rain tree indexもくじback number19 もくじvol.19back number vol.1- もくじBackNumber最新号もくじ最新号ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.19
<詩を読む>

 田中宏輔『The Wasteless Land.』を読む

桐田 真輔
 田中宏輔『The Wasteless Land.』についてどんなことを書くことができるだろう。
この長編詩は、形式的にいうと明白な特徴をもっていて、そこに盛られたストーリーについても、わかりにくいところはない。それでいて読んだあとにどこか汲めども尽きぬようなわかりにくさが残るとすれば、その形式、主題そのものが、なぜこのような形で選ばれ、途方もない量の引用を引き連れた作品として創作されたのか、という疑問が払拭できない点にあると思う。選ばれ、と書いたのは、作者は、この詩の、形式、主題について、ふたつの源泉があることを自ら明かしているからだ。


「この詩は、題名のみならず、その形式や文体も、また、この詩に引用された詩句のうち、そのいくつかのものも、西脇順三郎によって訳された、T.S.エリオットの『荒地』に依拠して制作されたものである。西脇訳の『荒地』を参照すると、まったく同じ行数でこの詩の本文がつくられていることがわかる。また、この詩の主題は、全面的にゲーテの『ファウスト』に負っている。」(「Notes on the Wasteless Land.」より)


 ここで、この詩の形式は『荒地』、主題は『ファウスト』に、それぞれ「依拠して」「負っている」、と言われている。実際、西脇訳の『荒地』を参照すると、章わけや行数に至るまで『荒地』のスタイルが踏襲されているのがわかるし、さらに詩の展開にも何カ所かで類似の技法(註1)が使われているのがわかる。また戯曲『ファウスト』についていえば、登場人物の名前がそのまま踏襲されていたり、その劇的なあらすじのピークをなす部分が、換骨奪胎というべきか、巧妙に移し替えられて、この作品の後半部を形作っているのもわかる。

 『荒地』『ファウスト』という高名なふたつの文学作品と、この詩に織り込まれている引用や技法の類似の対照関係を引き比べて読み解くことだけで、結構時間のかかる作業で、そういうにわか研究者みたいな気分にさせる作業に、自然に読者を誘うような仕組みを、作者が構築したということだけでも大変なことだと思う。そして、たぶんこの詩を読み、今書いたような二作品と緊密な照応関係を持ちながら、ひとつの長編詩の世界を作り上げているという、作者の力業と、その破綻のない文体の完成度に驚きを禁じ得ないというのが、誰もが感じるような反応だろうと思う。

 ここまで書いてきて、この詩のあまり類例のない特徴を紹介した気になって、興味を持たれる人は持たれると思うので、これですませてもいいのだが、わかりにくさが残ると書いたことについて、やはり私なりに付け加えてみたい。

 まず、『荒地』との関連について。作者が、形式や文体、詩句のいくつかのもの、を『荒地』に「依拠」している、ということの意味は、充分注意されていい。つまり、逆説を弄するようだが、一見、タイトルから連想されるような主題(いわゆる「反荒地」、という様な意味では)としては、この詩は、『荒地』に、「依拠」していないのだ。この表題のことは、もうすこしややこしくいうと(^^;、形式的に依拠しながら、主題的に依拠していない、という意味での、『The Wasteless Land.』(『「反」荒地』)なのだと思う(註2)。

 逆にこの詩の主題は作者によると『ファウスト』に全面的に「負っている」が、ゲーテが60年の歳月をかけて書き上げた戯曲『ファウスト』の形式については「負って」いない。この場合「負っている」というのは、私の読んだところでは、その内面的な中心テーマの枠組み、それも情念の問題に焦点を当てたという感じになる。作者が「全面的に」という意味は、、たぶん形式と切り離せない主題全体(註3)というよりも、作者の関心の深さを表す言葉で、『The Wasteless Land.』という詩、そのものの表現全体(もっというと作者が、引用を多用する技法を作り上げるに至ったプロセスすべてを含めて)が、『ファウスト』の「情念の問題」を扱った中心主題に遠く源を負っている、というような意味なのだと思う(註4)。

 最後に触れておきたいのは、この作者における引用ということの意味だ。この詩に付された膨大な注解(この注解をおくというスタイル自体も『荒地』をそっくり踏襲している)の中で終章の第6連冒頭の5行にふれた長い注解の文章がある。そこで引用されている文章の著者名だけあげていっても、パスカル、ボードレール、プルースト、ヘッセ、ゲーテ、マン、ヴェルレーヌ、ヴァレリー、ヘラクレイトス、ランボー、ロートレアモンなど(同不順)。。と数十人に及ぶ。古今の文章の断片をちりばめた論旨の展開に、読んでいて目眩に襲われそうな文章だ。

 ここでいわれているのは、ゲーテの『ファウスト』のセリフ「おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、それが互に離れたがっている。、、」の注解として説き起こされた「魂の分裂」という事態をめぐる諸問題なのだが、作者は、この魂の二元性という問題を巡る多くの先人の言葉を引用紹介しながら、どうしたら魂が引き裂かれる苦しみから逃れることができるか、と問い、「何者でもなくなる」(シェイクスピア『リチャード2世』)ことによって、その苦しみを軽減できる、という。その認識はどうしたら得られるのか、という自問に、プルーストの「別の目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙をながめること、彼ら各人のながめる百の世界、彼ら自身である百の世界をながめることであろう」という言葉をひいたうえで、作者は書いている。


 「「百人の他人の目で」「ながめる」「彼ら自身である百の世界」というもののうちには、たとえば、俳句における季語であるとか、短歌における枕詞や、本歌取りに用いられる古歌であるとか、連句や連歌や漢詩の連衆たちによってその場で発せられる言葉であるとか、引喩で用いられる文献であるとか、実にさまざまなものが考えられる」


 つまりここで作者は、自らの詩法の由来とその秘密を自己解説している、といっていいのではないだろうか。というより、こういう記述をみつけて、私たちは、この夥しい引用に満ちた特異な注解の文章自体が、「魂が引き裂かれる」という作者自身の「苦しさを軽減させる」ために実践された「引喩で用いられる文献」をちりばめた文章として構成されているのではないかということに気がつく。

 たぶん引用だけで作られた詩というのは、たやすく受け入れがたいような風土がある。風土というよりそれは言葉の規範や独立した(近代的な)個人という概念をどこかで揺るがせる意味あいをもつから、近代以降の社会ではどこでも受け入れがたいかもしれない。そういう概念に、風穴をあけたり、言語の規範性を揺るがせるために意図されたような実験的な詩というものの流れがある。しかしここまで読んできて、この作者の作品が、その動機においてそうした流れと似ているようでいて出自を微妙に異にするとは、言えるような気がする。作者は注解で「つまるところ、自分が一個の固定した人格の所有者であると考えることは、錯覚にしか過ぎない」と書いている。こういう言葉に手放しでくみできないのは、作品のうえの<私>性というものと、生きてある<私>性のありようの差異を、こういう言葉がたやすく超えすぎているように感じられるからだが(註5)、その境界を越境することで「解放に至ろう」(高橋睦郎)と試みる作者の深い魂の意志のようなものに、うたれずにいられない。

田中宏輔『The Wasteless Land.』(99年10月10日初版第1刷・書肆山田

***

註1)印象に残った箇所をひとつあげると、『荒地』の第二章、「将棋」の後半には、閉店まぎわの酒場で交わされる女性たちの会話がでてくるが、その会話の途中に「時間ですお早く願います」という呼びかけの言葉が、何度もくりかえして出てくる。たぶん店のウェイターかマスターが、女性達の長話を途中で遮るように語る口調をそのまま写した、この言葉の挿入の効果は、詩の流れに適度の屈折した緊張感を与えていて、とても印象的だ。その技法が、『The Wasteless Land.』の第二章後半では、大学の授業中の女生徒たちの会話を遮って繰り返される「どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください」という教師のセリフにうまく置き換えられている。対照すると、思わずここまでやるかと思えて楽しめるところだ。こういう技法は現代詩の技法としては今や珍しくないのかもしれないが、たとえば鮎川信夫に「あけてください、どうか」という作品があり、ちょうどそのなかで使われている「(あけてください、どうか)」という詩行の繰り返しなど、わりと早い時期の影響を感じさせる例だと思う。


註2)依拠する、というのは難しい言い方だが、『荒地』から影響を受けるという意味では、これまで沢山の詩が書かれていると思う。たとえば私などには、鮎川信夫の長詩「橋上の人」や「アメリカ」が思い浮かぶ。前者はその主題的な影響、後者は形式的手法の影響が特徴としてあげられると思う。ある詩作品のもつ形式、主題のどちらを重点的に捉えて、その作品を評価するか、というのもまた難しい問題だが、主題と形式ということで、ここで乱暴にふたつの文章を並べてみるのも面白いかもしれない。


 「『荒地』はT.S.エリオットのThe Waste Landからとった。エリオットの詩集の表題をそのまま我々の雑誌の名前にしたということは、必ずしも我々がエリオットの文学伝統を継承するという意味に限られない。だが、戦後のローストゼネレーションであるという自覚に於いて出発した我々は、「精神の危機」や「荒地」を生んだ第一次大戦後の暗澹たる荒廃の国、ヨーロッパ社会の精神的不安と救いのない絶望状態を考えることなくして、我々の住む現代社会について何事も語り得ぬのである。」(鮎川信夫「『荒地』について」(『鮎川信夫著作集2』(思潮社)所収)

 (『荒地』は)「「文學から文學を生みだした」場合の代表的作品である。また彼は時々ジェイムズ・ジョイスのように「意識の流れ」というやり方で書いたということは讀者にとっては難解な点となっている。しかし全体として最も難解でありまた最も訳しにくい点はこの詩全体が象徴詩であるということである。なお私見であるがエリオット氏はこの詩に関しては近来稀れにみるparodyの詩人でもある。この点からみても、この詩が現代最大なシャレた詩であるということにもなる。」西脇順三郎「注解」(西脇順三郎訳『荒地』(創元社)所収)


 前者で強調されているのは、『荒地』という詩の思想的な意味内容であり、そこでは、作品の手法としてとられている「引用」という特徴については(強いて読もうとすれば)「エリオットの文学伝統」という言い方でしか触れられていない。逆に後者で最初に強調されているのは、『荒地』が「文學から文學を生みだした」特異な作品であるという意味合いであって、その思想詩的側面については「象徴詩」という言い方のなかにさらりと流されている。また西脇氏が「稀れにみるparody」に注目しているのも、こうした評価と無縁のことではないだろう。『The Wasteless Land.』から読みとることができるのも、『荒地』を、古今の文献からの引用という手法の独自さに重点をおいてとらえるような西脇氏的な観点からの影響関係ではないだろうか。『The Wasteless Land.』は、「「文學から文學を生みだした」作品から、文学を生みだした」作品とでもいえるかもしれない。

 つけくわえおきたいが、鮎川信夫にそういう試みがなかったわけではない。牟礼慶子氏は、その覚書の中で鮎川自身が「かなり烈しく剽窃をやった」と書いている「アメリカ」という作品中の引用箇所の出典をつきとめて(この作品には注解が付されていないので)指摘している。「トーマス・マンの『魔の山』、聖書の『ヨハネ福音書』、ドストエフスキーの『未成年』、オーウェルの『一九八四年』、ヴァレリィの『海辺の墓地』、サルトルの『出口なし』、エリオットの『荒地』、カフカの『皇帝の使者』」(牟礼慶子『鮎川信夫 路上のたましい』より)。


註3)やはり、ゲーテの『ファウスト』の主題に触発されて書かれた戯曲にヴァレリーの『我がファウスト』があるが、ヴァレリーも、その前書き「誠意あり悪意ある読者に」のなかで、「「ファウスト」と「悪魔」というこの両人の創造者は、己が後に、やがてこの両人が普遍的な精神の道具となるがごとくに生みだした。、、、彼は永久に彼らを、人間的なものと非人間的なものとのある極端を表現するに用いた。そして、それによって、一切の特殊な身の上から、彼らを解き放った。それゆえ、私は敢えて両人を利用することにした。」(佐藤正彰訳『ヴァレリー全集4』(筑摩書房)所収))と書いている。

 主題に惹かれた動機において共通したものがあると思うが、ヴァレリーが力を注いだのは(彼の『対話編』の諸作「エウパリノス」「魂と舞踏」などに見られるように)、その思想内容を、「二人の対話形式」で語るというところであったと思う。『The Wasteless Land.』の作者の場合、それは、対話形式というより、「誘惑者のテーマ」とでも呼びたいような、メフィストフェレス(人間の欲望や情念)の側に焦点をあてたものだ。そのために知や真理の探究者(究極の知識人)としてのファウストの没落という主題の側面はやや後退しているように思える。


註4) この本の「栞」には、高橋睦郎氏の「世の中には自分をうたうに他に仮託し なければ落ちつかない詩心というものがある。われらの田中宏輔がそういう詩心の持 ち主の典型だ。」という言葉ではじまる味わいのある解説があるが、その中で高橋氏 は、「だが、なぜ『ファウスト』なのか。田中じしんのいうところによれば、自己の 仮託の窮極的対象として永らく『ファウスト』が頭にあり、そののちに『荒地』が現 れ、この二つの止揚によって自己仮託の窮極的実現が可能との確信が得られたのだ、 という。」と作者の言葉を紹介している。それに続けて高橋氏は、


「いま、その順序はどうでもよかろう。『荒地』の出現によって最終的に作業が動き 出し、『荒地』の構造がそのまま作業の構造に成ったのだから、『荒地』の反作用こ そがこの作業の骨子で、これに『ファウスト』の引用が資したとする私の考えは間違 いではあるまい。田中は裸では語りがたい自己を『荒地』の荒廃に託し、さらに『ファ ウスト』の分裂を経た救済のテーマを借りて反引用に転じることによって、解放に至 ろうと試みたのではないだろうか。」(高橋睦郎「なぜ反『荒地』か」より)


 と書かれているが、この詩についてみてきた形式と主題についての感触からいう と、やはり、「自己の仮託の窮極的対象」としての『ファウスト』のテーマこそが最 初にあって、そのことが、「引用」という作業によって自己解放を行う、という詩作 の方向に作者を向かわせたのであり、そういう彷徨の過程で作者が出会った『荒地』 は、むしろそういう表現欲求に、格好の形式(高橋氏のいう構造)を与えたのだ、と いうことになる。その理由は、『荒地』という詩そのものが、主題こそ違え、形式と しては作者の模索していた「引用からなる詩」のあり方と、ある種の相似性をなすも ののように思えたからではなかったか。そして、それは「自己の仮託の窮極的対象と して永らく『ファウスト』が頭にあり、そののちに『荒地』が現れ、この二つの止揚 によって自己仮託の窮極的実現が可能との確信が得られたのだ。」という作者自身の 言葉をそのまま肯うという感じになる。


註5) 優れた詩論家・詩人である北川透氏に以下のような発言がある。「現代詩の <語り手>は、<私>に関してまったく恣意的であるとしか言いようがない。つまり、 <私>を対象にはしないが、しかし、それを予想せしめる俳句的な<語り手>もいれ ば、<私>をさまざまに演出しながら、<私>の表現をめざす短歌的な<語り手>も いる。そして、決して正体を明かさない複数の<私>を出現させながら、ひたすら< 私>を拡散させる<語り手>もいれば、<作者>という<私>の体験や感情を表現の 対象にはしない、いわば<私>を消滅させるという形でだけ<私>を表現する<語り 手>もいるだろう。現代詩の<語り手>が、<私>に関して恣意的であるというのは、 これらの語り手のどれを優位におくかという公準が、どこにもないように思われるか らである。<語り手>が<私>を表現しているからレベルが低くて、<私>が消滅し ているからレベルが高いなどということはありえない。それらは単に傾向性あるいは、 個性としてあるだけだ、と考えてよいのではないか。」 (北川透「4章 詩作品の語り手とは」(『詩的レトリック入門』思潮社所収)


******************************************
mail桐田真輔 HP:KIKIHOUSE(個人) HP:あざみ書房(管理)

******************************************
"rain tree"の田中宏輔論                  
vol.14tubuラディカルにオリジナリティを確かめていく
−田中宏輔『The Wasteless Land.』を読んで
ヤリタミサコ
vol.18田中宏輔「陽の埋葬」における
地下茎・神話・転生のはなし
 ヤリタミサコ
  


tubu<詩>I Those who seek me diligently find me.(田中宏輔詩集『The Wasteless Land.』より)へ
<詩>ジャングルジム(木村恭子)縦組み横スクロール表示へ縦組み縦スクロール表示横組み
rain tree indexもくじback number19 もくじvol.19back number vol.1- もくじBackNumber最新号もくじ最新号ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など