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vol.24
<詩を読む> 

詩を読む喜び

関富士子

 2002年の夏から秋にかけて、"rain tree"執筆者の詩集がぞくぞくと刊行されている。少しずつだが、できるかぎり紹介していきたい。

至上の愛楽園

『至上の愛』 須永紀子 2002.7.27 ミッドナイト・プレス \1500E


 人生はもちろん、やりなおしのきかない一回限りのものだが、たいていの既婚女性は、もし今の夫と結婚していなかったら、自分の人生はどう変わったか、などと思ってみることはあるだろう。女の幸福は男次第とは思わないが、一生を共に生活すれば当然ながら、お互いの生き方に大きな影響を及ぼす。それは男にとっても同じこと。といっても、現代の日本社会の一員である以上、だれと結婚してもたいして大きな違いはないかもしれない。結婚生活だけではなく、人生のすべてのシーンにおいて、生き方のパターンにヴァリエーションはあまりないように思う。
 須永紀子の『至上の愛』は、現代詩を読まない人にも受け入れられやすいストーリーを持っている。「わたし」という一人の女性が、自分の生き方を発見するまでの成長物語としても読むことができるのだ。
 これからも幾度となく
 ここに帰ってくることになるだろう
 そのことはよくわかっている
 すでに組みこまれているのだ
(「かきまぜられた場所」部分)

 この詩集に登場する「わたし」には、自分の人生が、ある大きな力によって、社会組織の中の小さなピースの一つとして、「すでに組みこまれているのだ」という認識がある。そして、社会を存続させるための組織のモラルを「愛」という名で強要するのが、ほかならぬ、自分の夫や先生である。
 「きみをまもるためじゃないか」(「少年ケニヤ」)
 「月のようでいてください」(「約束」)
 「あなたは大きなかたまりの一部になることができますか」(「最後の記憶」)

 自分を庇護する者の愛に報いようとして、自我を抑えて生きる女性は現代でも多いだろう。いやむしろ、現代の人間関係のほとんどは、男女を問わずそのような善意の押しつけ、もたれあいにからめとられて窒息しかかっているのではないか。
 わたしは身動きができず何も見えないのに
 身体が何かにつながり
 それが別の何かにつながっていることを知っている
(「最後の記憶」部分)

 モラリティが高いほど、他者と協調しなければならないという気持ちが過剰になり、日常生活を、束縛の多い、苦痛なもののように感じやすい。そのとき「愛」はむしろ暴力になるという苦い現実。殴る女が登場する「骨をまく夜」は、殴り殴られる関係を、寓話的でありながらリアリティのある筆致で描いている。
 憎悪。はじめてわたしのなかに憎しみが沸きあがり
 激しく荒れ狂うのを感じた
 それは噴出されなければならない
(「骨をまく夜」部分)

 「わたし」は、恋人の作る音楽に、生きる希望のように惹きつけられる。しかしながら、恋人の存在は「夫」や殴る女に比べて影が薄い。読者に向けては、音楽家であり、楽器を弾く人ぐらいしかわからない。
 ざわつく気持ちが静まり音楽のなかに分け入っていく
 わたしは身体に触れることなく
 彼を感じることができた
(「西日のあたる部屋」部分)

 「わたし」は、家を出て「新しい夫」と暮らすことをくりかえし夢想し、日常から遁走しようとする。しかしながら、ことはそう簡単ではない。新しい夫や恋人はなぜか不在がちである。「わたし」は男の部屋で帰りをじっと待っているが、目の前にようやく恋人が現れるという瞬間、「わたしの意識はオフされ/装置としての眼が起動モードに入ってしまう」。「わたし」の願いは果たせず、装置の一部品として組みこまれた眼になってしまうのだ。
 幸福や愛と呼ばれるものの酷薄さを認識しながら、「わたし」はけっしてあきらめない。読者を魅了するのは、状況を正確につかみながら、希望を捨てずに何度でも再生しようとする「わたし」の強い意志である。このしたたかな生命力。未来にきっとあるはずの「破格の再生」を信じて、このように語るのだ。
 男たちの身体がわたしに
 危害であり試練であるものをくわえる
 わたしは若く
 それを記憶しておこうとは思わない
 心を閉ざして過ぎていくのを待ち
 男の腕からこぼれ落ちて
 別の腕のなかで再生する
 しなければならない
(「その朝」部分)

 この「破格の再生」がついに成功するのは、詩「生きる力」においてである。行の運びもリズムとスピード感があり、やま場で力強くドライブがかかり、柔らかく着地するエンディング。わたしの最も好きな詩である。この詩で、詩人がこれまでくりかえし書いてきたことを、すべて十分に言い切ったという感がある。ここには恋人は登場しない。「わたし」は独りで家を出ていき、独りで帰ってくるだろう。 父でもあり夫でもあるような、年老いた「あなた」。出ていく「わたし」が小枝を踏むピシピシという乾いた音は、「あなた」の干からびた骨の崩れる音でもあるだろう。
 あなたの語った夥しいことばが外からどんなふうに見えるのか
 どうしても知りたかった
 わたしたちのことばが屑でしかない場所で
 それでもまだ星のような輝きを放つだろうか
(「生きる力」部分)

 人は夥しい言葉によって育てられ、いつのまにか我が身の血肉となっている。しかし、現代という今は、過去に与えられた言葉が「屑」でしかない場所なのであり、わたしたちはそこにいやおうなく生きねばならない。そのときになおも輝く言葉とは、どんな言葉だろうか。詩人は自らと読者にそのことを問いかけているように思える。
ほんとうの言葉を獲得したとき、人は初めて故郷に立ち戻ることができるのだろう。そのとき人はどのように再生しているのか。「わたし」はまだ家を出たばかりだ。そのあとの人生のすべてを想像し終えて、最後に帰ってくる自分の姿を思い描く。小枝を踏むピシピシという音が聞こえる。そして、だれもいない家にたたずむときの気持ちを、このようにまっすぐな言葉で、シンプルに表現し終えるのである。
 自分の身体が今ここにあるということに単純に感動し
 そのことを少し哀しいとわたしは思うだろう
(「生きる力」部分)


須永紀子さんの作品は、 "rain tree"vol.8と、HP「雨期」で読むことができます。

『楽園』 田村奈津子 2002.10.11 あざみ書房 1500+E


2001年10月11日に40歳で亡くなった田村奈津子の第6詩集。といっても、闘病記のような類のものではない。1部に、亡くなる前の2年ほどに書かれた短い4篇と、2部に、病気が見つかる前、1995年ごろに集中的に書いた、ある方法論を持った9篇で成り立っている。
この詩集には、世界と宇宙を見渡そうとする詩人の、たくさんの発見と驚きが凝縮された形で詰まっている。世界のもつれたネットワークが、言葉という不思議な暗号に秘められ、解読を待っている。謎を解くのは詩人だ。詩人は「からだにたまった言葉を伝えるのが仕事だから」(「TAROT」)。そして、北園克衛や西脇順三郎や、ブルトンやヨハネス・ケプラーやエリック・サティが、田村奈津子のあやつる糸に導かれるようにして、忽然とスリリングに姿を現すのだ。
「木曜日」という詩では、こんなふうに現れる。

木曜日
      田村奈津子


9月14日
木曜日
目黒のKアトリエで
ポエトリー・パフォーマンスの打合せ中
サティ好きの音楽家N氏は
侘び茶を入れながら
耳新しい響きを待って
騒音を愛しんでいた
(声には風景が眠っている)
そんなことを考えながら
藤富保男氏と島田璃里さんの
朗読会で
スライドのスイッチを押すために
銀座に走る
一分に一回
『パラード』の連弾にあわせて絵を替える
かつて出会った
詩人と作曲家と絵描きの
背きあった想いが
梨の形の浮きになって
歴史の海に漂っている
「一世紀毎と瞬時の時間」
藤富氏の大きな声は
パリの禿げ頭をからかいに
時空を超えて飛んでいく
フォーブール・サン=マルタン通りで
エリック・サティが
親愛なる友ジャン・コクトーに
ピカソが『パラード』について
アイディアを持っていると
葉書を書いたのは
16時37分
1916年
木曜日
9月14日

『楽園』に挟まれた栞の藤富保男の文章はただの跋文ではない。この師にしてこの弟子あり、というか、田村奈津子のシンクロニシティ思考が乗り移ったみたい。日常に凝り固まった頭が、ゆるゆると柔らかく解きほぐされていく。
田村奈津子は生前、藤富保男を囲む詩の勉強会COLOURの会に、色鉛筆に付いてのエッセイを提出しているが、藤富氏によると、コクトーがカンヌのギャラリーで初めて色鉛筆の展覧会を開いたのは、偶然だが、田村さんが生まれた年で、月も同じ1961年7月だそうだ。そして、近年になって、藤富保男はフランスのミイィ・ラ・フォレのコクトーの墓を訪ねる。なんということか。文章の締めくくりを引いておく。
「コクトーはここで心臓の発作で亡くなったのである。その日は10月11日。田村奈津子も同じ日に。」

楽園
        田村奈津子


雨上がりの土に
張りついた葉っぱ 刻まれた靴跡
蝉は抜けたばかり
わたしは抜けかけたばかり
細い水をわたると
鶏の声 遠くなり
ここは中間 透明な森
生きていて そして 死んでいる
死んでいて あるいは 生きている
呼吸が長くなり
永遠 という音が
木漏れ日のように降ってくる
咲きかけたハス色に 胸の扉が開き
手のひらから 自由に



 「中間 透明な森」とはどこか。わたしはあの世というものを信じていない。では田村奈津子は今どこにいるのだろう。彼女の魂は、この世界のあらゆる場所に、抜けかけた蝉のように薄い羽をまとって、遍在しているのではないだろうか。わたしたちが注意深く森羅万象を見れば、そのしるしは、きっと彼女の愛した言葉によってもたらされるだろう。
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