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駅はカテドラル。見上げると、高い穹隆状の天井は意味のわからない恩寵のよ |
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うにアナウンスのこだまを返してくる。十分遅れ、とかろうじてききとれた末 |
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尾も、ここまでおりてくるうちに、十個のセイウンという響きにゆるんでしま |
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うのだ。遅れと星雲はこの国でとても発音が似ているから。星雲、星雲とこだ |
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ましつづけ、やがて本当に意味はわからなくなる。列車はくるだろうか。居並 |
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んでいる数十本のホームにときおり白いためいきをはいている機関車は、いつ |
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出発するのか。問いかけるようにわたしはまた、見上げてしまう。丸天井の中 |
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心はまったき夜。十年前も、今も、闇のまま。わたしは背もたれのない鉄製の |
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ベンチに座っている。十年前も今も「ここ」としかいえないつめたさとかたさ |
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に座り、頬杖をつき見上げている。丸天井の中心にわだかまる闇は降りるにつ |
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れて少しずつ薄らぎ、アナウンスのくるったこだまが消えかけるところで、よ |
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うやく煌めきをおびはじめる埃。飛び交う鳩の翼。そこに射しこむのは、ホー |
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ムから三階ほどの高さにある回廊にある大きな横長の薔薇窓からの光。窓には |
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格子があり、そこに駅の名なのかなにかの商標か、アルファベットの書かれた |
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大きなプレートがかけられている。だが逆光で夢のなかの大切な文字のように |
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読みとれない。回廊に行けば読めるのだが、それは十年前もいまも端が閉ざさ |
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れていてここからは行けないままだ。ひとびとは一体どのようにして辿り着く |
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のか。そしてなぜそこをせわしげに行き交っているのか。薔薇窓から射すとい |
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うよりはきだされる白い光のなかでちらちらと光っているあの小さな姿。ブロ |
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ンドも、帽子も、スカートも、ステッキも、抱えられた花束も乳母車の幌も、 |
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ただちらちらとわたしを誘うようにうごめいている。あの光に照らされたい、 |
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と思う。まるで蟻のようにためらいもなく行き交うひとびとの一人になって。 |
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あのひとたちのそれぞれにはきっと、二十年前のわたしが絵皿に描いた影絵の |
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蔓草のからんだ門が、あのふかいふかい門があるだろう。そして門をひらけば |
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空気の奥から子供の頃のくちなしがいっせいに匂うだろう。わたしもそのひと |
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りに。いいえあの光に照らされたひとびとはすでにひとではなく、アナウンス |
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のたえずこだまする、そしてそのたびごとに丸天井の闇の高くなるこの駅カテ |
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ドラルの一部なのだ。わたしは駅カテドラルには属しえない堕天使だから。 |
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駅はカテドラル。十年前もそう思っていたことを思い出す。わたしは祈りにき |
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たのかもしれない。ここを通過するでも、ここから出発するでも、ここに到着 |
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するでもなく、祈るために駅にやってきた。十年前も見上げながらそう思って |
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いた。たぶんおなじ言葉で。きっとおなじ心のなかの低い声で。肱を腿につけ |
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頬杖をつき指をいつのまにか組んで、夜の中心を見上げていると、またわたし |
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のなかから十年前のわたしがよみがえってくる。ふしぎな火花を浴びたように、 |
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またからだのよるべない輪郭を思い出してゆく。いつまでもわたしは堕天使。 |
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乾いたこの国の空気のなかでばさばさに乾いた黒髪。みにくい黄色い手足。左 |
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右不対称に歪んだ噛み合わせの悪い顔。小さな乳房。そのあいだの鼓動は不規 |
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則だ。なににおびえてか、息をすうたびにはやくなり、はき出すたびに遅くな |
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る。なんという未完成ないきものなのか。どこかにあるカテドラルの入口から、 |
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礼拝席にあたるホームへやってきてはわきを通り過ぎるこの国のひとびとは、 |
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なんと完成されたいきものだろう。いいえそのように思えることが、異国とい |
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うことだ。青い目という目は前方をねめつけ、ここからみえない唯一の出口を |
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みているらしい。話しかけたくて見つめるわたしの目は、そのたびに了解不能 |
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のアーモンドの形になってゆく。あやしいものじゃないんです。祈りにきたん |
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です。わたしにはここがカテドラルなんです。そう告げたくても、声に出せば |
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大きな虫の鳴き声になってしまう気がする。声を出せばあの夜のただなかから、 |
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雷のようなこだまがわたしをほろぼしにくるかもしれない。けれどほろぼされ |
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るのはわたしだけではない。駅はカテドラル。それはわたしにとってだけでは |
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ない。この国に、あるいは駅の外の真空のような光の領域に入れない者すべて |
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にとって、ここは神聖でおごそかすぎるカテドラル。売店のホットドッグをみ |
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つめている、広告塔の陰の褐色の肌の子どもたち。ときおりどこからかあらわ |
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れホームでタンバリンを鳴らして踊る、年老いたジプシー。でも、でもと呟き |
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ながら酒瓶を片手に歩き回る緑の髪の男。かれらはふいにうごきまわり、ふい |
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に立ち止まり、席があけばベンチに座り、あるいは地べたで、気がつけばアナ |
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ウンスのこだまの返ってくる丸天井の夜を見上げている。空腹の堕天使たち。 |
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ついに自分が幸福の国へ呼ばれたのではないかと、預言の大きなくらがりが降 |
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りてきたのではないかと、そのたびに目を閉じ指を組んで顔を上げるのだ。 |
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十分遅れ、それは十年遅れ、ではなかったか。もう今では十個の星雲、十個の |
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星雲としかきこえないけれど、十年前からわたしはここにいてこない列車を待 |
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っているのではないか。しだいに高くなる丸天井の、しだいに深まる闇のなか |
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にたましいをすわれながら、肱を腿につけ頬杖をつく堕天使として。通り過ぎ |
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るひとびとの目には祈るすがたにはうつらなくても、いいえ指を組むすがた自 |
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体うつらなくても、「ここ」としかいえないつめたくかたいベンチに座り、わ |
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たしはまたホームの底からアナウンスが星くずのようにすわれてゆく夜を見上 |
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げている。
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