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vol.11

<雨の木の下で 11>

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歌仙ってなあに? その4(1999.6.8)  解酲子・芥子


芥子から解酲子へ 6.5


解酲子さんの句わたりの「お話」、そういうふうに読むのかとうなりました。ヒントもありがとうございました。「雑」とは季語がないものということでしょうか。

「菊」といえばわたしの記憶に強く焼き付いているのは、故郷福島の城下町、二本松市の菊人形展です。人間ぐらいの大きさの人形の衣装に本物の菊の花を咲かせた豪華な催しで、幼いころ父のバイクの荷台に乗せてもらって見物に行きました。帰りは眠ってしまって、困った父が雑貨屋で荒縄を買い、それで眠る娘を背中に括り付けてかえってきたというエピソードがあります。人形は花の中からサムライやお姫様の首が突き出たそれは奇妙なものでした。

 さて、人情の句をという御注文ですね。連想は「菊」から「人形」へとさまよって、「ひきとめて市松の袖もげかかり」というぐあいになりましたがいかがでしょうか。市松人形は以前は手足がぶらぶら動く子供のおもちゃで、幼いころはよくこれで遊びました。    99.6.5 芥子
解酲子さま



解酲子から芥子へ 6.8


前略 付句拝受、おもしろい作とお見受けします。対する私の付け筋は別紙資料のとおりです。お尋ねの雑・人情とはお考えのとおり、無季の句のことです。

 愚生付句(さてうらめしき殿中の声)は、打越の菊狂いと松の廊下における浅野匠頭の「乱心」との兼ね合いが少し気になりますが、次句の天女さんが救ってくれると、こう自分では頼みに思っております。離れたくても離れられない運びが一座のなかでは一回ぐらい、なぜだか出てきてしまうものなのです。未練も味と妄言しておきましょう。

 どうこれから展開してゆくかは分かりませんが、おそらく、次の芥子さんのツケは秋季か、それとも秋を引き出すものになるのではないでしょうか。そろそろ景も欲しくなってくるころあいではあります。それでは。  99.6.8 解酲子
芥子さま





解酲子から天女へ

前略 芥子さんと私のツケが出来ましたのでお送りします。芥子さんの付け筋は芥子さん自身が解説している別紙のとおりです。解説はああですが、実は菊狂いの句勢をまともに受けて立った、「動」を主眼とした作であると思いました。

 私のツケは、市松人形とひきとめて、から、松の廊下の浅野匠頭を引っ張り出した安易なものですが、ぶらぶら動く手足の人形に仮名手本忠臣蔵の人形劇をやらせたら、という発想もありました。歌舞伎自体にも何か人間が人形に扮して行う人間劇という側面が存在するのではないでしょうか。

 大辞林によりますと、市松人形はいわゆる市松模様の人形ではなく(私の無知をさらすところですが)、江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松の姿を模したものとあり、市松が好んで穿いた袴地のデザインを称して市松模様となったとあります。彼の詳細については一切を知らず、彼が二枚目であったのかどうかも分かりませんが、相当の人気役者であったことを鑑み、愚見によって「市松」に塩治判官の遺恨の言葉を吐かせてみました。ちょっと松の廊下の乱心と打越の菊狂いとが気にはなるところですが。

 天女さんの次句は雑が望ましいのですが、季を入れて夏あたりでも可、何かアサノの恨みをさわやかに霽らしてもらいたいところです。それでは。匆々  99.6.8 解酲子
天女さま



歌仙ってなあに? その3(1999.6.3)  天女・解酲子・芥子



解酲子から芥子へ 5.21


前略 付句(どろ徳利も秋日かわく)拝受、おもしろい作だとお見受けします。金襴の派手やかさに対するどろ徳利というのには俳があると思います。こういうのは連句では対付けともいっているようです。場も平句になってきましたので、ここらでそろそろ人情の句にゆきたいところ。悪ふざけではない滑稽さというのも重要な要素です。

 ちなみに、連句で当季ではない季節を詠むというのは、私見ですが、絶えず移り変わる季節を惜しむ気持ちが古人にはあったようで、日本人の一種の無常観と関係があるのかもしれません。それでは初折裏第一句、よろしくお願いします。匆々     99.5.21 解酲子
芥子さま





解酲子から天女へ 5.19


前略 電話で申し上げたとおり、芥子さんからの付句がまいりましたので、別紙のごとくお知らせします。どろ徳利とは、ドロバチが陶工さながらに作り上げる卵のための巣のようなものですが、ここでは単に金襴手に対する泥徳利というふうに、雅俗の機微を衝いたツケがよろしいかと存じます。おりしも月の定座ということで、手ぐすね引いている天女さんが目に見えるようです(笑)。

 注意しておきたいのは、この運びではもうこれ以上焼き物方面には行くべきでないということ。けれどこのことは十分お分かりですね。月を取っ掛かりにして、何か色濃い人情の句を詠まれればおもしろくなってゆくのではないでしょうか。それでは。匆々           99.5.19 解酲子
天女さま





天女から解酲子へ 5.25


1 降立ちて立待月を待ちにけり      天女
はちの巣の揺れる夕べの庭、あるいは天日に干したツボを取り込んだ後の庭。 月の出を待ちきれなくて。
た行とま行の響き合いもちょっと意識しました。

2 下駄込みて雨の月とはなりにけり    天女
月の出の頃、あいにくの雨。昼間、あんなに晴れていたのに。

3 酔ひさめて寝待の月の出でにけり    天女
酔醒の水を飲みに出たら、なんと待ちかねた月の出。
徳利に付き過ぎでしょうか。

以上、今回は”月”そのものを、それも満月ではなくちょっと欠けた月、見えない月、待ちくたびれた月などを詠みました。言葉を尽さずとも月を愛でる情感が伝わればとの願いです。     99.5.25 天女
解酲子様




解酲子から天女へ 5.29


前略 付句拝受、三つあるうちから雨の月をいただきました。わたしのツケは別紙のとおりになります。(会の終りに知る菊狂い

人情の句が欲しいと言ったのは、スタティックな自然観照におのずと傾きがちな孤心のうごきではなく、月は月でもそこに人とからみあう動の要素が句作りに求められているという意味で、そういう点で雨の月の句がいちばん要件を満たしていると思います。

 さて、付け筋の三句、四句わたりの「お話」は次のようになります。
金襴の絵付師の反るという指は、泥徳利なる濁りへの渇望を呼び出します。この渇きは私なりにお話を作れば、ハレの金襴からケの徳利、つまりは酒への呼び出しでもあります。渇くならそこにひと雨降らせたいところ、のどを濡らす酒宴のひとつも欲しいということで、玄関先に下駄の込み合う観月会の賑わいに場は移ります。結局は雨となった会は酔いたけなわの終わり近く、盃の献酬などして大いに話に花が咲いた見知らぬ人が(見知っている人でもよい)、菊作りに丹精込める酔狂人だとふと気づいた、と、こういうことになります。

菊狂いは雨に隠れた月への恋慕をにおわせる、そのウツリの句であるともいえましょうか。そんな句を付けたせいか、天女さんの句に芭蕉の「名月や北國日和定なき」をなんとなく連想いたしました。それにつけてもご酒を召し上がらない天女さんに、こういう運びが巡り合わせてくるのも連句のおもしろいところです。

ではこの次、初折裏の三句目になりますが、よろしくお願いいたします。匆々        99.5.29 解酲子
天女さま





解酲子から芥子へ 5.29


前略 表五、六句、芥子さんにツキましたので取り急ぎお送りします。くわしいツケ筋は資料に譲りまして、次の句作りのヒントになるのではと思われる一、二について少し触れてみます。

 まず、次の芥子さんの句で見てみたいのは、自然観照ではないやはり人情の句です。自分でこういう句を作っていながら言うのもなんですが、菊を庭関係ではない、なにか別のものに見立てて人臭さのなかをすり抜けてゆくのがよいのではないでしょうか。またこの場合、拙句の「知る菊狂ひ」を、菊狂いと分かった、察知したという解釈と、もうひとつ、菊狂いと知り合いになったという、少しずらした解釈とが成り立つと思いますが、こういう解釈のずらし方、曲解の仕方でおもしろいツケが出来る事例があるということを記憶されておくことをお勧めします。

 さて次句ですが、季のことを申し上げておけば、雑が自然ですが可能性としては句の運びから言ってまず冬、次に素春となる春季が挙げられます。ツケ伸ばすなら秋も可能、けれど夏は発句の季でお勧めできません。  では初折裏一句目となる長句、お待ちしています。匆々        99.5.29 解酲子
芥子さま



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歌仙ってなあに? その2(1999.5.16)  天女・解酲子・芥子



天女から解酲子へ 5.11


前略
 すっかり遅くなりました。

この連休、有田・伊万里・唐津の古窯めぐりのツアーに参加し、遊び呆けてしまいました。いま肥前磁器(主に伊万里)の講座を受けていますので、理解度が少しでも増すようにと現地見学に出かけた次第です。

 小さな町ですが、陶磁器発祥の地らしく実に誇り高い物静かな人々に出会いました。大名家が民衆を保護し、(労働力であったのでしょうが、)殆どの登り窯が官・民共同で使用されていたことを知り、染付や金襴手が大量に海外輸出されていた訳が分かりました。
 その後、藩の衰退により同じ運命をたどったようです。

 現在では、今右衛門・柿右衛門・源右衛門などの大所はすべて工房と化し、他に四十歳代の若い陶工の数人だけがロクロから絵付け、焼成までを一人でこなしている。
 その中に古伊万里、鍋島に優る職人が育ちつつあるとのことです。

さて、
1 重き荷を伊万里の浦に積出して
  詩人のおふたりと連衆になれて、嬉しいやら誇らしいやら、でもやっぱり不安でもあって。私の今の心境です。

2 なまめきて陶商館の眠りかな
  古染付や金襴手をびっしりと戸棚にかかえて、古い館がひっそりと建っていました。
  前二句を色絵の景色に見たてての発想ですが少し無理があるかもしれません。

3 絵付師の細き指反る金襴手
  前二句を絵の意匠に見立てて。
以上、すっかり磁器にはまり込んで帰ってきたものですから、ごめんなさい。

解酲子さま                    99.5.11 天女





解酲子から天女へ 5.14


前略 付句いただきました。肥前行、うらやましいかぎりです。

三句のなかでは、いろいろと迷いましたが金襴手を採らせていただきます。第三の形としては一番目の「て留め」がよろしいかと思いますが(事実、芭蕉連句では90パーセント以上がこの「て留め」「にて留め」「らん留め」です)、やや緩いシバリではありますが表六句では地名・固有名詞を避けるというのと、前句の「しげりあふ」が「重き荷」にひびいて文字どおり運びに重さが加わってしまうきらいがあるからです。
また、二番目のなまめきては、もう少し連衆心が欲しいところ。句意が(解説抜きでは)いまひとつ伝わらないところがあります。

ただし、前二句を色絵に見立てるという発想は連句では大変重要なもので、そういう意味では三番目のが、句の姿も軽く、また挨拶もあって、結局これを採らせていただくことになりました。第三が用言留めで終わるというのは空疎なお約束ということではなく、やはり理由があるのであって、前二句の流れをがらりと変えたところで次の人を新しい流れ(平句に赴く流れ)に誘っているのです。したがって本来ならば「絵付師の細き指反る金襴に」とでもしたい欲望が動きます。

次の天女さんのツケは一句隔ての月の定座で、芥子さんの句にツケることになります。すこしせわしないのですが、よろしくお願いします。匆々

                 99.5.14 解酲子





解酲子から芥子へ 5.15


前略 お待たせしました。天女さんの付句が届きましたので、資料と併せ、お送りいたします。ツケ筋と天女さんの句についての詳細は資料に譲ります。ちなみに、ご存じでしたら失礼をお詫びしますが、金襴手とは、中国明代発祥の装飾的な磁器の意匠のことで、多く赤絵のうえに金彩を施した、繊細で華やかな感じがする焼き物のことです。金の代わりに銀を用いると銀襴手、ということになります。

 さて、次の芥子さんの句ですが、七七の短句をお願いします。五句目が月の定座ですので、季は秋がよろしいかと思いますが、ほかに可能性としては雑の句でもおもしろい。四句目から以降は平句といって、いよいよ本来の連句の運びに入ってゆくことになります。ではよろしく御作句ください。(何か分からないことがあれば、電話なり葉書なりですぐにお尋ねください)。不尽     99.5.14  解酲子
芥子さま





芥子から解酲子へ 5.16


三句と資料とお手紙拝受。ごていねいなご指導、ありがとうございます。何もかも知らないことばかりで、勉強になります。天女さんの三句は豪華な雰囲気ですてきですね。

四句は秋ということで、今は春だけど、と戸惑いつつ、去年の秋のことを思い浮かべていたら、ベランダのトキワサンザシの鉢植えが目に留まりました。

去年の9月、この小さなサンザシの枝に、腰にオレンジの帯を一本巻いた美しいドロバチ(図鑑によると、スズメバチ科ドロバチ亜科トックリバチ属スズバチという種らしい)がやってきて、丸い徳利の形の巣を作りました。せっせと泥セメントを運んで、繊細な肢をぺたぺた小刻みに動かして、唐津の腕利きの陶工みたいに、熱心に、芸術的に。

セメントが秋の日差しに白く乾いたころ、徳利の口がふさがれました。中には小さな卵が吊り下げられ、餌の青虫が気絶して眠っているはず。ひと月もすれば、生まれたてのあの美しいドロバチが巣を壊して現れるのです。期待して待つうち冬になり、春になった今も徳利は壊れることなくしんとしています。

どろ徳利も秋日かわく




  歌仙ってなあに? その1 (1999.4.29)  関富士子・倉田良成


関富士子

倉田良成さんから突然お電話をいただいて、連句のお誘いを受けた。倉田さんは確か俳句の宗匠と以前伺ったことがあるが、わたしは彼の詩しか知りません(rain tree vol.7倉田良成の詩)。実はというかもうばれていると思うが、わたしは無知無教養で、その方面の知識はなきにひとしい。たまに萩原健次郎さんの連句の庵を訪れて、みなさんの妙技を楽しんでいるぐらいのものである。

うーん、どうしよう・・・という感じで実はあまり気が進まなかった。わたしはルールを自分で作るのは好きなのだが、他人の作ったものに唯々諾々と従うのはあまり好きではない。アクロスティックな言葉遊びはもちろん好きだ。

それだって樋口俊実さんとの真剣勝負、折り句詩の共同制作[閑月]を続けているし、詩りとり詩も3人との連チャンが終わったばかりである。 それにもうすぐrain tree vol.11の発行も迫っている。連句をやるとなればそれなりのお勉強だってしなければならないだろう。自分の詩はいっこうに書けていないのに、そんなことをしている場合か。

ところが、倉田さんは意外とせっかちで気が短い方なのか、その場で返答を迫るのである。困惑して口ごもっているうち、ふと思い付いた。新刊vol.11の言葉遊びのコーナー、実はネタ切れで妙案が浮かばずにいたのである。ちょうどよい。倉田さんとの連句をpresent for youとして掲載してしまえばよいのだ。それであつかましくもお願いした。
その連句、もしうまくいきそうだったら、インターネット版の rain tree にリアルタイムで掲載させていただけませんか。
すると倉田さんは快く了解してくださった。じゃあ、遊んでみましょうかね、とお答えしたら、すぐさま歌仙式目と膝送表なるものが送られて来た。これはなんじゃあという感じ。

今回の歌仙を巻く、どうなることやら皆目わかりません。怠け者ですが少し勉強させていただきます。天女さん、解酲子さん、どうぞよろしく。



倉田良成さんのお手紙と「歌仙心得」なるものを載せておきます。


倉田良成から関富士子へ 4.10

前略 強引なお誘いをお受けくださり、ありがとうございます。助かりました。お約束の歌仙式目と膝送表、さっそく送らせていただきます。

歌仙の中でどちらかといえば厄介な点は、初折表の六句で、何がそうなのかといえば、神祇釈教恋無常、つまり神様や仏さまなどの宗教関係と、恋愛沙汰、死を詠み込んではならないとされているところかと思います。

初学の方はみんなそこのところで苦労されるようですが、そこさえクリアしてしまえば、自ずと道は拓けてきますので、ご安心のほどを。

何かわからないことがあれば遠慮なさらずに愚生に聞いていただけたらと存じます。それでは、発句、楽しみにしております。  99.4.10  倉田良成



倉田良成から関富士子へ 4.27

前略 発句いただきました。式目上、とくに問題はなく、植物(というか飼育)のお好きな関さんらしい雰囲気のある立句だと思います。

脇の拙句は、いわゆる其時にツケたツケ筋で発句の時候を展開した、といったところでしょうか。花があれば実、実があれば葉に目が行くのは連句の常套です。カタほほの単数に対し、しげりアフの複数を掛けたところもちょっと意識した点です。いやおうなく孤独で始まる発句に、連衆みんなで持っていこうじゃないか、という呼びかけでもありましょうか。

なお、表記は旧仮名遣いに拠らせていただきます。お心得がございましたら、失礼をお詫びしますが、仮名遣いに関しては(こだわりのある場合を除き)こちらで勝手にやらせてもらいますこと、一寸お断りしておきます。

連衆の天女さんは、去年出版社を定年退職された元編集者の女性ですが、連句の運びを進めるうち、おのずとそのプロフィルもお分かりいただけてくるのではないかと思うので、詳しいことは不要なのではないかと愚考いたします。連句はなにより、文台引下ろせば即ち反故、の世界で、俗世はあまり関係がないと思いますので。

次はこの天女さんの句に芥子さんがツケることになるわけで、大いに楽しみなところです。では。匆々  99.4.27 倉田良成






歌仙心得

発句。長句であり正客の挨拶の位。当季を詠み込む。立句とも。

。亭主挨拶の位とされ、発句に寄り添うかたちで付けられる。季は発句にしたがう。短句。以下、長句と短句を交互に繰り返して三十六句満尾にいたる。

第三。発句と脇のつくりだした世界からの転換を図るところ。ここはかなり大胆であってもよい。おおく「て」留め、「にて」留めがつかわれる例が蕉風ではほとんどだ。四句目以降は平句と呼ばれ、ここから連句の世界に本格的に入ってゆく。なお、表六句では神祇釈教恋無常の句は詠んではならないとされる。

月の座。初折表五句目、同裏八句目、名残折表十一句目あたりに置かれる。基本的には季は秋。花の座とともにこれを詠むことは面目を施すこととされる。ただし星月夜には月の実体はない。

花の座。初折裏十一句目、名残折裏五句目あたりに置かれる。基本的には季は春。やや月よりも尊ばれる座である。もどり花、花嫁など雑にとりなす例もある。花見、花疲れなど、花は桜のイメージで詠まれることが多いが、逆に桜を詠んで定座の花とすることはできない。また、花の句に吉野を執成すことは避けるべきであるとされる。花は一種の象徴であろう。

打越。前々句のこと。連句では一句を隔てた前の句とイメージの関係が類似するのをとくに嫌う。句は後戻りすることなく、絶えず前進してゆかなければならない。打越嫌い、打越、同巣、輪廻とも。要するにイメージの停滞を避けることである。

雑の句。季を含まない句でおもに人事などを詠む。風景の句は古びやすいという芭蕉の指摘があるように、適度に雑の句をはさむことはイメージの停滞を避けるうえで欠かせないことだ。雑の句は何句つづけてもかまわないが、その前後を同季とすることは許されていない。

春秋の句。三句以上五句までつづけて詠む。春と秋の季は初仲晩の三季に分けられ、晩秋の次に初秋を詠む類いは季戻りといってふつうは行わない。また花のない春の運びは素春という。つれて素秋、すなわち月のない秋の運びがあってもよさそうなものだが、古来その例をみない。

夏冬の句。三句まで詠むことができるが、一句で捨ててもよい。

恋の句。一座の運びのなかで何回出てもよいし何句つづけてもかまわないが、 (またそれほど重要視されている句だが)、おおく、この句が出ると運びがもつれがちになるのは記憶しておいてよい。通常最初の花の座の前には詠まないものとされる。

揚句。祝言の位である。二三の例外を除いては春の季に執成すのがほとんどだ。ふつう、発句脇第三の詠み手はこれを務めない。

そのほか、表六句でつかった言葉は以後つかえないことその他いろいろあるが、それらは実際の句作りのなかで伝えていきたい。健闘を祈ります。

平成癸酉七月解酲子倉田良成識

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