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vol.20
 <詩を読む>

「Zwar」と鳴く鳥

桐田 真輔
宮澤賢治「山火」(詩集『春と修羅』所収)の冒頭部分の読み解き)
------詩誌「Zwar」創刊によせて
 

はじめに

 詩の同人誌「Zwar」(同人は関富士子、須永紀子、布村浩一、駿河昌樹)の表紙イラストを描かせてもらうことになり、宮澤賢治の作品「山火」から採られたという詩誌のタイトルに興味を惹かれた。「山火」は、『校本 宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)に、その定稿の他、下書稿4編が収録されている。この詩行の書き換えのプロセスが面白くて、しばし作品観賞の旅を楽しんだ。そのときに気がついたいくつかのことを思いつくまま書いてみたい。
宮澤賢治「山火」は生前未発表の口語自由詩で、作者の没後、昭和八年十二月に「日本詩壇」に掲載されたという。作品には、春の北上山地の山焼きの情景が描かれている。やや長いこともあり、ここでとりあげるのは、「Zwar」と鳴く鳥の登場する作品の冒頭部分に限らせていただく。定稿では、その鳥は出だしから4行目に登場する。
風がきれぎれ遠い汽車のどよみを載せて
樹々にさびしく復誦する
  ……その青黒い混淆林のてっぺんで
     鳥が”Zwar”と叫んでゐる……
こんどは風のけじろいれを
蛙があちこちぼそぼそ咽び
舎生が潰れた喇叭を吹く
古びて蒼い黄昏である
  ……こんやも山が焼けてゐる……
この奇妙な声で鳴く鳥が、なんという名の鳥なのか、というのが、最初の関心の的だった。この謎は下書稿に目をうつすと、すぐに解けるように思える。下書稿(一)〜(三)では「鷺」と特定されているからだ。しかし、定稿でも同様に「鷺」だと考えていいのだろうか。というのは、作者が作品を書き換えていく過程で、表現したいイメージもまた変わっていったことが、この作品の転生プロセスをみていると如実に伝わってくるからだ。定稿の実景描写のような詩の姿は、作者が見たなまの風景をそのまま映したものではない。以下に「郊外」という題名がつけられている下書稿(一)の最初の部分をあげてみよう。

1.下書稿(一)について

風が七時の汽車のひびきを吹いて来て
はやしのなかで巨きな硝子ガラスの壁になる
  ……その半成のローマネスクのまんなかに
     焦げた明りがぼんやりと降る……
こんどは風のすこしの外れを
かへるはにわかにぼそぼそすだく
蒼く古風な薄明穹の末頃である
  ……どこかの梢で鷺がするどく鳴いてゐる……

冒頭の二行目から四行目の表現しているイメージは、私にはかなり難解だ。通過する汽車の残響が風に運ばれてきたせいで、眼前の林の風景が変わったものに映った。その変わって見えた感じを書き留めたい、という衝動が、詩の書き始めのさわりのようになっているように思える。その変わって見えた感じを、「巨きな硝子の壁」「半成のローマネスク」と表現しているのだが、汽車の残響に震える透明な大気に被われた林の、木々の幹から枝が差しのばされる曲線が、硝子でできた大きなロマネスク様式建築の半円形のアーチのように見えたのかもしれない。この一種幻想的な光景の中心部には、たぶん、山焼きの後の枯れ草の焦げた明かりがまだくすぶっている、というのだ。
風が吹かない場所で、あるいは風がやんだ合間を縫うようにして、蛙が突然鳴き始める。というところで、作者がそれまで見入っていた幻想からわれにかえるような趣がある。空を見ればどこか懐かしい薄青い色あいで、もう暮れ落ちようとしている。そして、この作者の覚醒を確かめるように、姿が見えないが、どこかの梢で鷺がするどく鳴いているのが聞こえる、というのだ。
この場合、「鷺」と鳥の名が特定されているのは、いかにも冒頭の幻視に魅入られているような状態から、鳴き始めた蛙の声をきっかけに覚醒に促された意識の状態の表白としてふさわしく思える。するどい鳥の声が届き、即座にあれは鷺の声だ、と反応している作者の醒めた心がここにある。次に下書稿(二)の冒頭を見てみよう。

2.下書稿(二)について

風が七時の汽車のひびきを吹いて来て
はやしの縁で巨きな硝子ガラスの壁になる
  ……その半成のローマネスクの内側で
     鷺がするどく叫んでゐる……
こんどは風のすこしのれを
かへるはにわかにぼそぼそすだく
蒼く古びた薄明穹の[(二字不明→末端)]である
  ……こんやも山が焼けている……

ここでまず気がつくのは、林の「まんなか」に見えていた「焦げた明り」の行が消されて、そこに「鷺がするどく叫んでゐる」という行が移し替えられていることだ。「焦げた明り」はどこに行ったのか。すこし注意すると、この行は「こんやも山が焼けている」というように表現をかえて、「どこかの梢で鷺がするどく鳴いてゐる」という行のあった位置に差し替えれられていることに気がつく。
この改変は、汽車の残響を運ぶ風がつくる硝子の壁のなかで山焼きの後の焦げた明りがともっている、という導入部の情景表現のもつわかりにくさを回避したい、という動機に根ざすものかもしれない。しかし、そのために幻視の中心にあって著者をひきつけたはずの林のなかの火の燻りは、平明でより大きい遠望するような視野へと閉め出され、作者の注意を最初に引きつけたのが、林のなかでするどく叫ぶ鷺の声だった、というような理解に変えられてしまっている。
つまり、鷺がするどく「叫ぶ」、という事に何らかの意味づけが求められるべきであるかのようになっている。もうすこしいうと、この改変が、汽車の残響をのせた風と、鷺がするどく「叫ぶ」ことの因果関係を暗示するようなつくりになったということだ。作者は、たぶんそのことを意識して、最初に「するどく鳴いてゐた」鷺が、ここでは「するどく叫んでゐる」(とだえない汽車のひびきに呼応するように)、と変えている。次の下書稿(三)冒頭を見てみよう。

3.下書稿(三)について

風が[南の→きれぎれ]汽車のひびきを[(二字不明)て→もって]来て
はやしの[縁→なか]でさびしくそれを現像する
 ……そのまっ黒な混かう林のてっぺんで
    鷺がするどく叫んでゐる……
こんどは風のすこしのれを
かへるがあちこちぼそぼそすだき
舎生が潰れたラッパを吹く
蒼く古びた黄昏である
 ……こんやも山が焼けてゐる……。

ここで、下書稿(一)、(二)にあった冒頭の幻視を思わせる体験の具体的な描写、「巨きな硝子(ガラス)の壁」や「半成のローマネスクの内側」という表現がさらりと切り捨てられ、「さびしくそれを現像する」という抽象的な言い方に改変されているのが目をひく。このことは、たぶん作品の当初の表出意識を、作者が作品構成の水準で大きく再編成しようとしたことを意味している。なにが見えたのか、自分が林のなかの何に身をのりだしたのかを作者はもう語らない。ただ林の中で、最初に注意をひいたのは、鷺の声だ。というように変えられている。だが、本当にそれだけなのか。3行目をみると、最初に作者の目にとびこんできたのは、鷺のシルエット(林のてっぺんに留まっている姿)であるというふうにも変えられているではないか。
ここまできて、読者はちょっとした驚きに捉えられると思う。林のてっぺんの梢の高みで鳴いている野鳥、という図は、いわれれば、誰もがどこかで目にしたことがあるような情景だ。そういう意味では、すっと腑に落ちるような描写になってはいる。しかし、下書稿(一)から、ここまで読んできた者は、作者がたぶん実体験を下敷きにしながらこの作品を書き始めたとき、鷺の姿などどこにも見なかったことを知っている。
鷺の視界への登場とともに、幻想的なアーチ建築の幻がほのみえたはずの林のなかは、「まっ黒」に塗りつぶされている。またかっての幻影を否定するかのように、その舞台であった林を「混かう林」という専門的な用語で限定している。林の「半成のローマネスクの内側」でひそみ鳴いていたはずの鷺は、樹頂に登場することで、いっそうの象徴性を帯びて、彼(ら)の境界に侵入している作者に向けて警戒音を発するかように叫んでいる、と感じられる。
後半では、蛙が、「にわかに」鳴き始めたのではなくて、「あちこち」で鳴いている、ように変更させられている。幻覚からさめる、という意識の時間の断絶を示す必要がなくなったので、「にわかに」を強調するかわりに、その鳴く様の空間的な広がりを補強したという感じになる。それに加えて、「舎生が潰れたラッパを吹く」という新しい行が挿入されているのが目をひく。
総じてこの下書稿(三)の改変は、作者がこめたかった当初の幻想的な心象の表現を、別の描写の水準で再構成しなおす意図が働いているように見える。作者の孤独で特異な幻視体験の表白は隠されて、情景描写は春の野焼きをすませた山野の夕暮れにふさわしいような味わいのものに変わっている。また「舎生が潰れたラッパを吹く」という行の挿入は、「あちこち」でにぎやかに鳴く蛙の声に唱和するユーモラスなひびきや、この場所が人里に近いことをなどを付け加えることになった。最後に下書稿(四)の冒頭を見よう。

4.下書稿(四)について

風がきれぎれ汽車のどよみを吹いて来て
樹々にさびしく復誦する
  ……その青黝い混淆林のてっぺんで
     鳥が”Zwar”と叫んでゐる(「……」なし)
こんどは風のけじろいれを
蛙があちこちぼそぼそすだき
舎生が潰れた喇叭を吹く
蒼く古び[く→削除]黄昏である
 ……こんやも山が焼けてゐる……

この下書稿(四)に至って、はじめて作品タイトルは「郊外」から「山火」に変えられている。ここでは、冒頭の風の描写で、下書稿(三)の「汽車のひびき」が「汽車のどよみ」に、「林のなかでさびしくそれを現像する」とあった説明的で抽象的な言い方が、「樹々にさびしく復誦する」という簡潔な言い方に変えられて、観念性をそいだ、よりすっきりした表現になっている。たとえば「ひびき」という言い方には、甲高い汽笛の音も混じって連想されるところだが、「どよみ」というと、ひくい単調な蒸気の吹き上げや鉄路のきしみのようなイメージだけになる感じだ。その単調さは、たぶん「復誦する」という言い換えで補強されている。「まっ黒な混かう林」は、「青黝い混淆林」に変えられて、より深みをもった表現になっている。注目すべきは、ここで、鷺という鳥の名前が消えて、不思議な鳴き声「Zwar」が加えられていることだ。この変更は「青黝い」林という言い方と相まって、林全体になにか秘密めいた怪しげなイメージを付加したような感じを受ける。
ここからは、定稿までの距離はほとんど一続きだ。最初に戻って定稿と比較してみていただくとわかるが、下書稿(四)から定稿までの改変は、「汽車のどよみを「吹いてきて」」が「載せて」に、「ぼそぼそ「すだき」」が、「咽び」に、「「蒼く古び[く→削除]」黄昏」が「古びて蒼い」に、それぞれ意味としてはあまり問題ににならないような微調整がされているだけだ。
これで「郊外」から「山火」とタイトルを変えていった作品の冒頭部分の転生の過程をざっとたどってみたわけだが、ここで、最初の問いにもう一度たちもどってみたい。定稿に登場して「”Zwar”と叫んでゐる」この鳥は、本当に、鷺だと考えていいのだろうか、と。その答えはたぶん否である。

5.Zwarと鳴く鳥

もともと最初にこの作品(下書稿(一))を作者に書かしめた動機は、冒頭に表現されていたように、ひとつの幻視体験のように見えた林の情景の印象深さを定着してみたい、というような思いではなかったかと想像してみる。だがその特異な体験の印象そのものは、作品を書き換えていく作者の詩の表出意識のなかで、言葉や像の価値として、置き換え可能だったのではないか。そう思えるのは、林のなかに、透明な建築物のようなアーチを見て、そのまんなかに焦げた明りが降っている、という最初の特異な視覚映像が、まず、そのまんなかの「焦げた明り」が、林のなかにひそんで叫んでいる鷺の声におきかえられ、つぎに、透明なアーチという映像そのものも「さびしくそれを現像する」という抽象的な表現に置き換えられ、最後にはその表現も「樹々にさびしく復誦する」という簡潔な言い方に変えられてしまうのを見てきたからだ。しかもこの置き換えは、詩文の構成の上の位置としてはほとんど大きな移動を必要としていないことにも注意すべきだろう。
つまり、こういう言い方がいいのかどうかわからないが、作者は言葉としての詩的効果=価値の配分というような考えに基づいて、ここでひとつらなりのイメージの変換を何度も実験的に試みているのではないか、と思えるということだ。とすると冒頭の何行かは、別の言葉で置き換えられても、詩全体のなかで、ある一定の価値をもち、ある効果をもつイメージが選ばれている、ということになる。ここで言いたいことを単純化すれば、
1・風が七時の汽車のひびきを吹いて来て
  はやしのなかで巨きな硝子ガラスの壁になる
     ……その半成のローマネスクのまんなかに
       焦げた明りがぼんやりと降る……
という表現の価値(特異さ)は、
2・風が七時の汽車のひびきを吹いて来て
  はやしの縁で巨きな硝子の壁になる
    ……その半成のローマネスクの内側で
      鷺がするどく鳴いてゐる……
という表現の価値(特異さ)に変換可能であり、また
3・風がきれぎれ汽車のどよみを吹いて来て
  樹々にさびしく復誦する
    ……その青黒い混淆林のてっぺんで
       鳥が”Zwar”と叫んでゐる……
という表現の価値(特異さ)に変換可能だ、というようなことだ。
では、その共通する項とは何なのだろう。それをある種の自然との異和の深さを象徴するような表現の幻想性と考えることはできないだろうか。、を支えているのは、そのような幻視体験そのものの表現であり、、ではその骨子はそのまま残されながら、その核にあった「焦げた明り」が、鷺の鳴き声に変えられている。それでもこの二つの表現の価値が等価に近いと言えるのは、鷺の声がおそらくこの幻想体験と拮抗する意志のようにはげしい否認を奏でているとみなされているからのように思える。、では、最初の幻想体験の骨子さえ失われているが、それでもこの一節の価値はかわらない。それは、失われた幻想体験の記述のもっていた表出度の高さが、後半部の林と鳥の渾然となったような情景描写のもたらす、ひとつの不安な像や擬音の表出度の高さにとかしこまれて(変換されて)いるからだ、と考えてはいけないだろうか。
こんなふうに考えると、、の「鳥」が特定の「鷺」ではなく、あくまでも「青黒い混淆林」のもつ秘密めいたイメージ全体を象徴するかのような「鳥」でなくてはならない、と思えてくる。またそうであるからこそ、この鳥は、「”Zwar”」と叫ぶことが要請される。鳥は、汽車の「ひびき」をのせた風の到来という異変に呼応して、林にひそんで「するどく鳴」き騒いでいるのでもなく、姿を現して境界への侵入者である作者(人間)に向かって警告するように「するどく叫」んでいるのでもない。あるいはそのどちらの連想も誘うようにしながら、最終的に読者にその理由がとけないような、不可解な林=自然そのものが発する声音で「”Zwar”」と鳴いているのだ、と。とすれば、この鳥が、鷺であろうはずはない。鳥の姿をしているが、たぶん、この鳥は作者の詩の価値意識の底から立ち現れた声を告げる虚の器なのだ。
ここまで書いてきて、この作品の冒頭数行をめぐる私の短い読み解きの旅を終えよう。文中、作品の冒頭部分にすぎない個所を、便宜上独立した一作品のように扱ったが、この文章自体、正面きった作品論をめざしたわけではないので、その点を最後におことわりしておきたい。

終わりに

あらかじめ予定したわけではなかったのだが、一気に描いてみた「山火」の下書稿から定稿に至る変遷を巡るこの読み解きは、どうやら、”Zwar”という言葉が、新しい詩の同人誌のタイトルとして、いかにもふさわしい、ということを明かそうとしたかのような結論にいたったようだ。
 関連して、もうひとつ別のことを書いておきたい。それは、詩誌「Zwar」の表紙イラストのことだ。このイラストを描いた動機は、そもそも昨年「メソポタミア文明展」を見に行ったことに端を発する。会場には古代遺跡から出土したという「翼のある女神像」のレリーフが展示してあり、ひとめで気に入ってしまった。家に帰ってしばらくしてから、展示会のパンフレットの写真をもとに好きなようにアレンジしたイラストをパソコンソフトを使って描き、このイラストを年末年始の挨拶代わりにホームページに掲載していた。それきりこのイラストのことを忘れていたのだが、今年になって、詩誌の表紙イラストを描かないか、というお話があったときに、すぐに頭に浮かんだのがこのイラストのバリエーション版だった。
表紙のページデザインを描いて編集の須永さんにお送りした段階でも、詩誌の内容については知らないでいた。だからとりあわせが上手くいっているかどうかに自信はなくて、ご覧になった方の判断にゆだねるしかないのだが、ひとつだけ、つじつまがあっていると思っていることがある。
イラストのモデルにしたメソポタミア文明の古代遺跡から出土したという粘土板のレリーフ、「翼のある女神像」の足には、猛禽類のするどい爪が生えていて二頭の山羊をおさえつけており、下肢は羽毛に被われていてふくらはぎからは羽根がとびだしている。となると、彼女が四千年ほどの昔に「”Zwar!”」とひとこえ発したものの類だとしても、おかしくはないかもしれない、と。
  Zwar
詩誌「Zwar」表紙2001.5.17創刊
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mail桐田真輔 HP:KIKIHOUSE(個人) HP:あざみ書房(管理)
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