
vol.28
「植物地誌」
オランダミミナグサ
カヤツリグサ
キクラゲ
ハス
植物地誌
オランダミミナグサ
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短い午睡に目覚めて、腕をベッドの脇に静
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かに下ろすと、あなたの指先に触れる軟らか
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い越年草。
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全体が淡緑色で花弁の切れ目が少し深い。
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目覚めを待っていた茎に灰黄色の軟毛と腺毛
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が生え、楕円形の葉の両面にも密生する。ベ
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ッドの脇の往来の埃臭い道端などに生える。
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その感触を確かめて、あなたのまぶたがふた
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たび閉じる。
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指で茎の下部をつまみ上へ滑らせると、動
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きとともに葉が緩やかに反る。付け根に触れ
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るとくすぐったいのか、大急ぎでぱたぱたと
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叩く。指を引いてみると追いかけるように背
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伸びをして再度愛撫を促す。
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茎は高さ30cm。果実は熟すと先に穴が
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あき、周りに10本の歯が並んで指を噛み、
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種子を吐く。
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寝室のドアの向こうに立つ者を警戒して、
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ノブを回すかすかな気配にも、葉を窪ませて
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いっせいに音の方へ向ける。ドアが開かれた
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ときには、ベッドの下に伏していて姿は見え
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ない。
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カヤツリグサ
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夏の終わりの、ひとけのない河川敷に爆け
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る。祝福のための三角の花火。
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それぞれ長さ2、30cmの花柱を一本打
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ち上げて、川原をさまよう者の膝の辺りを祝
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福する。膝はがくがくと崩れ落ちんばかりだ
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が、辛うじて上体を支え、さらに叢を分け進
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もうとする。
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茎の断面は三角形。頭柱は三つ又で3枚の
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細長い二つ折りの火花が流れる。むき出しの
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ふくらはぎが鋭く切られて、血がみるみる噴
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き出す。これはいったい何の祝福か。だらり
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と下げた両腕も筋状に血が滲んでいる。さま
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よううちに転んだのか、頬や首筋も無残な切
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り傷がある。
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頭柱の三つ又の中央に伸びる10本ほどの
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短い穂茎はさらに三つに分枝し、それぞれに
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金色の小さな火花がチャッチャと爆発する。
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実は三面体。河川敷いちめんが祝福の花火で
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埋め尽くされ、流れまではまだ遠い。
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キクラゲ
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広葉樹の、枯死した木管楽器に群生、また
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は孤生する集音器。倒れて朽ちた木でも、木
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管であればよく展着する。耳たぶは膠質で脈
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状のしわがあり、外面は赤褐色である。鳥の
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叫び声、岩場を行く足音、落ち葉のかさつき、
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獣の喃語、せせらぎの音。どんなかすかな物
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音も集音器によって漏らさず拾われ、木管の
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体内の、虫や鳥や小獣によって穿たれた空洞
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にみちびかれる。耳たぶは食用菌。胞子は腎
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臓形で4室に分かれた円筒形の小部屋にそれ
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ぞれ付く。
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死んで耳たぶを生やした木を見つけたら、
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そのそばにたたずんで自分の耳を澄ますだけ
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でよい。水が一滴したたる音が、風とともに
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洞をめぐり渦を巻いて増幅され、幹の穴から
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美しい音色となってふたたび聞こえてくる。
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長いあいだ死に続けて、朽ちた枝や幹の全身
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に、集音器を展着させた巨木もある。たくさ
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んの耳を八方に傾け、あらゆる物音を聞いて
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いる。強い風が吹く夜には、木管楽器の体内
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に森じゅうの音声が集まって、渾然として深
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深と重なりあい、幹から吹きだして辺りに交
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響する。その音楽は、森からはるかに遠い街
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でも、眠る人の耳に一晩じゅう鳴り続けてい
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る。
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『詩学』2003.12月号より
ハス
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多年生の水草。肥厚した長大な地下茎があ
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る。湿地に溜まった水がいちめん泥色に黒び
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かりする。みすぼらしく破れた葉のあいだで、
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ひとりの男が膝まで水に浸りながら、かがん
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で両腕を泥の中に突っこんでいる。濡れて黒
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びかりするゴム手袋と防水ズボン。男は上体
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を折ったまま辛抱強く水の底を掘るが、掻く
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そばから土が流れこむ。地下茎の先端に太っ
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た蓮根が育っているはずだ。埋まったゴム長
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靴を抜こうとして、粘る泥濘に足を取られ、
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水の中に頭から上半身を突っこんだ。凍えき
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って手足はとうに痺れ、泥人形のようにぎく
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しゃく起きあがる。重くこびりついた泥が、
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彼の全身を骨まで冷やす。
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初夏の湿地で、男は毎晩泥棒を見張った。
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一夜で湿地じゅうの花首を斯き取られたこと
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がある。鉄パイプで囲いをめぐらせ、足場の
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板を載せて全体を見渡せるようにした。板に
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寝そべると、背中のすぐ下に緩やかに広がっ
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た葉が、涼しい風に白い裏地を翻す。幾本も
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伸びたウテナの先に、花は径15cm。朝に
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はぎっしりと詰まったフリルを広げて日にあ
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てるが、夜にはすべて慎ましくきちんと畳ん
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でいる。深夜についまどろむと、楕円形の大
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きな蕾が、長いウテナを男の足首にゆるゆる
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と巻きつけてくる。花床は蜂の巣状の倒円錐
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形。その穴に引きずりこまれそうになりなが
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ら、男は冬に恵まれるはずの蓮根を夢みた。
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彼の地下茎は長く大きく肥厚して、見事に縊
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れ、すばらしく固く膨らんでいた。
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『詩学』2003.12月号より
<詩を読む>何度でも生きるために(中上哲夫詩集『エルヴィスが死んだ日の夜』を読む)(関富士子)へ
<詩>反射光(関富士子)