もう一通の手紙
織田 京子
2002年3月 春になった。暖かい。
この暖かさを、こわいことのようにも
ありがたく申し訳ないことのようにも思う。
奈津子さん、あなたはもうひとつの世界の
どの辺りを歩いているのだろう。
あなたの訃報を頂いた昨年の秋、
公園で、私はぼんやりと空を眺めていた。
雲を抱えた空は、やはり生きているようにみえた。
私の内で生きているあなたがいて、
あなたが死であるのなら
あなたと共に去っていった私もいるはずだ。
けれど、そうだろうか。
生きものの数だけ、死者たちの数だけ空はあって、
この今日の空はただ一つきりなのだから。
そう空に話しかけていた時
ふいに風が立ち、掃き寄せられていた枯葉の塊が崩れ
一枚、一枚が散らばり、宙に舞いあがった。
風と遊ぶ枯葉が、私には
小鳥の群れにみえた。
風に乗り、舞っては地に落下する姿が
波打ち際でしぶきをあげる小魚にみえた。
(自由になった)
葉としての役割をほどかれ、枯葉が
魚や、潟を跳ねるむつごろう、鳥になって遊んでいる。
そんなふうにみえたのだ。
そうして、姿を変えながら風と一緒になって遊ぶ枯葉を
奈津子さん、あなただと思ってしまったのは
どうしたわけだろう。
その時、私自身も一枚の枯葉であり、鳥であり、はしゃぐ風だった。
時間をはなれ、ただ宇宙に舞う枯葉。
(わたしは、どこにいるのか)
しばらく茫然とした後、
あなたが会いに来たのだと思った。
軽やかな、あなたの声の姿だった。
ふりむかなければ、私からあなたには会えないのだろうか。
最初に会ったのは、あなたはまだ20代、
詩の会の席だったね。
会の後、よく居酒屋に皆で行って
あなたは話題がとぎれないよう
それぞれのコップのビールがなくならないよう
気を配っていた。
(飲み物がお終いになると、申し訳なさそうな顔をして)
あなたのふくよかな頬を思いだす。
深夜、どの居酒屋も閉まったのに帰りそびれ
高田馬場のジャズ喫茶に行ったね。
リズムにのって、無意識にテーブルを弾いていた
無音の指先を、その躍動を思う。
「白百合」という看板を頼りに、一人で探してみたけれど
見つけられなかった。
(あるんだよ)
昨年の夏、膨大な書物が並ぶ書店で
差し出されるように「創造する心 日野啓三対談集」が目にとまった。
ゆっくりと読みすすめ、最後の後書に
編集者として、あなたの名をみつけた時の軽い驚き。
それで、元気になって良い仕事をしているとばかり
思いこんでしまった。
(その頃、あなたは病と闘っていた)
冒頭の東山魁夷と日野啓三氏の対談が、とりわけ私は好きで
今でもよく読み返す。
奈津子さん、私はあなたの作品の良き読者ではなかった。
初期の詩集しか知らないのだから。
その頃の作品には、どこか
他者の共感や理解を拒んでいるようにも感じられた。
先に行かれたお父様や目にみえないものたちと
交信しているようにも思えた。
詩のちからを借りて、あなたは
かれらを蘇らせようとしていたのではなかったろうか。
(実際かれらは蘇っていた、あなたが言葉にしていくときに)
お通夜には、とうとう行けなくて。
職場を早退したその足で、池袋をぐるぐる歩きまわっていた。
雑踏のなか、私は人波に溶けこみ
顔を失い、名を失いたかった。
その日は私の生まれた日だったから
私は私自身を遠ざけた。
そうして、(生きてゆくちからを)守って、と
なお、あなたに頼ってしまう
私の、生きているものの傲り。
2002年2月、あなたの「鯨」の詩を読み返した日
日本では、たくさんの鯨が溺れ、浜に打ちあげられた。
なにもない宙に、樹木が枝を伸ばし
木の呼吸が姿を現したかのように
花が列になって、枝を渡っていく。
その、ふしぎに、
(どこまでいくの)
そう問いかけると
(行けるところまで)
応えてくれたのは、木だったろうか。
あなたの声ではなかったか。
くらい海を、独力で泳いでいくしかない私たち。
言葉は浮標のように、互いの位置や方向を知らせる。
あなたが行った後、波のうねりがおおきくなったようだ。
けれど、この波頭を、無数の鳥のはばたきへと変える
一瞬のちからが詩にはある。
その時、この海は確かな陸地へと変貌する。
その時、あなたは魂の姿で現れる。
だから奈津子さん、夏子さん、
ただ静かに歩いていこう。
織田京子
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「不思議」の人 土屋 敏
田村さんとは日本文学学校の現代詩塾で半年間、続く同人誌「ざ」の同人として2年間、ご一緒しました。
田村さんとの共通の話題は、まず“ユング”であったように思います。きっかけは何であったのか。現代詩塾の時期のことはどうもよく思い出せません。「ざ」の第1号に、私が自分のみた夢をユング心理学にからめて書いており、田村さんがそれに関心を持って、「ざ」の集まりのあとの飲み会で話をしたのが最初だったかも知れません。はっきり憶えているのは、ひとしきり話をして、会もお開きに近づいた頃、私が「田村さんは直観を信じますか?」と尋ねたところ、「もちろん!!」と、それは力強く答えられたことでした。
私のユング心理学への関心は、その頃は(あくまで自己分析の道具として)タイプ論や夢分析あたりまでだったのですが、田村さんはさらにシンクロニシティや集合的無意識のことを話していたように思います。「直観」も含めて私には受け入れられる範囲を越えた領域だったので、「不思議なことを言う人だなぁ」という印象を抱いていました。1990年の終わりか、91年の初め頃のことです。
ところがその2年後、私がそれまで勤めていた職場を辞めたときに、「なぜこんなことになったのだろう」という疑問から、もう少し違う視点から自分自身を見つめ直してみたくなり、田村さんの言っていた「不思議なこと」を考えてみたくなったのでした。
田村さんに相談すると、まず大きく励まして下さり、それから心理学やヒーリング、占星術などなど様々な方法について、人や団体、参考になる本などを紹介して下さいました。私は田村さんのあとを追いかけるような思いでそれらを体験し、実感しようとしました。が、興味は大いにそそられたものの、半信半疑な感じがつきまとい、なかなか前に進めない思いでいました。けれどその間も、田村さんはずんずんと前進していたように見えました。
このサイトに収録されたエッセイ「語呂合わせ」を読むと、田村さんはシンクロニシティを通して世界を見ることを、自分自身の「癖」であると語っていらっしゃいます。そのくらい日常的な態度になっていたのだと、改めて感心しています。おそらくは心身を精妙なアンテナにして日常に臨まなければ、容易に取りこぼしてしまう事象であると思うからです。
私にとって「不思議」はいまなお「不思議」なのですが、田村さんが伝えて下さったことは、この世界のもう一つの見方として、また、希望の一つのありかとして、私の心の支えになっています。改めてお礼を言えないままのお別れになってしまいましたが、本当に感謝しています。ありがとうございました。
今頃はあちらの世界を、好奇心いっぱいで探検されているのではないかと、そんな想像をしてしまいます。
土屋敏
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不思議な時間 佐藤詠子
「年の功で失礼」とすかさず空席に座った。
泳ぐ視線に奈津子さんの後姿、インド更紗風のロングショールをお洒落に纏っている。ドアーに凭れ掛かり身じろぎもしないで、薄暮の街を見下ろしているように見える。
時折ご一緒した自由が丘からの電車、娘ほどの年の差も同郷と言う事で方言で笑い合えた。
枝という枝に花は満ち満ちゆったり重たげに垂れ下がって咲いていたあの松江城の桜、黄昏の光景、穴道湖の夕映え、時の差異はあってもかつて共有した景色。
わんこそばを競ったとか、のやきかまぼこは包丁を入れては味が落ちる、かぶり付くのが一番などと。他愛もない事に懐かしく話が弾んだ。
小難しい会話などなくケラケラ笑い合った。
「渋谷!!渋谷!!」のアナウンスに、何処を見渡しても彼女の姿は消えていた。彼女は病気の事など、ひと言もこぼさなかった。すごい!! 口にしてもどうにもならないこともある。聡明な彼女の生きる術を、今更ながら思い返している。死を前にいやきっと生を信じていたはずだ。感情の陰と陽を鋭く切り込んだ恐ろしいほどの精神的洞察力を結集した詩集「人体望遠鏡」をバッグに滑り込ませる。そうなんだ。二度と同じ電車に乗るはずは無い。1ヶ月余り前、彼女は向岸に道標を見つけてするりとあっけなくとびさった、まるで流星のごとく通り過ぎて行った。四十歳と言う棺の中の美しすぎる顔は、私の心の内の小箱に納められている。
誘蛾灯の下で、庭の片隅のつわぶきが黄金色鮮やかに映えている、その傍らに咲いていたホトトギスの花は終わりの始末に困っている。散る花もあれば、咲き競う花もある。
今日の親善メールは一件、真面目な論議の交信もあった奈津子さんからのメールを消去したことが悔やまれる。私のメールアドレスの奈津子さんは永久保存される。流れ星に乗って、地上に返信されてくる奇跡だって起るやも知れぬ。
佐藤詠子 |
田村奈津子の遺したもの 2002.2.2 関富士子
2001年10月11日に、詩人田村奈津子が亡くなった。40歳だった。亡くなった直後の様子や、彼女とわたしとの関わりは 「閑月忙日」10月に書いた。
わたしと田村さんは、詩の勉強会COLOURの会の十年来のメンバーで、月一回詩や文章を読み合ってきた。彼女が合評に提出する詩は、新鮮な発想と魅力的な語彙でわたしを感嘆させた。精神がコトバに感応するようすがスリリングで興奮した。できたばかりのほかほかの詩を読む彼女の、明るくやさしい声がわたしはとても好きだった。
年が明けてからようやく、会に遺された作品を集める作業を始めた。藤富保男さんと佐藤詠子さんから保存原稿をたくさんお借りした。インターネット版"rain tree"では、残りの文章すべてと、生前あざみ書房から刊行された三冊の詩集『地図からこぼれた庭』『虹を飲む日』『人体望遠鏡』を順次掲載する。奈津子さんのお母様に許諾のお手紙を差し上げると、すぐに丁寧なお返事をいただいた。まだ逝去から数か月。ご遺族の悲しみはいかばかりかとお察しする。
田村奈津子の詩には、新しい世界観ともいうべき未来図が描かれている。他者と自我が融合し、自分や家族ばかりでなく、イルカもヒトも、都市も自然も、森羅万象が不思議なネットワークで結びつき、互いに響き合うシンクロニシティの世界である。それがコトバによってもたらされたとき、詩人は至福の喜びにいる。
<雨の木の下で>に掲載したエッセイは、より日常に材を取っている。わたしたちは気づかないが、身の回りの事物は互いに意味をもって存在し、わたしたちを生かしめているらしい。そのことを田村さんは日々発見していたのだ。
告別の日の、柩の中の静かな彼女の顔と、その頬に寄り添って置かれた木彫りのイルカが、心に浮かんでならない。彼女はきっと言うだろう。死はけっして別れではないのだと。過去も未来も、生者も死者も、わたしたちはこの宇宙で緊密につながりあっているのだと。目を閉じると、ささやきかけるように詩を読む田村奈津子の声が聞こえる。
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