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 2016年2月の独想録


 2月20日 健康寿命について
 私のうつの状態は、新薬エビリファイでずいぶん楽になり、その結果、精神安定剤の減薬も一日1錠くらいにまで減らすことができた。気分のひどい落ち込みもなくなり、病状は底を打って回復へと向かいつつあることは確かなようだ。しかし、完全治癒までには先は長そうである。というのも、何かを長い間集中して行うことができないからだ。本を読んだり軽作業をしたり、ドライブなどをしても、1、2時間もすると具合が悪くなり、その後はしばらく横になるか、翌日になっても具合の悪さを引きずることがある。また、あいかわらず不眠は改善されていない。明け方まで眠れないとか、あるいはすぐ眠れても深夜や明け方に必ず二度は目が覚めてその後は睡眠が浅いという日が、ここ3年以上、一日も欠かさず続いている。そして朝起きたときに、何ともいえない疲労感が伴う。それは健康な人が覚える疲労感ではなく、「生きるのに疲れた」ような感覚を伴う疲労感なのだ。
 とはいえ、以前は何も活動することができず、一日の大半を横になって過ごしていたことが多かったときと比べれば、たとえ1、2時間でも活動できるようになったこと、また、活動しようという意欲が出てきたことは、大きな進歩であると思う。
 ここまで回復できたきっかけを作ったのはエビリファイであるが、それだけでなく、他にも健康によいとされるさまざまな試みをしていたことも大きかったであろうし、読者の皆様からのあたたかいご支援や声援にも支えられていたことは間違いない。
 ただ、まだ薬を服用しているということは、本当には治っていないということであり、もしエビリファイの服用をやめたら元に戻ってしまうというのであれば、今の調子よさというのは、薬が作り出した、ある種の幻想ということになるのではないだろうか。今後の課題は、エビリファイの服用を減らしていき、何の薬も服用していなくてもひどいうつ状態にならないことになるかと思う。

 ところで、こうしてうつを治すために、毎日のようにインターネットから情報を集めているが、そのおかげで、うつだけでなく、健康に生きるにはどうすればいいかという知識を、かなり蓄えることができたように思う。
 そんななか、ちょっと気になる情報が目にとまった。
 それは「健康寿命」についてである。最近よく耳にする言葉なので、ご存じの方も多いと思うが、これは健康で生きられる寿命ということだ。いま日本の平均寿命は、男性が約80歳、女性が約87歳である。定年は60歳であるが、政府は65歳まで定年を延長する方向で検討しているようなので、仮に65歳まで働いたとしても、男性は定年から15年間、女性は22年間の余生があることになる。これはそこそこ長い年数である。
 ところが、健康で元気に生きられる年齢(健康寿命)は、男性が71歳、女性が74歳で、それ以降は介護などの助けが必要になる可能性が高いという。つまり、定年後、健康で元気に生きられる期間は、男性で6年間、女性で9年間ということになる。
 これは、ほんのつかのまの時間とはいえないだろうか。
 定年後は(経済的にゆとりができて)自分の好きなことをして悠々自適な生活を送ろうと、楽しみに考えている人もいるかと思う。旅行に行ったり、趣味に没頭したり、いろいろなことをしようと。だが、そうできる期間は、男性の場合、わずか6年だけなのだ。今までずっと会社務めをし、嫌なことがあっても苦しいことがあってもじっと我慢し、好きなことがあってもやらないで辛抱し、ようやく定年を迎え、「これから好きなことをどんどんやるぞ!」と思っても、その期間はわずか6年。6年なんてあっというまに過ぎてしまう。人生の大半は、好きなこともやれない不本意な辛い生き方をしていたことになる。しかも、若いときのように何でもできるわけではない。体力は落ちているから、できることも限られてくる。若いときの6年と、老後の6年は違うのだ。
 それでも、定年後に好きなことができる人は、まだ恵まれているともいえる。現実は、貧困に苦しむ老人が急増している。大企業の役員クラスか、公務員で定年後の生活保障が充実しているか、親から大きな遺産をもらったといった人以外は、定年後も働かなければならない場合が多い。
 さらに追い打ちをかけるように、働けなくなって介護が必要になったとしても、お金がなくて介護施設に入れない場合が出てくる。先日、そういうことに詳しい人と話をしたのだが、介護が必要な人は非常に多く、そのため民間企業はせっせと介護施設の建設に乗り出しているのだが、いざ介護施設を建てたものの、入居者がいなくてがらんとしていることも少なくないというのだ。なぜなら、入りたくてもお金がなくて入れない人が多いからだという。
 世界経済は、これからますます厳しくなっていくといわれている。とりわけ少子高齢化と巨大な債務を抱える日本の未来は、絶望的ともいえるかもしれない。もはや、金融政策などといった小手先の手段ではどうにもならない状態であり、何の打つ手もないという。政治家たちは国民がパニックになるので口を閉じているが、経済学者の間では日本経済が破綻することは常識になっているようだ。私の友人の兄が、テレビなどにも出演している有名な経済学者なのだが、その人は、日本経済が破綻することは絶対に避けられないと断言している。その未来図は想像するだけでも恐ろしい。これは「予言」などというオカルト的なものではなく、統計から導き出された必然的な結果なのだ。問題は「いつそうなるか」ということだけである。大多数の見解では、すでに目前にせまっているらしい。
 さて、以上のような現実を知って、私は暗澹たるものを感じてしまった。人生というものは、何とはかないというか、残酷なのだろうと。
 大多数の人が、定年後の人生は悲惨なものになることがわかっているなら、好きなこともせず、ストレスのたまる嫌な仕事を定年まで我慢することには、ほとんど意味がないのではないだろうか?
 仕事が好きで生きがいを感じるというのなら、それはよいことだ。そういう人は幸せだ。しかし、好きでもない仕事をいやいやしながら定年後の自由な生活を夢見るというのは、やめた方がいいかもしれない。
 ならば、好きなことがあれば、いますぐにやっておいた方がいいのではないだろうか。どのみちよほどの大金がなければ生活が厳しくなるのは変わらないとすれば、少しくらい給料が下がっても、やりたい仕事ができる会社に転職するとか、あるいは出世などあきらめて仕事はほどほどにし、余暇を作って好きなことをやる。何よりも霊的向上を促す勉強や修行をする。この方が、ずっといいような気がするのだが、どうだろうか? そのような生き方をすれば、定年後にどうなろうと後悔はしないような気がする。
 もちろん、どのような生き方をするべきかは、個人によって違うから何ともいえない。しかしいずれにしろ、後悔のない生き方をするべきであろう。「私はこのままの生き方をして、将来、後悔することはないだろうか?」と、自問してみることが大切だろう。


 2月4日 うつという「最高の修行」
 私のうつとの闘いは続いている。今はインターネットという、情報を集めるには本当に便利なツールがあり、助かっている。むかしは情報を集める手段といえば、主に新聞や雑誌や本、テレビやラジオなどのマスコミだけであった。しかし、マスコミの情報は営利が絡んでいるために正確でないことも多い。たとえば新聞や雑誌などの多くが広告収入で成り立っているので、広告主の会社の不祥事を知ったとしても、それを記事にすることはまずないだろう。その点インターネットは、政治や営利とは関係なく、さまざまな裏情報も入手できる。もちろんそれらのすべてが真実というわけではなく、根拠のないものや嘘もかなりあるだろうが、それでも真実がそこにあったりする。そのぶん、私たちは「情報過多」となり、どれが本当の情報なのか迷うことになる。そのため、本物と偽物とを見極める判断力が今まで以上に求められることになる。だが、それは口で言うほど簡単ではない。

 私も、インターネットでいろいろ調べて、「うつが治ります」と言葉巧みに書かれている、ある治療院のホームページを読み、それを信じて片道3時間かけてその治療院に行き、気功とマッサージと簡単なカウンセリングを受けたが、まったく効果はなかった。少なからぬ交通費と治療代と時間が無駄になった。あるいは、「うつの原因のほとんどは脳への血流不足である。脳への血流を多くすれば、どんなに重いうつでも三ヶ月で治る」という情報商材を見つけた。価格は2万円。宣伝文句を信じて購入し、そこに書かれているストレッチやツボ刺激などをしているが、それほど劇的な効果は今のところない。「どんなに重いうつでも三ヶ月で治る」という宣伝文句の最後に小さな文字で「効果には個人差があり、うつが必ず治ることを保障するものではありません」などと書いてある。これも不発に終わった試みのひとつだ。脳への血流不足がうつの原因のひとつであることはたぶん本当だと思うが、宣伝文句が誇大すぎる。
 他に漢方薬やハーブ、脳内物質ギャバのサプリなどを試したが、あまり自覚できるような効果はなかった。
 このように、いろいろ試していると、それなりにお金がどんどん使われることになる。最初から効果がないとわかればいいのだが、実際には試してみないとわからないことが多い。なので、以上のような試行錯誤的な試みは、たとえそれが期待はずれの結果に終わったとしても、仕方がないことなのだ。それも成功に至るための「必要経費」であり、「授業料」だと考えることだ。何かに挑戦するには、数多くの失敗を経るのが普通だ。エジソンは電球の発明に際して一万回も失敗したというが、彼はそれについてこう語っている。「失敗はしていない。うまくいかない方法を一万回発見したのだ」。エジソンのこの言葉を胸に刻んでおきたい。

 一方、自覚するレベルで効果があったのは、デトックスである。具体的には、スーパー銭湯に定期的に行って、遠赤外線の「岩盤浴」で大量の汗をかくことである。遠赤外線による発汗は、普通のサウナによる外の温度によるものではなく、共鳴現象によって皮膚の深い層にまで熱を生みだして発汗させるもので、深部に蓄積された毒素が汗と共に排出されていく。また、細胞賦活作用や免疫力の向上、自律神経の調整といった効果もある。
 また、腸内環境を整えるのも効果があった。具体的には野菜(特に繊維の多い根菜類)や発酵食品(納豆や味噌、ヨーグルトなど)を摂取し、白砂糖などを極力控えるという食生活をすることである。
 その他、なるべく散歩や軽いジョギングなどの運動をするようにし、ヨガも行い、また入浴のときは最後に水のシャワーを浴びたりした。急激に水で冷やすことにより、副腎皮質ホルモンの分泌を活性化させ、免疫力を高める効果があるらしい。
 こうした生活をすることで、精神安定剤の減薬が思った以上に進んだ。今は1.5錠〜2錠(適量は1.5錠)にまで減薬することに成功した。だが、それ以上の減薬は、なかなか思うようにいかず、足踏み状態が続いている。

 さらに、減薬による禁断症状なのか、それとも、薬によって抑えられていたもともとのうつの症状が出てきたのか、この点ははっきりしないが、気分的な落ち込みは、ある意味で前よりも強くなっていった。健康的な生活をしているので、全体としては改善に向かっているはずなのだが、この気分の落ち込みは実に辛い。特に朝起きたときの気分は最悪で、「もう勘弁してくれ!」と叫びたくなる。あらためて、うつの人が自殺に走ってしまう気持ちがよくわかった。
 しかし、先日、精神科医のもとに行くと、新しい薬を試してみないかと言われた。
 それは、エビリファイ(アリピプラゾール)という薬で、もともとは統合失調症の薬として2006年に開発されたものであるが、2013年にうつ病(特に従来の抗鬱薬が効かないケース)にも効果があることが確かめられた。この薬のユニークな点は、セロトニンやドーパミンといった脳内物質を、従来の薬が抑制するか増強するか、どちらかの作用しかなかったのに対し、このエビリファイという薬は、脳内物質が不足している場合(うつがこれに当てはまる)は増強させ、過剰分泌されている場合(統合失調症がこれに当てはまる)は抑制するように働く。要するに、適量を分泌するように調整する作用があるという(この薬は世界的に大ヒットし、賞をもらい、開発した大塚製薬はこの薬だけで大幅に利益を伸ばし、大手製薬メーカーの仲間入りをした)。
 私は、薬はあまり飲みたくなかったので迷ったが、副作用や依存傾向は非常に少ないというので、とりあえず試してみることにした。
 その結果、意外にも、「もう勘弁してくれ!」というほど最悪の気分がほとんどなくなった。
 もちろん、まだまだ問題が解決されたわけではないが、とりあえず、あの耐え難い苦しみが緩和されただけでも、本当にありがたいことであった。
 そこで考えたのだが、とりあえず副作用や依存性の弱いエビリファイの力を借りて気分を安定させることで、副作用や依存性の強いベンゾジアゼピン系の精神安定薬を完全に断つという作戦で進んでみることにした。
 世間には、「向精神薬は絶対にダメだ」と全面否定している人がいるが、私はそれは極端であると思う。確かに、軽いうつに対してやたらに向精神薬を投与するのは間違っていると思うが、重度のうつの場合や、減薬のための補助的な使い方をする場合などは、それなりに有効であると思う。どうであれ、極端な考え方というのは間違っていることが多い。

 インターネットで、「うつになってよかったこと」という記事が目にとまり、読んでみた。すると、うつに苦しんで回復した人が「うつになってよかったこと」の筆頭にあげたのは、「人に対して優しくできるようになった」ということだった。
 うつに限らず、苦しい経験というのは、がいして人を優しくするものだ。苦しんでいる人の気持ちがわかり、共感できるからである。とりわけ病気の苦しみはその傾向が強いと思う。古代インドの聖典『ウパニシャッド』には、「病気はあらゆる苦行のなかでも最高の苦行である」と書かれている。病気、そのなかでもうつ病は、人を優しく、また強くさせる「最高の苦行」ではないかと思う。
 うつの経験者、また抗うつ薬や精神安定薬の服用者ならよくわかっていただけると思うが、そのような状態のときは頭がよく回らない。記憶力も判断力も低下し、単純な作業ができなくなったり、ミスを多発させてしまう。また意欲が乏しくなり、疲れやすく、何をしても長時間よいペースを保つことができなくなる。
 私はそのために、私と関係した人々から、ひどいことを言われたり、冷たくされたり、意地の悪いことをされたりした。そのためにうつが悪化したことは確かである。けれども、私はその人たちのことを恨んではいない。ほとんどの人は、私がうつであることも、大量の精神安定薬を服用していたことも知らなかったからである。たぶん私は、不器用な人間、やる気のない人間に見えたのだろう。仕方がないことである。以前の私だったら、同じことをしていたかもしれない。
 しかし、うつを経験した今の私は、たとえ不器用な人、やる気がない(ように見える)人に対して、ひどいことを言ったり、冷たくしたり、意地の悪いことをしたりすることは決してないだろう。なぜなら、どのような理由がそこに隠されているか、わからないからである。
 私は、うつの経験を通して、そういう貴重なことを学び、それを血肉とすることができた。地上という場所が「魂の修行の場」であるとするなら、私はうつという最高の授業、最高の修行をさせていただいたことになる。一時は自分の不運を嘆いたが、今は本当に「幸運」であったことがわかる。
 愛を語る人は多い。だが、その人に本当に愛があるかどうかは、当然のことながら、その行動で決まる。

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