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vol.19

<雨の木の下で>

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ピアノレッスン (一) 2001.3.28  木村 恭子

 当時岡山に住んでいた私は、二十九歳の冬、保母検定試験の実技科目だけを受けるために、広島にやって来た。
 これから何か仕事をと考えても、その為の何の特技も持たない私にとって、保母資格の取得は、手頃な手段に思えたのだった。確かその頃は八科目の試験を二年の間にクリアすれば、資格を貰う事ができた。実技科目としてはピアノ演奏の他に、紙芝居を作る事や絵本の読み聞かせ等があり、その合計点で何とかなると考えていたが、ピアノが必須条件である事を知ったのは、結果発表の日だった。岡山での初年度試験で、実技以外一応合格した私に残された課題は、まったく弾く事のできないピアノをこれからどうするかという事だった。
 やがて、中古のオルガンを買ってきて、背中に下の子をおんぶし、毎日毎日バイエルを独習した。試験は都道府県単位で行われるので、広島県庁からも要項を取り寄せた。それによるとピアノ演奏は、バイエル九十番までのうち当日個々に指定される一曲と、「ぞうさん」「指の歌」「おもちゃのマーチ」の三曲のうちから指定される一曲、あわせて二曲が審査対象になるという事であった。
 初見の楽譜を前に「できません。」と、うなだれて席から離れるという岡山での屈辱は、もう繰り返したくなかった。広島県の要項を見てからというもの、夢中で童謡三曲を練習し、子供達を姑に預け新幹線に乗り込んだ。
 雪が降っていた。試験の前に一度ピアノを弾いてみたかった。オルガンとピアノはどう違うのだろう。広島市本通りにあるK楽器店の厚いガラス戸を、おそるおそる押した。ピアノを弾かせて下さい。
 今でも、本通りを歩いていると必死の表情をした若い私に出会う事がある。



ピアノレッスン (二)

 資格を得たとはいえ、就職は簡単に叶うというものではなく、山陰の小都市で面接を受けた時には、こんな事も言われた。検定で資格を取った人はつかいものにならない。そこで新聞配達をする事にした。配達をしているうちに家々に暮らす人々の顔を確かめたくなったので、集金もするようになった。いつもピアノの音が聞こえる家がある。たたずんではしばらく耳をそばだてているうち、自分がピアノを好きなのだと分かった。集金に行ったある日、教えて貰えないだろうかと頼んだら二つ返事で受け入れてくださった。しかも月謝はいらないとさえ。素人ではないと感じていた通り、私より二歳大きいその奥さんは、Iさんという高校の音楽教師をしていた人で、今は休職中との事。ここでもう一度私はバイエルをやり直す事になった。バイエルというのはとてもよくできた教本で、一番から順を守って着実に辿れば、誰でも両手である程度弾く事ができる仕組みになっている。その事を私はとても感心するのであるが、いかんせん、独学は独学。指の順番や形、楽譜記号の解釈、リズム等、保母試験の審査の方々は後で、「粗末なのがいた。」と笑いもされたのではなかったか。
 I先生はしかし、勝手な指使いをする私を急に諌めるような教え方はなさらなかった。ひらひらと不規則に指を動かすのを、むしろ面白がっておられるふしがあった。私の転居のため、一年程の短い間ではあったが、トーンを沈めた声で静かにゆっくりと指導する先生に教えられた事は多い。レッスンの日には、きちんとお洒落をなさり、四月には桜色のセーター、六月には紫陽花のような薄紫や薄桃色のワンピースを着て、たった一人の生徒を待っておられた。
 I先生は今、所沢市で成人初心者のためのピアノ教室を開いておられる。



ピアノレッスン(三) 2001.4.4 木村 恭子

 四十歳から就職した保育園で、十二年間に知りえた事はとても多い。その一つに、若い保母達のピアノ演奏技術の高さがある。初見の童謡をジャズのようにアレンジし、二人で余興に、掛け合い演奏してみせてくれるという芸当にも目を見張ったが、どの保母も一様に演奏は巧かった。又、最近は童謡といえども、作詞作曲の技術はとても高く、リズム構成も非常に複雑である。それで私はというと、翌日に弾く曲を家で練習しておくという余裕もないまま、単純にドミソ、ドファラ、シレソの和音を伴奏に当てたり、曲全体をハ調に転調してごまかしたりして、今となっては、園児、父兄並びに園長にお詫びするしかないのであるが、腰と肩を痛めて退職した時に考えたのは、ピアノを続ける生活をしたいという事だった。方法は二つ。専門的に深く学ぶか、手すさび程度に気軽に楽しむか。より長続きするであろう方を選んで、<五十代からのピアノ教室>のドアを私は叩いた。

 教室は四年続いている。最初からの生徒は、半分の五人になった。レパートリーは「エデンの東」等の映画音楽の他、「エリーゼのために」「ショパンのノクターン」等。このエッセーのタイトルから、華麗なピアノレッスンを予想した方には申し訳ない話である。毎月二回の教室では、先生が生徒を退屈させないよう、常に楽しんで練習できるようにと、気遣いなさっているのがよく分かる。以前は家に帰ってから、電話の子機を横に置いてピアノを弾き、難しいところを教えてあげていたのに、今はクラスの皆が私を追い越してしまった。私より年長の人達との語らいは楽しい。私達はもう、互いに家庭の事情等立ち入った話はしない。許されない領域があるという事を知っている。あそこが難しいねとか、今日は面白かったねといって別れる。                            (了)




一草庵を訪ねる 2001.1.31  木村 恭子

 嫌いなくせにどうも気にかかり、かって、同じ場所で同じ風に吹かれていた事があるような感じのする人がいる。種田山頭火は、私にとってそういう人である。彼の終の住処が、松山市一草庵であり、日々の泥酔、悔悟反省は、彼の日記において詳しい。庵は、年二回(守る会)によって公開されている。

 十一月一日、朝からの雨で、庵の周りのぬかるみが歩きにくい。建物は小さいながら思ったより整然としたたたずまい。その筈で昭和二十七年に再建されたとの事。玄関の脇がすぐ台所になっていて、畳の部屋がふたつ。
 テレビ取材が入っていて、女の人が二人読経していた。しばらくして「こんなものでいいでしょうか?」とカメラの人に向かって言った。取材の邪魔にならないように、夫ともう一方の部屋の隅で、山頭火の遺品等見る。そうしたら、カメラが追いかけて来た。「煙草道具を写して。その次に・・・」と言って、一人の人がカメラマンに指示をしている。読経を済ませた女の人が、お茶を用意して下さる。女の人は伊予絣の着物を着て、きれいな紅い珊瑚の飾りを髪につけていた。広島から来たと言うと、山頭火の句が書いてあるポストカードを一杯下さる。(守る会)に寄付して帰ろうと思いながら、・・・・忘れた。一般参加者は私達だけなので、カメラがしつこく私達を追っている感じで困る。カメラだけでなくマイクもあったようだった。

 帰途、あんなに楽しみにしていたのに何も質問しないで、と夫に言われた。 山頭火の妻サキノは、本当は離婚等望んではいなかったと、ずっと私は思って いて、この日、それを(守る会)の誰かに確かめてみたかったのだけど。
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