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〈詩を読む〉
二つの遺稿集 2000.1.17 関 富士子
豊田俊博遺稿集『彗星』をCOLOURの会から刊行することができた。この作業をみんなで進めているときにわたしの頭を離れなかったのは、彼が詩集の刊行を果たして喜んでくれるだろうかということだった。原稿どころか遺書すらなかったからである。山田京一郎さんが集めてくれた遺稿を読むと、何も言わない死者の代わりに詩が真率に語っている。彼の人生にはいつも死が寄り添っていたようだ。
それからもれた作品のうち二つを、no.15に掲載させてもらうことにした。詩「夕日」を読むと、この時期にはまだ彼はやはり、言葉の力を信じ、生きる力を言葉から得ていたのだと思える。わたしはそのことに大いに慰められた。
夕 日
豊田 俊博
ある人の詩集をもとめて、本屋街を歩いた そのひとはもういないのに 意識だけが綴じられて、表紙までつけているなんて 不思議だ。 掌におさまっている。 早い夕暮れが 神社の大鳥居に 日輪を落としかけている。 バスを待つわたしの後ろで 若い恋人どうしが、たのしそうに ハングル語をしゃべっている。 どこの国のことばにも 感情のリズムがあって、美しい 意味はとれないが、たぶん たわいのない話だ 今、口から出たばかりのことばを あなたは、すぐに忘れるだろう。 ちょっぴり幸せな気持ちになって 手の中の頁をめくる 消せないことばを追う。 バスは目の前に流れを止め ためらわず、わたしは乗った 揺られながら、果敢にも落日に向かってゆく ギヤがローに入る、坂の勾配を 骨を軋ませながら登ってゆく。
一九八八年一月
(注 「ハングル」は朝鮮語の表音文字で「ハングル語」は正確ではありませんが、原文どおりとしました。ここでは朝鮮の言葉という意味で使っているようです。関)
豊田俊博(一九九九年五月一日没)遺稿集『彗星』一九九九年十二月三十一日 COLOURの会刊 補遺作品
遺稿集の補遺として、colourの会の合評に提出されたエッセイを掲載しておく。
亡くなるまでの数年は、会の宿題の文章を読ませてもらうぐらいだった。この文章を読んだときとてもおもしろくて、帰りの電車の中で、今詩を書いてる? 詩とエッセイをrain tree に書いてよと頼んだことがあった。彼はあまり気乗りのしない様子で、今はあまり詩を書いていないからと答えたのだ。あの時強引に依頼すればよかったか、などと、思ってもしかたのないことを思う。短いのに実に描写が正確で、筆者の「悔いのように残る」という結びが、頬の黒子のように印象に残る作品である。
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渋沢孝輔遺稿集『冬のカーニバル』を読んでいる。
所収の散文詩「幻の魚」に夢の記述がある。断崖に立つ住いの左右から合流し、目の前をとうとうと流れる大河と、左手前方の険しい山々を眺める夢をたびたび見る。故郷の生家の近辺の記憶かと思ったら、ある本で、自宅の南側の崖線が、太古に流れていた大河の跡であることを知ったという。現在はかなり大きい川が数キロ先を流れていて、その向こうに大昔の大河の対岸と思しき丘陵も眺められる。「理想の栖は、してみればすでに遠い昔に消えた風景でしかなかった」と嘆じている。
小雪の舞う告別式の日、詩人の自宅にほど近い幡随院へ赴くのに、急な坂を下ったことを思い出す。あれが「南側の崖線」の連なりか。地図で辿ってみると、坂をさらに下った所を野川が流れている。野川はすぐ上流の恋が窪の泉から湧いていると人にきいたことがある。数キロ先の川とは多摩川のことだろう。その向こうの多摩丘陵の中腹に、詩人の墓はある。今彼は、たびたび夢で見た幻の山の上から、幻の大河に跳ねる幻の魚を釣っているだろう。
(rain tree"no.15 2000.2.25発行に掲載。)
冬に読んだ詩集いくつか 1999.2.1 関 富士子
この冬読んだ何冊かの本から、いただいた詩集を中心にご紹介します。
『甘い水』 中上哲夫 スタジオムーブ
短い詩から始まって散文詩まで。釣りの詩だけ16編を集めた小さな詩集。中上哲夫といえば眠ってばかりいる「眠り男」で知られている?が、釣りときくとがばと起き上がる「釣り男」に。糸を垂れながら魚たちを相手にこんなゆかいな話を聞かせているのか。よく胡椒のきいた「湖水スープ」飲んでみたい。
さあ、いっしょに日のあたる川辺にすわって、かけがえのない至福のときを過ごそう。人生が目の前で一瞬のうちに過ぎるのが見えるだろう。
『甘い水』は版元がインターネットで販売します。税込み500円。お薦めです。
注文先スタジオ・ムーブ
『聖跡』 松本憲治 思潮社
宮野一世との二人誌「μ」に発表された1ページに収まる短い散文詩群と、ところどころに挟まる断章で構成されている。発せられてはふっと口をつぐむようにおかれる名詞たち。ときにささやきかけるなぞめいた女の声が聞こえる。ひそやかな性愛の触感は官能に満ちているのに、全体は静謐でストイックな印象を受ける。
「わたしたちは刻一刻辱められる。わたしたちは刻一刻贖われる。」(「風穴」より)
『山が見える日に、』 田中庸介 思潮社
街や山や霊園や夜桜の下を闊達に縦走し、見るものすべてを片端からキャッチしては放り投げる快速trecker。才気横溢のぴっかぴか。「オフ、」の日はちょっと立ち止まって野草を思っているらしい。 ご注文は、
『バナナ曲線』青木栄瞳 昧爽社
「めくるめく・マクルマク」は布村浩一の「近況」とのセッション。恋に落ちた男のからだに、言葉にならない愛が「サリサリ」と降ってくるのを見ただろうか。三井喬子さんと桐田真輔さんの詩集評が青木栄瞳『バナナ曲線』を読む"rain tree"vol.15にあります。ご注文は、
『彗星』豊田俊博遺稿詩集 colourの会
1999年5月1日、50歳でみずから命を絶った詩人の遺した詩作品集。何度もなぜ、と問いかけずにいられなくて読み返す。彼の詩はそのたびに真率に答えてくれる。何も言わない死者の代わりに、詩が語るのだが、うなずきながらたとえようもなく悲しくなる。
「そのとき母は椅子に背をもたせ/遠く一点を見つめていた。/光を受けるまなざしで/あなたはすでに見ていたはずだ。/ぼくの誕生から死までの一切を。」(「未生」より)
『冬のカーニバル』 渋沢孝輔遺稿集 思潮社 渋沢晴子
亡くなった当時は、雑誌に掲載された入院日記がどうしても読めなかった。辛すぎた。あれから2月8日でちょうど2年。今落ち着いて読んでみると、彼は死を考えるよりも病気を乗り越えて生きようとしていたことがわかる。それでも悲壮な感じはなく、淡々としてユーモアもある。力尽きたという感じがないので救われる。
それでも癌は残酷に容赦なく命を奪っていくのだが。「宿業の緋色の小鳥が咽頭に棲みつき/四六時中肉を啄ばんでいる」(物みなは歳日と共に)咽頭の癌を小鳥にたとえるなんて・・・
散文詩「意味の吐息」で詩人は、「痛む半身を押さえながら」、かたわらのアビシニアンの故郷であるアフリカの「光の土地」に思いをはせ、百年前にそこを激痛に耐えて歩いた男の孤独な影を想起する。「いかにも世界は大いなる謎と驚異に満ちている。言いかえれば、こちら側ではすべてが散乱したままだということだが、・・・」
死の直前に出版された唯一の散文詩集『星曼荼羅』をもう一度読み返そう。
『人体望遠鏡』 田村奈津子 あざみ書房
身体が自然に動いていって、宇宙とそっと交信している。つつましやかな祈りと喜び。「・・た」「・・る」など動詞で終わる行末が繰り返されて韻とリズムを作っている。
『なないろ。』 山岡広幸処女詩集
かろやかにデビューをしたハッピィな小詩集。「サマーレイン」ぐらいのをもう少し並べて読んだ気にさせてくれ。ううん、物足りない。ご注文は、NekomimiWeb
『化体』 粕谷栄市 思潮社
白い卵の顔の男や、顔じゅうが口の男、投身したまま宙づりでいる男、消滅する仕立て屋の男、犬を虐待する男、老婆を殺害する妄想をする元看護婦の老婆、一枚の毛布になる男、知っている他人に変わってしまうマーフィという男、椅子と癒着した男、キャベツ男・・・。
粕谷栄市の一幕芝居の登場人物は皆、宙づりの姿勢のまま身動きもならずに硬直して絶望的に観客を見ている。彼らが観客自身の姿でもあるというなら、あまり気が進まないが、マルタおばさんにはちょっとなってみたい。
「当年五十歳。象のように太っているけれど、・・・夜毎この世の青い花のようなものをを摘んで、永遠に六月の虹のような歳月を生きる。」のだ。
三井喬子さんの詩集評粕谷栄市詩集『化体』を読む"rain tree"vol.15を読んでください。
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