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vol.19

<雨の木の下で>


秘密のナンバー 2001.2.28 関 富士子

 秋に風布川で落として壊してしまったデジカメ、新しいのを買う決心 をして店に行く。結局前と同じタイプを買うことにしたが、ACアダプターやバッテリーなどの付属品がついていて高くなっている。同じものを持っているのでその分安くしてと言うと(はい、わたしはおばさんです。)、店の人は、買取の形で3500円ほどなら安くできるという。中古品売買の扱いになるというので、カウンターで書類に住所と電話番号 と 名前と生年月日と年齢を書かされた。免許証か保険証をと言われたが持っていない。すると、「クレジットカードでもいいです。番号を控え させていただきますから。」と言う。わたしのように車を持たない者は身分証明には保険証しかないが、これは家に一枚しかなく、いつも持ち歩くわけにはいかない。しかし、クレジットカードならいつも持っている。はあと答えてカードを財布から出してはたと気づいた。

 この店で書かされた中古品売買の用紙にカードナンバーを控えると、インターネットで買物をするときに必要なほとんどの情報が記載されることになるのである。足りないのはメールアドレスとカードの有効期限ぐらいか。わたしは店の人に「それはちょっとどうかしら」と言った。人を疑うわけではないが、これは とても危険なことではないだろうか。やろうと思えば、他人の情報を使ってネットで買物ができてしまうかもしれない。そのことを話すと、店の人はあっさりと 、「あ、そうですね。では見せていただくだけで結構です」と言って、わたしのカードのサインと、書類の文字を見比べてすぐ返してくれた 。やれやれ、わたしの通帳にはいつもその月のぎりぎりの必要金額しか入っていないが、だからよけいに、その大事なお金をだれかに使われては困るのである。

 ACアダプターやバッテリーはもともと店の品物だから、この場合身元確認はそれほど重要ではなかったかもしれない。でも、どの店でも古いカメラの下取りをして新しい商品を売るということはやっている。ほんとうに店の人の言うように、一般的に身分証明のかわりにクレジット番号を記載させるということは行われているのだろうか。念のために有名カメラ量販店のKに電話をしてきいてみると、やはり同じような答えだった。中古品売買のときに身分証明のできるものがなければ、クレジット番号を控えさせてもらうというのである。わかりました、と言って電話を切ったがどうも腑に落ちない。

 パソコンをいじらない人は、これをあまり疑問に思わないかもしれない。しかし、インターネットを始めたなら、オンラインでプロバイダーに加入する時点から、さっそくクレジットカードの番号の記載を求められることになることは知っているだろう。ほかの買物だってオンラインでたちまちできてしまう時代だ。わたしは二度ばかり千円ぐらいのシェアソフトをダウンロードして、クレジット番号を打ち込んで支払いをしたことがある。さきほどのデータをパソコンで送れば、サインも何もいらずに、1か月ぐらいでカード会社経由で銀行の通帳から代金が引き落とされるのである。

 これからは、こうしたネットでのお買い物がごく普通になってくるだろう。もちろん、ネットでお買い物の仕組みはこんな単純なものではなく、プロバイダーやマシン間でのもっと複雑な情報のやり取りで成り立っているはずだ。この辺は専門的なことはわたしはよくわからない。しかし、こちらで打ち込む情報は盗もうとすればわりと簡単にできる。店でカードで買物をしたときに、渡される「お客様控」にはナンバーばかりかカード会社名も有効期限も記載されている。住所の記載はないが名前は書いてあるし、サインするときに電話番号を書くように言われることは多い。今まで無造作にごみとして捨てていたけれど、これからは破いてばらばらに捨てるとか、気をつけなくちゃね 。それに、これは複写されているから、まったく同じものが店にも控えとして残されるはずだ。店ではこれらの情報はどのように管理されているのだろう。これはもう少し調べてみる必要がある。

 毎日のようにネット犯罪が新聞をにぎわしているし、わたしも関心をもって目を通している。でも今のところは実際にはそんなに困ったことは起きていない。ネットを始めて3年以上になるが、個人的には実際に被害にあったことはないし(エッチなサイト宣伝メールがときどき来るくらい)、おおむねのんきに楽しくやってきたのである。でも実際に被害に遭ってからでは遅い。クレジット番号は銀行のキャッシュカ ードの暗証番号と同じぐらい慎重に扱わなければならないのではないか 、というのが今回のお勉強でした。




読まれる喜び 2001.1.31 関 富士子

 2年間お勤めした『詩学』研究作品の合評が無事終了した。『詩学』2月号に、21世紀はじめての『詩学』新人たちの作品とプロフィールが発表されている。おめでとうございます。わたしにできるのはこれまで。みなさんこれからそれぞれの場所で思う存分活躍してください。

今号はその中の一人、木村恭子さんをゲストにお迎えした。新人といってもわたしが知らなかっただけで、もうすでに3冊の詩集をお持ちで、20年の詩歴のある方であった。 合評では勝手なことを言って赤面のかぎりだが、あえて投稿という方法で新しい道を切り開こうとする意欲は新世紀の新人というにふさわしいではないか。これからは黙って作品をじっくり楽しめるので嬉しい。

 仕事だと思って(ギャラは出なくても(^^)/)一生懸命読んで、合評会にはかかさず出席し、発言したつもりだが、的外れもあっただろうし、投稿してくださった方々には恐縮至極である。ほんとうは人の詩を良いだの悪いだのおもしろいだのおもしろくないだの、好きだの嫌いだの、ここを直せだのここを削れだのというのは無粋なことだと思っている。自分がよいと思う詩を自分なりに読んで楽しめばよい。

 自分の学生のころの投稿時代のことは一度書いたから("rain tree"vol.8選者を選ぶ)繰り返さないが、実はもう一度だけ、商業詩誌に投稿した時期がある。詩の読み書きから遠ざかって10年後、詩作を再開しようと決心して、無沙汰をしていた学生時代の先生に相談したら、当時会員は女性に限るという謳い文句の「ラ・メール」に投稿したらと言われた。自分では今更投稿でもないだろうと思っていたので、とてもショックだった。一から出直せということか。先生に相談したことをかすかに後悔しつつ、それでも言われたとおりその詩誌に投稿してみた。選者の吉原幸子さんが選んでくれたが、そのあとあざみ書房で第二詩集を出す話が進んだので、すぐに送るのをやめてしまった。

 一から出直す覚悟? いったい何をやり直すというのだろう。「ラ・メール」はまもなく終刊したのでそれっきりだが、書いたものをどのようにして発表するかは、書くことだけに夢中になっている時期をすぎると嫌でも直面する問題である。ただだれかに読んで欲しい。そんな気持ちがあれば十分だったのだ。変なプライドを捨てて、投稿もし、粗末な作りでも詩誌のかたちで好きな詩人にも送り、できるだけ他者に読んでもらえる努力をすること。それは恥ずかしいことでもなんでもない。

 商業誌に投稿する、同人誌に所属する、個人誌を出すなどして自分なりの場所を確保し、たまった作品を数年に一度詩集にまとめて自費出版する、というのが、今の日本の詩を書く人々の一般的な形態だろう。最近ではこれに加えてインターネットに詩のHPをもつという方法もある。はじめからインターネットの投稿サイトで詩を読んでもらったり、HPに発表してから、徐々に紙に手を出そうという若い人もいる。また、何でもいいからHPを持ちたいがために手っ取り早く詩を書き始めたという人も結構多いようだ。

 それが詩であろうとなかろうと、書いている最中にはどうでもいいことなのだが、その次の段階として読者を求めるようになると、果たして自分の書いているものは詩なのだろうか、そうでないとすれば詩とは何だろうという疑問にとりつかれる。「本当の事を云おうか。詩人のふりはしているが、私は詩人ではない。」これは谷川俊太郎の詩「鳥羽1」に書かれた有名な一連だが、谷川俊太郎はこんなことを書けるほどに紛れもなく日本を代表する国民詩人である。

 しかし、わたしはこれとはまったく違った意味で、自分の書くものを詩だとも自分を詩人だとも断言することはできない。詩というにはお粗末すぎるとか、詩を超えた新しいものだと言うつもりももちろんない。ただたんに、短歌でも俳句でもなく、あえてわかりやすくジャンルにくくれば詩ということになると思われるようなものを書いているというにすぎない。思うに、今この時代に詩を書いている人のほとんどは、詩集を何冊出そうが、えらい詩人に誉められようが、立派な賞をもらおうが、自分の書くものは詩であるという確信が持てないままでいるのではないだろうか。しかし、それは現代に詩を書こうとする者が必然的に抱いていかざるを得ない命題のようなものである。

 わたしにはもう一つ場所があって、それは月一回の詩の勉強会である。今はかっこよくワークショップとでもいうのかな。いろいろな詩人の詩を読んだり自作を持参して合評を受ける。詩は勉強するものではないよ関さん、勉強してもしなくても詩が書ける人は書けるし書けない人は書けない、と言う人もいる。あなたはもう長いキャリアがあるのだから、勉強会なんて今更することないんじゃない、と言ってくれる人もいる。わたしにしても、いいだの悪いだの言うのは嫌いと言っておいて矛盾するようだが、ここでの目的はちょっと違う。 参加者は15人ほどだが、20代から70代まで幅広い。詩集を何冊も出している人もいるが書きはじめたばかりの若者もいる。共通するのはみんな会の中心の詩人藤富保男の詩や人柄に惹かれて集まった人ばかり。詩はわからないという人も、その人間性を大いに愛している。

 彼らの前に自分の詩を置いて朗読し、批評を待つときのときめきというのは、なかなか味わえない喜びだ。実に15人なら15の詩の読み方をするのである。それぞれ稚拙とか読み巧者という言い方もあるかもしれないが、それにとどまらないおもしろさがある。この言葉はどんな意味というのから始まって、ここがわからない、これはどんな状況? 展開がわかりにくい、テーマへに共感する、いやしない、感情的な反発、ああだこうだ、ああでもないこうでもないと言っている。思ったように読んでくれなくて反論したいのをじっと我慢していると、だれかが必ずそれはこうじゃないのと言ってくれる。独り善がりの表現、描写の不足などもわかってくる。構成のちょっと一部分を訂正するだけで、ぐんと伝わりやすくなることにも気づく。それぞれの疑問や考えが交わされ、読みを訂正し合ううち、みんなの読みがぐんぐん深まっていくのが手に取るようにわかる。どきどきするな。わたしの書いたものが、他者へ届きつつあるのだ。わたしはわたし自身が「読まれている!」ことを実感する。

 
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<雨の木の下で>一草庵を訪ねる(木村恭子)
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