rain tree indexもくじback number20 もくじvol.20back number vol.1- もくじBackNumber最新号もくじ最新号ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.20

<雨の木の下で>


  モダニズムな人々  2001.5.23 関 富士子  

  
 中上哲夫さんによると、「現代の詩はモダニズムがつくった土台の上の建造物」ということだ。そのことはとてもよくわかるが、では日本のモダニズムはどうかというと、わたし自身、モダニズムの詩人北園克衛の衣鉢を継ぐといわれている「gui」という詩誌に所属しているが、実は未だにモダニズムというものがどういうものなのかよくわからない。
 現在いかにもモダニズムといった詩を書く詩人は絶滅に近い状態にあるだろう。その理論やセンスやスタイルを受け継ぎ、現代のモダニストたらんとする少数の人々には敬服している。詩誌δ」(デルタ)HPでは、田名部信など、現代の日本や世界のモダニズム詩人たちの作品を紹介している。ここに集められている作品はヴィジュアル・ポエトリィといわれるものである。
 詩の世間では「gui」といえばモダニズムという頭があるようで、えっ、関さん「gui」の同人なの? 関さんはモダニズムじゃないよなーという言葉を何度か言われた(中上さんにも)。わたしは藤富保男さんに誘われて「gui」に入れていただいたので、それまでそんな詩誌があることさえ知らなかったのである。
 「gui」は実際読んでみると分かるが、正当な系統者と思われるのは国峰照子と藤富保男、高橋昌八郎、奥成達ぐらいか。若手では四釜裕子はそうかなと思うが、本人はそんな枠にはめられるのは迷惑だろうし、よく読むと彼女の詩はわりとシリアスである。森原智子は北園の作ったモダニズム詩誌「VOU」からの生粋だが、すでに北園に訣別宣言をしている。南川優子の虚無の入り混じったナンセンスはわりと近い。小野原教子はよりウエットだが、モダニズムの洗礼を受けながら、現代に生きる苦しみをあらわに迫るものがある。
(四釜裕子も小野原教子も、は去年から今年にかけて第一詩集を出版した。四釜裕子『心配の速度』highmoonoon 2001.1.1 \1000E 小野原教子『表面張力』思潮社2000.11.1 \2400E)。

萩原健次郎の情の濃さはちょっと違うかなあと思うが、けっして人情ではないし、もしかしたらモダニズムの器に熱い情念のミスマッチのすごさがあるのではないか。「gui」誌の大部分を占める小説は中村恵と遠藤瓔子しか読まないのでわからないが、有象無象、ヴィジュアル・ポエトリィ、イラストや写真からなにから、カタギありヤクザあり、レトロなスノッブという感じの、かって気ままな怪しい連中ばかりである。
 とかなんとかわかった風なことを言っているわたしはごくフツーの詩を書いているわけだが、特につまはじきをされるわけでもなく、なんとなくわいわいと10年が経ってしまった。北園たちの行ったことをそのまま真似したところでそれはモダニズムでもなんでもないのだし、もちろんわたしはモダニストではないが、ロマンチストでもなく、自分が何者だかよくわからない。若いころに影響を受けたのは、粒来哲蔵などの散文詩だが、いわゆるライトバースも好きだし、もちろん、北園克衛や西脇順三郎、佐川ちかなどの初期モダニズム詩を読むのも好きだが、特に影響された気はしない。
 そんなスタンスから無責任なことを言うと、日本の昭和初期のモダニズムを素直に受け入れることができるのは案外現代の若者たちではないだろうか。詩というジャンルの一部のポップなスタイルを、グラフィック・アートや音楽の歌詞などと同列のカルチャーの一つとして、楽しんでいる連中である。彼らにとっては、日本のモダニズムの歴史や戦争責任やそのたもろもろの手かせ足かせなどどうでもいい。北園の詩の言葉の明るさ、軽やかさ、意味のシンプルさが、現代の若者たちのかるーいノリにぴったりするように思う。そのように生き残り、変貌するモダニズムを、ちょっと夢見ることがある。

北園克衛の詩「BLUE」 rain tree vol.14
 
tubu<雨の木の下で>第4回東京ポエケットアルバム(関富士子)
<雨の木の下で>ロマンチストとモダニスト(中上哲夫)
rain tree indexもくじback number20 もくじvol.20back number vol.1- もくじBackNumber最新号もくじ最新号ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.20
<雨の木の下で>vol.19へ