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どしゃぶりの雨のなか、わたしは歩いている。団地の四階をめざしているのだ。 |
もうずいぶんと歩いているため、体は芯から濡れていて冷たい。わたしは空腹 |
感におそわれている。おもわず、手を口の中にもっていってしまう。そして、 |
腹の中をまさぐってみたくなるのだ。胃は薄い粘膜質に覆われているだけでや |
けに軽い感じがする。わたしの手はその胃袋を一握りにつかみ、ぐいっと力ま |
かせに引っ張っている。なかば昔を思いだされるような孤独感が顔の筋肉をこ |
わばらせ、少年の悩ましさがよみがえってくる。コンクリートは強いアセチレ |
ンのような臭いを発している。傘ににじむ雨はねばりつく精液のようだ。雨は |
あいかわらずふり続いていて、わたしは口からみすぼらしい胃袋をぶら下げな |
がら歩いている。妻はもうとっくに寝ているはずでたぶん夕食はないだろう。 |
わたしはいつまでたっても家にたどりつけないでいる。 |
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虹のような夕暮れだった。彼は彼の部屋の中へ、わたしを誘った。わたしは理 |
由もなく、罪悪感を背中にあびながらついていってしまった。時計の針がほん |
の少し動くのがわかった。彼はしなやかな指で、わたしの人差し指に触れた。 |
触れたのか、触れてしまったのか、判断できない触れ方だった。ごめんね、と |
彼は言った。わたしはそれに答えられなかった。人差し指をみつからないよう |
に親指でこすった。澱んだ空気に息がながれた。息は二つとも男の息だった。 |
暑いはずはなかったが、暑いと感じた。うなされているとも思った。 |
だが、わたしは見つめられていた。彼の瞳の中に恥じらいと当惑があった。ま |
もなくそれが消えると今度は情熱が支配しはじめた。バラはつぼみのままであ |
ったが、一気にその花を咲かせようと動きだしたのだ。 |
わたしは行き場を失った。 |
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ひとりでに、いつのまにか、幼い息子が死んでいるところを想像している。そ |
れも毎日のように。頭だけが紙ふうせんのようにフワリと浮きあがったり、腕 |
が突如ナタのようなもので切られ、飛び散ったりする。当然、血なんかもボク |
ボク出てて息子自身、泣き叫ぶことさえできない。そう、車にはね飛ばされて |
いるところも目撃する。鈍い音がして、即死だ。バッタよりも簡単。そしてわ |
たしは、大型トレーラーの下敷きになっている息子を見ている。顔が瓜のよう |
に割れ、もう笑うこともない。そして、ああ、泣くのだ。大声をはりあげて、 |
わたしが泣くのだ。わたしが父親として泣いているのだ。無残に飛び散った、 |
血糊のついた小さい息子の顔に、わたしは口づけながら。トレーラーの運転手 |
には、俺の息子を返せ!返せ!と泣きながら迫っている。ウッ、それは考える |
だけでもスリリング! |
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わたしは、わたしの横でかすかな寝息をたてている、息子の首に両手をかけて |
みた。生あたたかく、かすかに脈がピクとした。まだ、生きている。 |
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朝、眼をあけたかと思うとすぐに立ちあがる。一才十ヵ月の頭脳は、まってま |
したとばかりそこから果てしなく動きはじめる。彼は今、自分と他者との存在 |
を、やっと確認し得た喜びのところにあるようだ。彼の心の中は、きっと他者 |
のことでいっぱいだ。それも、犬や猫のことでいっぱいだ。そして彼はひたす |
ら自己を主張しはじめ、他者の確認をいそぐ。犬をみればワンワンと鳴くもの |
だと。猫をみればニャンニャンと鳴くのだと。わたしたちがいくらうなずいて |
も止めない。大声を出して何度も何度も確かめている。彼の主張はどんなに間 |
違っていても自信をもって発せられている。静かな夜更け。眼をしっかりと閉 |
じていた一才十ヵ月の頭脳は、いきなり起き上がったかと思うと、ワンワン! |
と一声を発してバタリと寝入った。彼の確認は次の朝をまたずに、寝ていても |
続けられているようである。 |
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真夜中、寝ている妻のかたわらに腰をおろす。話をしようと思っているのだ。体 |
をゆすって起こそうとしたが、ためらう。話すには、この方が都合がよいかもし |
れない。わたしは妻の寝ているあいだ、毎晩、少しづつ、本当の話をすることに |
したのだ。 |
わたしは小声で遠慮気味に話しだす。二十歳のときの、ささいな失敗を。それは |
たぶん誰が聞いても、つまらない出来事なのである。それからわたしは、その後 |
の自分を語りだすことにした。その話にはときどき、わたしの思想や夢が語られ |
る。かなりまわりくどい話になっているはずだ。しかし、話している本人は夢中 |
になる。妻はかたわらで寝返りをうつ。まるで、わたしの声をはっきりと聞こう |
とするように。そしてつぎの朝、妻は深い眠りから覚め、夢を見たと言う。それ |
は、わたしが泣いている夢だったという。 |
妻はあのとき起きていたのかもしれない、とわたしは思った。 |
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朝、わたしの目の前で遮断機がゆっくりとおり、電車が一瞬の壁となる。かたわ |
らで、鉄のかたまりの速度におされるように、一片の紙きれがまいあがる。紙は |
車輪の機械音にあわせながら、上に、上にとスキップする。そのゆるやかな流れ |
は、紙というしなやかな化け物をわたしに連想させ、これからの紙の運命にまで |
たどりつく。紙の思想は柔軟だ。紙はわれわれの源になりつつある。紙の声にわ |
れわれは服従さえする。紙はわれわれが望みさえすれば、すべてのことを示唆し |
てくれる。現にその朝の紙ときたら、風の韻律にのってどこまでも柔らかく、空 |
にのぼっていったではないか。夜、わたしは買ってきたばかりの詩集を開く。真 |
新しいそのページをめくった瞬間、スッと指先に血がにじんだ。今、紙はかたく |
なに、その場所にいる。不吉な香り。 |
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彼は石を拾う。どれでもよい、というわけではないらしく、必ず選んでいる。彼 |
が、石をどのように選んでいるのかは、わたしにはわからない。拾われた石を眺 |
めてみても、何の脈絡もないし、特徴もない。しかし、彼は石を見つけ、拾う。 |
そして、自分の気にいらないものは捨てるのだ。彼は、特にお気に入りの石をひ |
とつだけ握る。彼はその石を離さない。いつまでも握り続けている。石は、彼の |
手のひらの中で、暖かく眠る。やがて暖められた石は、彼の成長する卵となる。 |
石はその存在だけで、物を言う。彼の手のひらの中で目覚め、言葉を覚えるから |
だ。石は、石をこえ、意志を持つ石になる。彼は今、石が自分と同じ世界に在る、 |
ということを認めており、わたしはそれを忘れていた。 |
彼は三歳と二ヶ月。わたしは三十二歳。 |
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涙をためている。鼻をウッ、ウッ、とつまらせる。さざなみのように、女房が泣 |
く。わたしはポカンとしている。そうして女房の話を聞くしかない。わたしの父 |
親は背が低かった。しかし、気取り屋だった。伊達メガネをかけていて、本当に |
近眼になった。人の悪口を平気で言った。自分の悪口は人に言わなかった。権力 |
に弱かった。だが、家族には強かった。金に執着しなかった。つまり、稼いだ金 |
は全部自分で使った。酒は飲まなかったが、いつも飲んだような人だった。 |
わたしに向かって「やさしい」と言うな! わたしはその言葉が大嫌いだ。だれ |
だって、包丁を持って、オフクロを追いかけまわすオヤジを見て育ったら、ああ |
なりたくないと思うだけ。 |
親父が死んだあと、涙を流して話をするだろうか? 女房の前で。 |
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たぶん、わたしの尻には、短い尻尾が生えだしてきて、最近どうしてもそれが気 |
になる。わたしは毎日、自転車で通勤しているが、自転車に乗るにも都合が悪く |
なってきたようなのだ。尻尾がサドルにあたってなんとなく痛い。触ってみると、 |
たいしたものでもなさそうで、鏡にさらしてもよく判断できないのだが。わたし |
は今日も一日の仕事を終え、家路に向かう。だが、どうしても自転車に乗るのが |
苦痛になってきた。しかたなく自転車をひきながら、わたしは歩きはじめる。そ |
して、こう考える。ある日、突然、そう、ある日突然、ということがあるんだと。 |
それはいつ、どこで、だれにだってあり得ることなんだ。だが、人の体に尻尾が |
生えたというのは聞いたことがないな、と。わたしの尻尾は、ますます大きくな |
っていくような気がする。今日も、自転車をひいて歩いていると、うしろにいた |
女性がわたしを見て笑っていた。きっと尻尾のせいだ!なんとかせねば! |
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アクセルを踏む。スピードメーターの針があがる。わたしは恐怖を感じない。視 |
点が、遠景前方に絞られていくのがわかる。確かに速い。道路の凹凸によって、 |
車が上にフッと浮き上がる。飛ぶかもしれない。右側には中央分離帯。わたしは |
アクセルを踏みながら、そこに突っ込む自分を見ている。それは一瞬の出来事に |
違いない。わたしはたぶんワッ! とかなんとか、声をだして、激突する。フロ |
ントガラスが眼に突き刺さる。ハンドルが腹に食い込む。つぶされた、ラジエー |
ターが、わたしの足元にまでくる。たぶん痛い。いや、たぶん痛くはないだろう。 |
なにしろ一瞬の出来事なのだから。そう考えると、死ぬなんてことは意外に簡単 |
かもしれない。たった今このハンドルをちょっと右に回せばいいだけの話だ。車 |
は走る。いろんな人の顔がわたしの頭の中に飛び込んでくる。アクセルを少し戻 |
す。スピードメーターの針がさがる。 |
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道のまん中で死んでいた。口から血を流していた。トロッとした、黒い血だった。 |
体が白かったので、よけいに血が黒く見えた。眼はうつろに開いていた。開いて |
いるくせにどこも見ていなかった。腹も破れていた。どこがどのように破れてい |
るのか、わからないような破れかただった。臓物が飛び出していて、「これが私 |
です」と叫びながら腹をふさいでいた。その量が意外に多かったのにはおどろい |
た。足はそれぞれ、体と逆方向に向いていて、その不自然さのおかげで、本当に |
死んでいるのだな、と思った。たぶん犯人は、車で被害者をはねとばし、そのま |
ま逃走したのに違いない。もし、そいつが、若僧だったら許さない。光る刃物の |
ようにみがかれた車にのっていたのなら、なおさらだ。そうわたしは許さない。 |
―――瀕死の猫を見た、気分の悪い朝。 |
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こいつはマヌケな男だ。 |
言われたことをすぐに忘れる。そして何度も同じ失敗をくりかえす。始末に悪い |
のは、弱い奴をいじめたがること。力の弱い奴ならいつでも勝てるから。自分が |
立派にみえるから。言い訳をするのも絶対忘れちゃいけない。自分は悪いはずは |
なく、ほかの誰かが悪いのだ。媚びを売るのはマヌケ男の最高の手。あっちに行 |
っては、笑顔をふりまき、こっちにきては泣きもみせるのだ。それで常に何かを |
せしめている。ときには痛い目にもあうけれど、それさえすぐに忘れる。ただマ |
ヌケ男が救いなのは、自分で罪の意識を感じていないこと。そして叱ってくれる |
人間が、まだこの世に数人いてくれること。マヌケ男の有力な味方であるお婆ち |
ゃんは、マヌケ男を見ると一瞬顔がひきつる。それもそのはずで、マヌケ男は、 |
お婆ちゃんの息子の幼い顔に、そっくりだからだ。マヌケ男は、父親が出かける |
となると一目散に下駄箱から靴を出し、トントンとつま先を蹴りながら履く。そ |
んなとき必ず靴の左右が逆なのである。 |
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いっちょび(ちょっぴり)、テベリ(テレビ)、神奈中ちゃん号(かなちゃん号 |
=神奈川中央交通の絵柄付きバスの愛称)、おららだ(小田原)、ワープロ(お |
父さんのワープロ)、ワープロ(電卓)、話を聞いてよ(話をしてよ)、チュウ |
(キス)、トントン(押入れの中にいる妖怪)、やこうでんしゃ(夜行列車)、 |
チュウチュウ(ねずみ) |
ねえオトーサン、いっちょびテベリみようよ。もうー、じゃ、どっか行こう! |
神奈中ちゃん号でおららだ行こうよ。えーっ、またワープロやるの? ぼくもワ |
ープロやろう。ねえねえ、今日泣かなかったから、絵本の話を聞いてよ。そのま |
えに、だーい好きっていいながらチュウしよう。で、早く寝るんだもんね。早く |
寝ないとトントン来るもんね。ねえねえ、オトーサンやこうでんしゃにチュウチ |
ュウいるかな? ねえオトーサン、ねったらねえ!オトーサン! |
うるさい! グチャグチャ言ってないで早く寝なさい! |
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突然、テレビの画面にカメレオンが写しだされたとき、彼はそれをじっと見据え |
た。ゼンマイ仕掛けの怪獣の、足さえも止まってしまった。彼の頭の中は、生ま |
れて初めて見る、この世の異様な動物に支配されて、身動きさえ禁じられてしま |
ったかのようだ。カメレオンはテレビの中でジロリと足を動かす。ゆっくりと。 |
自分は偽るのが得意なのだ、といわんばかりにゆっくりと。テレビの中で、カメ |
レオンの目が一八〇度回ったとき、彼の思考も一八〇度動いたようだ。たぶん、 |
彼の頭の中では、牛や馬や豚、犬や猫や鳥、パンダや象やキリン、などとは一緒 |
くたにできない新しいものが生まれていたのだろう。それらイメージの世界は複 |
雑に交錯し、からみ合い、炸裂したのだろうと思われた。わたしは、彼がその生 |
き物の名前を尋ねてくるに違いないと思った。さあ、一人の人間の言葉の生成に |
参加するのだ、といううような気がした。しかし、それはわたしの錯覚。彼はわ |
たしに平然と言うのだ。「ね、お父さん、見て!カイジュウだよ!」 |