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「かない ゆうじ」執筆者紹介
詩作品は、編集者D.W.ライトさんの掲載許諾を得ています。無断転載を固くお断りします。(関)
「アメリカ現代詩101人集」を読む

「アメリカ現代詩101人集」を読む 6


2000.3.16   mail金井 雄二

『アメリカ現代詩101人集』D.W.ライト編 沢崎順之助・森邦夫・江田孝臣訳 1999年6月20日思潮社刊。ご注文は書店か思潮社へ(TEL.03-3267-8153 FAX.8142) 4200円+税

 前回はビート詩を紹介した。ビート詩はどちらかというと激しい詩が多い。内部の告発を主眼とし、たたきつけるように言葉をつむぐのであるから、当然といえば当然かもしれない。
 ぼくはアメリカの詩は、ビートのように激しい言葉をつぎからつぎへと突きたてていくものと、牧歌的なやさしい詩とに、まず二手に、おおまかに言って分かれるような気がしている。もちろんどちらも兼ね備えている詩人はいるし、ある意味で皆二つの要素が混ざっているともいえるが。それから、神秘的な要素。つまり、預言的な詩がいくつかある。なんとなく眼につくというか、そのような匂いがするというか、アメリカの詩にはそんなものが多々あると思う。

 今日はごく身近な生活のこととか、愛などをその大きなテーマとして歌っていると思われる「やさしさ」の詩人を見てみることにする。まっ、あくまでもこの「やさしさ」はぼくの独断にすぎないのですが。  「アメリカ現代詩101人集」に載っている詩がそうであるともいいがたいが、基本的にはやさしい気持ちの詩人だと思うのを選んでみた。

ロバート・クリーリー
 1926年、マサチューセッツ州に生まれる。1950年、オルソンと出会い、大きな影響を受ける。ブラック・マウンテン派の詩人。『愛のために』(1962)で注目される。愛、結婚生活、友情を主題とし、生き生きとした口語のリズムに基づく短い自由詩形を特徴とする。

話をする

            
ゆうべ、大昔の夢に
逆戻りした。少年時代の
  
失われた無垢だ。
通りは近寄り難くなっていた。
  
町の人々のことを考えると
どうしたわけか、おれはよそ者だった。
  
小説を書いている医者と
話をしていると、やつはおれに詩を読んでくれた。
  
ある男がヴェトナムで味わった恐怖についての詩だ。
男は妻と子供を失っていた――
  
その男の息子がおれの向かいに座っていた。
八つくらいで、痩せていて、真剣な顔つきだった。――
  
おれはと言えば、しぼんでいく巨大な
風船みたいなもので、相手の言うことは聞こえても
  
こちらの言うことは相手には聞こえなかった。それでも
話をし、おれたちは紛れもない友だちになった。
  
自分が正直で、思いやりのある男だと
やつに言いたかった。世界が
  
おれたち皆にとって、もっと分かり易いものであればいい
と思った。車で戻る途中、やつの細君が教えてくれた――
  
おれの泊まっているホテルのバーで、
五〇年代には皆がよくスウィングした、と。
  
真っ暗な、消えていく夜だった。
彼女は、車にのっている間じゅう、
  
運転している夫の隣で
早口で、遠回しにしゃべり続けた。
  
おれは姿を消し、車を
降り、二人もまた消えていくのを見ることもできた。
  
戦争と平和、死と生だけで、
いまだに誰もいないことを知ることも。
                     (江田孝臣訳)




ジェイムズ・ライト
1927-80。しばしば人間社会からの孤立者が主題。イメージを、表層でなく、無意識の深みで幻視的に捉えようとするところから、ディープ・イマジストと呼ばれ、その後彼独自のスタイルを確立。流派を超えて詩人の尊敬を集める。

祝 福

            
ミネソタ州ロチェスターに向かうハイウェイのはずれ
いま微光が牧草のうえを軽やかに跳ねて近づいてくる。
二頭のインディアン・ポニーの目が
情感に濡れて黒光りしている。
柳の木立のなかから嬉しそうに跳びだしてきて
友人とぼくを歓迎する。
ぼくらは有刺鉄線をまたいで牧場に入る。
ポニーは一日じゅう二頭だけで草をはんでいた。
からだを激しく震わせている。ぼくらがやってきたので
嬉しさをつつみきれない。
濡れた白鳥みたいにはにかんでお辞儀をする。二頭は愛しあっている。
これほど孤独なものはいない。
家に戻ると
春の若草を暗闇でもぐもぐ食べはじめる。
細っそりしたほうのポニーを腕に抱きかかえたいと思う。
彼女はぼくのほうに歩みよってきて
ぼくの左手に鼻をこすりつける。
黒と白の毛並みで、
たてがみが額に垂れて乱れている。
風が吹いて、思わずその長い耳を愛撫したくなる。
それは少女の手首の肌のように繊細だ。
とつぜんぼくは思う――
いまもしぼくが肉体から遊離したら
ぱっと花になることだろう。
                           (沢崎順之助訳)




フィリップ・レヴィーン
1928年生。ユダヤ系。デトロイトに育ち工場労働を経験する。庶民、労働者の生活を共感をもって見つめた詩を多く書く。

星の光

            
暖かな晩に 父はぼくの最初の家の
玄関先に立っている。
ぼくは四歳で、もう疲れている。
ぼくは星空のなかに父の顔を見る。
父のタバコの火は
周りの屋根に低くかぶさる。
夏の月よりも赤い。父とぼくだけが
そこにいて、父はぼくにしあわせかと尋ねる。
「しあわせか」という問いにぼくは答えられない。
ぼくはその言葉を本当は理解できない。
その声、父の声は本人の声らしくなく、
なぜかしゃがれていて、息を詰まらせている。
前には聞いたことがなかったが、
その後よく聞くことになった声だ。父は屈んで
ぼくの両眼の下を親指でなでる。
タバコはもうなくなっているが、ぼくは
父の息に漂う疲労を嗅ぐ。
父は涙が出ていないと知り、ほほ笑んで
両手でぼくの顔を押さえる。
それから父はぼくを肩まで持ち上げる。
こうしてぼくも父と同じ高さとなって
星空のなかにいる。「しあわせ?」とぼくは尋ねる。
父はうなずく。そうさ、そうとも、そうさ。
その新しい声で父はそれ以上何も言わず、
ぼくの頭をしっかりと自分の頭に押しつけ、
星の光に両眼に閉ざす。
一人の背の高いやせた子が、秋の実りの前で
もう一人の子を抱えているのを
あのまばたく小さな光の眼が見つけてはくれないだろうか。
やがて 少年は眠りに落ち
その世界では二度と目覚めることはなかった。



 以上ぼくの「『アメリカ現代詩101人集』を読む」は、今回が最終回となる。何をテーマに書こうか、どんな詩人と詩を紹介しようか、かなり迷ったが、それも楽しい時間だった。
 日本語だって満足に出来ないのに、英語なんてできるわけがない。しかし、アメリカの文学がなぜか好きだ。これはどうしたものなのか、よくわからない。でもそんなことは関係ないのだ。好きなものは好きでいい。そんな気持ちで今まで書いてきた。何ができたのかわからないが、つぶさに「アメリカ現代詩101人集」は読んだようだ。これだけでもぼくにとっては収穫といえるだろう。

 関富士子さんに「『アメリカ現代詩101人集』を読む」という題でアメリカ詩との係わりを書きたいと申しでると、それはいいかもしれない、と言って賛同してくださった。そして、編者のD・Wライトさんの承諾も得てくださったようだ。また、ヤリタミサコさんにはいろいろと教えていただき、感謝の言葉もない。

 これらの、すべてのぼくの想いは、詩という形でいつかきっと反映したいと思っている。どうもありがとうございました。






「アメリカ現代詩101人集」を読む 5 2000.3.1  金井雄二

 アメリカ現代詩の中、ぼくが最初に読み始めたのはアレン・ギンズバーグだった。
ギンズバーグはアメリカ・ビート運動の創始者であり、実践者であり、指導者であった。日本では詩人の諏訪優さんがギンズバーグを紹介し、広めたことになっているが、それより先に紹介した人がいたらしいと聞く。くわしいことはよく知らない。ぼくも諏訪優訳の「ギンズバーグ詩集」を持っておりこれが最初だった。この「アメリカ現代詩101人集」にもギンズバーグは入っている。というわけで今ギンズバーグの詩なら、けっこうどこでも気軽に手にはいるのだ。今回は、ギンズバーグを発端にビート詩を見てみよう。

 そもそもビートとはなんだろうか。ビートとは「至福の」という意味がある。第二次大戦後の資本主義社会の安定した生活から抜け出し、反抗的で、激しい意思と刺激、そして何よりも自分たちにとっての「至福」を求めた文学運動と言っていいだろう。ジャズ、ピッピー、それから日本の禅、東洋の神秘学的な要素も含みながら、すばやく言葉を吐き、刺激に満ちた表現方法をとった。内部の苛立ちのようなものを、端的にスピード感豊に表現するため、朗読も各地でおこなわれたようだ。代表的な詩人として、先ほどのアレン・ギンズバーグ、ケネス・レクスロス、等がいるが、小説家ジャック・ケルアックの書いた「路上」という小説がビート運動の発端であると言われている。余談だが、この「路上」をわたしは通算二回も読んだが、読みとおすのに精一杯で、ついによくわからなかった、という思いでがある。まあ、よく書いた、という他はない。

 というわけで、ビートの詩人の作品をみてみよう。「アメリカ現代詩101人集」のなかではアレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コ−ソ、ゲアリー・スナイダー、ロレンス・ファーリンゲティ、先輩格にケネス・レクスロス、ケネス・パッチェンも入れられるかもしれない。どの詩もビート詩は饒舌なので、長いものが多い。今回は詩人、詩作品一篇としようと思う。それで、この詩がビート詩の代表というわけではないのだが、とてもおもしろかったので選んでみた。

ロレンス・ファーリンゲティ
1919年生。ビート運動の代表的詩人のひとり。運動の発端に関わり、作詩のほかにつねに運動の推進者、後援者としての活動もつづける。経営するサンフランシスコの書店・出版社のシティ・ライツ・ブックスはビート運動の拠点となる。

パンツ(*1)

            
昨夜はパンツのことを考えていて
あんまり眠れなかった
理論的にパンツのことなんて
考えたことがあるかな
まじに掘りさげると
たいへんな問題が出てくるんだ
パンツっていうのはいやでも
みんながお世話になっている
みんななにか
パンツを穿いている
インディアンも
パンツを穿いている
キューバ人も
パンツを穿いている
法王もパンツを穿いていると思う
黒人もパンツを穿いている
ルイジアナ州知事も
パンツを穿いている
テレビで見たんだが
あれはきっとパンツがきつかった
すごくもじもじしていた
ほんとパンツって締めあげることがあるんだ
パンツの広告を見たことがあるだろう
男のパンツと女のパンツ
よく似ていてうんと違う
女のパンツはぐいと引きあげる
男のパンツはぐいと抑えつける
パンツは男と女が
共通して身につける唯一のものだが
男と女の間をへだてる最後のものだ
三色刷りの広告の絵を見たことがあるだろう
股ぐらの部分を丸で囲んである
特別丈夫につくってある部分だ
三方向に伸縮して
動きが自由自在だという
だまされちゃいけない
あれは二大政党制に基づいている
選択の自由なんてほとんどない
世の中そうなっているのだ
パンツを穿いたアメリカは
夜じゅうもがき苦しんでいる
けっきょくパンツに万事管理されている。
ガードルを例にあげよう
まったくあれは地下政府の
ファシスト体制だ
真実はなにができ
なにができないかを教えるが
これは嘘っぱちを信じこませる
ガードルを突破するのにてこずったことはないか?
たぶん唯一の策は
非暴力活動だろう
ガンジーはガードルをしてたろうか
マクベス夫人はしていたか
マクベスが眠りを殺したってそのせいじゃないだろうか?
マクベス夫人がごしごし洗っていた染みって
ほんとはパンツについていたんじゃないか?
現代のアングロサクソンの女性は
やたら罪意識をもっているらしい
いつもごしごし洗っている
イヤだわこんな染み  こすってもダメ
やたら怪しげな染みのあるパンツ
やたらぞくっとする膨らみのあるパンツ
洗濯紐にひるがえっているパンツだけが偉大な自由の旗
ついにパンツから脱出したやつがいるぞ
どこかですっ裸になったらしい
キャー!
心配することはない
みんなパンツでいまも動きがとれないでいる
真の革命なんて起こりっこない
詩だっていまもまだ魂を覆うパンツだ
パンツはいまも
地質学的にいうなら
無数の断層を覆っている
奇妙な沈殿石、不可解な割れ目!
話はそれだけじゃない
からだのほうが死んだあとでも
まだ生きていて
パンツが必要だし
はみだすことだってあるそうだ
頭脳が抑制をやめたあとになって
成熟に達する器官もあるらしい
もしぼくがきみだったら
冬用の特大パンツを用意しておくだろう
あの楽しい夜に裸で出ていくな(*2)
パンツを穿いて静かに
温かくほかほかしていよう
始まっていないのに先走って
「空騒ぎ」することはない
チョッキに片手をいれて
威儀をただして出ていこう
興奮するな
死神に支配はさせないぞ(*3)
きみ 時間はまだたっぷりある
ぼくたちはまだ若くて気楽だ
騒ぐことはない


 (*1)初期の版による。後年の版では差別問題への配慮から十行近くが削除されている。
 (*2)イギリスの詩人ディラン・トマスの詩のもじり。
 (*3)ディラン・トマスの詩の一行。
(沢崎順之助訳)







アメリカ現代詩101人集」を読む 4 1999.1.13  金井雄二

 アメリカ現代詩というと、どうしてもT・S・エリオット、エズラ・パウンド、ウィリアム・C・ウィリアムズ、ロバート・フロストそれから、ギンズバーグ、ケルアックなどを思い出すのはわたしだけだろうか。これらの詩人は時代的にはもうすでに古い範疇に入るだろうか? それまでのアメリカ詩の伝統としての、エマソンやらホイットマン、ポー、などから彼らは脱却し、新しい波をおこした。彼らが活躍していた時代は黄金時代であり、確かにそれはモダニズムだったはずだ。

 上記の詩人たちは「イマジズム」をおこし(フロスト以降はちがいますね)アメリカよりもイギリスで活躍したりする。えーと、この場はアメリカ文学史を勉強する場所でもないので、ここらへんでやめておくが、わたしが少し気になっているのは、このモダニズムの系譜ということだ。現代の文学の新しい潮流は、突然変異でボコッと飛び出してくるものはまずないと思う。そこには過去の布石が必ずあるのだと思っている。どんなに噴出したように見える流れでもそこには、何かしらのひずみがかくされており、それがくずれるときに新しい時代がくるのである。
 モダニズムの系譜をくんでいるアメリカの新しい詩人はいないかなと思って、今回は眼を凝らしてみた。

ジェイムズ・ロクリン
1914−1997。 文学専門の出版社ニューディレクションズ社の社主として、パウンドやウィリアムズらの前衛文学運動を支援。戦前戦後を通じて、数々の若い詩人を発掘し、世に送り出した。自らもモダニズムの影響の色濃い詩を書いた。(解説文より)

頭をふんづけよう

            
パパの頭をふんづけよう、田舎道を
散歩しながら、子供らが叫ぶ、ぼくの
愛しき子供たち、夏の
  
日盛りのなか、ぼくの影法師が歩みに合わせて、黒く
ひょこひょこ動く、子供らがジャンプして
影の頭をふんづける、愛が
  
ぼくをふんわりした気持ちでいっぱいにする
こんどはふんづけられないように、ジャンプしたとたんに
頭をひょいとよける、子供らがきゃあ
  
きゃあと喜ぶ、ぼくはうめく、パパは
痛いよ、パパは痛いよ、やめてくれ、すると
もっともっと勢いよくふんづけるのだ、愛が
  
道いっぱいに広がる、でもぼくは、この道が
ずっと先まで延びているのを知っている、いつか
影法師の頭ではなく、ぼくの頭を本当に
  
踏みつけなければならない時が
来る(ぼくも親父の頭を
踏みつけてきた)、その時は痛いだろう、本当に
  
痛いことだろう、そういう時、ぼくには
十分な愛があるだろうか、十分な愛を
持てるだろうか、無邪気な遊びでなくなってしまっても?
                   (江田孝臣訳)


 このジェイムズ・ロクリンという人も「アメリカ現代詩101人集」ではじめて知った人だ。紹介文には「モダニズムの影響の色濃い詩を書いた。」とあるが、この詩を読んだだけではなんともよくわからない。どうしても他の詩も読みたくなってくる。ただ、この作品は面白く、そしてなかなか用意周到だ。この用意周到さがモダニズムの影響だろうか。 夏の盛りに子供らと影ふみをする父親。そしてふと、父親は本当に自分の頭を踏まれるときが来るのを感じるのだ。それは、自分が自分の父親の頭を踏んづけてきたときと同じように。ただ、それはロクリンの言葉で言えば「愛」を持っていることができるかどうか、ということにつながってくるのである。前半の言葉が後半に生きてくるように、すごく考えて作られている。そして、倒置法のような言葉の運び、そしてその最後の言葉が次の行にまたがっているという、もちろん原文がそのように配列してあるのだろうが、なんともニクイ書きかたであると思った。

リチャード・ウィルバー
1921年生。いわゆる40年代の大学教授詩人。モダニズムの革新がしだいに洗練と静謐と抑制の極に達した段階をよく表している。(解説文より)

ヒキガエルの死

            
    ヒキガエルが電動芝刈り機に
足をつかまれ、噛まれ、ちぎられ、ひょこひょこと跳ねて
  庭の端までくると、シネラリアの葉のした、
  灰色のハート型の葉かげ、ほの暗い、
    地べたの、最後の湿地に
      聖域を確保した。
  
    貴重な根源的心臓の血は、
土のような皮膚に、皮膚の襞と皺のうえに、むだに費やされ、
  厚いまぶたで睨んでいる目の溝をつたう。かれは
  石に戻ろうとするかのようにじっと動かず、
    静かに周囲を窺いながら死に向かう。
      そこは深い単一の世界、
  
    靄の立ちこめる泡だつ海と
冷却の岸辺、すでに滅亡したアムフィビアの帝国。
  大きく瞠った古代の目のなかで、光はうすれ、
  溺れて、ついに消えるが、それでもなお
    刈られた芝生のかなた弱日の移ろいを
      凝視しているかに見える。
               (沢崎順之助訳)


 言葉は常に生きているものであり、たえず変化している。詩人はその変化に敏感でなければいけない。いち早くその変化を使うかどうかは別として、なぜ変わって行くものなのかを考えてみることは必要だ。詩はその実験の場としてもある、というのがぼくのひとつの考えかたである。しかし、そこには、生まれでた作品としての、生のモノ、なんと言っていいか、「本質」をきちんと把握していなければいけない。そうでないと、わけのわからない詩作品が出来上がってしまうのであると思う。詩を書くという行為は言葉の実験をする、あるいは、言葉の変革を試みるというだけではないのだから。またその逆もしかりで、言葉の変化、改革なくして、新しい詩はありえないとも思うのだ。まあ、今書いている自分の詩作品が、言葉の改革を試みているとは思ってはいないが、たぶんぼくの詩は自分で意識的に「自分の言葉」を使っている。そういう点では改革かもしれない。わたしは人の言葉で勝負しない、とそれだけはきちんと守っているから。「自分の言葉」は世間の中で通用するにもかかわらず、自分だけの言葉だから。

 さてウィルバーの作品だが、この詩は、ヒキガエルが芝刈機にはさまれ、足を噛みとられ、庭の隅で死を迎える、というものである。内容は簡単だが、死を見据えた目はやはり奥が深いものがあると言えるだろう。ただ、形式、抑制、アイロニー、引喩の尊重、それらをひっくるめての実験的なものなど、モダニズムの新しさがこの作品で昇華されている感じが如実にわかる、という訳でもない。さてはて、いったいモダニズムってなんだろうとフッと思ってしまった。  今回はこのくらいで。失礼。




アメリカ現代詩101人集」を読む 3 1999.1.13  金井雄二

 わたしのアメリカ詩は、ビート派の詩を読むことからはじまったが、それ以外のところでは、シオドア・レトキ、レイモンド・カーヴァー、ヘイデン・カルース等の詩が好きだった。「アメリカ現代詩101人集」の中にもこの三人は入っていたので、今回はそれを読んでみようと思う。

シオドア・レトキ
「1908-63。自然の事物を通して精神的なものを語る神秘的な詩風を特徴とする。父親の所有した温室の記憶にかかわるイメージも多い。時に精神的に不安定で治療も受けた。北西部太平洋岸で活動した。」(解説文より)

   嵐

            
温室はどこに行こうとしていたのか、
温室はたたきつける風のなかに突入した。
風は水を
川下まで追いやった。
どの蛇口からも水は出ない。
ぼくらはスチーム装置のかわりに
肥料散布機を空にし
それに腐った混合液を入れ
錆びたボイラーに送りこんだ。
圧力計を見ると
針は赤に振れ
機械の継ぎ目はきしみ
熱い蒸気は
バラの温室の奥まで
流れていった。
凶暴な風は
イトスギ材の窓枠をきしませ
薄いガラスのあちこちにひびを入れた。
夜通しぼくらはなかにいて
ひび割れた個所に麻布を詰めた―
しかし温室は風をのりきった。
この古ぼけたバラの温室は
激しい嵐の中心部、核に
まともに向かい合い
固い舳先波を切り
風のなかを突き進んだ。
風は温室の上で砕けて
しぶきをあげて側面をたたき
屋根の向こうに細長い雨のすじを投げかけ
ついに疲れ果て、向きを変えた。
残るのは通風孔の下の弱々しい音だけ。
温室がバラを満載して航海をわ終えると
やがて穏やかな朝が訪れた。
               (森邦夫訳)


 レトキという詩人のあるひとつのイメージを語るとすれば、それは「温室」であろうか。これは温室栽培の花屋の息子として生まれたので当然といえば当然かもしれないが。レトキにとって「温室」は自分の少年時代そのものだったのだろう。その描写は素直で細かく、自分の苦しさを暴き出すような書き方に思えてならない。自己探求の道を自分の過去の事物、つまり温室や植物にもとめるというのは、どこか危うい不安定なイメージをわたしに植え付けた。その繊細さが、なぜかわたしにはゾクゾクソくるのだ。
 アメリカの詩人は大学の教授が多いように思うが、レトキもワシントン大学で教鞭をとっていたようだ。

レイモンド・カーヴァー
 「1938―88。短篇小説家として同世代の傑出した著名な作家だが、詩作にもすぐれ、同様の微細な観察の手法で、同様の挫折、欠乏、孤独の主題を描く。後年ますます物語と詩の融合を試みる。」(解説文より)

水と水が出会うところ

            
ぼくは小川が好きだ。小川の音楽が好きだ。
まだ小川になりきれない
湿地や草原の流れもいい。
なによりひっそりと
流れているのがいい。いや、ぼくは
水源のことを言うのを忘れていた。
水源ほどすばらしいものがあろうか。
だがまた川のほうもぼくの心を捉える。
川が大河に流れこんでいくところがいい。
大河が海に入る広大な河口がいい。
水と水が出会うところが
いい。こうしたところは
聖地のように心にきわ立つ。それにしても
海に入るこの幾筋もの大河はどうだ!
まるで馬や魅惑的な女を愛する男みたいに
ぼくはこの光景を愛する。この
冷たい速い水にとり憑かれる。
見ているだけで血がさわぎ、
皮膚はひりつく。この幾筋もの大河は
何時間見ていても飽きない。
大河の一つ一つが違うのだ。
きょうぼくは四十五歳になった。
むかし三十五歳だったことがあったと言って
信じてくれるひとがいるかな?
ぼくの心は三十五歳で干上がって涸れてしまった。
五年かかってようやく
心はまた流れはじめた。
今日の午後は好きなだけここにいて
それからこの河沿いの場所を離れよう。
ぼくは河が気に入った。
ここからずっと遡って
水源にいたるまでどこも気に入った。
ぼくを増大させてくれるすべてが気に入った。
               (沢崎順之助訳)


 レイモンド・カーヴァーは大好きな作家、詩人の一人である。村上春樹の翻訳で小説が一躍有名になった。わたしもそれで読んだのだが、何を読んでも楽しく読めた。つまり、自分の好みにぴったりだったのだろう。詩を書いていたことは後になって知ったが、その詩も小説同様、自分の身のまわりの出来事や、細かい事象を丁寧に書くやりかただった。この「水と水が出会うところ」という作品も素直な作品だ。「まるで馬や魅惑的な女を愛する男みたいに/ぼくはこの光景を愛する。この/冷たい速い水にとり憑かれる。/見ているだけで血がさわぎ、/皮膚はひりつく。この幾筋もの大河は/何時間見ていても飽きない。」という部分なども彼の眼の向け方、自然への感じかたが偲ばれる。そして「ぼくの心は三十五歳で干上がって涸れてしまった。/五年かかってようやく/心はまた流れはじめた。」この五年という月日は彼にとってどんな期間だったのだろうか。もちろん比喩的な意味での五年だろうが、わたしには彼の生活態度を垣間見ることができるような気がしてならない。つまり、思索に耽る生活をするというよりは、確かなものだけをみつめなおす、静かな時間を持続した日々を彼は欲していたのではなかろうか? 河は彼に眼を開かせたものであるかもしれない。

ヘイデン・カルース
 「1921年生。若いころ神経を病んで入院し、その体験をもとに詩壇から離れた立場で詩を書きはじめ、農村、都市のそれぞれで暮らした体験を切実に作品化する。ジャズ、ブルースの評論も多く、編集したアメリカ現代詩集は大きな影響を与える。」(解説文より)

   小川と岩について

         
おまえも いつの日か
いまのわたしみたいに
明るい八月の昼さがり
ここ小川のほとりで
  
いまのようにひとり
大きな石のうえに立って
去っていった息子の身を
祈ることがあるだろう
  
多くの変化があって
多くのものが変わるだろうが
この岩はなおおまえを支え
この古い小川の流れは
  
いまと変わらずに流れ
おまえの足もとから
なぜ どうやって いつ
を囁くことがあるだろう
            (沢崎順之助訳)



   

どうか若い娘よ

           
どうか若い娘よ、ぼくと寝るときは、からだを洗って
きみの愛人の染みを拭いとってからにしてくれ。
すぐ来ることはない。間を空けて来てほしい。
ぼくは老いているから、待つのは平気だ。遅く来るのは
我慢できる。それより耄碌がさらけだされるのが
こわい。そうなのだ。きみは卑劣であってくれ。
騙して、ごまかしてほしい。かれのところから来たなどと
いわないでほしい――そんなことはすぐ分かる。行って、
思う存分淫らに、長い明るい日中、かれの若いからだを
楽しんでくるがいい。そのあとこちらに来て、
夜の覆いをかぶせて、歓びを与えてくれ。ぼくの
衰えを隠してくれ。きみは、壊疽に手を触れて、
  心あらば、それを嘘と憐憫にくるみこんで
  いまをなお緑の春の季節と思いこませてくれ。
                    (沢崎順之助訳)


 ヘイデン・カルースの詩はなんと書いたらいいのだろうか。わたしには、ゴツゴツした不器用な詩と感じる。技術的に優れているとか、表現のしかたがうまいとか、そんな感じではないようなのだ。彼のすべての詩がある一つの気持ちで書かれている。その気持ちは「生」への慈しみだ。自然の中に溶け込んだ詩句とともに、素直に語られている。「小川と岩について」でも、大きな石の上にたち、小川の流れから永遠というものを感じとっている。「どうか若い娘よ」はとても悲しい詩だ。彼と若い娘との関係は何なのだろうという疑問は残るが、詩にはたぶん関係ないことだろう。老いの姿と憐れみが、娘の若さとあいまって浮き彫りにされている。この二編だけでは物足りない方がいたら、書肆山田刊「雪と岩から、混沌から」というヘイデン・カルースの詩集があるので読んでみてはいかがだろうか。  それでは今日はこのへんで。




アメリカ現代詩101人集」を読む 2 1999.1.6  金井雄二

 小説を読みあさり始めた頃、なにしろ長いものを読まなければいけないものだと考えていた。どういうことかというと、すべて著名な作家の代表作というものは長編が多く紹介されていて、長編を読まなければその著者を読んだ事にはならないのではないか、と思っていたからだ。たとえば、日本でいえば志賀直哉。その代表作といえば「暗夜行路」というふうに。たしかに、「暗夜行路」は著者渾身の力作かもしれないが、わたしにはまるっきり、面白いとは思わなかった。志賀直哉のすばらしさは切れ味鋭い短編にあるのだ。

 「アメリカ現代詩」を紹介しようと言うのに、日本の小説家なんぞを引き合いにだして何考えてんだ! と言われそうだが、ちょっと待ってください。アメリカの小説にも同じようなことが言えて、たとえばフォークナーなども紹介されるのは、長編が多い。ヘミングウェイなどもそうだ。確かに長編小説だって悪いわけじゃないのだが、もっともっと、確信をつくような短編がゴマンとあるのに、それを読まないというのは得策じゃない。
 文学好きな人にはいろいろなパターンがあって、その中に、長編が好きな人と短編が好きな人とふたつに分かれると思う。わたしは完璧に後者で、短い小説がこの上なく好きだ。

 ヘミングウェイはわたしが思うところ短編作家だ。長編はことごとくわたしにはおもしろくない。レイモンド・カーヴァーなどはもっと極端で、短いものしか書かない。そんな人もいる。これはこれで、潔い。なぜ長いものを書くのかというと、つまりそれは、長いものを書かないとお金にならない、ということも大きく影響しているかもしれない。

 「アメリカ現代詩101人集」には極端な長詩は載せないという編集方針らしく、結構短いものばかりだ。わたしにはそれが読みやすい。念のためだが、長く書くことを否定するわけではない。長いものはわたしに合っていない、と思うだけだ。それが結果的にわたしが詩に向かっていった動機の一つでもあるような気がする。短いもので、人を納得させられることは素晴らしいことだ、とかねがね思っている。そう考えると日本の俳句はやっぱりすごいなあー、と思う。

 という訳で、短くて、キラキラと輝いている作品を見つけてみる。

エスリッジ・ナイト
 「1931―91。独学のあふりか系詩人。麻薬中毒になり、窃盗罪で投獄される。服役中に詩作に目覚める。個人的あるいは民族的体験をスラング交じりの口語で書く。」(紹介文より)

ハイク

  1
  
東の監視塔は
夕日にきらめき 囚人たちは
岩の上のトカゲのように休む
  2
ピアノ弾き
午前三時にじんときて
彼の曲はプラムのように落ちる
  3
朝日が独房に差し込む
酔っ払いたちは刑務所の床で
不具の蝿のようによろめく
(以下、略。訳者 森邦夫)


 さすが、日本の俳句の威力はすごいな、と感じる。やっぱり日本が世界に誇れる文芸は俳句しかないんじゃないか、と思われるくらいだ。五・七・五の文字の中に全宇宙を見ることができる。しかも、子供から大人まで、みんなが作れるものでもあるのだ。エスリッジ・ナイトの「ハイク」が「俳句」になっているかは別問題として、リズムと形式は詩にとってやはり命だ。これはどこの言語でかかれたものでも同じだろう。それゆえ俳句は確固たるものをもっているから強い。刑務所の中での子細な出来事を文字に託すという作業は、無味乾燥であろう服役の時間を至福の時に変えたことだろう。ここにも詩の力があるのだ。なお、本文中には「原詩はいずれも五、七、五の音節から成る。」との注がある。

シド・コーマン
 「1924年生。詩誌「オリジン」でおるそん、クリーリー、ブロンクの紹介に功績あり。詩人としては不遇であるが五〇年代来日、帰国するも再来日して京都に住む。短い詩行に思索を込める。草野心平の翻訳者。」(紹介文より)


関心の領域

電話は鳴りつづける
雲はほとんど動かない
        (訳者 森邦夫)



ノン・グラータ(好ましからざる……)

            
わたしには名刺がない、パスポートもない
それを所持して、それを見せて、それによって
自分を証明するものが何もない
だからわたしはアダムと
区別がつかない。わたしは自分が
誰だか何だかわからない。
鏡のなかに映った顔は
こんな顔になるのに費やした
時間の悪戯にほほ笑みかける。
        (訳者 森邦夫)


 短い詩二編。シド・コーマンという詩人もここで始めて知った。「関心の領域」という作品はたったの二行。身近なものと情景をバシッと組み合わせた典型のような詩だと思う。でもなんとなく、ふ〜んという気分になれるから不思議なもんだ。「ノン・グラータ」という作品では、自分を証明できる唯一のものを持っていないということで、存在の不安さをだしている。そして、現在鏡に映っているモノに対しての存在意義、また、自分にたいしての驚きと嫌悪と自信とが絡み合っているのを発見する。わたしはそう読んだのだが、いかがだろうか。短いから、中身がないかというとそんなものではなく、ことにこのシド・コーマンという詩人は内に秘めたものが多いように感じた。

ウィリアム・スタフォード
 「1914―93。中西部あるいは西部の広大な自然と野生のたたずまい、そして、それに対峙する人間を平明なスタイルで描いた。第二次世界大戦では良心的兵役拒否者であった。」(紹介文より)



原爆の実験場で

            
真昼の砂漠で、トカゲが一匹、
肘をぴんと張って歴史を待ってあえいでいる。
何かが起こるかもしれないと
この一本の道の曲がり角を見つめている。
トカゲは人間には見えないずっと彼方の
何かを見ていた。当然の成り行きの結末、
ちっぽけな自我のために、
岩場で行われたある重大な場面。
ほとんど何もない大陸があり
その上には全く無関心な空があった。
トカゲは変化に備えて、肘を張って待っていた。
両手で砂漠の砂をしっかり握っていた。
               (訳者 森邦夫)


 このウィリアム・スタフォードも初めての人である。これまで聞いたことのない未知の人。おどろくほど素直な詩を書いている。平明という言葉だけでは、この人の魅力を言うのにはたりないような気がした。根本的に持っている詩の質が書かせているのだろう。紹介文にあった「良心的兵役拒否者」というのは具体的にどのような行動をとった人なのかよくわからないが、人あたりが良く人と動物を愛し、平和を願っていた人だということは詩を読めばすぐ分かる。上の詩もそうであり、特にトカゲがきっぱりとした意思を持っていてすがすがしい。いつぞや、日本でかわいそうな思いをしたエリマキトカゲを思いだしたのはわたしだけだろうか。

ルイス・シンプソン
 「1923生。ロシア系でジャマイカ生まれ。十七歳でアメリカに移住。第二次世界大戦に従軍。イメージ中心の自由なスタイルの詩を書く。加えて社会的な意識も強い。現代詩についての論評も多い。」(紹介文より)


アメリカ詩

            
どんなものであれ それは
ゴム、石炭、ウラン、衛星、詩を
消化する胃を持たねばならない。
それは鮫のように、靴を腹に呑み込み
ほとんど人間のような叫び声をあげ
砂漠を何マイルも泳がねばならない。
            (訳者 森邦夫)


 まったくアメリカとは不思議な国だ。生粋のアメリカ人というのはいないからである。必ず、どこかから移住してきた人で構成されていて、わたしはアメリカ人だと言っている。伝統というものもないに等しく、野心的な心意気を持ち、新しい国は新しいなりに世界のナンバーワンになりたいと願ってきたようだ。このルイス・シンプソンという詩人も「ロシア系でジャマイカ生まれ。十七歳でアメリカに移住。」という経歴だ。これじゃ本当はどこの人なのかよくわからない。でもこれこそアメリカ人なのではないかと思う。詩は簡潔な表現とイメージを喚起させるもので、なるほど「アメリカ詩」ってそんな感じかなー、と思っている。

 それにしてもアメリカにはいろんな人がいるなあ、と思う。形にはまらないので面白いのだ。きっと、路地裏でエンピツを舐めながら、即興で歌えるような詩を書いている人がいっぱいいるんじゃないのかなとわたしは勝手に想像している。

 他にも短くてキラキラしている詩がたくさんあるのだけれども、なんか疲れたので今日はこのへんで。


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「アメリカ現代詩101人集」を読む 1 1999.12.30 金井 雄二

 詩を書き出した当時、それはもう16、7年も前になるのだけれど、手当たり次第に詩を読んだ。日本の詩はもとより、フランス、ドイツ、アメリカ、というふうに。有名な詩人の詩集なら即刻手にはいるのだが、ちょっとわき道に入ろうとすると、どれもこれも手に負えない状態だった。もちろん、原書で読めれば問題ないのだが、翻訳にたよらざるを得ないわたしは、海外の詩をいろいろ読むのには苦労するな、と思っていた。その状態はたいして今もかわりはないのだが、今年(1999年)の6月に出た、「アメリカ現代詩101人集」はそんなわがままを少しでも許してくれる貴重な資料だった。アメリカ詩に関しては、特にアンソロジーを望んでいたのでこれは本当にうれしかった。そういう面でいえば、岩波からでた、文庫の「名詩選」も良かったと思う。これは左ページが原文で、右が翻訳になっている。アメリカに限らず、フランス、ドイツもある。下段に注もついていて、自分で語学をたしかめるのにも良いかもしれない。

 とにかく、「rain tree」では「アメリカ現代詩101人集」の中で気になった詩人、作品、をとりあげ、自分なりに読んでいこうと思っている。しかし、書き始めるにあたって、無責任なようだが、これからどうなるのか皆目見当がつかない。「アメリカ現代詩101人集」という書物の資料的価値やわたし自身の詩のこと、または詩全般に関してまで、ゴチャゴチャと記すだけかもしれない。でもそれはそれでいい、と思っている。

 わたしが編集したわけでも企画したわけでもないのだが、最初にそもそも「アメリカ現代詩101人集」という本は何か、ということを簡単に述べておこうと思う。

 あとがきによると「表題で明らかなように、二十世紀の101人のアメリカの詩人の詩篇を翻訳して収めている。」とある。アメリカ現代詩の最新版アンソロジーである。編集はD・W・ライト。訳者は沢崎順之助、森邦夫、江田孝臣(敬省略)。ページ数529ページ、A5版だが分厚い。発行所は思潮社で、発行日は1999年6月20日となっている。巻末に詩人名、作品名の索引があり、とても助かる。ソフトカバーで扱いやすいが、無線綴じのようなのでページがはがれないか気がかりだ。装幀は詩人の小池昌代さん。シャレていてとてもいい感じ。

 そもそもアンソロジーに完璧なものはない。必ず何かが漏れる。これはいたし方のないことだ。たぶんこの本にしたってそれぞれ涙を飲んだところはあるに違いない。ただそれらを考慮にいれてもなお、未知の詩人を紹介した功績は大きい。今までにもこのようなアメリカの詩に関した本がないわけではないが、すでに皆古い。新しい今のアメリカ詩人のアンソロジーを作ったという行為に、わたしはまず拍手をおくるべきものだと思う。そんなことはない、とおしゃる方がいたらわたしは言いたい。だったら一度作ってみなさい、と。この作業がどんなに大変なことか、わたしには想像ができる。

 さて、この本の筆頭に飾られている詩人はケネス・レクスロスだ。「一九〇五―八ニ。モダニズム詩の全盛期に自然詩を書きはじめ、西海岸を活動の拠点にしてその後のアメリカ詩の動向に大きな影響を与えた。ビート派などの詩人らの文学的父親としての役割を果たす。日本詩訳集、中国詩訳集を出す。」と最初に紹介がある。



万物の署名

            ケネス・レクスロス

  
頭と肩とそして本は
涼しい日陰に入れ、からだは
日向に出して寝ころび、
滝のわきで読んでいるのは
ベーメの『万物の署名』である。
七月も深まったこの日一日
月桂樹の葉は、多彩な黄金色を見せて、
月桂樹の揺れる木々のあいだを
舞い落ち、空と森を映す
池の水面にしばらく浮いたあと、
ふたたびゆるやかに旋回して
澄んだ深い水のなか
黄金の落ち葉の底に沈む。
世界は愛の電気分解のなかを
流動する、とベーメは考えていた。
わたしは本を置き、日に溢れる
月桂樹の細い幹や、葉の
陰に重なる陰を透かし見る。
ミソサザイが苔の巣に籠っている。
イモリは水面で溺れる白い蛾と
格闘している。つがいのタカが
空の天井でたわむれて
鳴いている。長い時間が過ぎる。
これまで愛してくれた者たち、
これまで登ったすべての山、
これまで泳いだすべての海を思う。
世界の悪が消えていく。
わが罪障も労苦も、クリスチャンの
重荷のように落ち、わが四十たびの
夏が、落葉と落水のように、
落ちながら夏の大気に
永遠に固定されるのを見つめる。
*     *     *
七月の満月を浴びて
シカが林間地を歩んでいる。
大気に干し草の匂いが漂い、
遠くにもっとかすかに
スカンクの臭気がする。
森のへりに立って、闇を
窺い、静寂を聞いていると、
小さなフクロウが
息よりも静かな羽音で
頭上の枝に止まる。
懐中電灯の光を当てると
目が鉄の粒のように光り、
好奇心満々の子ネコのように
頭をこちらに向ける。
牧草地の草は雪のように輝き、
わたしのイヌが淡い輝きのなかの
淡い影となってそのなかをうろつく。
オークの森に入る。むかしここに
インディアンの村があった。
光は点々と編み目状に注ぎ、
青い靄のなかに黒くぼんやりと
ホルスタインの雌ウシがニ十頭、
黒と白の毛並みで静かにかたまって
寝そべり、頭上の大樹が
墓の穴深くまで根をおろしている。
*     *     *
沼の底から丸太の腐ったのを
引きあげたとき、それは
重くてまるで石のようだった。
ひと月、陽に干したあと、
いくつかに割り、焚き付け用に
細くそいで、もっと乾かすために
それを地面にひろげた。夜遅く、
人間の運命を述べる
聖人哲学者の書物を
蛾がばたつくランプの明かりで
何時間か読んだあと、
小屋のポーチに出て
黒い木立を透かして
揺れる星の島々を見上げた。
とつぜん足元に見たのは
震える燐光を発しながら
夜の床にひろがる木片だった。
まわりに散乱する木屑にも
淡い冷たい光が息づいていた。
                     (訳 沢崎順之助)



 最初に載った詩人の最初の詩だから引用した訳ではない。この詩が良かったから載せたまでだ。筆写(打鍵)している時も、自然界と接触する感覚がじつにうまく書けているなと感じた。もともと、ケネス・レクスロスという詩人は神秘主義的な自然をテーマにした詩を書く人なのだろうか。調べてみると、ベーメは神秘主義の思想家だし、レクスロスは東洋思想にも興味をもっていたみたいだ。もっともっと読みたくなってくる。とにかく、レクスロスの名前はビート関係の本を読むとたびたび目にしていたものだから、知ったような気持ちになっていた。しかし、詩を読むのは意外にここが初めてのような気がする。そして、こんなにさわやかな詩を書いていたんだ! ということに驚きを覚えた。

 とくに、「わたしは本を置き、日に溢れる/月桂樹の細い幹や、葉の/陰に重なる陰を透かし見る。/ミソサザイが苔の巣に籠っている。/イモリは水面で溺れる白い蛾と/格闘している。つがいのタカが/空の天井でたわむれて/鳴いている。長い時間が過ぎる。/これまで愛してくれた者たち、/これまで登ったすべての山、/これまで泳いだすべての海を思う。/世界の悪が消えていく。」という描写は好きだ。

 今回は初回ということもあるし、それにどれだけの分量を書くのが一番読みやすいのかもわからないので、ここらへんで一度お休みしようと思う。次回はもっと詩作品と詩人を中心にしましょう。ではまた。




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