ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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2012年

7月19日(木) 不自然な強制捜査

大津警察が中学校などを家宅捜索したことについて、メディアなどは「やっと重い腰を上げた」と前向きの報道をしている  私は、違う気がする  第三者で調査委員会を作ると市長が明言した直後の突然の強制捜査  不自然である  警察が全資料を持っていってしまったのだから、これから立ち上がる第三者委員会が何を言おうと、資料など見せてくれない  門前払いだ


警察が何をもって強制捜査が必要だと判断したのか、そこがよくわからない  3度にわたる被害届けを受理しておらず、誰もまだ告訴していなかったのだ  事件の存在を「なにで」知ったのか  当時はもっぱらネット掲示板での大騒ぎやそれに触発されたようなTV・新聞などの報道があっただけだ  それだけでも捜査はあり得るだろう  だが強制捜査となれば話は別だ


内偵捜査を重ねた挙句でもなさそうだし、いったい何故いきなり強制捜査なのだ  しかも警備服を着て段ボール箱を抱えて…  強制捜査の元になったモノは何なのかが知りたい  ネットやメディアが大騒ぎしていたからか  大騒ぎすると強制捜査してくれるのか  今後7〜8年は、一切の資料が裁判関係者の他には隠された状態になるのだ  真の狙いはその辺か

7月15日(日) 誤解されやすい数学用語

中学数学の教科書を書いている専門家や学校教師だと、当たり前のこととして何も注意を払わないのかも知れないが、多くの子どもが最初にまごつくのは「移項」という用語である  1次方程式の解法の基本として、ごく初期に習うものだ  移項とは何か  何故移項という用語なのか  多くの子どもがこの用語を誤解してバツを貰い、方程式がわからないと言い出すのだ


左辺から右辺、右辺から左辺に項を移すのが移項だが、私は「移辺」、あるいは「飛び辺」と呼ぶ方がいいと思う  「=」を飛び越えて移るからだ  移項は「項を移動させる」という意味で、子どもは字義通りに考えてしまう  a+3=2a−1  aー2a=+1−3  2aや3の移項は成功しているが、右辺の−1が+1になっている  項の位置が移ったから、子どもはそうしている


中1では、+7−4+5−3=+7+5−4−3=…という正負の計算を習っており、正負の項の位置を移しても符号が変わらないことは経験済みではあるし、小学算数でも十分習っている  だが敵は方程式  子どもにとっては別物なのだ  移項という用語からは、項の位置を移すという意味しか伝わらない  辺をまたぐこともあり、辺内での移動もある  誤解が生じやすい

2011年

11月3日(木) 教科書品質保証

沖縄県竹富町の教科書採択問題は、問題が大きくなるにつれて事柄の本質からずれてきた気がする  教科書は無償  これがシンプルな本質だ  いったい何が問題なんだ  採択について自治体単位であるか広域採択であるかなど、そもそも便宜上の制度に過ぎない  本来は学校ごとの採択も可能だったはずなのだ  むしろ学校単位こそ推奨されていいくらいだ


文科省検定を通っていることに意味があるとすれば、学校単位での採択も可能なほどに品質がいいということだろう  少し間抜けな先生が選んでもまァ大丈夫なレベルなのだ  それとも現場には任せられないほど、検定された教科書には問題アリなのか  どれを選んでも全国均一のレベルを保てるのが検定の目的だったはずだ  検定とは教科書品質保証制度なのだ


それにしても、だ  教科書はそれほどのものなのだろうか  本欄では以前にもこのことを書いた  論ずるほどのことなのか  私にはそこのところがどうもよくわからない  教科書がすべてであるかのような言い方をする人  それは嘘だと思います  「教科書は大事だけれど…」と言いたいが、いいえ実はそれほど大事ではありません  公民の教科書、覚えてますか

2010年

11月3日(水) 好きな者どうし

群馬の小学6年生の悲しい事件で気になったのが、「好きな者どうし」で班を作っていたということ  小学生が言う「好きな者どうし」なる言葉に、大人は騙されてはいけないし乗ってはいけないと思う  子どもなりに論の立つ者もいるから、そういう子がいろいろ言って雰囲気を引っ張ることはあるだろう  しかし他のことはともかく、座席や班で「好きな者どうし」は御法度だ


フィンガー5「学園天国」が流行ったのは私がもう成人した後だが、「まったくその通りだぜ、よくこんな歌作ったな」と感心したものである  子どもの頃を思い出しても、席替えや班編成はやはり「学園天国」そのままで、ある意味「命がけ」みたいなところがあった^^;  それだけに、子どもの勝手気まま欲しいがままにさせてはならない領分であり、担任の専権事項だと思う


教師が多忙なのはわかるし6年生だからある程度の自主を重んじるのは必要だとは思う  しかし「好きな者どうし」で班を作るのは、はっきり言って担任の怠慢だ  「好きな者どうし」に、子どもの多くは手を叩いて喜ぶだろうが、取り残されて泣く子も生じるはずだ  泣く子が1人でもいたら大失敗である  しかも取り返しのつかない大失敗なのだ  絶対にやってはならない

8月26日(木) とこそいひけれ

古文を習った人ならまず忘れない唯一の魔法の言葉  それが「係り結びの法則」だ  どういう法則かは忘れても、この名前は記憶に残っているに違いない  私の場合は高校で大量の古文を習い、その殆どをノートに書写させられ、すべてについて品詞分解を命じられて本文の脇に書き込み、ようやく何とか「連体形」だの「已然形」だのを見分けられるようになった


その長い道の先にようやく、古文特有のきまりとして「係り結びの法則」があったのだ  例えば文末に「けり」という助動詞を使う場合、「ぞ・なむ・や・か」のアトなら連体形「ける」になり、「こそ」のアトなら已然形「けれ」になる  相当難しいものであった  なにしろ「けり」の「連体形」「已然形」を覚えていなくてはならないからだ  そしてもちろん文末は「けり」だけではない


この困難極まる「係り結びの法則」を今は中学生段階で教わることになっている  多くの国民は知らないに違いない  もし知っていたら、各地で反乱が起きるはず  係り結びの乱^^;  実は私、中学生に「係り結びの法則」を教えられないで困っている  試験にはよく出るから少しは触れるが、少しだ  已然形もへったくれもない中学生に、どうやって教えればいいのだ

7月15日(木) 名僧対決2

昔のお坊さんは複数の寺で修行した  高野山で学んだ僧侶がその後比叡山で学んだり、比叡山僧が高野山で学んだ  留学である  だから比叡山出身の僧侶といっても、始めから終わりまで比叡山で修行を積んだ人は、むしろまれであったろう  しかしながら、平安鎌倉室町時代を通じて、誰もがその名を知るお坊さんはたいてい最終学歴・主要学歴が比叡山である


そしてそれらのお坊さんの唱える教えは、およそ密教とは遠いところにあるように思う  私の大雑把な考えはこうだ  密教は、密教グッズ一式がある特定の場所へ行かなければ、仏様に相まみえることができない  しかし比叡山から輩出した教えは、お坊さん自ら人々の中に入っていき、わかりやすく簡略であることが肝心なのだ  密教との最大の違いはこの点だろう


空海は各地に伝説を残したほど人々に親しまれているはずだが、そのわりには私の中で印象が薄い  後に続く人が困るほどに完璧な、密教という完全無欠の大ヒットを飛ばした一発屋  それに対して最澄は、最澄一代では終わりにならなかった  ヒットはしなかったが、日本の歴史にじんわり効いてきた  いろんなお坊さんが出るので、受験生にはかなり迷惑だが^^;

7月10日(土) 名僧対決

ライバルといってもいろいろあるが、名僧対決というのはどうだろう  歴史に残るライバル名僧としては、最澄と空海がおもしろい  2人は同じ時期の遣唐使として唐に渡った  ひと口に遣唐使といっても、2人の選ばれ方には違いがあったらしい  最澄は公式の学問僧として選任され、空海は今でいう「公募」に応募して受かったというタイプだったようだ


最澄は短期派遣型であり、半年ぐらいで帰国した  空海は民間人だったせいか、何年も滞在できて心行くまで研究に没頭できた  この差が、帰国後の2人の明暗を分けた  空海が持ち返った密教哲理は完璧であり、先に帰国して密教を広めていた最澄を圧倒してしまったのだ  空海の完全に対して最澄の不全未熟は明らかであった  権力者は空海に群がることとなった


だがここから先が歴史の妙味  実は最澄の後継者から歴史に残る高僧が輩出した  何故か  不全未熟のまま持ち返った教義を前に、最澄は悩み抜き、他の僧たちと議論を重ねざるを得なかった  穴ボコだらけの理論  不完全ゆえに議論の余地が残り、結果として比叡山延暦寺では「考える僧」「行動する僧」を生んできたのだ  ただ…、人気はやはり空海が高いかな^^

6月28日(月) とめはねっ

小・中学校に蔓延する「漢字とめ・はね」指導は、どうも異常な感じがするなァ  そんな風に思うようになってもうずいぶん時がたつ  現実に子どもが「とめてないからバツになった」「はねてないからバツだって」というのを目の前にすると、教科書の字体通りに練習せざるを得なくなる  子供の頃、私自身が「とめ・はね」を厳密に指導されたのは「競」ぐらいしか記憶にない


今でも常用漢字表には、「とめ・はね」にこだわらなくてよい、つまりどちらでもよいという意味内容の記載があるのだ  それなのに学校の国語教師は何故「とめ・はね」にこだわるのだろう  理由はいくつか考えられるが、最大の理由は「教師自身が漢字に自信がない」ことだろう  大人だから知ってる漢字量は多いだろうが、使用の質においては生徒レベルと大きな差はない


だから、「とめ・はね」という細部をことさら大きくして、主導権を握る  次に大きな理由は、指導や採点がラクだからだ  子どもが疑問をぶつけても、「教科書と違うでしょ」とひとこと言えば、おしまいである  子どもが教科書を絶対視する心理を利用して、うまいことラクをしている  そもそも「とめ・はね」以前に、筆順指導はいったいどうなってるんだ  滅茶苦茶です

6月2日(水) お菓子物語

先日、所用で東京・銀座まで出かけた折り、洋菓子店の隅にある喫茶コーナーに立ち寄った  洋菓子が目的というよりもコーヒーが飲みたくて入ったのだが、出てきたケーキがとても旨かった  食べながら、この街の何処かで今も活躍中の、ある老婦人を思い出した  面識も何もない  仕事を選ぶのに際して、あぁこういうきっかけもあるんだなぁと、感心したことがある


聞いたか読んだかした話である  日本が戦争に負けて数年後  まだ砂糖も何も手に入りにくく、ましてお菓子など望むべくもなかった頃だ  ある地方の小学校の1人の先生が、どういうわけかカステラを手に入れた  児童に食べさせることにして、教室に持ち込んだそうだ  皆の前で包丁で50等分ぐらいしたのだろう  その頃の教室はそのくらいの人数であふれ返っていた


1人分は小指の先程の大きさ  それでも、カステラをもらった子どもたちは大喜びだ  その中に、「こんなにおいしい物があるなんて」と、目を丸くして味わっている女の子がいた  この時のカステラの味が忘れられず、やがてお菓子の工場に勤めるようになったその子は、後に自分の腕で銀座に洋菓子店を開いた  小指の先程のカステラが、人生を決めることだってある

4月18日(日) 鉛筆削り器

鉛筆がどんどん溜まっていくので困る  短くなっても捨てられないから溜まる一方  捨てられないわけは、短くなっても鉛筆は鉛筆、立派に使えると思うからだ  でも実際には短いのはもう使わずに、新しいのをケースから取り出して鉛筆削り器でゴリゴリやってる  なぜこんなことになるかというと、その原因の大半は鉛筆削り器にあることがわかっている


手動でも電動でも、鉛筆削り器は鉛筆を完全には使わせてくれない  だいたい半分ぐらいの長さになったところで、中に差し込むのが難しくなるのだ  つまり、削り穴に全体がすっぽり入り込んでしまって、削ることができなくなる  昔からこうなのだ  それで以前は「鉛筆削り器否定論」みたいなのが結構声高に言われ、子供だった私の耳にも目にも入ってきたものであった


それら否定論の多くは、ラクをするな、ナイフを使うように教えるべきだ、との考えから出てきたように記憶している  ナイフを使うようにというのには全く異論はないが、ラクをすることを否定することもないと思う  むしろ鉛筆削り器の場合、「鉛筆を半分ぐらいしか使わせない」構造は、エコ問題でよく引き合いに出される割り箸より大きな問題かも知れない

2007年

8月5日(日) 肝心帳2

昨日の続き  「電気回路と電流・電圧の関係」がなぜ覚えにくいかというと、似たような言い回しで4つの区別を一度に覚えなくてはならないからだ  「直列回路では電流はどこを測っても一定」「直列回路では電圧は分値する」「並列回路では電流は分値する」「並列回路では電圧はどこを測っても一定」  理科が特に好きな人でない限り、これを理解して覚えるのは無理だ


小さな子でも富士山がわかるのは、特別な形をした山が1個だけそびえているからだ  似た山が4つ並んでいたら、地元の人でない限りどれが富士山か瞬時には言えないだろう  話を電気回路に戻すと、私たちは家庭で電気を使っているわけだから、家庭の電気回路を思い出すのがいちばんである  1箇所スイッチを切ってもほかはついている  これが並列回路の特長だ


そして家庭では30Aなど使える電流の総合計が決まっていて、それを越えると停電する  「おまえが扇風機をつけたからだ!扇風機を止めろ!」などのやり取りは多くの人の経験するところである  つまり家庭では(並列回路では)電流は分値して、器具ごとに分け合って使われるのだ  家庭内の回路が並列回路であることを覚えれば、4つの区別はたやすい…かも知れない

8月4日(土) 肝心帳

天気予報も地震速報も、最近は内容が細かくなり過ぎて、必要な情報がなかなか伝わらない  肝心なことをひとつだけ伝えて欲しいのに、伝える側はそれができない  あれこれ詰め込み過ぎた過剰な解説  TVやラジオは時間軸上に展開するメディアだから、必要な情報が出てくるまで待たなくてはならない  肝心なことを最初にひとつだけ伝えてほしいものだ


ところで、昔から子どもを悩ませてきた理科の分野に、「電気回路」がある  「直列」と「並列」それぞれについて電流と電圧がどう変化するかという、アレだ  これを「直列回路の電流」「並列回路の電流」「直列回路の電圧」「並列回路の電圧」の4通り丸ごと覚えられる人は幸いだ  多くの場合、暗記のための暗記だからスグ忘れてしまう  私もそうだった


肝心なことをひとつだけ教えてほしかった  肝心なことをひとつだけ、それは「家庭内の電気回路は並列回路」ということだ(笑うべからず  入試に理科がない大学を日本中探し求めたくらい、理科が苦手でした…)  家庭内では、どこをどう測っても電圧は一定であり、例えば100Vで動く電気器具をどこのコンセントにつないでも大丈夫  そう教えてほしかった

6月10日(日) 乗るに乗れないバス

その日はかなり暑かった  とあるバス停には私を含め7人ほどが並んでいた  やってきたバスに乗り込もうとしたら、乗車口が開かない  見ると、部活動の試合帰りとおぼしき女子中学生が数人、運転席脇の降車口から降りてきた  その後にまた数人が、今度は両替をしているようだった  遅い  暑い  普段ここから乗るときには、サッと乗れたのに、まあ仕方ないか


それが甘かった  先の数人が降りると次の集団が座席から立ち上がるのが見えて、なんだァ、まだいたのか、ということが繰り返された  次から次に、いったい何人乗ってるのかわからない  あとからあとから立ち上がるのが、ガラス窓越しに見えた  ときに両替をし、やたらに時間を食う  驚いたことに、彼女たちはひとりひとり運賃を支払っていたのだ


普通は引率教師かキャプテンが一括して支払うとか、あるいはバス共通カードでまとめて支払うとか、何か策があるだろう、こういう場合  このチームは状況判断ができずバラバラで、かなり弱いとみた(笑)  生徒は全部で30人はいたようだ  結局10分ほど、炎天下の開かない扉の前で待たされた  引率教師がいたはずだが、♪誰が生徒か先生か、わからなかった^^;

2月6日(月) 給食の光と影

私が体験した「給食のよいところ」は、嫌いなものが食べられるようになったことだ  一般に子どもが嫌うといわれる人参ピーマンなどは何でもなかったが、「白いモノ系」が駄目だった  脱脂粉乳はもちろん、ホワイトシチューなども駄目  私にとって脱脂粉乳は、まずいから駄目なのではなくて、白いから駄目だったのだ  ところが、小学5年か6年の頃、変化が生まれた


ある日、ガバリと食べたのだ  「なんだ、おいしいじゃん」  さあ、それからは今まで損してた気分になったのか、ホワイトシチューが出ると、人の1.5倍は食べた  脱脂粉乳も人よりたくさん飲んだ  何故食べられるようになったのか、わからない  わかるのは、これが弁当持参だったらずっと食べられないままだったろうということだ  残す食べ物は入れないだろうから


給食に、そういう利点があるのは十分わかる  しかし最近の給食費未納問題で私が驚き、こんなことなら給食などなくした方がいいとまで感じたのは、未納のことではない  月々の給食費を教師が集めている学校が未だに少なくないということだ  これは学校教師のすることではない  学校教師に、させることではない  給食費の徴収は、役場の仕事ではないだろうか

1月14日(日) ある作文

1度読んでみたいと願っている、子どもの作文がある  しかしそれはたぶん叶わないだろう  何故なら現在60歳代か70歳代の人の、小学生の頃の作文だから  タイトルは「辞書を読む」  これも、私の記憶に間違いがなければの話である  もっとも、作文コンクールで最高賞を取ったという作文だから、図書館等然るべき所を調べればわかるかも知れないが…


読書感想文の宿題が出た  その子の家は大変貧しくて、家には読書感想文を書けるような本がなかったらしい  ただ一冊、どういうわけか国語辞典があった  その子はそれを読んで、ひとつひとつの言葉について思うところ感じるところを書き、それを感想文として提出したそうである  それが思いもかけず先生方の目にとまり、全国規模のコンクールへ出したという話だ


恐らく、戦後間もない頃の話であろう  こういう作文があることを知ったのは、二十歳前後の頃で、たしか教育関連の本で読んだ  私がこの作文に興味を抱くのは、その来歴に作為とか功名心が全くないことだ  仕方なく提出された作文が、教師たちの度肝を抜き、あまつさえ日本一になった  痛快ではないか  半世紀以上経った今でも、恐らく読む値打ちはあるだろう

2006年

12月17日(日) 教育基本法

スリム  現行教育基本法が大勢の支持を得ているのは、それがとてもスリムで簡潔だからだ  全部で11条しかない  恐らく法律の中で最も簡潔で美しい法律ではないだろうか  先日成立した新教育基本法は、あれこれ盛り込み過ぎて、メタボリック症候群に似ただぶだぶ感を否めない  読んでいてすっと頭に入らないのは、歳のせいばかりとは言い切れないだろう


合獣「ぬえ」  改正推進者は、現行教育基本法が占領政策の一環として作られたと強調する  そういう経緯のある法律を否定したいならば条文を作り直すべきなのに、多くの条文は字面(じづら)では現行法を踏襲している  その上で古い体制への回帰を付け足しのように、しかし巧妙に主体を入れ替えて記述しているから、猿狸蛇虎の合獣「ぬえ」に似た、いやな感じを与える


ティッシュ王子  新聞やTVには、与党野党の駆け引きばかりが載っていて、市民運動がどうなってるかは全然わからなかった  ネットで初めてわかる程度では、広範な運動とは言えない  口幅ったいことを言うようだが、運動の仕方が時代に合わないのではないか  ティッシュ配りなんか、いいと思うけど  私は、貰ったティッシュは大抵しげしげ見る方だから(^0^)

12月11日(月) 断念のあとに2

時々刻々に不自由な自分に直面せざるを得ない障害児の日常には、酷さ(むごさ)と幸いを覚えると言ったら叱られるか…  障害児の心やその変化にとくに詳しいわけではないから、推測の域を出ないが…  自分が他の人とはどうやら違うようだと気づいた時や、他の人と同じようには動けない、生活できない、という事実を日々つきつけられるのは、若ければ若いほど残酷だ


しかし同時に、見ないふりをしたくても不可能なほどにあらわな障害があることは、他の誰よりも早く、厳密に、自分の限界と向き合うことになる  若い人には可能性があるという言葉の明るい嘘と薄っぺらさに、日々の不自由さの事実を通し直面しなくてはならない  可能性はないのだ  自分には多くの可能性が既にないことを、障害児は他の誰よりも早く厳しく、理解する


そして誰よりも丁寧に納得し呑み込むに違いないのだ、自分が他の人の力を借りなくては生きていけない存在であることを  昨日(10日)書いた「断念」とはこの意味である  自分本位を噛み切るというか、自力と訣別するというか、他人の力頼みで生きるしかないと決めるのは、考えてみれば凄いことである  いじめなど生まれる余地のない世界へのヒントが、ここにある

12月10日(日) 断念のあとに

グレた障害児、あるいはいじめに走る視覚聴覚肢体不自由の中高生は存在するだろうか  ある程度の統計を示し得るほどに、その方面の研究を続けている研究者はいるだろうか  政府などが行う各種調査に、素行不良障害児のデータは入っているんだろうか  一般に論議されないのは、仮に素行不良障害児がいたとしても数が少なく、問題にならないということだろうか


通常は、素行不良児の問題ではその子を取り巻く環境がひとつのポイントになるのは確かだ  それに重きを置くか否かは別にして、避けて通れるポイントではない  ところが障害児の場合、取り巻く環境どころか、自分自身が「不全」なのだ  思い通りにならない自分に苛立つことは健常児の比ではない  「むしゃくしゃして」物凄いワルになって然るべきではなかろうか


障害児に「善」を見るのは勝手な思い込みで、実際には「もしも障害がなかったら他人を痛めてやまない」邪悪心の持ち主もいると思う  では事実として、他人を痛めたい心を抑え得るのは何故か  ここで思いやりとか周囲の愛情とかを持ち出さないことが肝心だ  私の考えでは、障害児自身が何年もの葛藤の末に、歯ぎしりしつつ限界を受け入れ自分を断念するからなのだ

11月28日(火)教室のグレーゾーン

え   …と思った  いじめた子は出席停止  教育再生会議が伝家の宝刀を使えと言う  いじめた子が誰なのか、本当にわかるケースは少ないだろうに…  目立つ数人の加害者を出席停止にすれば済むほどには、いじめは単純ではない  ひとりの被害者に対し、グレーゾーンに属する多数の子どもがいるのだ  濃淡はあっても、クラスの殆どが関わるいじめだってある


グレーゾーンにいる者を指して、「あいつだってやってた」「あいつはどうなんだ」「知らんふりしてたあいつは」という加害者たちの勝手な言い分を、果たして抑えることができるだろうか  いじめる者はワラをもつかむのだ  自分たちだけではないという反攻に出ることは必定  その反攻を抑え得る学校ならいいが、抑えられない学校も多いだろう  後者が普通かも知れない


教室には磁界がある  教室にいる者は、力をもつ子どもが出す磁力線と無縁には存在できないものだ  従うか否かは別として、力をもつ子どもの存在と言動には誰もが注意を払う  ある子が「自分はいじめには加わっていない」と言い、また事実その通りだとしよう  加わっていないとしても、それは健全なことか  教室の磁界の中でその子はどういう方向を向いているのだ

11月23日(木) 八っつあん熊さん

個性という言葉を、私はあまり好きではない  決して使わないというほどでもないし、時々はたしかに使っているけれど、こと「教育や子どもに関する話」の中では、日常でもネット上でもまず使わない  個性という言葉には、話を封殺したり人をケムに巻くようなところがあると思う  黄門様の印籠のようなこの言葉に出会うと、もう少し別の言い方がないものかと考えたりする


同じように子どもがいて、同じように忙しい大人がいて、同じように悪い奴らがいた江戸時代、個性などという言葉に振り回されずに、子どもは十分に生きていたのだ  幕末から明治初期に来日した西洋人が口を揃えて褒め称えたのは、日本という風土の高潔さだったという  子どもを慈しみ心から大切にする上に、街道沿いの町々村々はよく清掃されて清潔だったらしい


最近「そうじ力」という人間改造法が流行ってるようだが、あれこれ言わずに毎日やればいいだけだ  でも、そうじブームは今後も続いてほしい  これでまた一歩、江戸時代に近づく(笑)  教育基本法書き直しに反対する人の多くは戦前への回帰を危惧しており、私もそれは同じなのだが、じゃあどうするかというと、私の場合は最小限の規範で十分な江戸回帰である(^0^)

11月17日(金) いじめ

そいつはたしかに少し弱かった  身体も小さく頭の回転も普通よりは遅いと、ボクにもわかった  それでそいつに目をつけて追いかけ回したんだ  どういうきっかけがあったのかは、いくら記憶を辿っても思い出せない  でも、実際何かのきっかけがあったんだろう  運動会が終わり秋も深まる時期、ボクはそいつを追い詰めては逃がし、追い詰めては逃がしを繰り返した


休み時間になるとそいつを探した  そいつはたいていひとりでいて、ボクが近づくと逃げ出すようになったんだ  別に暴力をはたらいたわけではない  ボクは平和主義者だ  乱暴はきらいだ  だから、そいつが何故逃げるようになったのか、そこが思い出せない  やはり実際には何かきっかけがあったんだろう  とにかく、そいつがいやがって逃げるのがおもしろかった


ニヤニヤ笑いをして近づき、何をしたかというと、特に何もしなかった  そんなことが2週間ほど続いた後、そいつは遂に先生に言いつけたんだ  たぶんその幼稚園始まって以来最大級の叱責を受け、ボクは真人間になった  ボク5歳  以来2度といじめ情動など湧かなくなった  ぼんやりしてたそいつは十数年後、悩めるボクに「おめえ、だいじょぶか」と声をかけてくれた

11月4日(土) 未履修レポート提出

きちんと履修してきた人は、未履修者救済策に対して「ずるい」「損した気分だ」などと言ってはいけない  きちんと履修してきた自分や学校の姿勢に誇りを持っていれば、他人の処遇と比較して不満を吐くなど、そもそも発想としてあり得ないのではないだろうか  命を賭けた武蔵と小次郎ですら、「長い刀はずるい」「櫓(ろ)かよ…俺の方が損じゃん」などとは言わなかったよ


教科書はどうなっていたんだろう  私はこれがいちばん疑問である  教科書販売店では、販売実績を逐一報告しているはずである  個々の高校名は不明でも、一帯の全生徒数と教科書販売数に矛盾があるかないか、役所のどこかの部署が調べてはいなかったのだろうか  それとも高校の教科書販売は、小中学校の教科書ほど厳密なチェックはしないものなのだろうか


国際感覚を培うという理由なら、世界史ではなく地理を必修にした方がいいように思う  地理はすべての教科を含んでおり、地理を学んでいて歴史に触れないことはないからだ  それに我々日本人にとって、歴史を重点に学んだ方がいい地域と、地理を重点に学んだ方がいい地域という区別は、確実に存在する  何もかも順を追ってすべてを、というのは上策ではない

10月30日(月) 私の未履修単位

人生の其処彼処(そこかしこ)において、無駄な努力というものを私はしてきた  努力したけど結果が出なかったというのではない  はじめから、意味がなく無駄だとわかっていても、どうしてもそこに足を踏み入れてしまう  かつて日本人の心性について、本居宣長が「もののあはれ」を言い、九鬼周造が「いき」を言ったように、私はここで「むだなどりょく」を言いたい(^0^)


大学4年のときだ  教育学部生であった私が、どうしても経済学部の講義を受けたい誘惑に駆られ、ある講義の受講票を出した  その授業の教授は「きみがこれを受けても卒業に必要な単位にはなりませんよ」と忠告してくれた  「わかっています」と応え、教室の端に座らせてもらうことになった  ただでさえ不足単位取得にやっきになる時期に、正気の沙汰ではない


見知った顔のひとつもない教室に半年間通ったが、始めから終わりまで、何を言ってるのか皆目わからなかった  話されているのは日本語なのに、言葉が頭に入らない  しかし奇妙に、わからないという時空間を愉しんでいたようなところもある  意味のない時間ではあったが…  高校生の必修単位未履修などの言葉を毎日聞きながら、そんなことを思い出した

5月16日(火) 重い教科書問題

新聞やTVなどで教科書論議をする人の多くは、現場で何が起きているかを知らないのではないか  教科書会社間の競争が激しくなり、大判多色刷りに加えて必要以上に立派な紙質  子どもが持つにはあまりにも重い  多い日には1日5、6冊とノート、副教材も入れたカバンの重さは、スーパーで大根じゃがいも玉ねぎキャベツ味噌醤油牛乳を買った時の比ではない^^;


私自身、厚く重い教科書を解体し、その日の分だけ持っていった経験がある  でもそれは高校生の頃の話  ところが現在は、中学生小学生にまで重い教科書問題が広がっているのだ  登下校時の行動の自由も制約され危険である  教科書を学校に置いて帰ることを、条件付で黙認している学校もある  これでは教科書で学んだ内容に愛着を持てないのも仕方がない


愛着のないものには郷愁も湧かない  前回(13日)、社会よりも国語を問題にしてほしいと書いたが、その理由は「郷愁」である  「ひらがな」から始まり文章の一字一句を何度もおさらいする国語  時間をかけて教えれば、「国を愛する心」など、言わずとも国語を通して身に備わっていく  誰でも、心をこめて学んだ「国の言葉」を、ないがしろにはできないはずだから

5月13日(土) 教育論議の歪み

教育基本法改正論議のヘンなとこ  戦後教育が基本法に沿ってちゃんと為されてきたかのような立場でモノ言う人が多い  基本法など殆ど関係なくやってきたのではないのか  例えば、第1条にある「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重んじ」が、どれほどないがしろにされてきたか、あるいはやり方を間違えてきたかは、現状を見ればわかる


教科書問題でも似たことがある  検定のたびに「文言の一字一句」が問題になるが、それほどのモノなのかよ、教科書は…  文言を問題視する人たちのどれだけの人が、教科書で熱心に勉強したというのだ(爆)  私の考えでは、教科書でいちばん問題なのは、普通の本屋で手に入らないことなのだよ  ってゆうかァ、社会よりも国語を問題にしてほしいって感じィ


教科書は絶対ではないし、教育は万能ではない  小学校中学校で行われる基礎教育というものは、実に「いい加減」な面の多いアバウトな作業なのだ  やってることがホントに効果があるのかすら、まるでわからない仕事である  そのことをまず認め合わないといけない  全然ダメだったってことはよくある(泣)  建前なんかもうたくさんだ

4月24日(月) 夕方のような朝に

まれにではあるが、学校教師の言動に違和感を覚えることがある  例えば、朝登校すると校門付近で先生数人が待っているシーン  少なからぬ人の記憶にあると思う  遅れてきた生徒をチェックする、アレだ  別に構わない  さしたる理由もなく遅れた生徒が悪いんだから
それほど時間に厳しいなら、さぞや帰りも厳しかろう


と思いきや、帰りは案外ずぼらであるのが、近頃の学校のスゴい所だ  下校最終時刻というのがたぶん決まっているだろうに、従わない剛の者がいるのだ  朝、厳しく遅刻チェックをしていたアノ先生が、何故か刻限を過ぎても部活動を続けているという図は、おそらく全国かなりの数に上るだろう  矛盾である  しかし相手は剛の者だ  うかつなことは言えない


朝は1秒でも遅れたら遅刻扱いで担任に報告されたりするのに、夕方のずぼら加減は目を覆うばかり  いや私としては、夕方はずぼらでいいから、朝も同様にずぼらにしてほしい  どれほどの子どもが救われることだろう  その子の意志の力ではどうにもならない事情による遅刻常習が、実はけっこうあるからだ  責任のないことで責められては、子どもはつらいよ

4月23日(日) 教育界カルい言葉

「児童生徒の内心にまで立ち至って強制するものではない」と明示のあった国旗国歌法  東京都は通達という「条例よりは弱めな感じの、しかし強制力のある」方法によって、当初の政府明示をなしくずしにした  この「内心にまで立ち至って」という表現は、今考えれば実に巧妙な表現であった  「内心は問わないが、形だけは強制するものである」と暗示していたのである


もっとも、なしくずしにかけては教員サイドも負けてはいない  1992年、学校隔週5日制が始まった折り、週2回の土曜休みについて、この人たちは何と言ったか  うるわしくもこう語ったのである  「子どもを家庭に返す」  休みが増えたことでますます部活動に時間を割かれるのを懸念した世論に対して、「土曜休みには部活なし」と学校の人たちは公言したのだ


それどころか、細々と営んでいる極小零細学習塾(私んち^^;にまで、名刺を持った学校長がやってきて、「どうか土曜休みの趣旨をご理解賜り云々」と、要するに「塾が子どもの時間を奪わぬように」と、頼みに来たほどだ  ところが気がつけば、いつの間にやらすべてはなしくずしさ  土曜休みに部活動は当たり前  世間に向けて組織をあげてついた大嘘を、私は忘れない

2月14日(火) 若者たち

小学生に株取り引きをさせるのは、たとえ模擬であってもよくない──電車で隣にすわった学生らしい数人が、そんな話を交わしていた  車内でしばしば遭遇する、場違いに声高な言い合い──オレのアタシの話を聞けタイプ──ではなく、その場の若者誰もが車内にふさわしい声で意見のやり取りをしていた  それで私も隣で傍聴していた…というより謹んで拝聴していた


働くということがどういうことかを知る前の段階で、儲けた損したという目で見る株の手法を身につけさせるのはよくない  その若者たちは、そういう考えで一致していたようだ  株価予想が的中し大儲けでもしたら、将来いったいどんな仕事に満足できるのか  どうしてもやらせるのなら、「株で成功する体験」ではなく「株で失敗する体験」の方がずっといい、とも話していた


もっと聞いていたかったが、若者たちは途中駅で降りていった  以上は数日前のこと  若者が電車の中で<時事問題を><静かに>議論している姿など、一生に一度お目にかかるかどうかだ  大変ありがたく、その日はそのあとずっと気分が爽やかだった  そうしたら今日の新聞で齋藤孝・明大教授が「若者浴」なる健康法を書いているではないか  なるほどと思った

2005年

12月6日(火) 言葉は子ども向けに

子どもに伝えるべき言葉が、子ども向けでないままに子どもに届けられているのが以前から気になっている  中学生でも理解が一様ではない言葉が、小学低学年に向けて語られることが少なくないのだ  朝会、朝の点呼、運動会や遠足の注意などで、意味がわからぬままに流れに身をまかさざるを得ない子どもは、きっとかなりの人数になるだろう


「今日、教育委員会の方(かた)が学校の見学に来られます」──全校朝会でこんな言い方をする校長先生は多い  6年生から1年生までいるのだから、言葉の選び方が難しいのはわかるが、そういうときは1年生にわかるように話すのがいい  6年生にもわかるからだ  そして、易しい言葉で伝えることのできる先生は、おそらく6年生からも支持されるに違いない


「指導」という言葉を、平気で子どもに向かって言う先生も少なくない  指導とは教える側が持っていればいい言葉(概念)であって、子どもに向かって言うような言葉ではない  子どもは子どもで「指導」という言葉ぐらいは使えるかも知れないが、クラスの子ども全部が知っている言葉ではないはずだ  子どもに向かう言葉に練りが足りず、粗雑過ぎる

10月31日(月) 免許がなくても

以前から「免許外教科をなくせ」という議論が続いている  親がその正論を主張していることが結構多い  だが、少なくとも中学校レベルでは、専門ではない教科を受け持つことが可能な場合もあるのは事実ではないだろうか  大事なのは事実であって、建て前ではない


多くの塾では、よほどの余裕がない限り教科の掛け持ちは当然の如く行なわれている  学生を使っている塾も少なくない  学生は、免許外どころか無免許だよ^^  お金を払っている塾には寛容で、無償の義務教育における免許外に厳しいのは、考えてみればかなり不思議だ  日本教育七不思議乃壱(いち)といっていい


塾の免許外講師・無免許学生講師に対してなぜ寛容かというと、本当は免許なんかどうでもいいことを、親も子もわかっているからだと思う  ある程度の知識や教え方のレベルは必要だが、それは免許の有無とは全く関係がないと、親も子も十分にわかっている
何しろ、子育てママは全員無免許で子を育てている(^0^)  免許がなくても子は育つ

7月8日(金) 反省の反対なのだ

学校の先生が指導にいちばん苦労するのは、もしかしたら作文ではないだろうか  作文指導は、大変な時間とエネルギー、根気を要するからだ  おそらく、少数のきわめて優れた先生にしか対応できない  大多数のごく普通の先生が、ごく普通に教えられないようなことは、やめた方がいい  作文教育なんか、ない方がいいと思う


文章を書くのは大切な勉強である  それをなくせと言うのではない  原稿用紙を埋めさせる「課題作文」「感想文」「反省文」と呼ばれる作文が、有害かつ無用の長物なのだ
とくに「反省文」は、書くほどに腕が上がる^^;  反省してる自分になりすます術(すべ)を教えてるようなものだ


受験対策として練習する「文章術」の方が、むしろ正直だ  ある程度のなりすましであることを、本人も教える側も、試験官すらも承知しているのだから  合格したい一心で、読ませる文章を書く  最初からこれ(単なる文章術)でいけばいいのではなかろうか

6月30日(木) つけこまれる善意2

昨日(29日)は、ガラにもないことを書いたせいか^^;最後の一文が意味のわかりにくいものになっていた  ちょっと補足
教育課程改訂や入試改革など、教育問題に取り組むとき、どうも正面攻撃にこだわり過ぎる  取り組み方が真面目過ぎて、全然解決に到らないのが始めからわかってしまうのだ


むしろ、教員の待遇改善に全力を尽くした方が、安上がりで効果は絶大である  待遇改善といっても、給与を上げるわけではないから、国や自治体の予算が膨らむ心配はないところがミソなのだ  8時間労働プラス月4時間残業想定というセンをきちんと守ればいいだけである


これが守れるような教育課程を組めば、無理な内容を詰め込む発想もなくなるだろう  現状は、教員の善意を当てにした論議や改革があまりにも横行している
教員が今より働かなくなったら子どもの学力がどうなるのか、見当もつかない(^^ゞ  しかし、学力がどうこうという発想こそ捨て去るべき時なのだと、山道を下りながら考えた

6月29日(水) つけこまれる善意

公立学校の教育力衰退の主因は、戦後60年間変わっていない  ひとことで言えば、教員への過重な負担である  「サービス残業」という一般サラリーマンの奇怪な現実が近年よく取り上げられるが、これを60年間、日本中でやらされてきたのが学校教員である


教員には、そもそも残業手当が出ない  始業前や夕方4時半(地域によって違いはあろうが)以降学校にいる教員は、ボランティアである  残業手当がない代わりに調整手当というものが出るが、「聞いてびっくり、ミジンコの涙」、残業を月4時間と想定した額に過ぎない  残業手当の心配がないから、行政は際限なく教員の仕事を増やせるのだ


教員の仕事には「善意」という心根(こころね)が不可欠である  その善意につけこんで(←これはホントに「つけこむ」という語がふさわしい)、次々にどしゃ降りのごとく仕事を浴びせ続けてきたのが文部(科学)省である
月4時間残業に見合った教育課程を組めば、教育問題の多くは自然解決するに違いない

5月10日(火) なぜ人を殺しては2

昨日の文末近くに、「いのち」の視点では、この問いは片付かないと書いた
人間のいのちだけが大切なわけではないからだ  人も蚊とんぼも、等しく世界に開かれている  大切さの軽重はない  そして人も動植物も、生きるためにお互いに殺生をするわけだから、「なぜ人を殺してはいけないのか」の説明がそもそも成り立ちにくいのである


では、プライバシーの視点はどうか  あらゆる生命体の中で、人間だけがプライバシーを持っている(あるいは感じ取れる)  プライバシーは人間固有のものであり、これこそ人間の尊厳なのだ


「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いは、「いのちは大切に」の視点にこだわる限り、答えに窮するものが含まれているのは確かだ
しかし、「あなたを24時間毎日覗かせてくれますか」という単純なプライバシーの視点を持てば、思い浮かべることさえ不可能な問いなのである

5月9日(月) なぜ人を殺しては

「なぜ人を殺してはいけないのか」…この問いは、神戸の児童殺傷事件のあとずいぶん取り上げられた  きわめて真摯な心から発せられた問いだとは思うが、同時にきわめて傲慢な心から発せられた感じも抱く


「それなら、24時間あなたの部屋を覗き続けていいか」…私、辻の発言である^^;
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発した人や、似た疑問をもつ人は、自分自身が24時間覗かれ続けることを容認するだろうか  傲慢な感じを抱くと言ったのは、その点である  自身のプライバシーは頑なに守った上で、他人のプライバシーを軽く扱ってもいいかのような問いを発するのは、傲慢であり、かなり卑怯でもある


覗かれるのがイヤなら、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという、自省のかけらもないような問いは2度と発しないことだ
「いのち」の視点では、この問いは片付かない  この問いは、「覗かれるのはチョーいやだ」というプライバシーの視点で、肩透かしを食わせなければならない

2004年

11月7日(日) 青空シール

「いつもそばにいるよ」「pure heart」「きみに会えてよかった」「涙を虹に変える」「all for your smile」「いつかきっと」…


これは歌詞の一部や題名ではなく、塾の子どもたちに総スカンを食ったシールである
青空の絵を背景に、これらの言葉が小さく印刷されている、明るい感じのシール
「イヤだァイヤだァ」「とんでもねえ!」「こんなのいらネ!」…その気持ち、私にも少しはわかるのだが、「だって君たちがいつも歌ってる歌によくあるセリフだぜ」とも思う


歌詞としては受け入れても、それがノートにペタンと貼ってある状況には、激しく抵抗する
とても健全な反応だと思った
思ったが、何か釈然としない感じもする  おもしろい落差だ (^^;

10月26日(火) 著作権以前に2

塾などで使う国語補助教材に、最近は所々白紙状態のものがある
全文掲載ではなく、部分掲載であるのがネックなのか、問題を加えて点数まで出す仕組みがネックなのか、よくはわからないが…


部分掲載であっても、そこから何かを得る子は何かを得るし、たとえ全文掲載でもそっぽ向く子はそっぽ向くというものである
名高い「更級日記」作者の少女時代を思えばわかる
その感性は、文学の主流では到底なかった東国で、物語の断片を手に入れては読みふけり、本物の源氏物語を夢見ることで育ったのだ

10月9日(土) 反体育会系

東京オリンピックを境に、子どもはまともな身体作りの機会を奪われ続けてきたと思う


オリンピック選手の卵作り。スポーツ界は、これを推進した。体育授業や、部活などの地域社会スポーツはいちばん利用され続けた
声のデカい体育会系指導者が、当たり前のように威張っていた
速いこと、強いことが「より高い価値」と見なされた  速くなく強くない私はホントにいやだった


子どもが9年間訓練して、卒業時に皆が身につけているべきものは、準備運動やストレッチのような「一生使える操身方法」のはずだ


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