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 2016年11月の独想録


11月12日 エゴ(煩悩)を原動力としない
 本題に入るまえにひとこと。
 私の体調不良を気遣って、励ましやアドバイスや情報といった無形のものをくださったり、あるいは有形のものをくださる方がおられます。ありがたいことです。先日も匿名の方から、素敵なものを送っていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
こうした方々は、二重の意味で私を支えてくださいます。ひとつは文字通り、その無形有形のものであり、もうひとつは、何の利益にもならないのに、貴重な時間や労力やお金を使ってこうしたことをしてくださるという、その行為そのものです。
 つまり、「世の中にはこんなにも親切な人、優しい人が存在しているんだ」という、そんな思いが、私に希望を与え、支えてくださるのです。人間を信用できるというか、そういう思いですね。それが私におおいなる力を与えてくれるのです。心から感謝です。

 さて、では、本題に移ります。
 むかし、NHKで面白い番組をやっていました。
 それは、高僧と呼ばれる人が座禅をしているときの脳波を測定するというもので、どの人もアルファ波という、きわめて落ち着いた心境を示す脳波を示していました。ここまでは、よく聞く話で意外なことではないのですが、ここからが番組の面白いところなのですが、座禅をしている高僧の前に、いきなり蛇を目の前に投げ込んだり、水着姿の美女を歩かせたりしたのです。そして、脳波がどうなるかを実験してみたのです。
 すると、どうなったと思いますか?
 脳波は少しも乱れなかったと思われますか?
 実験では、蛇が目の前に投げ込まれたり、水着姿の美女が通ったとき、脳波が乱れたのです。これは修行をしていない人も同じでした。修行をしていない人でも、しばらく座禅をすると、アルファ波の脳波になります。そして、目の前に蛇や美女を見ると脳波が乱れアルファ波が破られてしまうのです。
 ところが、高僧はすぐにアルファ波が回復しました。脳波が乱れたのは一瞬だけでした。それに対して、修行をしていない普通の人は、長いあいだ脳波が乱れたままだったのです。
 脳波がイコール悟りの境地を示すとは考えられませんが、端的な状態を示していることは確かではないかと思います。
 つまり、悟りを開いた人でも、何か異変が起きれば、凡人と同じように驚いたり心が乱れたりするようなのです。ところが、それは一瞬のことで、次の瞬間には静謐な境地に戻っているわけです。
 悟りを開いたからといって、何が起きてもまったく動揺しないというわけではないようです。もしそうだとしたら、単に鈍感で神経系統が麻痺しているとしか思えません。人間としての感動といったものも、感じないということでしょう。悲しいことがあれば悲しみを感じるでしょうし、悪口を言われれば不愉快に思うでしょう。喜怒哀楽は普通の人と同じように感じるはずです。しかし、それは非常に短い時間なのです。
 悟った人は、その気持ちを引きずらないのです。否定的な感情をいつまでも心のなかに保つことはないようです。そのために、とらわれがないというか、あっさりしているというか、飄々としている、ときにはクールに見えるようです。
 悟ったからといって、人間的な感情をもたない、ロボットのような人間になることではないわけです。むしろ、ある意味では、とても人間味があったりします。
 けれども、感情に振り回されて、取り乱すということはしないわけです。このへんはとても微妙だと思うのですが、この微妙な違いが、覚者と凡人の大きな違いということになるようです。人間的でありながらきわめて冷静。冷静でありながらあたたかいハートを持っている。ある意味、こうした矛盾したものを持っているのが、おそらく覚者だと思います。
 いずれにしろ、私が出会ったなかでは、ヒステリックに感情的になったり、怒り狂ったり、泣きわめいたりする人で、霊性が高いと感じた人はひとりもいません。弟子に対して、「叱る」ことはあっても「怒る」ことはしません。必要に応じて「活を入れる」ために、ピシャリと刺激を与えることはしますが、粗暴になることはありません。
 その人がどのくらい悟っているか、霊性が高いかを調べたければ、その人を怒らせるような言動をしてみるのが、一番早いかもしれません。そのとき、怒りで取り乱したり、粗暴な言動で返すようであれば、まずその人は悟っているとは言えません(ただ、実際にこのような形で相手を試すのはお勧めしません。参考程度に思ってください)。
ネガティブな感情のことを、仏教では「煩悩」と言っています。怒り、おごり、無知というのが三大煩悩とされていますが、やはり怒るというのは、煩悩にとらわれている証拠であって、つまりは、それだけ悟りから遠いということになるわけです。また、おごることも煩悩ですから、おごり高ぶる人は、やはり悟りから遠いとも言えるわけです。だから、悟っている人は謙虚です。それも、わざとらしい謙虚さではなく、むしろ自然体とも言うべき謙虚さがあります。

 このように、一般的に覚者は、感情的になることなく、執着もないので、淡々としているというか、飄々としている傾向があり、謙虚で飾らないので、いわゆる世間的な感覚でいう「いかにも偉そう」という感じには見えないことが多いように思います。一見すると、ごく平凡に見えるかもしれません。そのために、ときには馬鹿にされたり、なめられたりすることもあるかもしれません。とかく世の中は、表面的な虚像だけで人を判断することが多いものですから。たとえばイエスなどは、大衆から「あいつは単なる大工の息子にすぎないじゃないか」(当時、大工はどちらかというと卑しい職業と見なされていた)などと馬鹿にされていました。
 そうした世間の虚像に目をくらませられることなく、本質を見抜く目を持った人だけが、覚者の非凡さを理解することができるわけです。
 覚醒していない人はエゴ(煩悩)によって支配されています。エゴは常に「他の人より偉くなりたい(見せたい)」、「ひとかどの人間になって人々から賞賛されたい」という欲望を持っています。そのエゴを満たすために、権力を欲しがったりお金持ちになろうとしたり、有名になろうとするわけです。それが物質的な世界で発揮されるのならまだしも、宗教的な世界で発揮されると偽善的になります。つまり、エゴゆえに教祖になったような人たちです。
 教祖になろうと思って教祖になった人というのは、絶対とは言いませんが、たいていはニセモノだと思います。それはエゴを原動力としているからです。
 しかし、真の教祖になる人というのは、教祖になることが目的ではなく、人を助けることが目的で一生懸命に努力していたら、いつのまにか教祖になっていた、という人ではないかと思います。この場合の原動力は愛です。エゴではありません。エゴではなく、愛を原動力として、教祖なり、何らかの指導者になった人こそが、本物であると思うのです。
 エゴを原動力として活動した場合、確かに権力やお金を手にしたり、有名になりやすいといえるでしょう。なぜなら、この世はエゴが支配しているからです。しかし、エゴを原動力として活動しても、真の幸せを得られるとは限りません。というより、それは難しいと思います。なぜなら、私たちの本質(魂)は、愛が得られたときにこそ幸せを感じるようにできているからです。エゴと愛は同居できません。エゴがあるとき愛はなく、愛があるときエゴはありません。
 したがって、この世的な虚栄ではなく、本当の幸せをつかむためには、言い換えれば、真に霊性を高め、覚者になるには、エゴではなく、愛を原動力として、日々努力していくべきではないかと思うのです。

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