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ヤリタミサコさん
ポエケットで遊びましたかあ? 私は遊び足りなかったよ。
12月12日は、主催者というのに風邪で37度5分の熱。ここで死んではイカン。明日からの人生はないものと思え、ってなイキゴミで、両国の江戸博へ。関西から参加予定の平居謙さんもカゼでダウン、欠席とのこと。 早い時間から、たくさんの人が来てくれる。広島、島根、長野、大阪、滋賀、と聞くだけでうれしくって、顔みてうれしくって、どんどん心が暖かくなっていく。いっぱいしゃべりたいことがヤマほど、やまやま。
このポエケットの主催者は、私たち「ぐるうぷふみ」です。もう、20年も女ばかりでやってきた同人誌です。私たちは以前に「ラ・メール」という吉原幸子さんや新川和江さんたちの同人誌に所属していて、そこでは同人誌の交流会があり、吉原さんの家の2階を改造した図書室にワインや食べ物を持ち込んで、わいわいともりあがったものでした。そんな会をまた、やりたい、という気持ちがあり、ポエケットを開くことにしました。
もうひとつは、高田馬場のベンズカフェや青山のOJASというクラブでのリーディングに参加して、ストリート派のリーダーたちのリーディングがすばらしい、と思ったことです。詩学や現代詩手帖とは無縁な詩人たちが、個性的で豊かなリーディングをします。
ぜひ、たくさんの人たちと様々なリーディングを楽しみたい、と思い、大リーディング大会となった次第です。 予想どおり、ポエトリープランクスターズの平山さんや、プリシラレーベルのカワグチさん・ふじわらさんは、他の誰とも似ていない、ブルース的なリーディングで、聞き手の心をぎゅっと掴んでいた。コトバの意味だけに頼るリーディングは、耳から入っていくためにはとても不親切だ。印刷されて目で見るコトバとしては悪くない詩であっても、オーラルに伝達するためには、なんらかの工夫とか、アレンジが必要です。そこらへんを痛感しますね、ストリート派の力強さを実感すると。
もちろん、JO5のように、テクノ音楽と舞踏というスゴイ取り合わせもあり、吉田さんの音声詩的な発声にも驚いた。宮入さんのポエトリシンギングはビートがあって、コトバの生き生きさ加減では、ピカイチです。聞き手の脳細胞にフレーズを残せる力は、スゴイ。大村浩一さんや青木栄瞳さんのように、存在感と現在性で、ぐいぐいいっちゃうリー ディングもある。これはこれで、聞き手をつかんでいくよねえ。
なんて、司会者がリーディングに聞きほれている場合ではないのです。300人の入場者、うち、50人が一般入場者の人たち、として、予想以上の参加者数でした。第一回目としては、ケントウしたよね。これも、インターネット上で宣伝してくださった、沢田英輔さんや関富士子さんらの力が大きいです。オフ会的な様相も示していて、ネット上での知り合いたちが、「いつも掲示板で書き込みしている○○です」「メールをありがとうございます、○○です」といった挨拶が交わされていました。アナログ的にも、郵便で同人誌を交換している同人たちが初めて会って話して、というオフ会のシチュエーションでした。
ノートブックパソコンを持ち込んでくださった松尾さん、詩マーケット主催者の寺西さん(ポエケットを準備しているときに詩マケのことを教えていただきました)、8ミリ映写機を持ち込んだ子連れの土屋さん(奮闘はしたが、ナカミはつまらなかったぞ)、リコーダーで独特のケルト的世界をパフォーマンスした近藤さん、ほんとにいろいろな人たちが来て、見て、話してくださって、感謝感謝です。
次回は、ビデオポエムをカットするなどして、交流の時間をもっと多く確保したいと思います。だって、私自身が、顔が見えていても話す時間がない、という欲求不満だったのです。みなさん、そうだったと思います。
ひとつだけ、言い訳をいうと、穴の開いた会にしたかった、という気持ちがあります。風通しのいい、参加者がどうにでも作れる、そんな会を考えていました。主催者の私たちが、こねくりまわすのではなく、ね。99年にジェフ・ベックの公演があり、それを評して陽水が「穴があいていた」といいました。ビートルズからクラプトンのメロディまでひいちゃうんだもの、アナ、でした。もう少し前だと、ジミー・ペイジのテルミン。恥ずかしいくらい、穴です。
そんな、穴の開いた会で、2000年夏にも、また、やるぞお!!興味のあるかたは、また、ぜひ参加してくださいね。アイディアもどんどん出してください。
来てくださったかた、来られなかったかた、有形無形のサポートをしてくださったかた、皆様に心から感謝します。ちなみに、和合亮一夫妻、長澤忍さん、川端隆之さんらは、ツヨイ心の援助をしてくださいました。みんなみんな、ありがとう。
(詩学2月号にも、ポエケット騒動記が掲載されますので、読んでいただけると幸いです)ぐるうぷふみの川江、亀山、石原、渡辺、そしてヤリタミサコから、感謝、です。
(ヤリタミサコ)執筆者紹介へ
YARITA Misako(yarita@mguad.meijigakuin.ac.jp)
まつおかずひろ
///////アヴァンセの日記、より/////////
●12月14日(火) カミングズ訳詩
過日、ヤリタミサコさんがカミングズの詩を紹介した一文をコピーして送ってくださった。『詩学』(1999年3月号)に掲載されたものである。面白かった。例えば、『ひと・つ』という詩は次のようなものである。
これを、ヤリタさんは「ひとひらの雪がはらりと、永久のすみかに落ちていく風情を描いた詩である」と指摘されている。カミングズは、単語をばらばらにしているので、慣れない方は「なんだこりゃ!?」と思われるかもしれないが、ひらひらと舞い降りるひとひらの雪を視覚的にも表しているようでもあり、面白い。また「ght」を真ん中にしてほぼ対称形になっている点もなにやらいわくありげだ。
one t hi s snowflake (a li ght in g) is upon a gra v es t one
念のため、つまらない訳だけど、まつお流に日本語にすればこんな風になる。
ひと ひ ら の ゆ き は ら は ら と ま い おりて 墓 にいたる
カミングズに「OO」という詩もある。これも面白い。ヤリタさんは
the(oo)is lOOk (aliv e)e yes are(chIld)and wh(g o ne o w(A)a(M)s
『ふたつの目を見る。と、近づくことで大きくなる。生命の目。そうだ、そこに見えるものは、過ぎ去った子どもであったわたし、と、今のわたしと。
というのが、この詩のあらすじ、である。詩にあらすじとはどういうことか。
カミングズの詩は、読む詩であると同時に、見ることの効果も利用されている詩である。ことばの見え方も意識されている。例えば、詩の本文中には「目」という言葉は4行目から5行目にかけて、yesと組み合わされたeyesが隠されているわけだ。が、あらすじには2回も「目」を出した。つまり、意味上には「目」は存在しないが、視覚上には存在している。この両眼を表現するために、あらすじ、という形をとってみた。
具体的には冒頭行(oo)と2行目のlOOkのなかのOOが、ふたつの目を表している。と解説してしまうと、なあんだそんな簡単なことか、とおもしろみが減ってしまう。いや、ただ一読者であるわたしが、そう見えただけ、というべきであろう』
と、解説されている。私もヤリタさんの想像に異存はない。また、のところにもoが離れて出てくる。紙を横に向けてみればneは鼻で、oとoは目で、wh(gは、耳と耳飾のようにも、ぼくには見える。
wh(g o ne o
ちなみに、真ん中に出てくるchIldはミスタイプではない。大文字の「I」は、ヤリタさんは『「子供」という語に含まれる「人」だと理解すると落ち着きがよい』と解説されている。
この詩も、まつお流に日本語にしてみた。もっとうまい訳がきっとあるだろう。あれば教えていただきたい。間違っていれば修正したい。ヤリタさんは、解説文の最後に『この詩は、愛の詩なのだ。目と目が近づいて、その目のなかに自分を見る、なんて素敵な愛』と書いておられる。 (まつお)
目を よせれば 映る いま の 子供だった 私 かがやく 瞳 に
●12月15日(水) 目と目
昨日の日記の最後のところをキーボードで打ちながら、記憶をたぐった。 目と目をみつめあって、互いの瞳に自分が映る、そんなシチュエーションが自分の過去にあったかなかったか・・・。あったとしたら、そのとき自分はどう思ったのだろう、どう感じたのだろう。相手の瞳に映る自分は、さてあなたのものか・・・。
そんなことを考えていたら、次にふと、先日のTOKYOポエケットでリコーダー(笛)の演奏と詩の朗読を交互にしておられた近藤直子さんの、そのときの舞台のリフレーンがよみがえってきた。
…これがえんえん、繰り返される。聞いているうち、「私」と「あなた」がぐちゃぐちゃになって、「私があなたであってもいいし、あなたが私であってもいい」関係が浮かんできて、さいごに、これは、自分の中にいる複数の自分との会話かな、とも感じたのだけれど・・・。しかし、これが例えば「私」が「女」であって「あなた」が「その恋人」でもいいし、あるいは「母親」と「子」であっても成り立つのだろう。ただ、聞いていて直感的に思ったのは、もしこれが愛を歌うものならば、ひどくがんじがらめやなあ、ということである。(・・・でもないか? 性愛な意味でも愛の極地の表現かもしれない)
私はあなたの中にいるのだからね あなたは私の中にいるのだからね。 私はあなたの中にいるのだからね あなたは私の中にいるのだからね。
実は昔かなりながいあいだ、男女の愛って、理想は二人の人間が一つに溶け合うことだと、一見ロマンティックみたいだけれど、本当はひどく相手に迷惑な愛を、理想とぼくは考えていた。そんな愛って、けっきょく自分を相手に押し付けるだけで、うっとうしいだけなのに、僕は気がつかなかった。反対を考えればよく分かる。相手から「あなたは、わたしになりなさい」と言われて、相手の嗜好にすべてあわせるよう強要されたら、ぼくは逃げ出すだろう。それが可能としたら、何かの打算が働いている間だけだろうな。あるいは欲情している間だけかもしれない。
さすがに、そんなふうな愛はもう求めなくなったけれど、「目線」に関しては、ぼくはまだ卒業できていない。敵意のある目線にまだ鷹揚でいられない、のだ。その場で反応することはなくても、あとで一人になったときにそのまなざしがまだぼくを突き刺す。なぜ、そのひとの目はそのような光り方をしたのかとか、何を求めていたのか、あれこれと考えてしまう。しかし、これだって考えてみれば、<自分流にものごとを考えて欲しい>という一種の自分のつまらない欲望からきていることだ。自分を押し付けようとする自分がまだ残っている。人は人、自分は自分と達観すればよいことなのに…。( 「あなたは私でないし、私はあなたでない」。 この当たり前を、たんたんと生きる生き方を会得しないとだめだにゃあ、まつお君!)
ポエケットで近藤直子さんから、次のような詩を書いたカードを購入した。上のリフレーンが生まれる前哨物語として読んでも面白いけれど、それとは関係なく読んでも面白い。(好きな詩を選んで、アヴァンセに載せていいと近藤さんに言っていただいたので、ここに紹介させていただく)。
(まつお)
『黄色い光の中』
さとうきび畑が続く道 砂浜めざして自転車をこぐ 私はあなたしか知らなかった 私はあなただけを知っていた 道端に腰掛けた女の人が 意味あり気に私を振り返る 砂浜めざして自転車をこぐ 黄色い光の中 白に飛び込む 砂浜が足をつかむ さまよう私をつかむ 私はあなたしか知らない 私はあなただけを知っている 黄色い光の中 青に飛び込む 波が私を飲み込む 漂う私を飲み込む 私はあなたを知らない 私は私を知らない
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まつお かずひろ
mtokzhr1@mui.biglobe.ne.jp
文芸ホームページ “アヴァンセ”
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