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vol.28
<詩を読む>
 

何度でも生きるために

中上哲夫『エルヴィスが死んだ日の夜』を読む

関富士子
 詩集にはさまれていた中上さんの手紙の一節に、こんな言葉があった。
「自分の詩集を読み返して、つくづく愚かしい生涯だったなと思います。そう思うことは、ちょっとさびしいです。」
(私信なのに引用しちゃってごめんなさい。中上さん。)
 「愚かしい生涯……」わたしは、その言葉に胸をつかれて首をふった。そんなことはありません。中上さんはすばらしい詩人です。わたしは中上さんの詩が大好きです。翻訳のよい仕事もたくさんして、愛する妻と娘と幸せな家庭を築き、いつも若若しくハンサムで、わたしのあこがれでありつづけている。ときどき釣りに誘ってくれて、駄洒落を連発して楽しませてくれる。なぜ、彼は自分の人生を「愚かしい」などというのだろう。まさか、謙遜しているつもりじゃあるまい。
 『エルヴィスが死んだ日の夜』は二十世紀の最後の夏から始まる。

背中を朝陽に灼かれながら港町の長い坂をのぼっていくとき、わたしはいつもマサチューセッツ州ロウエルの夏の早朝に職場に向かう鉄道員のような気持ちがした(「アイルランド娘と結婚して、子どもをたくさんつくるのだ」)。
(「二十世紀の最後の夏はこんな仕事をした」より)

 中上哲夫は以前「靴屋」になりたかったという詩を書いていたと思うが、今度の詩集の中には「バーテンダーになりたかった」という詩もある。マサチューセッツ州の「鉄道員」になってアイルランド娘と結婚する人生もいいかもしれないが、六〇歳を過ぎて!、いまさらなりたかったと言っても遅い。中上さんが自分を「愚かしい」というのはこのことだろうか。

産業革命のときのイギリスの少年のような
実働十二時間の
寒風のなかの立ち仕事
こんな日の夜
( A Hard Day's Night)
ひとはいったいどのように振る舞うのだろうか

「生涯で最悪の日」より)

 彼はこのころ、道路工事や学校の守衛など、さまざまなアルバイトをして生活していたようだ。以前リストラにあって定職を失って以来である。
 人が職業に就いて一定の収入を得、家族を養い、社会組織の一員として生きていくこと。ごくあたりまえの平凡な人生のようだが、これはじつはたいへん難しいことだ。少なくともわたし自身は、長年働いてはきたが収入はいつも不安定である。男性なら、社会のレールに乗ってしまえば安定した生活は可能なのかというと、今はそんな時代ではなくなっている。リストラはいつだれの身にふりかかるかわからない。

解雇された人間は
だけど人間というよりも
むしろ無理矢理箪笥からはぎ取られ
窓から放り投げられた板切れ

いかなる箪笥もいつか壊れるとしても

(「板切れに関する三つのパート」より)

 なりたかったどんな職業にもなれず、詩人になってしまった人は、その人生においてどんな仕事をするのだろう。

 わたしは呪縛された数百の窓をひとつひとつあけて歩いた。校舎は新鮮な空気を肺いっぱい吸いこむと、古い空気の塊をぷっと吐き出した。そしてぶるぶるっと身を震わせた。床に薄くつもった埃たちがマリンスノウのように舞い上がった。わたしは杖を持たない魔法使いだったのさ。
「二十世紀の最後の夏はこんな仕事をした」より)

 「けもののようにひっそりうずくまっている」女学校の校舎に息を吹き込む、これこそまさに詩人の仕事ではないか。あの退屈極まりない女子ばかりの高校の、ぬるいプールのような夏休み、思春期のさまざまな感情で窒息しかけた教室の窓を、次々に開け放っていく男の影が見える。彼はヒマラヤ杉の下で瞑想し、ギンズバーグの詩でわたしたちに新しい呪いをかけるのだ。閉塞した心を世界に向けて解放する。詩人とはなんとすてきな仕事ではないか。
 あるいは、尾形亀之助のように、働かないで無為に生きることが、詩人の仕事なのかもしれない。巣穴の中の働き蟻に混じって存在するという、少数の何もしない蟻のように。しかしながら、働かない蟻でいることもまた困難なことだ。

雨戸の節穴から朝の光が斜めに射し込んでいるのだけど
目覚めているのか夢を見ているのか
はたまた生きているのか死んでいるのか
亀之助にはもうわからないのだった

(「尾形亀之助はそうとうへんなひとだと思う」より)

 もしかしたら、亀之助も現代の医者にかかったら、鬱病と診断されていたかもしれない。「へんてこな所がほとんどないわたし」(「再発」より)である中上哲夫もじつは、長いあいだ鬱の淵をさまよっていた時期があった。その劇的な回復を、詩人はこのように書いている。

ブラインド・ウオーク
   偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる――赤黄男

二十世紀が終わるという年の
ある秋の日の午後の
港町の雑踏を歩いていたとき
突然
空から大きな沈黙が墜ちてきて
失神してしまった
(まるで空気の塊だった)
気がつくと
わたしは無人の広場のまんなかに立っていたのだった
ちいさな水溜まりが足元にあって
まさにいま海から上がってきた男のような
ずぶぬれの鼠
あるいはたびたび岩礁にぶつかった傷だらけの貨物船
体のあちこちが悲鳴をあげていたけれども
しつような耳鳴りはどこかへ飛び去っていて
きゅうくつな服をぬぎすてたときの
解放感を味わっていた
そして
ふり返ると
鳥のように舞い上がることもなく
マッチ棒のように燃え上がることもなく
夥しい数の蝙蝠傘が道端に倒れているのが見えた
ああ、なんという生涯なのだ
という声が空の方でしたけれども
通り過ぎたことだ
と思った
両腕を前に突き出した
へっぴり腰のそろそろ歩き
もうあの滑稽な歩き方をすることはないのだと思うと
大道をゆくウォルト・ホイットマンさながら
身も軽く心も軽く
わたしは急勾配の坂道をのぼり始めたのだった
時じくの雪をつめたいとも思わず


 彼はこのとき、鬱の淵から回復したのだと思う。それは死にも至りかねない危機だったかもしれない。生還するとはこういうことかとも思う。長い間、ブラインド・ウオークのように「両腕を前に突き出した/へっぴり腰のそろそろ歩き」をしていた人の頭上に、突然「大きな沈黙」が落ちてきて失神する。目覚めると、ずぶぬれで傷だらけの自分自身の姿と、その生涯がくっきりと見える。「夥しい数の蝙蝠傘が道端に倒れている」光景。それこそが彼の生涯だ。ぞっとするような荒涼たる人生。それをついに見てしまった。しかし「通り過ぎたことだ」と言って、彼はすべてを受け入れる。苦しみながら病から回復して、生の本質を認識すること。その精神と身体の激しい極限の変化を、 このように表現した詩人をわたしは知らない。
 この詩集のなかほどには、父や母、兄などの家族を描いた詩が収められている。そこには戦後の昭和という時代を生きた人々の姿があって、読むものの心を懐かしさでいっぱいにする。家族の記憶は、人を生涯にわたって支えるものなのだろう。記憶そのものが、生きることを強く肯定しているのだ。
 詩はだれのためでもなく自分が生きていくために書かれる。書くことそのものが生きることに直接つながる。それが詩だ。「いくら書きつづけてもけして読まれることがないのだ」(「未明に訪れる者よ」)と思いながら疲れて眠ってしまう詩人のもとへ、毎晩「世界でただ一人の大きな頭の読者」がやってくる。詩のなかでは、詩人は「男」、読者のほうは「かれ」と表記されていて、うっかり読むと二人は入り乱れてしまう。でもそれでもいいのだ。読者は詩人のもう一人の自分だ。詩を書かせ、生き延びさせるのはほかでもない自分自身だが、それは決して愚かしいことでもさびしいことでもない。
 詩集の最後の詩「贈物として差し出された一日」を読むと、わたしの記憶のなかの一日、ある年の秋の初めの永池川を思い出す。いつも釣りをしないで川原の野草を撮っているわたしは、ちょうど釣り道具を忘れてきてしまった中上さんを誘って、ススキとセイタカアワダチソウの咲く川原を二時間ばかり散歩した。そのときのことを、二人の会話も含めて「野原を行く」("rain tree"vol.14)という詩に書いたことがある。あれは確かに、だれかからの贈物のようなすてきな時間だった。
 生きることはだれにとっても困難なことにちがいない。そして、それは愚かしさの連続であるのかもしれない。しかし、人生には、思いがけない贈物のような至福のひとときが必ず訪れる。詩人は、その一瞬を見過ごすことなくしっかりと受け留めて、言葉にするのだ。夜毎訪れる「世界でただ一人の」読者に、贈物として差し出すために。


中上哲夫詩集『エルヴィスが死んだ日の夜』 2003年10月25日発行
ネット注文 書肆山田刊\2000E

この文章を書いている最中に、『エルヴィスが死んだ日の夜』が第34回高見順賞受賞の知らせがあった。中上さん、おめでとうございます。これで急に売れっ子になることはないと思いますが、ともかくよかった。実はわたしも最終候補に上がっていたようなのだが、中上さんが受賞なら、まあ、いいとするか。わたしにはまだ将来があるからね(^^;)。(関)

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