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vol.15
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粕谷栄市詩集『化体』(思潮社)を読む


――孤独の外貌は、「白く固い卵」のようにひんやりしている。

 三井 喬子


 「化体」とは、広辞苑によれば「形をかえて他のものになること」だ。そして、
 有価証券のように、権利とそれを表彰する証券との間に認められる密接な結合関係を表現する語。「権利が証券に――する」
とあり、続けて「化体説」とあり、
 ローマ・カトリックのミサにおいて司祭の聖別の祈りによって、パンと葡萄酒との実質がキリストの血と肉とに変じ、ただ形・色・味などの属性だけパンと葡萄酒として現れるとする教理。実質変化ともいう。
とある。わたしは、この「化体説」に惹かれる。

 これを単純に言いかえるとするならば、「ミサ」とは詩という文学の一様式と言え、司祭は粕谷氏のこととなろう。詩人の聖別の祈りによって、生きることの実質がエロスやタナトスとして変じるのではないだろうか。そしてその属性である孤独や愛や悲哀といったものが、「白く固い卵の顔」・異様な顔・「蛙」・「老人」・全裸の「マルタおばさん」・「老婆」・豚の「撲殺」などという外貌をもって現れるのではないか。

 それらの「ばかばかしい」様態が、詩のスクリーンに投影されているとすれば、「ばかばかしい」と書いている・見ている詩人の対象化の精神に気付かざるを得ない。わたしの記憶というものが、わたしの現実だったこととはずれているように、醜いものや弱いものに仮に姿を借りたその実質に対して、詩人の感情は奇妙にずれている。「ばかばかしい」のは、温かい視線の海峡がそこに横たわっていて、大変滑りがよくなっているからではないのだろうか。水は、二者間の関係を円滑にし、諸々の精神の方向を自在に変えうるのだから。

 粕谷氏の水、それは諧謔精神であると、わたしは思う。

 『化体』を形から見てみよう。
 散文詩。字詰めは定数。行数も、ほとんどが見開きに入っていて、出てもほんの数行である。詩集を開いて先ずわたしは、ある広がりの面積を見た。めくる。まためくる。続けて視界に飛び込んでくる横長の暗い「場所」。つまり、魂のスクリーンの外貌である。「遠い三日月の街」の図柄の「一枚の紙幣」もまたそうだろう。スクリーンと紙幣は、同心円の関係にある筈だ。

 「一枚の紙幣」は、生まれてから今日までさまざまな人の手を渡り、いろいろな世界を見てきた。「月明」の中に、それらの人生が浮かんでくる。わたしたちのいる風景もまた、笑いや涙の記憶のバイヤスがかけられて、変容し、取捨選択されて、いつか「一枚の紙幣」に投射されるのだろう。まるで「古い昔の芝居の一幕みたい」と語られるだろうか。

 こうして生起する物語は、すこし物憂い翳りを帯びていて、思いがけない強さで読者を呪縛する。しかし、すぐそれと気付くことはあまりないのではないだろうか。声高ではないその口調に警戒を怠ると、あ、気がついたときには粕谷詩の世界にがんじがらめになっていた、ということになる。怖くて哀しくて不安にみちた、エロティックでいかがわしくて可笑しい粕谷詩の世界!

 「たちの悪い膀胱炎」で死んだ男や、「七十年、看護婦をして暮らして、ぼんやりと、孤独に、人殺しの妄想をしている老婆」のばかばかしい話には、つい、ふっと笑ってしまった。そして、

    この世に、何故、人間と壜は、存在するのか。いつの
   時代にも、何故、壜詰めにされた状態でしか、生存でき
   ない人間たちがいるのか。一切は、愚かな人間の錯誤に
   はじまる、巨大な壜のなかの出来事ではないか。

と自問し、懊悩し、

   ばかやろう。お前はどうして生まれてきたのだ。

と激しくわが身に問うことも、「一枚の紙幣」が見てきた世界の、溶解しかかった記憶なのであろう。

 形の上でもう一つ特徴的なことは、文節が特別に短いことである。一見して、句読点が目立つのだ。限度ぎりぎりまで文を切っているように思える。このことを、読みやすいと括ることは、わたしには出来ない。現代のスピード万能主義から展開すれば、むしろ読みにくい。だからわたしは、久しぶりに粕谷詩を読むというときには、いつもそこで少し途惑う。そして、二行目三行目になると、もうはまってしまう。

 けれど、呼吸はいつも押さえこまれ気味に推移する。その間に、否応なく言葉は「わたし」に刻印されるのだ。ある塊の中で発される言葉の意味は、塊が小さく単純であるほど理解されやすいのは当然なのだけれど、文脈のストレートさがそれに更に深度を与えているような気がする。詩人の思いや祈りの重さが、実質変化して、詩語の強さになって現れているのかも知れない。

 粕谷詩には浸透感があると、ずうっと思って来た。始めて読んだころは、何だか悪魔の詩のように思えたこともあるのだが、今となっては「白の魔術師」という信頼感となっている。間違いなく気持ちの方向を換えてもらえる有難い聖職者であると思うのだ。「いつの時代も、独りの人間が生きることは苦しい」が、孤独や苦痛が笑いやエロティシズムなどに化体してくれるということは、まことにもって有難い。

 エンディングの、激しく降りしきる雪のなかで消えて行く物語の、橋は、読者の一人一人に懸けられたものでもある。こうして拙文に同行してくださった、あなた、あなたは雪女に逢いたいですか。今夜という夜は、再びはないのですよ、再びは-----。  mail三井喬子


粕谷栄市詩集『化体』 思潮社刊 1999年11月20日 ご注文は思潮社tel.03-3267-8153 fax.8142 振替00180-4-8121   

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