もくじ最新号Back Numbervol.22 | ふろく詩人たち閑月忙日リンク詩集など |
詩を読む喜び 関 富士子 冬にみかんやねぎ味噌せんべいなどを食べながら読む詩はまた格別ですね。ぜいたくしている気分。濃い小説などをたまに読むと、あっさりした詩を読んで口直しをしたくなる。さらっとした紅茶の香り。もちろん小説より濃厚な詩もあるがそれもまた良し。 御紹介するのは、秋から冬にかけて日本で発行された詩集のほんの一部。女性の書いたものが多いが、女性からいただく比率が高いのと、たんにわたしが感想を書きやすかったということ。あなたの読書の参考になれば幸いです。 海曜日の女たち皮膚のまわりノースカロライナの帽子縁速されない傘雨男、山男、豆をひく男夕映えの犬
時代は20世紀初頭から近未来までに設定しているようだが、宮廷芝居を見るかのような凝った仕立て。バレエ台本に擬した四幕物もあって、ヨーロッパ映画の時代劇の絢爛豪華な衣裳や舞台装置を想像しながら読むと楽しめる。 古めかしい慣用句をあやつる延々たる饒舌、露悪的な言葉や性的ほのめかしを随所にちりばめ、夫と妻、情人など、手練手管に狂奔するスノッブな登場人物。皮肉やあてこすりを連発する語り手などなど。 これらの取り扱いはさすがにこの詩人の独壇場だ。ここまでいくと芸の域でいっそ小気味良く、サーカスの古典言語アクロバット編を愉しもうという気になるが、あっさり味好きの日本人には胃にもたれるかもしれない。それにしても、果たして作者の意図は奈辺に? <愛の物乞い>どうやら、登場人物の女たちが希求しているのは、愛なのだ。乱痴気騒ぎが静かになるころに、夫に顧みられないイーダは、ノラよろしく夫の家を出ていき海浜ホテルのメイドになる。このフェミニズム風味付けもやはり古典劇の型どおり。どんなに露悪的にふるまってもけっしてパターンを外さない、生まれながらの育ちの良さ、お行儀の良さが、この詩集の読者たちを安心させもし、がっかりもさせるかもしれない。 はつなつの砂丘に坐っているイーダ
ふつうに生きる等身大の女性の生活が率直に表現されているのだが、語り口になんともいえない魅力がある。そっけない素振りだがほんとうは泣き喚きたいほど苦しい。でもいつのまにか笑いを取りにいってしまうシャイな感じ。わかるなあ。男との別れや愛や結婚を書いているが、彼女の新婚生活は夫婦漫才みたいに笑える。「すっぽり」はつかのま皮膚と皮膚をくっつける幸福をせつないほどに感じている。 ふたりして大きなセーターにそんな幸せの中で女はつぶやく。 どうしてこんなにひとりぼっちだといとしい男と暮らしても、その寂しさは消えない。人は幼くして他者との大いなるはるかな距離を思い知らされるのだ。そりゃあ悲しいことであるが、このようにして人は、他者に触れようとしてわが皮膚をひっかき、血を滲ませながら生きねばならない。いい女は、ざっくばらんであっけらかんとしながら、濃い情けを胸に秘めているんだな。ありふれているけれどかけがえのないものが、押しつけがましくない手つきで読む者に渡される。このへんの距離の取り方も絶妙だ。 立野雅代さんの詩が、あざみ書房「一編の詩」立野雅代で読めます。 また、詩評ページに、桐田真輔さんの書評「自分で自分を見つめること」があります。
あなたは、テレビの画面に、お花見のおむすびをほおばる自分を見つけたり、出発するバスの窓から、雑踏を家路に急ぐ自分の後ろ姿を見送ったりしたことはないか。そこは、日常に背中合わせのもう一つの世界であり、ノースカロライナに置き忘れてきた帽子や、死んだ人々がいて、親しい姉や妹かと思えば、どうやら自分の分身とおぼしき人物も住んでいる。 ウルルン島では南南西の風 風力四 雨詩人が人々へ注ぐまなざしの射程に負荷がかかって、ある拍子に時間と空間にねじれを生じ、現世とわずかな距離感のあるずれた異界が現れるようなのだ。ねじれをもたらすのは詩の力だが、木村恭子の場合、さりげなく機知とユーモアにくるまれている。改行のある詩のリズミカルな言葉の弾みは、難所をくぐる者に課せられる呪文だろうか。 シカゴを出たハリー氏はが、詩人はまっとうな生活者でもあるから、二つの世界のあいだに立ち尽くして苦しく引き裂かれている。現世の人々へ寄せる愛と、異界への断ち切りがたい強い憧憬。散文形の詩にひそやかな官能があるのは、耐えている身体のたわみだろうか。日常の光景の細部に、今生の別れのような情がこもるのである。 杖の声の言葉は ひとの眠りのようで 泡の混じった吹きガラスのようです。揺れる電車の中では天井から 時々 水滴が落ちてきます。薬草の匂いもするそれは 蛍 というような一粒の名詞だという気がしました。(『詩学』2002年1月号掲載の文章に引用を加筆して転載しました。関) 木村恭子さんの詩が、"rain tree"vol.19で読めます。 桐田真輔編集ウエブマガジン「リタ」に、桐田真輔さんの書評木村恭子詩集「ノースカロライナの帽子』についてがあります。
見えるものを言葉で描写することだって難しいが、ふつうは目に見えず、あると気づかれないようなものを、目の前に見えるように、あるいは具体的な触感にいたるまで、詳しく描くのは、当然ながらかなり難しい。 たとえば、自転車の空気入れの中に残った空気とか、吸音室で吸い取られる音とか、雑踏の中で白黒のネガになってしまっている人や、携帯電話の先から空中へ流れる無数の白い糸。そんな存在に今まで気づいたことがあるだろうか。 またある時は喫茶店の中で、まだ若い感じのネガの人を見かけた。コーラを飲んでいる。後ろの壁の白さの中に程良く浮かんで、部分部分が透けている。彼の見ている新聞の一部が、少しずつ白黒の反転を起こしつつ流れている。(「ネガの人」部分)こんなふうに描写されると、わたしもそんな人をいつか見かけたような気がしてくる。ネガの人とは、「時の残像、「追憶」の中で生きている人」と詩人は言う。ところが、その存在に気づき、観察し、記録する人自身はどうかというと、あるかなきかに薄く、空気に透き通って、存在するのかもわからない。でもそのことをむしろうれしく思っているようだ。ゆっくりと、でも軽やかに、静かに、気持ち良く、遠くの鳥や砂浜の砂や、一瞬の間の濃密な時間の流れや、さまざまなものごとを感受しながら、街や野原を散歩している。 光は皮膚を透りゆき
「食えない人」という言い方はあるが、「されない傘」とは始末におえない。それはこんな傘である。 たまに持たされると ハッとなり蛙の腹で空をふさぐ ほどもなく持ち帰る が 水切りの後 ぐったり場に倒したまま 足はうすらいだ頭を連れているはて、何のことやらわからない。 しおりから、柴田基孝さんの文章の一部をひく。 「村永美和子の詩集は、想像力の組み立てと解体が同時進行する原語空間を造型する。しかも、ムラナガ語の語りは決してスムーズではありえない。四角形の車輪を転がすような建付けの悪い文法が、文章のトーンを覆いめぐらせる。この建付けの悪い文法を使用するのはただ一人の語族であり、いってみれば現代詩のバイパスを形成しながら、現代詩の蘇生を夢見るのである。」うーん、まったくその通りだなあ。ムラナガ詩は、一つの漢字や言葉が詩人のまじないの粉を振りかけられて起こす言葉の化学反応である。ところがとんでもないことに、その言葉は人間の身体の各部分にじかに作用を起こし、顔全体がつるつるになり、双の乳や尻を二つに割き、引出しの中で平たくなる。手品のように目、鼻、口が奇妙な形に捻じ曲げられていく。胸のあばらにはくもの巣がはり、帽子掛けに吊るされながら踵が沈む。その奇天烈な姿。抱腹絶倒の「斑な我(むらなが)」詩の世界。 沈
ここに登場する男たちをわたしは確かに知っている。新聞配達をしながらボクシングジムに通う若い男も、ピクニックに行くと必ず雨が降る男も、毎朝厳粛にコーヒー豆をひく男も、新宿のある交差点の隅で三匹の猫と暮らしている男も。しかし、彼らがそのように生きながら、何を考えているのかわたしにはわからない。昔も今も、男はわたしにとっては謎である。 小池昌代は、彼らの胸の中をすべて知り尽くしているように語る。語り手が存在し、登場人物は男である。これは小説の方法だ。たとえば箱崎一郎という男がいる。彼はある日、青い花に恋をするのだが、その恋に落ちる一部始終が、彼しか知らないスリリングな胸のうちがすっかり明かされる。 ああ、その後がおもしろい。「後日談」として語り手が登場して「私は箱崎ではないだろうか。」と言うのである。この「私」は自分の子供時代を回想して「女の子であった私」とあるので、明らかに女性である。 へエー、箱崎は「私」か、と思って「箱崎」のところをすべて「私」に変換して読み返してみると、なんら不自然なところはない。「箱崎」はこの詩の中で「箱崎一郎」という男である必然はまったくないのだ。「私」が詩の作者の小池昌代であるとすると、小池昌代は箱崎一郎であり、箱崎が男なら小池もまた男ということになる。 わたしはこの考えがすっかり気に入った。わたしは今まで男にはどうしても理解できないところがあると思うことが多々あったが、それはわたし自身が女であると思いすぎていたのではないだろうか。わたしは女であると同様に男でもあり、つまり人間であり、わたしの考えることは男も同じように感じ、考えるのだと思い直してみるのである。これからも男と生活していく上でよいヒントになるように思われる。 どこか測れないほどの深いところで
「人間は管形動物のなれのはて」(「咳払いの近く」)だそうだが、わたしが単なるチューブなら、「チューブのたしなみ」とは何だろう。身体をチューブと化して、タランチュラを飲み込み、やおら小さなタランチュラをわらわらと吐き出す。「一つの巧妙な装置として」(「ひゅるる るる」)、物語の転換装置に徹すること、それが詩人のたしなみとでも言おうか。 ソックス履いてよタランチュラ狂言回しはKあるいはTという少女のようだが、あるときは若妻、あるときはダンボール住まいの女でもある。散文と行分けを巧みに織り込み、変幻自在の小気味よい語り口で読む者を魅了する。 K&Tは互いを名付け合い呼び合う。男と女は死んでもなお求め合う。焼き場のにおいさえ濃密なエロス。そして、クライマックスに、震え上がるような乾いた哄笑が立ち昇るのである。 わはははははしかしながら、この詩集全編を覆っているのは、空虚をかき抱き続ける者の、消えることのない悲嘆の感情である。その腕の中はいつもからっぽでけして充たされることがない。なぜなら、詩人という装置は、失ったもののことを語り続けるものだからである。 いなくなった者について語るな |
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