おもしろかった。詩を中心にした本なのに、読み終えて、「もう終わったのか」と言う気分にさせられた。私も詩を書く一人であり、詩に関する本もある程度読んでいるつもりだが、こんな、終わるのがもったいないと言う気分になる本にはめったに出合えない。詩以外だと時たまあるんだけどね。開高健の「オーパ」だとか、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」とか、山口瞳の「男性自身シリーズ」とか。(それにしても古いね。)だいたい、詩の世界はマジメが幅を利かせており、重みが尊しとされ、口語自由詩などと言いながら、私の感ずるところでは口語不自由不詩とでも言うべき情況を呈している。自分の意識下でぼんやり感じていたそんな思いをこの「春・夏・秋・冬 ふしぎ、ふしぎ」は照らして見せてくれた。
では、「おもしろい」ってなんだろう。考える前に、広辞苑(第5版、電子辞書)を引くと、「@気持ちが晴れるようだ。愉快である。楽しい。A心をひかれるさまである。興趣がある。また、趣向がこらされている。B一風変わっている。滑稽である。おかしい。」とある。ちなみに、「目の前が明るくなる感じを表す」のが原義で、「目の前が広々とひらける感じ」というのが全体の意味であるようだ。そうか。「面白い」という漢字を当てるのをふしぎに感じていたが、これで少し「なるほど」に近づいた。
閑話休題。私が感じる「おもしろい」とは、まず「発見」である。知識であれ、視点、考え方であれ、「へえ、知らなかった」、「え?はあはあ、なるほど!」と膝をたたきたくなるようなことがらは十分に刺激的で、おもしろい。実ははじめ、詩の解説より中上氏自身のエッセー風の文章が多く、アレッと思ったのだが、読み進むうちにそちらのほうを楽しむようになってきた。なにより、季節と季節をかざる動植物、昆虫などの話が楽しい。中上氏はナチュラリストだ。ナチュラリストとは自然と上手に遊べる人のことだと思う。また詩についても目を開かせられた。辻井喬氏の「喪失」にまつわる創作の苦心、かべるみ氏の次の詩ではいつの間にか硬直してしまった私自身の感受性を知らされた。
一月の空
かべ るみ
息をふきかけながら
みえない手が
空を
いっしんにみがいている
たちのぼるたくさんの夢
空はどんどん高くなる
高みの深みをおしはかることはできないのに
足もとからもう空は始まっている
澄みわたっていく大気
街のかたちがあらわになっていく
あそこのビルの上のほう
みがかれた空に
こびりついたように雲がうごかない
あれはきっと
わたしの頑固な夢のひとつにちがいない
詩集「十姉妹」(1995年)より
それから、「おもしろい」とはやはりユーモアやウイットに感じる心の声だろう。中上氏の文章は話しているときの口調と同じで、急がず、偉ぶらず、照れくさそうで、少しくびれていて、少し皮肉っぽい。(「やれやれ」と「桑原桑原」がそれぞれ2回ずつ使われている。)それらがないまぜになって、どこか哀感のあるほほ笑みめいたものがたちのぼってくるのだ。イヤ、こう書いても具体的には伝わらないかもしれない。どうぞ、買って読んでみてほしい。
私が感じたのはこれだけだっただろうか。いや、まだある。それは、著者の詩に対する姿勢だ。そして、私はそれに共感するところがあったのだ。たとえば、現代の詩は長すぎるという意見(「あとがき」に代えて)、ポエジーとは哀愁である、という西脇順三郎のことばを含んだ「落ち葉の詩学」にみられる季節と詩の関係性など。そしてなにより載せられた48の作品に、中上氏が詩に何を求めているかが表れていると思う。私にとっても「いいな」と思えた詩群の中で、さわやかに、強烈にほほをなぶって過ぎていった一篇を紹介して締めくくろうと思う。
有頂天 秋山基夫
電話のむこうで
あなたの声が
シャワーのように
とびちり
きらめいて
とたんにわたしは有頂天
もうなにがなんだかわからない
あなたのわらい声のシャワーをあびて
キラキラ光るしずくをはねちらし
夏の表通りをつっぱしり
電車にとびのり
電車の中を嵐のように吹きぬけて
風のゆくえは
誰にもおしえてあげません
詩集「キリンの立ち方」(1998年)より
中上哲夫著『春・夏・秋・冬 ふしぎ、ふしぎ』\2000E
(帯文より)こころに響く、12ケ月の詩 詩人・中上哲夫があなたに贈る詩のカレンダー
谷川俊太郎、辻征夫、白石かずこ、飯島耕一、辻井喬ほか
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