く売れないらしい 「坂の上の雲」などの文庫本を2、3持っていったのみ 3000円 震災以降古本を出す人が激増している話など、参考にはなった
ふと「灯台下暗し」などということわざが浮かんだりして、案外地元がいいかもと、近所の古本屋へ足を運んだ 親切に対応してくれたがやはり古本界の近況など聞かされ、どうしようもない現実を直視するしかなかった とにかくもう読まない(と思われる)古本には、目の前から消えてほしい 最後はやはりネットだった 査定結果は要らない条件で送り、雀涙1400円
7月10日(日) 思われる梅雨明け
「昨日関東の梅雨明けぬとの発表あり」…永井荷風ならこんな風に記すだろうが、平成の今はそうはいかない 「昨日関東の梅雨が明けたと思われるとの発表があった」…まわりくどくこう記されると思われる 梅雨が明けたのではなくて、明けたと思われるのだ この場合の思われるは、文法用語でいう自発か可能であると思われる 9割が自発で1割が可能と思われる
先日、エアコンがリモコン操作を受けつけなくなった 昨年も夏の終わりに同じ症状が現れたが、リモコンの乾電池を替えたら直った そこで今回も乾電池を替えてみた 電池が半年でなくなるというのはいくら何でも早過ぎる気はしたが… 案の定ダメだった 液晶表示はしっかりしていて、温度設定などの操作はちゃんと受けつけるのだ 「入切」だけが効かない
量販店で、同じメーカーの汎用リモコンを取り寄せて貰った その時に対応してくれた人が、なかなか優秀な年配女性販売員で、並みの男性販売員より電気や家電品に詳しく丁寧 ちょっとびっくりした その人から「エアコン本体自体、もってもあと2、3年」と言われた 購入して今年で17年になるのだ 節電も何処吹く風の古エアコン割れて砕けて裂けて散るかも^^;
5月29日(日) スタバ亭四迷
台風2号が近づく中、朝方から少し遠出の用向きに出た 駅コンビニで缶コーヒー「ルーツ」を買い、電車に乗った 幸い帰りがけにも雨はそれほど降っておらず、この分なら慌てて帰らなくてもと、目に留まった「スターバックス・コーヒー」に入った ドトールやベックスなど他のセルフ型コーヒー店はわりあいに近くにあるので時々入るが、スタバはたぶん初めてだ
それはとりもなおさず私の住まいや行動範囲が、スタバの徹底したマーケット・リサーチに無縁の所にある証拠になろう^^; 後から知ったのだが、スタバの方法は「スタバに行こう」と思いたくなる店作りなどしていなくて、とにかく立地を最高にすることだけだそうだ 付近を通るとスタバの看板 吸い込まれるように入店してしまう立地位置のみが生命線だという話である
つまりコーヒーの味など二の次らしい 合点がいった 今日私は初めてスタバのコーヒーを飲んだが、味に疎い私ですら、飲んだ瞬間「ウグェ!…まずい」と思った これほどまずいコーヒーを売る店がなぜ評判を呼ぶのが不思議だ 調べたら上記のことがわかったのである なお、帰りの電車の中で缶コーヒー「ルーツ」の残りで口の中をゆすいだのは言うまでもない
5月22日(日) 足腰鍛錬の友
駅ホームの昇降はほぼ必ず階段を使う エスカレーターなどはまず使わない そこに100人エスカレーターを使う人がいて、私ひとりが隣の階段を上がるというシーンも数知れずあった 意地ややせ我慢ではなく、使える足腰はちゃんと使いたいのだ そういう気持ちでいてもどんどん足腰がへらへらになってくる今日この頃 最近その加速度が増して、危機感を持っている
というわけで足腰鍛錬運動柔軟運動を今日は1時間半やった 普段は30分ぐらいでお茶を濁すのが常だが、今日の決意は固かった やる以上は音楽だ バックに流す曲目で長続き度がかなり違うのだ まずクリスタ・ルードヴィヒ(メゾ・ソプラノ)によるマーラー「亡き子をしのぶ歌」 長続きの始まりだった もともとルードヴィヒが好きで、不思議なCDも持っている
本来は男声独唱用の「冬の旅」(シューベルト)を、メゾ・ソプラノで歌った逸品というか、変品である 鍛錬2曲目はモーツアルト「ピアノ協奏曲23番」 3曲目はハンガリーの作曲家コダーイの「ハーリヤーノシュ」で、滅多に聴かないが随所に使われるツィンバロンという楽器がおもしろい 私も拙作「パンを届けに」で使ったが、そのことは全然知られていない^^;
5月2日(月) 蔵書大処分2
本がまだ押入れの奥深くにもあることを思い出し、今日も蔵書大処分を続けた そもそもこんなに量が多いとは思わなかった 10年ほど前に一度処分を決めたことがあり、紐で縛って資源ゴミとして出した気になっていた 実は押入れの中に入れてしまったのだ 後でやろうとでも思ったか 見えない所に置くのは、本の場合は避けるべきだな 結果として何もしない
今日もわずかな数だが手元に残し置く本を選んだ 「星を継ぐもの」(J.P.ホーガン) SF小説の大傑作だ SFに傑作はたくさんあるが、これは人類の来し方を考えさせて別格 骨格の立派な堂々とした作品だ 司馬遼太郎「空海の風景」 司馬にもおもしろいものは数多くあるが、二百年後に古典として読み継がれているのは「空海の風景」だけのような気がする
手放すことにしたもののうち、神田辺りの古書店ならまァ買ってくれそうなのは「新潮日本古典集成」のいくつかだ バラで買ったのであまり歓迎はされないだろうが、邪険にもされまい 「平家物語」「方丈記・発心集」「芭蕉文集」だけは残して、あとは処分することにした おっと、「更科日記」も残しておこう いや、いかんいかん! 蔵書大処分に情けは禁物じゃ
5月1日(日) 蔵書大処分
段ボール10箱分ほどの古本を整理した 所蔵本の90%になるだろう とにかく身軽になりたい いつかまた読もうと取っておいたのが30年40年経っても手付かずだ あと何年生きられるかわからないが、段ボール10箱分も本を読む日々が待っているとは思えない 我ながらほとほと愛想が尽き、自分に有無を言わさず処分することにした ごく一部を残して…
残したもので最古の本は「バンのみやげ話」(石森延男) 人生で唯一、何度も何度も読んだ本だ 60年代の世界状況の中で小学生向きに書かれた稀有なお話 もう読まない気がするが捨てられない 北杜夫「楡家の人々」も残した こんなおもしろい物語は初めてだった いまだにこれを超えるものに出会っていない これももう読まないだろうが捨てられない
残したのは物語ばかりではない 「稲作以前」(佐々木高明)という本 人生で唯一、始めから終わりまで鉛筆で線を引きながら読んだもの 今では定説となっている縄文時代の稲作説を早くから唱えていた本だ 興奮した私の目からうろこが何枚も落ちた 到底捨てられない ほかには「夜と霧」「赤毛のアン」… どう見ても並べるのがヘンな取り合わせだが…
3月8日(火) ドリップオン2
ドリップオン式というのはアイデアとしてはあり得る形態だろうが、多くの製品は使いづらい 工夫過剰のあまり、あるいは無神経のあまり、コーヒーを味わう前にかなりのストレスを味わうことになる カップにかけにくい、かける仕方がわからない、どこを折るのだ… 製品ごとに工夫の凝らし所が違うから余計身につかない こういうモノに業界基準を言うのも変だが…
お湯の分量の目安もつけにくい 挙句の果てにはお湯を溢れさせてしまい、がっかりということになる 前回書いた一部の割安品を除いて、有名メーカーのドリップオン式コーヒーにはどうもそういった扱いにくい傾向がある 市場に出回っている成熟度はかなりのものだろうが、そのわりには出来損ない商品といってもいいと思う それでも忙しい時には大変ありがたい
コーヒーらしいモノを飲むことができるからである 緑茶でもなく紅茶でもなく、コーヒーでなくてはならない場面があるのだ その逆もある コーヒーではダメで、緑茶でなくてはならない場面というのもある ところで前回、喫茶店のことを書いたが、コーヒーを飲むのにもうひとつ好きな場所があった 新幹線の中である 車内販売の紙コップコーヒー あれはいい^^
3月5日(土) ドリップオン
コーヒーは喫茶店などでのんびり飲むのがいちばん好きだ ごく稀に街へ出かけた折りは本来の目的とは別に、駅を降りたらコーヒーを飲めそうな店に目星をつけておいたりする しかし最近はいわゆる喫茶店らしい喫茶店が少なくなってしまい、都心の駅前ですら探すのにひと苦労する有様だ 儲からない商売なのだろう 好きでなければ続けられないに違いない
コーヒーは好きだが、銘柄や淹れ方にこだわりがあるわけでは全くない というよりもまるで節操がない インスタントの安売りがあれば買いに走るし、レギュラーコーヒーは豆ではなく既に挽いてあるものを買ってるし、ドリップオン式のもよく飲んでいる その時々で、どれもおいしかったりまずかったりする 総じてドリップオンは、安い物の方が味わい深いから不思議だ
あまりにも安いのはたしかにまずい また大手数社のドリップオンははっきり言って使いにくいものが多く、工夫過剰の欠陥商品と思えるものすらある 一方スーパーなどの自社ブランド品や、仕事でいろいろ購入することのある事務用品通販会社の自社ブランド品は、なかなかのめっけ物であった 共通しているのは、どちらもカップへの掛け方が単純で使いやすい点だ
2010年
10月9日(土) 小さな人形
残念! いつもより早く起きて、しかるべき支度に取り掛かろうとした矢先、雨が降り出した 昨夜の予報では午前中は持ちそうなことを言っていたから、いよいよ年来の願いを果たすことにしようと、今日この日を迎えたのだが、また1年お預けだ 手のひらに乗るような小さな人形1体、供養をしてくれる寺へ持っていくつもりだった 今日がその供養の日なのだ
今のところ小雨だから、戸外での供養式典は行われるとは思うが、行く気を削がれた …というよりも、何となく行くのがイヤだという気もあったのは事実 その人形というのは、昔まだ若かった頃に小さな子どもがくれたもの ものを教えることの難しさ、思うようにいかない現実に悩んでいた最中、無邪気に明るく「ハイ、これ」と、ポンと手渡された、忘れがたい人形なのだ
以来ずっと、初心の証しみたいな感じで、本棚の隅などに置いておいた しかしもうすっかりボロボロで、初心だの何だのと言ってる場合でもなくなってきた 人形というのは持ち主の身代わりみたいな要素も併せ持つと言われるから、この人形には災厄がずいぶん転嫁されていることだろう 思いのこもってる人形だから、無邪気に明るくポンと捨てる気にもならないのだ
10月1日(金) 季節の移ろい
ときどき江戸川土手を自転車で走ることがあり、好天に恵まれると筑波山が遠望できる 見えるといっても山肌が見えるわけではなく、川の向こう、家々の後ろ、平野の彼方に、ただ青く霞んだ山容がたたずんでいるだけだが… 9月に入り陽気がよくなったら、今年も筑波山へ行こうと思っていた 数年前につくばエクスプレスという新鉄道ができて、より行きやすくなった
「鉄ちゃん」ではなくても、都市郊外直結型の新鉄道には1度乗ってみたいものだ 昨年の9月にそれが叶った 仕事の休みと穏やかな秋日和とが奇跡のように一致した日だった 全くの無風、全天快晴、筑波山山頂からの眺めは素晴らしかった 筑波山は、登るといってもロープウエイやケーブルカーが山頂まで延びており、何の苦労もない 登山ではないのだ
もっとも、ケーブルカーに沿って登山道があり、登山の装備をした人が登っていたりする 妙な山ではあるが、山頂まで気軽に登れるのはありがたい ところが今年はそれが叶わなかった 9月も猛暑の名残が続き、下旬になると一転、寒さがやってきた 昨日もそして以前にも書いたことだが、季節の移ろいが急で、ゆったりとした淡い風情を伴わなくなってしまったのだ
9月13日(月) 小銭入れ
小銭入れが破れかけてもう1年近くなる この間(かん)、小銭入れを売っていそうな所があると立ち寄って、大きさや使い勝手の良さそうなモノを探してきた しかしうるさいブランド品ばかり置いてある所が増えて、自分の好みに合った静かな小銭入れがなかなか見つからなかった それに何だか、小銭入れを売っている所自体が、昔に比べて減っている気がする
私の使う小銭入れは安物だからか、破れる箇所が毎回同じだ ファスナーのすぐ下がほつれてくる 始め5mmぐらいだったのが、やがて数cmの長さに破れてくる 要するにファスナーが縫い付けられている部分だけが破れてくるわけだ そのほかの部分はきわめて健全で、皮革製品としてまだまだ使える 修理するのは可能だろうが、買う以上の費用がかかると思う
小銭入れを売る所が減ったのは、小銭を持ち歩くことが減ったことの表れだろう 小銭入れは申し訳程度しか並べていないのに、カード入れの品数が充実している売り場も少なくない カード入れはカード入れで、工夫を凝らしたものが多く、おもしろいものだが… 結局今日になって、ようやく妥協できる範囲の小銭入れが見つかった たかが小銭入れで^^;
9月2日(木) 猛暑御見舞い
9月1日朝方、暗い気分でひげを剃っていたら「イテッ」 ひげ剃り器の薄い外刃にホンのちょっと疵ができたみたい このまま使ったら顔中血だらけになりそうだ 外刃は、だましだまし使うことができないという意味では常に欠陥品であり、別の意味では完全品といえる 「あぁ、なんてこった」…実は前の晩、即ち8月31日、エアコンが動かなくなったばかりなのだ
このエアコンは今年で16年目、人間でいえば97歳だ そろそろ買い替え時だろうとは思っていた それが突然リモコンの操作を受けつけなくなったのだ そういう場合はリモコンの電池寿命を疑うものだが、液晶表示はしっかりしているので、電池ではなさそうだ この暑さゆえ一刻の逡巡も許されず、修理は考えないで新しいのを買うことに即決した 痛い出費である
ところが家電店に行ってびっくりした 店員によると、在庫払底、そもそもメーカーに在庫がないそうであった むなしくひげ剃り器の刃だけ買って帰った 念のためにリモコンの電池を替えてみたら、なんと…ピッとエアコンが動き出したではないか 普通はコレを最初にやるものだが、液晶表示があまりにもはっきりしていたので、確認を怠った 大騒ぎしてしまった^^;
8月18日(水) 最高気温
うわぁっ、なんという暑さだ…今から17、8年前のその日の暑さは、どういうわけだかよく覚えている 6月の始めであった 特別に何かがあったから覚えているのではなく、その気温を勘でズバリ当てることができたから、覚えているのかも知れない 近所のお店で立ち話をしていて、「暑いですね、これ33度はありますよ」と、もちろん経験からそう言ってみたに過ぎない
あとでそれが正確な数値だったと知った それまでに経験した暑さは、いくら暑くても30度から31度がせいぜいである 32度は滅多にない でも31度の次だから何となく暑さは想像できるのだ しかし33度は殆ど経験したことがなかった気がする そして17、8年前のその日の暑さは度外れて暑く、31度のスグ次ではたぶんないだろうと予想したのだ
このような経験や常識が活かせる時代はとうに終わったようだ 最近は35度だの36度がざらになってしまった 天気予報などで発表されるのは観測地点の気温だから、私たちの多くは実際にはもっと高い気温の中で生活しているに違いない 荒々しいというか、粗雑なというか、日本の気象現象の表れ方が情緒を失い、とげとげしく極端になりつつある
7月22日(木) 街道をゆくぞ
熟年登山とか高齢登山などと言われて、登山が大きな流行になって久しい 私も山に登りたい気持ちは結構ある だが今までの経験から、自分にはとても無理だと、登山本体は諦めている 20代の頃に何度かやった、ちびっ子たちを連れての低山登りでさえも、最後は這うようになる また、高齢者のお供をしての単なる神社の参道登りも、高齢者に負ける有り様だ
体力がないのに加え、身体が硬くて動きに無理と無駄を生じ、更に消耗してしまうのだ 日頃の訓練によって克服できる面もあろうが、その「日頃の」って奴ができないのだ(-o-) 私はむしろ「街道歩き」をしたいと思う 東海道とか通称「鯖街道」など、歩いてみたいものである これならウォーキング方法さえ身につければまず大丈夫 登山ほどの体力は要らないだろう
こんなことを書くのも、新聞広告で近畿日本ツーリストがそういうツアーを募集しているのを知って、ちょっと待てと思ったから ツアーでは、現地までは鉄道やバスは使うみたいだから、私の思い描いているのとはだいぶ違うのだ 私の「街道歩き」構想は完全徒歩である 年を取ると赤ん坊に返ると言われるが、それじゃダメだ 年を取ったら江戸時代に戻らなきゃ^^
5月16日(日) 不思議なポケティ
駅頭や店先で手渡されたり、ポスティングされるチラシ類に付いていたりで、ポケット・ティッシュ(以下ポケティ)はどこの家にもいくつかあるはず そう、ポケティの世界で理解可能なのは、どこの家にもいくつか、という程度なのだ ところが我が仕事場には、異様な数のポケティがあって、収納場所に困る有り様だ レジ袋とエコバッグ、この2つにぎゅう詰めにしている
なぜこんなに溜まったかというと、使うよりも貰うポケティがはるかに多いからである 元々は数個だけだった 塾に来る子どもたちが鼻ズルズルしてるときなどに、ハイヨと使わせてきた そしてそれは時々実際に役に立ったのだが、そんなに誰もがズルズルするわけでもなく、まして青っ洟たらす子どもはとうに絶滅しており、いつしかポケティばかりが増えていった
レジ袋の底の方にあるポケティは、たぶん十数年以上前のものと思われる 恐ろしくて確かめてはいないが… 開けてみればデザインやキャッチコピーに、平成になって間もない頃の匂いが感じられるに違いない ポケティを封じ込めてあるレジ袋やエコバッグは、今やタイムカプセルのような機能を持っているのだ 封じ込められたポケティ 案外高値がつくかも…
4月12日(月) 郵便局は素敵だ
町の中心部に住んだことがないので、郵便局といえば木造の小さな建物を思い浮かべるしかない 入口を開けて中に入ると別世界の空気が漂う 背後に国家の思惑がうごめいているとは思えないほど、のんびりゆるりとした空気 この空気は得難いものだ もうひとつほかでは得難い魅力がある それは郵便局が、地域全体の事情に精通しているということである
昔の旅行者にとって、郵便局は便利な町のステーションであった 道に迷ったら迷わず「こばた」の看板の下にいるおばちゃんに訊くというのが、当時の貧乏旅行者の定石だったが、現実のおばちゃんには限界がある おばちゃんに道を訊いて何度か苦杯を味わった経験から、「こばた」のおばちゃんに訊くのは「郵便局はどこですか」が一番いいことに気がツイッター^^
どの町のどのおばちゃんも、郵便局なら知っているからだ 教えてくれた郵便局へ行って改めて「○○はどう行けば…」と訊くのだ 局員が奥から大きな地図を引っ張り出してきて、驚くほど親切に目指す場所を教えてくれたりする この次に来るときはこの郵便局で通帳を作ろう そんな気にさせたものである 都市部の大きな中央郵便局では味わえない雰囲気があった
3月14日(日) 十年ひと昔
アンダン亭を再開してから歳月に関する話題が多いが、今日も「えっ、もうそんなに経つのか」と驚いたことをひとつ 考古学を塗り変えたと言われていた数々の発見が、ひとりの研究者の捏造とわかってから10年が過ぎたことだ 考古学界の信用丸つぶれの大事件だったが、妙に記憶に新しい 学問体系を再構築するのには、10年ではまだ時間が足りないことだろう
ただでさえ地味で根気の要る分野、ましてや何の役にも立たないことが明白な分野なのだ 効率と経済効果第一の今の世の中で、考古学は決して歓迎される学問ではないだろう 事業仕分けの対象としてはスーパーコンピューター以上だ いや、話は「考古学」ではなくて「10年」であった 宇宙からみればないも同然の時間だが、わたしには大きな10年であった
「えっ、もうそんなに経つのか」と感じるのは、あまりにも多くのことがあったからなのか、それとも何もない平板な日々だったからなのか いずれであっても、残り時間を数えるべき歳になっていることは確かだ 掘り返せば何か出てくる古層が、私にも少しはあるに違いない 忘れていること、敢えて埋めてしまったこと… いやいや、捏造だって数多いm(_ _)m スマン
3月8日(月) 抱き合わせ販売
最近少しばかり腹の立つことが、毎週のようにひとつある そろそろ新しいPCを…と、新聞折込チラシをよく見るのだが、安さにひかれて子細に読み、結局がっかりすることが多いのだ プロバイダー契約との抱き合わせ販売で、PC本体が信じられない価格になっている プロバイダ契約が要らない者は価格に心躍らせた分、騙された思いになる もう馴れたが、腹は立つ
さすがに100円と書いてあるときは「あ、抱き合わせだな」とスグわかるまでには成長した でも13000円とあると、「おぉ!」と喰らい付いてしまうから我ながら浅ましい(^。^; 挙げ句の果てに「イーモバイル同時加入」などの文字を発見して、「やられた」と地団駄を踏むわけである わかっていても見てしまう
中でも厄介なのは中古PC店のチラシだ 中古だから安くて当たり前という先入観があるから、13000円に目が釘づけとなる しかし騙しではないにしても、このような価格表示方法は販売店の利益を本当に増やしているのだろうか 価格が瞬時には判断できないということは、要するにわかりにくいだけだ そのうち見なくなる 客離れを起こすのではないだろうか
2月14日(日) 20年感覚
20年前が1990年ということに最近気づいた 数えてみれば当たり前だが、気づくまで全く気づかなかった^^; 1990年とはどういう年だったかというと、前年がいわゆるバブル景気絶頂期で、’90年は失速し始めた年である バブリーな世相にあまり縁のない生活だったから、かえってわりあいによく覚えている あれから20年
’90年か’91年か、あるいは’92年だったか定かではないが、年末にNHK第2ラジオのラジオ講演を聞いていたときのこと 講演していた学者の「景気は来年半ばには持ち直しますよ」という言葉が何故か忘れられない どちらでもよいような生活ではあったが、ささくれ立ったバブルの後に襲ってきた暗い世相はイヤだったから、少しは希望をもったものだ
それにしても20年 1990年から20年経ったという自覚が乏しくて困る あのことこのことさまざまなことが、そんな昔の出来事になってしまったのかと、かなりうろたえている 1990年から20年前は1970年 その’70年から’90年までの20年間と、’90年から今年までの20年間が、自分の中ではどうしても同じ長さにならないのだ アトの方がかなり短い…
1月21日(木) 百代の過客
歳をとるにつれて歳月の流れの速さが加速する これについてひとつの仮説を立てたことがある 加速するのは「経験上の実感」として語られることが多いが、実は本当に加速しているのではないかということである 宇宙は膨張しているといわれるが、それが事実なら時空は辺縁にいくほど加速するはずである 辺縁ほど、同一時間での移動距離は増える
現象としては、「月日のたつのが速くなったなぁ」と大人が言うとき、その速さを万人が味わっているということになる 大人も、小さな子供も… その子が大人になって「月日のたつのが速くなったなぁ」と嘆く頃には更に宇宙は膨らみ、同一時間での移動距離は速まる 仮説はここで止まる ここから先はよくわからない^^; ただ、あながち荒唐無稽な説でもない気はする
時間といえば、次のことも謎のままである 何かに夢中になってると時間の経過が速いと感じる あるいはイヤな作業をイヤイヤやってると時間の経過が遅いと感じる 何故なのだろう 心理作用を持ち出すなら、楽しいことにはプラスの心理が働くから、時間が増幅するように感じられていいはず(ぜひそうなってほしい(^○^) ネット上にも、未だ妙説を見出し得ていない
2008年
7月27日(日) 雑音の安心感
マンションにビラ投函した東京国分寺市の市議が訴えられた……この報道を聞いて、全く別の、ある体験が脳裡に浮かんだ 昔、友人の住まい探しに付き合って、とあるマンションを見学した まだマンションというものが珍しかった頃だ 部屋に入って説明をしていた係員が、バス通りに面する窓を閉めたら、外の音が全く聞こえなくなった 驚くとともに恐怖を覚えた
こういう所には住めない、住みたくないと思った いわゆる「閉所恐怖」ではないのだが、外部の雑音が多少は聞こえていた方が、生活空間としては自然な感じがする 録音など特殊な用向きで必要な場合を除いては、完全な遮音状態は生活の中には存在しない 通常は誰でもある程度の外部雑音にさらされて生活しており、音楽を聴く時でもマァ雑音の中だ^^;
冒頭のビラ投函に戻るが、勝手に置いていくのはダメというのなら、ダイレクトメールはどう扱われるのだろう 宅配便・郵便屋さんルートは正規版としてOKなのか 新聞折り込みチラシは、大新聞に挟まっているからいいのか そう考えると、このような取り決めをしている管理組合は、何がいけないからビラ投函がいけないのか、よくわからないではないか
7月14日(月) 当たらない天気予報
数日前、携帯の気象予報サイト「ウェザーマップ」に、気象庁を批判する記事が載り、読んで少し驚いた PC用の「ウェザーマップ」でもたぶん同じ記事が掲載されたはずだから、読んだ人は多いかも知れない 名前は忘れたが男性の予報士が書いたコメントで、「気象庁の出す予報はコンピュータ任せで、梅雨どきの実態に全く合っていない」というような内容であった
梅雨どきは地上付近にも水蒸気が多いので、気象庁コンピュータはその水蒸気を「雲」と判断してしまうそうだ つまり実際には「晴れ」や「うす曇り」でも、気象庁は「曇り」「曇り一時雨」と発表するらしい これを読んで、ここ20日ほどの予報のはずれ具合に合点がいった とにかく毎日「曇りのち雨」「曇り一時雨」「午後から雷雨」という予報が続き、そして殆ど当たらないのだ
少なくとも私の住む千葉県松戸では、雨が降ることはあまりなかったし、「曇りのち雨」の予報の日で「のち雨」になったことは、全くないと言っていい ずっと曇っているだけだ 今日も「曇りのち雨」の予報だったが、日中わずかに日が射し、布団が干せた 夕方になってなにやら夕焼けの気配さえあった 折り畳み傘を持って出かけ、むなしく帰った日が幾度あったことか
6月30日(月) 夢のポイントカード
「このカードはマツヤデンキさんのものですよ」「…ぇと、サトームセンでも使えるんでしょ?」「ここはヤマダデンキです」「え!この店、サトームセンじゃないの?」「変わりました」 言われてみれば店内のあちこちにヤマダデンキの文字が躍っている たしかにサトーじゃなくてヤマダだ いつの間に撤退したのだ、サトーは… ダイエー店舗内という絶好のポジションから
私がポイントカードを作ったのは、少し遠いマツヤデンキなのだが、近くのダイエー内にサトームセンがあり、作ったカードはサトームセンとマツヤデンキで共通して使える便利さがあった サトームセンは何年も前からもがいている雰囲気があったものの、ダイエー内の店舗を手放すことはないだろうと思っていた なにしろ老舗なのだ、サトームセンは…
ヤマダデンキの侵食力は凄いと感心しつつ、勧められたヤマダデンキのポイントカードは作る気がせず、私は電気カミソリの替え刃を、店頭価格で買う羽目になった Suicaやパスモ、バス共通カードなら、どの都県どのバス会社でも乗れる 電機店にできないわけがなかろう どの店でも使える共通ポイントカードができれば、各店の売り上げは相当伸びるに違いない
2月23日(土) 23.4度
数日前、横断歩道で信号が変わるのを待っていた時だ 顔が妙に熱い 何だろう、どうしたんだろうと見上げると、太陽が顔を直射していた 少し前までは、たとえ直射されてもそんな風には感じなかった この日は、直射されると熱いほどだ 地球が、地軸を少し傾けたまま太陽の周りを回っているため、季節によって光の強さというか、光の量、きつさが違うのだ
傾きの角度は23.4度 大変微妙な数字だ この微妙さが何万年も保たれていることを思うと、地球はまさに精密機械だという思いを強くする (世界の)ソニーもかなわぬ超高精度な精密機械と言っていい なぜなら、ソニーのビデオデッキがつい先日壊れたのだが、購入後何万年というわけではない わずか12年 …ブルーレイ・レコーダーを買えということか(泣)
地球の高性能に比べて人間のレベルは疑わしい 例えば毒薬ギョーザ事件、米兵による暴行事件、イージス艦による事故など、幾つもの出来事が点滅している こういう事が続いたある日、突然「わが国は○○国と戦闘態勢に突入云々」
などという大本営アナウンスが流れて来るのだ、きっと… 太平洋戦争の始まりは、普通の国民にはどんな感じだったのだろう
1月30日(水) 真冬のトレイニング
スーパーなどで買うトレイ詰め食品を開けるときの要らぬ労力といったら、並大抵ではない なんでこんなことに根(こん)を詰め力を注ぎ眼鏡を替えつまみ口を探し、挙句の果てには変な風に開けざるを得ないんだ これを作る人は実際に自分で開けたことがあるんだろうか、もしかしたら私の開け方が、およそ人知の及ばぬほど見当違いなんだろうかと、毎回考えてしまう
そんなものははさみかナイフでスイッと開けてしまえばストレスがなくていいのかも知れないが、ではそういうものははさみかナイフで開けることを前提に作られているのだろうか たぶん違うはずだ 台所仕事の片手間、例えば主婦がコンロの火に気をつけながら両手でサッと開けるようにできているはずだ 少なくともそれが前提でなくてはならない
私がトレイ詰め食品をきちんと開けようと苦心するのは、裏に貼ってある賞味期限や製造会社などのシールを残したいからだ 多くの場合、シールをバラバラにしなくては開封できないように透明カバーがかけてある 裏のシールはとても大切なものであり、買ったらスグに破砕されていいというものではない 開けやすく、シールを傷つけない梱包はできないのだろうか
1月28日(月) 小指湿布
昨年5月頃、新聞に載った健康雑誌広告に惹かれ、直ちにその雑誌「安心」を買いに走ったことがある それが「小指湿布」との出会いであった 就寝時、小指に小さな湿布を貼る それだけで深い眠りを得られるというのだ この種の養生法には殆ど無関心であったが、「小指湿布」の広告を見た時、これは確かだ、間違いないとの直感を得た
以来8ヶ月余り、安眠を約束する白い湿布が小指の中央に貼られ続けている たしかにこれは効いているようだ 夢を見ないほど深く眠るとか、布団に入ったらスッと眠りに落ちるとか、雑誌にあった体験談のようなわけにはいかないが、小指湿布を始める以前よりは格段に眠りの質が上がったのは事実である それに、肩凝りも(あるにはあるが)気にならなくなった
雑誌記事によると、この小指湿布は神経科の先生が考え出したもののようだ いろんな症状を抱える患者の多くが、小指の中央が硬くなっていることに気づいたそうである そこに湿布を貼ると肩の僧帽筋が緩み、症状の緩和につながるらしい 「小指・僧帽筋・神経症状の多く」はつながっていたのだ 願わくは小指湿布専門の、小さな湿布剤ができればありがたい
1月1日(火) 雲にのりたい
初めて元日に更新をする(昨年末は当ページの更新をしないままに終わってしまった) さて、正月には例年、運動不足解消を兼ねて1時間から2時間ほど散歩するのが常である 今年は好天に恵まれ、富士山を遠望しながら殊のほか気持ちのいい散歩となった ただ、帰る頃になると富士山が雲に隠れ始め、ちぎれ雲が街の上空まで飛来し始めていた
私は雲が好きである いくら眺めていても全然飽きない たんなる青空は鑑賞の対象にならないが、そこに雲がひとかけあるだけで何か語りかける表情を持つようになる しかも動いているから、こちらとしてもゆっくりとはしていられない 「乙女の姿しばしとどめん」と願うそばから崩れ果てていくのだから、特定の情動に浸っているわけにはいかないのだ
雲が作り出す何かの形を楽しむ面はたしかにあるが、それ以上に、それが崩れていきほかの雲と合わさり、より遠い雲の手前をぐいぐい進んでいくなどの、雲の変容自体がとてもおもしろい 「ご趣味は?」「雲鑑賞です」といった会話は、いまのところあまり確立しているとは言い難い 望遠鏡を持つでもなく、ただ空を見続ける大人が公認される日は…来ないだろう^^;
2007年
11月29日(木) おいしいコーヒー
いろいろな所でいろいろなコーヒーを飲んできたが、いちばんおいしかったのは神田・古書店巡りの帰りに立ち寄った店のコーヒーだ 山の手線の御茶ノ水駅で降りて古書店街へ向かい、古書店だけでなく書泉グランデや三省堂書店など、普段は到底触れることのできない書物オーラをふんだんに浴び、心地よい疲れと共に、その日、帰路は何故か水道橋駅へ向かっていた
たぶん道を間違えたのだと思う 今から30年近く前のことだ 東京の地理には全く疎く、どこへ行くにもとにかく山の手線であった^^; 地下鉄を使うという発想がなかった もしあったら、あの店には出会わなかったと思う 古書店街と水道橋駅のちょうど中間あたりに、店名は忘れたが「三本コーヒー」だったか「Keyコーヒー」だったか、そういう看板が出ていた
少なくとも「UCCコーヒー」ではなかったと思う 何の変哲もない学生街の喫茶店であったが、運ばれたコーヒーの上手さは格別であった 味には全然うるさくない私が言うのだから間違いない 濃く深い味がした その後は神田・古書店巡りをするたびにその店へ寄ったが、仕事が忙しくなるにつれて足は遠のいてしまった あの店、さすがにもうないだろうなぁ…
11月12日(月) また冬が来た
いつのまにか立冬が過ぎていた… 今年は楽しみにしていることがあって、季節の移ろいや木々の色付きには気をつけていたのだが、暦(こよみ)にはぬかりがあった^^; 楽しみにしているのは、知人に教えてもらった黄葉の名所、昭和記念公園に足を運んでみることである かなり遠いので、行けるかどうかわからないが… 先程gooで調べたら、黄葉最盛期とあった
立冬という断崖にまた立てり
あわてて作った立冬句 何を言ってるのか定かではないものの、気宇は大きいような気がして、今日一日、3回ほど推敲を重ねた 冬に立ち向かう気概、あるいは逆に、経験から冬の厳しさを怖れる気持ち…、そして「また立てり」の「また」にこめられたのは決意なのか諦観なのか
自分で作ってて未だ真意がわからないからおもしろい とにかく言葉が先に出た そしてわりあい気に入った 日常の具体物がひとつも登場しない弱みはあるけれど、作ったモン勝ちということもある^^; 歳を重ねてくると、冬を迎えるときの複雑な思いは並大抵のものではない グラスの底、人生の底を垣間見るとでも言うような、断崖に立つ思いなのである
10月28日(日) リフレッシュ
今日は気持ちのいい秋晴れであった この日に予定していたことと、想定外のことに明け暮れた一日であった まず床屋に行った これは予定通り その床屋は、AさんがやってくれるかBさんがやってくれるかで、微妙に心地よさが違うのだが、今日は運よくAさんであった これで幸先(さいさき)のいいスタートを切る…はずだった
頭が軽くなりすっかり心地よくなって、前から一度は受けようと思ってた「整体」を受ける気になり、最寄りの整体院で初めて「整体」というものを受けた かなり痛いものだと聞いていたが、ゆっくりやってくれるのでそれほど苦痛は覚えなかった 財布は苦痛だ(^^; 整体で心地よさが倍加したところで止めておけばよかったのだが、その後想定外の出費が待っていた…
整体院を出て近くの喫茶店でコーヒーを飲んでる時、胸のポケットに入れてあった眼鏡を何気なく取り出したら、眼鏡が…壊れてた フレームのネジが折れたのかどうか、完全に分解していた 整体院ではちゃんとカゴに入れたのだが… 慌てて近くの眼鏡屋に行った この際ついでに、合わなくなっていた別の眼鏡も替えることにした 更に財布は悲鳴を上げた
8月19日(日) 40.9度
ニュースなどの画面で40.9度と書いてあり、アナウンサーがそれを40度9分と読んでいるように私には思えるのだが、その読み方は正しいのだろうか 正しいのだろう、たぶん… その上、「度」は単位だが「分(ぶ)」は単位とはいえない そのあたりの複々バイリンガルな単位の表現は日本独特のものであり、欧米人の理解を超える離れワザであろう
ところで今回最高気温を更新した多治見と熊谷の両市とも、私にはちょっと縁のある町だ 多治見には1度陶器を買いに行ったことがあって、思いつきで無計画に行ったにもかかわらず陶器市が開かれていた 陶器の町としては瀬戸ほど有名ではないが、小雨降る川沿いにたくさんの陶器が並んでいて、なかなかいい雰囲気を味わった 陶器の町は平凡なので好きだ
何が平凡かというと、町のたたずまいである 特別なものは何もない 周りを囲む山も、どこにでもあるような低い山だ それがいい
熊谷 評判の鍼灸師の施術を受けに、朝一番の電車で埼玉県の深谷までひと夏通ったことがある 7歳か8歳の頃だ 熊谷は深谷の手前にある大きな駅だった 人生いろいろである
7月27日(金) 和菓子力
仕事環境が大きく変わり、同時に食生活への意識も少しだけ変化した といっても食事内容や栄養がどうのということではなく、一部の食品について「ああ、こういうことだったのか」と認識を新たにしたのである その1・和菓子 心身の疲れを癒す素晴らしい食べ物であることを身をもって知った もちろん主役は中の「あんこ」である
甘いものが敬遠される一方で、スイーツという呼称で甘味菓子が流行っているらしい どういうことだと思っていたら、そうか、こういうことだったのか… 食べてみなければわからないことが多い 子どもが甘いものを欲しがるのは脳の活動が活発だからだ 子どもはもっとあんぱんを食べるべきである そういうわけで、最近はあんぱんか和菓子、日に1度は食べています
その2・らっきょう これもまた、心身の疲労を癒す効果は、うなぎの比ではない^^; らっきょう自体もいいのだろうが、どうやら「酢」の効果が大きいようだ らっきょうはどちらかというとあまり得意な食べ物ではなかったが、ある日ふとその効果に気づき、以来日に1度はらっきょうである あんぱんにしろらっきょうにしろ、なんと安上がりにできた心身であることか
7月23日(月) 曇り雨雨雨曇り
先月23日にほぼ晴れて以来、丸1ヶ月間、曇りと雨だ 曇り一時晴れという日が2回あるが、晴れ間の時間はごく僅かであった 気温も低い 今日は27度ぐらいとはいえ、7月23日としては不満の残る気温だ イチローの打率が2割8分だったら不満が残るのと同じだ そこそこの気温では、ニッポンの夏とは言えないし、ましてニッポンの夏休みとは決して言えない
この時期に街へ出ると、冷たいモノが飲みたくなるものだが、今年は少しもそういう気持ちが起きない 例えば喫茶店へ入ると、迷わずに「ホットコーヒー」を注文してる自分を発見したりする 今日も病院帰りに熱いのを一杯やった 病院といってもたいしたことではなく、耳掃除に行っただけ^^; 医者から「あなたは普通の耳掃除はしてはいけません」と言われてるのだ
母によると、私が小さい頃、何かでレントゲンを撮ったときに「この子、鼻が曲がってますね」と言われたらしい その延長線上にある耳も、当然曲がっているものと思われる つまり頭蓋が左右それぞれに曲がっている 従って時々、専門家による耳掻きが必要なのである ただしそれが保険外であることに今日気がついた 梅雨空の下の、苦いホットコーヒーであった
6月28日(木) コンビニ初体験
店員に案内されて店の奥に連れていかれた私は、そこで今まで見たこともない空間を体験することになった 「この番号にかけて、確認した後で注文すればいいのです」丁寧な店員でよかった 言われるままに、消費者金融機能を備えたゲーム機のようなボックス型電話機で、消費者金融ではなく、とあるプレイガイドの番号を回したのであった
コンビニで前売り券を注文するのは初めてで、この後どうやって自分がその券を手にできるのかさえ知らなかった 券を注文して受話器を置いた私は、電話機のスグ脇に「物凄い雑誌群」が並んでいることに気づいた う〜む、見たい! いや、ちょっと待てコラ! たった今注文したのは「国立新美術館、フェルメールとオランダ風俗画展」の券だ、がまん、がまん(爆)
フェルメール関連の展覧会は今までに3回見たが、どれもフェルメールの絵は1枚のみであった 何かの企画展の目玉として、フェルメールが1枚使われていたに過ぎない まとめてたくさん見たいものだが、世界に三十四点ほどしか現存せず、どれも超一級品であることを思えば、しかたない 至宝「デルフトの眺望」の実物が日本に来ることなんか、まずあり得ないだろう
1月12日(金) 無理するスリム
このHPのファイルを1枚、また1枚と検討の上削除し、スリム化を図ってる間に、それに呼応するかのように世間ではもうひとつの、より真剣なスリム化が話題になっていた…ことを、後から知った スーパーの納豆売場が、どうも寂しいではないか 正月明けだから品薄なのだろうと思っていたら、痩せる食品として俄かに納豆が注目されているという
それを聞いた時、あの人この人と納豆好きの知人が数名脳裏に浮かんだ どの人も決して痩せているわけではないので、不思議だ 年相応に普通、といえる程度に、丸い^^ それで、ふと思ったことがある 今回の納豆ブームの元はTV番組のようだが、私はそれを見ていない 当然、納豆を「食べる」ことばかり考えていた 食べるわけではないのかも…
例えば「納豆を身体中に塗りたくる」という方法はどうだろう 全身ねばねば、ねちゃねちゃぬるぬるだ あとは塩を適宜振りかけるだけ ナメクジと同じだ 身体中から水分が出てきて、たぶん痩せる 全身に使うには5パックは要るだろうから、店頭から納豆が忽然と消えるのも道理である 使った後の納豆はどうするんだ 家族で…いや、言うまいぞ
2006年
6月10日(月) 食パンカップなのだ
食パンにバターやジャムなどの類いを塗るとしよう 持ち手が右か左かは問わないが、多くの人は食パンの山(だった部分)を向こう側にして、塗り始めるのではないか 塗り具合や手の大きさによっては、食パンを少し傾けたり手前に回したりはするが、おおむね元・山を向こう側にして塗り始める 元・底を向こう側にして塗り始めることを怖れてでもいるように…
また、食パンをかたまりから6枚なり8枚なりに切るとき、山部分から下へ向かって切るしか方法がないのだろうか 水平に切るパン職人さんは世界中探してもいないのだろうか 世界中だから、1人や2人はいそうな気もする いてもたいして意味はないが… 斜め切りはどうか 無理の多い切り方には違いない こう見ると、食パンとはなんと単純な食べ物であることか
同じ白仲間の豆腐や大根にだって切り方は数多いではないか もしかしたら私が知らないだけかも知れない 「パンはいかがいたしますか」「あ、水平切りで」銀座あたりの超高級フランス料理店では、普通に交わされる問答かも知れない 超高級だから殆ど誰も知らないわけだ
「パンはいかがいたしますか」「さざ波切りで」パン職人の腕の見せ所である
5月18日(木) 幼児ぶつかり記
大混雑するターミナル駅の階段を降りていたときのことだ 私の前の母子連れの歩みが周りに比べてかなり遅い 見れば母親は、左手で幼児の手を引きながら、右手のケータイに夢中だ 降りていく方を見ずに、垂直に立てたケータイを睨んでいる 私は、幼児の脇を通って追い抜こうとしたが上手くいかず、幼児のズックを後ろから踏んづけてしまった 階段である
幸い幼児も私も事無きを得たが、「あぶないじゃないか」と母親に言うと、母親が幼児に向かって「ダメじゃないのぉ」と叱りつけたから驚いた 「ダメなのはあんただろう」とひとこと言いたかったが、上方から押し寄せる人波には勝てない 単なる捨てぜりふになりそうで、言うのは諦めた その数分後、私は駅デパのエレベータの前にいた 数基ある台は、どれも長蛇の列
早く上階の蕎麦屋に行きたい一心で^^; 動き回ったのが災いした ある1台が満員となり後ずさりしたら、後ろにいた幼児と激突してしまった 階段児とは別幼児で、お婆さんに手を引かれていた ぶつかった時、その子は「あぁれ〜?」と言った(笑) 私の不注意が原因だ 「ごめんな、痛かったろ?」と謝り、お婆さんにも謝った 日に2回幼児にぶつかる珍道中
3月6日(月) 灯油ポンプ
20年使ってた乾電池式灯油ポンプがとうとう駄目になった 上部と下部の継ぎ目から油が滝のように流れ落ちる様は壮観であった(←違いますっ^^; ここ5、6年、継ぎ目から油が漏れる現象をごまかしながら使っているうちに、それが異常なことだという感覚がなくなっていた
前にも似たような経験をした 自転車の空気入れである(…空気入れだの灯油ポンプだの、なんか生活感が安手だなぁ…) その空気入れは、空気を押し込むたびにスカッスカッと抜けていくのであった ごまかしながら使っているうちに、それが異常だという感覚、余計な時間と体力を浪費している感覚がなくなっていた
新しい空気入れを買ったら、空気が少しも漏れずにグイグイ入っていくではないか 空気を入れるときこんなに充実感があったのか(笑)と、大変驚いたものである
物の見方や身体の具合も似てるな ちょっとした違和感を覚えても、その場は工夫して乗り越える そのうち感覚が慣れてしまい、気づいたときには交換も修正も効かない歳です^^;
2月8日(水) いかがな食パンか
食パン売場で特売100円食パンをカゴに入れようとしたら、「89円」というのが目に飛び込んできた Pasco食パンが89円 6枚8枚切り食パンが並んでるど真ん中に、そのプレートはたしかにある 間違いなく、これは89円だ スーパーの値段プレートが、少しずれた場所の品物を指していることはしばしば、わざとみたいにあり、過去に何度も煮え湯を飲まされた^^;
しかし今ここにあるこの89円プレートは、どう見てもPasco6枚8枚切り食パンを指しているとしか思えない 思えないだけである… Suicaの所にも書いたが(1/17)、小さな字は見ない主義なので、大雑把な判断でコトを進めていくと、結局今日のようなことになる
スーパーで普通の食パンが89円というのはいかにも安過ぎると、一抹の不安を抱えながらレシートを見ると、案の定「ショクパン 157」と印字してあった(爆) わかってます、私が悪いんです よく見えないなら人に聞けばよかっただけ たぶん3枚入りが89円だったんだろう
庶民というものは^^;、わずか68円の差で小さくはないショックを受けるものである
1月17日(火) in→
とある駅でSuicaの機械を故障させた 私がだ(爆)、いや爆ではない、謝りますm(。._.)m Suicaに入金しようとして、判断を誤り逆向きに挿入してしまったのだ 後ろに並んでた数人に相済まぬ旨伝えて散って頂いた 「判断を誤り」と書いたが、入金の際「こっちを前向きにして入れるんだったっけ…な」と、いつもそういう風に判断しながら挿入している
理由は、「in→」という表示が小さ過ぎてよく見えないからだ Suicaの場合は持つ側に大きなギザギザがあるから、慣れれば大丈夫なのだが、ちょうど明日慣れるところであった^^;
Suicaだけではない 先日録音に使った音楽用MDも、「in→」の表示が無闇に小さくて、眼鏡を替えて確かめなければならなかった
大切な情報なのに表示が小さくなる傾向──そういう現象に最初に気がついたのは、もうひと昔前、たまたまJR新宿駅に降り立ったときである ホーム階段の昇降口などに上からぶら下がっている案内板の文字が一新され、とても小さくて読みにくくなっていた
利用する者の立場に立てば、表示を小さくするなどという発想は出てこないと思うのだが…
12月20日(火) 暮らしの円周率
いったい「不惑」などということを何処の誰が言い出したのか 孔子か… 孔子はそうだろうけど、孔子を基準にされても、私は困る 15日本欄に「この歳になって」と書いたが、ほかにも「この歳になって…」と言わざるを得ない事例・案件が私には大変多いからだ
例えば、自分がコンパスで描いてる円が、果たして本当に円なのかどうか、私は少し自信がない 円周率3.14…は割り切れないと教わり、どうしても終点に辿り着かないはずなのに、なぜサラリと円が描けるのか このわけが少しわかったのは、なんと今日である(。・o・。)ノ
円周率を求める式は「円周÷直径」だが、この「円周」と「直径」の間には、本来何の関係もないのである たまたま「3倍ぐらい」という一定の値が出るものだから、あたかも関係があるように見えるだけなのだ ホントかどうかは別として、この発見は我ながら気に入った^^
あたかも関係があるかのような見かけをもつ無関係は、暮らしの中でも案外多いから
2005年
10月7日(金) イチジクのささやき
最近、イチジクの人気が上がっているのではないか どうもそんな気がする なぜなら、9月はいつ店頭へ行ってもイチジクが豊富に置いてあったからだ 数年前までは、見つけた時に買わないと、その年はイチジクが食べられなかったほど、申し訳程度の品数であった 好き嫌いのはっきり分かれる果物だから、当時は置いても買う人が少なかったのかも知れない
以前庭付き借家住まいだった頃、わざわざイチジクの木を買ってきて植えた その木は、園芸店の敷地の片隅で、他の木や花から紛れ隠れるように鉢植えのまま横倒しになって放置されていたものを、私が「発見」したのだ^^; 葉っぱも何もかも泥はねにまみれていた 助けたことを恩に感じてくれたのかどうか、おいしい実の成ること成ること、隣近所に分けたほどだった
しかし今年SATY青果売場で買ったイチジクはとてもマズかった 硬くて味がしないのだ 商品として十分に世話して、それでマズいとはどういうことだろう もしかしたら食用ではなかったかも… 「イチジク酒」用みたいなものを、ガバと飛びついて買ってしまったか(^^ゞ
9月29日(木) まとまりなく9月末
プロ野球楽天の田尾監督解任は、その理不尽さから推して、昨年の就任時すでに決まっていたのだろう あの時もシダックス野村監督に白羽の矢が立った しかしシダックス側としてはタイミングが悪く、やむを得ず「1年後に」という密約が… そんな事情があったように思える
ハリケーンは、決して「Hurry、Kane!(急げ、ケーン!)」ではない 実は、ハリケーンのケーンは映画「市民ケーン」のケーンではないかと仮説を立てたのだ 「ケーン」という人名は、「いかにもアメリカ」を指す男性の人名で、だからこそハリケーンに女性の名前がつく 「急げ、ケーン!カトリーナの暴風雨に巻き込まれるぞ」…てな具合に… おもしろい勘違いであった
カラスが鳴いている 増え過ぎて好き勝手し放題、糞害やゴミ荒らしで人を悩ませる しかし… カラスが、道端で死んでいるのを見たことがない 彼らはいったい何処で死ぬのだろう きっと死ぬときには人目につかない場所へ移るんだろうけど、そこへ行く途中で力尽きてしまったカラスがいてもいいはずだが… わからない
9月17日(土) もっと日陰を!
耐え難きもの、真夏のバス(公共バス)に日よけなきこと
いくら冷房が効いていても、陽射しに照射されると実に耐え難い お年寄りが陽射し側の席を避けて、わざわざ反対側のつり革手すりにつかまって揺られていることもある
それに、紫外線の害は心配ないのだろうか あの大きな窓ガラスはUVカットなのか?
町なかを走るバスは、ひとりが乗っている距離がそれほど長いわけではない だから日よけはいらないだろうという発想か 「セコい」というのは、そういう発想を指すのだろう
それともどこかにボタンがあって、押せば日よけがするすると御簾(みす)のように下りてくるのだろうか…
バスは、近年とみに進化を遂げた社会資材のひとつだ 低床・ノンステップ・アイドリングストップ・座り心地・わかりやすい料金箱・同路線共通券などなど、バス事業単体ではそれほど儲からないはずなのに、よく工夫していると思う それなのに、たかが日よけを付けられないのだろうか
私は、民意を問いたい^^; 日よけを付けるのに反対する人はいないと思うのだが…
8月31日(水) 合掌の家
玄関扉の真上に雀一家が巣を作るのも、もう7、8年来のことだ ありふれた雀といえども、よく見ればかわいいものである わざわざ我が家を選んでくれるのだから、アッシジの聖者を真似て私も彼らの姿や声を楽しみ、時々は「オイ、コラ」などと説教しておった ところが、去年起きた異変が今年も起こった
成長したひなが、巣から出られないまま死んでしまうのだ 巣は、電気のメーターボックスの中にあって、おととしまでは親もひなもいつの間にか巣立っていた 今年は、首を出して息絶えているひなを見つけた この恰好で、何とか出ようと必死にもがいていたのか…
首を掴んで出してやろうとしたが、ひなの身体が何かに引っ掛かって殆ど動かない これではひなが自力で出るのは無理だったろう メーターボックス自体を開けていいものかどうかわからず、電力会社に連絡したらすぐ来てくれた 身体が大きくなっても大抵は出られるが、たまたまコードなどに引っ掛かってしまったのだろうとの話であった 2年続けて合掌の家(--、)
8月30日(火) 余録の愉しみ
古い録音・録画テープを視聴していて、前後や合間に偶然挿入されたCMやニュース断片が、本編よりもおもしろくて釘付けになることが少なくない
そういう経験をするたびに、機材調わざることもまた愉しからずや…と、つくづく思う
自在に切り貼りして余計な部分をカットする、音や映像の編集機材を持っていないから、録ったらそのままの状態で、十年二十年と保存されることになる 長い間に熟成発酵^^;して、やがて人知の及ばぬ絶妙の味わいを醸し出すわけである もしも自分の意図するように編集できて、不要(と思われる)部分をカットしていたら、愉しみは半減だろう
大事だと思っていることの周辺部分、やり過ごしている部分、できればカットしたい部分に、時が経てば大きな味わいが出てくるものがある ウーム(*・゛・) これは、毎日の過し方へのヒントになりそうだ… 自分の意思の届かぬところに、届かぬからこそ残るものがある…
8月19日(金) 凍りついた出来事
(1)冷蔵庫の冷凍室内にある引き出しが開かなくなった
そこにあるアイスクリームが取り出せないので焦った;-ロ-)!! 何かを買うと付いてくる保冷剤を、やわやわのまま製氷室に入れたら、それが凍って引っ掛かったらしい
(2)日航ウェイズ機で部品破損事故が起こった 機体整備の海外委託が問題であるかのように言われているが、その国から飛んでくる飛行機に特に多く破損事故があるという統計でもあるのか 単に、日航(ウェイズ)内部の品質管理と連係・士気の問題である
冷蔵庫問題は、電器屋さんも「長いことやってるけど、こういう事故は初めてだ」と言いながら、わずかな隙間からへアドライアーの熱風を送り、保冷剤を柔らかくして解決した
日航の問題(日航に限らないけれど)は、いまどき海外委託でレベルが下がるなんてまずあり得ない 現状認識が遅れている 近年、アジア諸国の技術力レベルアップは凄いのだよ!
7月15日(金) 石綿吹き付け
私はいわゆる「物持ちのいい」方の人間である 34年前のプラスチック製卓上食器入れを、今でも家庭医薬品入れに使っている(爆) 24年前の百円シャープペンシルは現役だし(爆)、23年前の腕時計は今でも堂々と時を刻んでいる(爆)
しかし古い物に執着し、壊れるまで使うというのも考え物だと、最近つくづく思う 27年前に買って今でも立派な現役であるドライヤーに、アスベスト(石綿)が使われているかも知れないのだ 念のために虫眼鏡で調べてみたら、なるほど断熱材の辺りがモコモコしてる^^;
これが本当にアスベストを含んだ断熱材なら、コイツを27年間、頭に吹き付けてきたのか(爆) 笑い事ではないが、笑うしかあるまい
石綿なんて、昭和30年代の小学校の理科で、「石綿金網」として毎度使ってたぞ 綿あめごっことか言って、舐めちゃったかも知れん…ヽ(。・o・ヽ)
7月1日(金) 家電量販店問題
先日、修理品を抱えて家電のコジマに行った 前夜の予報では「明日は雲が広がるため、気温は28度ぐらいでしょう、ニコニコ」だったが、予想通り外れて、なんと「36度」であった 雲はたしかに広がっていたので、蒸し風呂状態であったよニコニコ!
コジマでは、壊れた状態を説明しようと努めた しかし店内に流れる音楽があまりにうるさくて、対応してくれた店員の言葉もよく聞き取れない始末 こちらの説明も大雑把にならざるを得なかった 家電量販店の店内がやたらにうるさいことは、ヤマダもサトーも同じだし、今に始まったことではないから、きっと店側に何かメリットがあるに違いない
でも、例えば「静音設計」の家電品の音が、聞こうにも聞けない それに、「環境にやさしい」エコ・マーク品と、「中高齢者にはきつい」騒音は同居できるのか
また、店頭店内に流れるのがCD再生音楽なら、著作権料の問題が生じる 秋葉原や新宿などを歩くと、その量はJASRACの締め付けに遭っている音楽喫茶の比ではないのだが…。
5月26日(木) 幸福の赤いのぼり
不思議な民俗昔話で知られる遠野(岩手) 名前だけは知っていたこの町に、「ふとしたはずみ旅」で途中下車したことがある 駅前の寂しい商店街を歩いただけだが… 1軒のたばこ屋に、「宝くじ」の赤いのぼりがはためいていた それを見た瞬間、不思議な思いが刺さった
このような寂しげな町では、宝くじも売れ残ることが多いのではないか 売れ残った宝くじは、全国規模では膨大な数になるだろう その中から1等当選が出ることはないのか
抽選会のシーンをTVニュースなどで見る限り、偶然に生じた数字の組み合わせであることは確かだ ならばなおさら、売れ残りから当たりが出る可能性はあるはずなのだ
売れ残りはもちろん回収しているのだろう 仮に売れ残りから当たりが出ないシステムになっているのなら、それを逆に使うこともできる 売れ残りから当たりが出るシステム…
あの日から幾星霜、この疑いは解消しない 今日も、遠野の河童が心の澱みから立ち上がって、私にささやくのだ 「ジャンボ、買え買え」と ^^ゞ
5月14日(土) 次世代が意欲を挫く
デジタル家電メーカーや量販店の収益下降傾向が言われて久しい 売り上げがパッとしない理由のひとつは、私が買わないからだ (^0^)
新しいPCやオーディオ機器など、生活の足しにはならないモノで妖しい魅力を放つモノは少なくないのだが、どうしても買えない 「次世代」という言葉にひっかかるのである
たとえ現時点での最新型を買ったとしても、新聞や雑誌などでは常に「次世代」が喧伝されている 現時点での最新型を買うことが得なのか損なのか、素人には判断が難しい 今使ってるモノでさえ、「店頭でよくわかって購入した」とは言い難いのである^^;
「次世代はこうだ」という言い方の流布は、開かれた情報の時代であることと関連するだろうし、しのぎを削る各メーカーの思惑もあるのだとは思う
しかしブラボーでべら棒な貧乏だと、「次世代」品が出る時は「現世代」品が格安になるだろうと作戦を練り、結局気分が失せて何も買わなかったりする人もけっこう多いのだ σ(^^ゞ
4月11日(月) カロリーマン金太郎
自販機などでの飲食について常々疑問に思っていることがある 例えば百二十円で缶入りジュースを買ったとする 大人も1缶子どもも1缶飲むことになるが、これは正しい道なのか
子どもが足りているのなら大人は足りてない 大人が足りているのなら子どもには多過ぎる 水分量やカロリーを考えれば、そのように見るのが自然だろう 健康知識がひとりひとりに必要な時代なのに、自販機飲料の年齢別摂取量については、いささか無頓着に過ぎやしないか
また、夏場の冷たい飲み物1缶は、小さな子どもには明らかに多過ぎる
小さな子どもには、普通は「金太郎─◇─」をさせこそすれ、冷たいものは極力遠ざけたものである いや、遠ざけられて地団駄踏んでたものである^^;
3月11日(金) 心配なのは赤ん坊!
また電車内のこと 滅多に電車に乗らないせいか、乗るたびに「いかがなものか」な人が目につく ほとんどの「いかがなものか」な人は、「まぁしょうがねえか」で済むような話なのだが、時々、それでは済まない「いかがなものか」な人に出くわす
それは赤ちゃんを抱えた親である(母親とは限らない 父親の場合もある) 座席を譲ろうとすると、たいていは「大丈夫ですから」と言って断ってくるから、「あんたを心配してるんじゃない、その赤ん坊が心配なんだよおっ」と一喝してやりたい(したことはない^^;
万が一、急ブレーキをかけられたら、たぶんそれらの親は赤ん坊もろとも車内をパチンコ玉みたいに転がっていくだろう その万が一に対する心の備えが、全然なってない
赤ちゃんを抱えている時ぐらい、まわりに遠慮なく甘えてほしいものだ 私はできる限り協力を惜しまないよ なんといっても、その子には私の老後がかかってるんだから(^0^)
若いお母さん方お父さん方は、近くの人に遠慮なく甘えなされ
3月5日(土) タックスアンサー
先月末に「迷惑メール」のことを書いたせいか、その直後に私自身がウイルスに感染してしまった o(^∇^o)
喉の痛みから始まって、発熱やら鼻水やら…幸い今は殆ど快復したが、せっかくの春3月が散々な幕開けとは… やはり知らない人からのメールは開けるべきではなかった^^;
2月末は仕事上の年度末であり、確定申告の時期であり、さらに昨年からは「お題曲」総仕上げの時期とも重なるようになった 今年は1月半ばに「お題曲」を仕上げた ほかにもうひとつ、依頼された大切な曲があったので、そちらも作る必要があったためでもある この依頼された曲は、もう少し経ってからアップするつもりだ
確定申告は、例年なら至極簡素な数字が並ぶだけ^^; なのだが、今年はとくに新たに計算して書き込まなければならない非常に複雑な部分が生じ、あちこち調べ回っている最中だ
ただ、国税庁の「タックスアンサー」は、ページ構成がなかなかわかりやすいなぁと感心した 敵ながらあっぱれじゃ(^0^)
2月20日(日) 聴覚の不思議
「不思議な電車音」の続き
自分の身体の音は、ほかのどの音よりも至近にあり、それも決して小さな音ではないだろう 呼吸音や心臓音血流音はその代表だが、ほかにも軋む音やうごめく音など、様々な音が体内を走っていると思う
でも、何故聞こえないのだろう (^^?)
これも恐らく、聞こえないように体内スイッチがセットされているのだと思う 自分の体内音は異物ではない そのことが、胎児から幼児へのいずれかの時点で、きちんと仕組まれるのだ
私の記憶によると…大変覚束ない記憶ではあるが…幼児の頃は、自分の体内音がわりあいによく聞こえていた気がする いや、たんに母親の胎内音を恋しがって、胎児時の記憶をテープやMDのように再生していたということかも知れないが…
2月17日(木) 不思議な電車音
ウォークマンのシャカシャカ音、ケータイの呼び出し音や話し声、各駅の発車合図音、電車内での車掌のアナウンス…そのどれよりも、電車の走行音は大きいし、絶え間ない それなのに、「電車の音が大きい!」と車内で腹を立てる人はいない 何故だ (^^?)
たぶんだが、走行を続けるにつれ、走行音は各人の人体にとって異物ではなくなってくるのだ 音も振動も身体全体で受け止めざるを得ず、身体全体でなじんでいく 本当はきわめて危険な音であり振動なのだが、動物のもつ危機回避術のひとつなのだろう カメレオンみたいに、自分を電車化するのだ 元祖電車男電車女である^^;
そのほかの車内でのさまざまな音は、耳という特定の感覚器官だけを、しかも唯一ふたのできない感覚器官だけを、ちょびちょび刺激する 出現の仕方が不規則で、刺激したりしなくなったりする 音側のその身勝手さに、私たちは苛立つのだろう 自分をシャカシャカ化、ケータイ化することができない苛立ちである
2004年
12月25日(土) ルミナとミレナ
その近くに住んでいたり仕事で寄れる道ならば、1度は現場へ行き、その法悦パワーを味わいたいと思う しかし同時に、こんなことやっていいのかとも思う 神戸ルミナリエ、東京ミレナリオなどの大電飾だ
あそこまでやったらたしかに圧巻 たんに綺麗というだけでなく、その光体験は心に何がしかの変容をすら迫ると思う しかし、帰宅して我が家を見れば切れかかった蛍光灯…いや、そうではなくて (^^;ゞ
率直に言って、あそこまでやることないだろう、と思う あの豪奢さは、小さくつましい心持ちを冒涜(ぼうとく)している気がするのだ 小さくつましい毎日だからこそ、祝祭があることはわかる しかし、モノには限度がある 視覚に訴える豪奢さに惹かれない者はないだけに、かえって罪深い
…でも1度は近くで見てみたいなあ (^0^)
12月9日(木) 背後霊が喝ッ
エスカレータで、階段で、電車・バス車内で いったいその人は何を考えているのか…情けないです
その人の後ろに私はいる 私の顔の前にせり出されるリュック・サック、ナップ・ザックの類い
その人が振り返る 私はリュックに殴られる
その人が立ち止まる 私のアゴはリュックに激突する
「自分の体躯と同じ幅ほどの膨満物を背中に宿していること」及び「2人分の空間を、意識しない背後で振り回していること」で、その後ろで苦痛に喘ぐ者がいるのだ わかっているのか
リュック占有空間は、リュック持ちの権利か? いや、マジにそうなの?
関係機関には、「ダメ、ゼッタイ」のリュック版を、ぜひ作ってもらいたいです
11月28日(日) 初冬の色
黄や赤に変色した葉っぱの、多くはもう路上に落ちている裏通り 落ち葉をカサカサカサと鳴らしながら、後ろから車が追い抜いていった
巻き上がった風と落ち葉と埃が、私の身体に当たる このときの幸福感は、例えば春の桜吹雪を浴びたときの酔いしれる至福感とは、全く違うものだ
この幸福感の材料は、車によって巻き起こった不規則な風であり、巻き上げられて埃とともに身体に当たった切れ切れの落ち葉であり、青く乾いた空である
喧騒と排気ガスが育てたような枝々が、異様に美しく静かなあの世を垣間見せてくれた
点々と木々の並ぶ無計画で無神経な街なか 明るい日を受けてはいるが、既に空気は否応なく冷たい
10月22日(金) 記号より名前
記憶に残る最初の台風は、第2室戸台風である 小学3年であった
翌日、学校に来られない友だちも多く、誰々さんちに水がこのくらいまで上がった、誰々さんちの豚が流されたなどと、子どもながらに緊迫した雰囲気は、今でもよく覚えている
それは、第2室戸台風という名前のおかげであろう
仮に、「昭和36年の台風18号」と呼ばれていたら、果たして濃密な記憶と結びついたかどうか…
最近、台風の被害レベルを表す際に、「平成△年の台風○○号以来」のような言い方をする
それがアノ台風であったか、コノ台風であったか、その当時の「時代の空気」みたいなものと共に瞬時によみがえらせることは到底できない
単なるデータとは違うのである 固有の名前をつけられないものなのだろうか
H2SO4 より硫酸でしょ (^^;
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