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 2016年5月の独想録


 5月26日 愛して後悔することはない

 まず最初に、現在の私のうつの状態について簡単にご報告させていただきます。
 少し前までは、かなり回復して気分の強い落ち込みはほとんどなくなりました。ただ、心身を使う何らかの活動については長続きせずすぐに疲れてしまう状態でした。そのため、体力を鍛えようと、庭の手入れをしたり家の片付けをしたり、散歩をしたり、軽くジョギングをしたり、ヨガをしたりして、少しずつ体力をつけようとしました。けれども、思ったような成果が出ません。少し無理すると翌日に具合が悪くなります。これは体力というより自律神経が弱っているせいかと思われます。それでも、休んでいる限りは回復しないと思ったので、ちょっと具合が悪くても毎日のように鍛えました。ところが、やはり文字通り「無理」は「無理」で、少しこじらせてしまった状態になりました。気分も落ち込み意欲が減退し、からだも重くて、ここ最近はまた横になっていることが多くなってしまいました。症状的には2、3歩後退してしまった感じです。精神安定薬は一日1錠以内でおさめていますが、新薬エビリファイは微量ですが毎日服用しています。なお、この不調の原因は、時期にも関係しているように思います。というのは、毎年きまって梅雨の時期に調子が悪くなっているからです。
 それでも、全体的にはずっとよくなっているので、今の不調も一時的なものと考えています。何事もそうだと思いますが、ものごとというものは直線的によくなっていくのではなく、小さな波を描いてよくなったり悪くなったりを繰り返しながら全体的にはよくなっているという経過をたどるものと思います。いずれにしろ、ここまでよくなることができたのも、皆様方が物心ともに支えてくださったおかげに他なりません。心から感謝しています。
 ということで、しばらく休んだら、また無理のない範囲で少しずつ鍛えていこうと思っています。今はちょっと小休止です。あまり目先のアップダウンにはとらわれないようにしようと思っています。もし皆さんのなかにも病気やその他の悩みで苦しんでおられる方がいたら、小さな波を描きながら全体的にはよくなっていくのだということを認識されるとよろしいと思います。

 さて、では本文に入ります。
 前回の「後悔しない生き方」と関連がありますが、私が今まで半世紀以上生きてきて、「おそらくこういう生き方は後悔しないだろう」と思われるものは、「弱い者いじめはしない」ということです。
 子供などは、まだ他者の気持ちに共感できる能力が欠如しているため、面白がって弱い者いじめをするということがあります。限度を超さなければ、ある意味、それは仕方がないことです。私も中学生までは、友達をいじめたり、またいじめられたりしました。自分がいじめられてはじめて、いじめられる人の痛みがわかるようになり、それからはいじめることはしなくなりました。高校生以後は、気づかないうちにいじめてしまったことはあったかもしれませんが、少なくとも意図的に弱い者いじめをしたことはないと思います。
 しかし、いくら子供のときとはいえ、友達をいじめた経験というのは、この歳になっても辛い気持ちで思い出されます。後悔しています。いじめられた経験も不愉快ですが、後悔はありません。しかし、いじめた経験は後悔の念が伴います。それは辛いものです。

 私は、人間は男女を問わず「美学」というものを持って生きるべきだと思っています。倫理や道徳ではなく、美学の見地から「これはしない、これはする」という、いわば生きざまの指針のようなものです。ただし、「これはしてはいけない、これはしなければいけない」というものがたくさんあると、それに縛られ、自由に生き生きと生きることはできないので、あまりたくさんは持たない方がいいと思います。1つか2つ、多くても3つくらいでいいでしょう。
 美学を持って生きると、後悔しない人生を送れる可能性が高まります。
 その美学のうち、もっとも大切だと思うのが、「弱い者いじめはしない」というものです。弱い者は決していじめない。できれば助けてあげる、こういう生き方を美学として持つとよいのではないかと思います。
 残念なことに、弱い者いじめは、子供の世界だけでなく、大人の世界にもはびこっています。もしかしたら子供の世界より大人の世界の方がずっと数が多く、かつ陰湿かもしれません。子供の場合、たいてい腕力が強い子が腕力の弱い子をいじめるという単純なケースが多いですが、大人の場合は腕力というより、権力や地位や財力といったもので人を差別して弱い者いじめをします。典型的なのが、地位を利用して上司が部下をいじめるという、いわゆる「パワハラ」でしょう。
 子供はまだ他者の痛みに共感する能力が育っていないという点で仕方がないと思いますが、いい歳をした大人が自分より立場的に弱い人間をいじめたり、いばったり、暴言を吐くというのは、もっとも低劣な行為であると私は思っています。もっとも恥ずべき行為、醜い行為です。美しくありません。美学を持っていないから、弱い者いじめを平気でできるのです。
 いうまでもありませんが、弱い者いじめをするような人間に霊性が高い人はいません。いくら瞑想したり何千回お経やマントラを唱えたり、聖書を暗記するくらい読んだり、祈ったりしても、弱い者いじめをする限り、霊性が向上することはないと思っています。
 そしていつか、弱い者いじめをしたことを深く後悔するときがやってくるでしょう。その後悔には激しい自己嫌悪が伴うでしょう。

 ですから、霊性を向上する道を歩むなら、ぜひ「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という美学を持つようにしてください。他にもたくさんの美学があると思いますし、あとは自由に決めればよいと思いますが、すでに述べたように、あまりたくさん持つと不自由になるし、またひとつひとつの美学が散漫になるので、せいぜい3つ以内でいいと思います。「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という、これだけの美学でも、あとは少しくらい欠点があろうと悪いことをしようと、死んだときに天国の門は開いていると思います。人間というものは、あまりにも「これはしてはダメ、これはしなければダメ」というように自分を縛ってしまうと、器が小さくなってしまいます。「小さな善人」にはなれますが、大物にはなれません。別に大物になる必要はないのですが、器が小さいと人を許容することが難しくなりますし、それでは霊性を高める上での障害となりますので、やはり器は大きい方がよいです。要するに、人間はあまり小さなことにコセコセしない方がよいです。多少欠点があっても、多くの人を受け入れることができる器の大きい人、懐の深い人をめざすべきだと思うのです。
 ちなみに私は2つの美学を持っています。ひとつはいま申し上げている「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」で、もうひとつは「誰にも媚びない、誰にも威張らない」です。私は人間の本質とは関係のない地位だの権力だの名声だの財力だのルックスだの職業だの、あるいはその他のことで、下心を持って誰かに媚びたり、あるいは自分より下だと思えば見下して威張るような人間が大嫌いです。それは非常に醜い。私はそんな醜い人間には絶対になりたくありません。
 ちょっとカッコつけすぎかと思われるかもしれませんが、男なら(女もそうですが)、人間らしく生きるためには「カッコよさ」を身につけることは大切なことだと思うのです。それが美学というものです。

 弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる、ということは、愛のひとつのあらわれであると思います。すなわち、「弱い者いじめをしなければ後悔しない」というのは、「愛すれば後悔しない」ということだと言えるでしょう。
 私の半世紀以上の人生を振り返っても、愛さないで後悔したことはたくさんありますが、愛して後悔したことはひとつもありません。
 ただし、愛することは必ずしも楽しいものとは限りません。むしろ、愛することには傷つくというリスクが伴います。「愛することは傷つくことだ」と言い切ってもいいかもしれません。自分が愛しても、愛で応えてくれるとは限りません。感謝もされず、それどころか恩を仇で返されるようなこともあるかもしれません。なので、傷つきます。とても辛いです。
 傷つくのは、まだ条件がある証拠であり、真の愛ではないからです。とはいえ、人情としては、なかなかそこまでの高みに至ることは難しい。だから、愛するのであれば、傷つくことは覚悟することです。しかし、そのような勇気を持つことで、人は真の愛へと至る道を踏み出すことになると思うのです。
 いずれにしろ、愛して後悔することはありません。「絶対にない」、と言ってもいいと思います。
 愛さないで後悔することはあります。しかし、愛して後悔することは絶対にありません。
 それが、私が今までの人生で学んだ教訓のひとつです。


 5月5日 後悔のない生き方をするために

 人生というものは、さまざまな苦しみがあり、また誘惑がある。苦しみに負けることもあり、誘惑に負けることもある。「負ける」という意味は、言い換えれば「後悔する」ということだ。後悔とは要するに「あれをしなければよかった(すればよかった)」ということである。
 だれも後悔する人生を送りたいとは思わないであろう。したがって、人生で一番大切なことは、「後悔しない人生を送る」ことであると言ってもいいと思う。
 ただ、まったく後悔しない人生を送ることは現実として不可能であるから、「なるべく後悔しない」と表現した方がいいかもしれない。
 では、どうしたら、なるべく後悔しない人生を送ることができるだろうか?
 それには、「何が後悔すること」か、あるいは「何が後悔しないこと」かを、まえもって明らかにしておくことだ。そして、それを肝に銘じて生きることである。そうすれば、いざとなったとき、迷うこともブレることもなく、後悔しない選択(行動)をして、後悔しない人生を送れる可能性が高くなるはずだ。
 では、いったい何が後悔すること(あるいは、しないこと)であろうか?
 それは、人によってさまざまであろう。
 また、あるときは後悔することと思っても、後になって後悔しないことだと思うこともあれば、逆に、後悔しないと思っても、後になって後悔することだと思うこともある。
 したがって、何が後悔すること(あるいは、しないこと)かを決めるときには、慎重にならなければならない。また、必要に応じて修正していくことも大切になってくる。
 ここでは、あなたがそれを決めるときの参考にしていただくための、ひとつの問いを投げかけてみたい。それはとても根本的なことなので、この点をよくおさえておけば、おそらく人生で、そう大きな後悔というものはなくなるのではないかと思っている。
 その問いとはこうだ。
 「ここに二つの生き方がある。ひとつは、傲慢で利己的でずる賢く、自分の幸せのためなら人や世の中などどうでもよい、場合によっては害を及ぼすようなことも平気でする。要するに、恵まれているが低劣な人間として生きる人生だ。もうひとつは、世のため人のためになり、たとえそれが認められず、そればかりか、そのために苦労や困難を味わうこともあるような人生。要するに、恵まれないが高潔な人間として生きる人生である。そのどちらかを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶ方が後悔しないか?」
 もちろん、これは究極の選択であって、現実にはこれほど極端な選択を迫られることはないだろうし、これほど極端な生き方をする人も少ないだろう。ほとんどの人は、多少は世のため人のためになるが、多少は害をもたらすこともし、低劣でも高潔でもない人間として生きることになるだろう。
 けれども、人生において尋常ではない事態(たとえば災害や運命的打撃、抗しがたい誘惑といったこと)に遭遇したとき、まえもってこの「究極の選択」を決めていた人は、後悔のない生き方ができるに違いない。もちろん、軽い気持ちで決めていたのではなく、心の底から、しっかりと、強く、覚悟をもって決断していた場合だ。さもなければ、いざというときに迷ってしまい、結局、どっちつかずの選択(行動)をして後悔することになる。
 この決断さえしっかりとできたなら、おそらく、後悔するようなことはない。
 では、いったいどちらの選択が後悔しないだろうか?
 それは、誰にも決められない。決めるのは自分だけだ。ただ、決めた以上は、それを貫くことだ。もし前者の人生を選択したのなら、人を踏み倒しても自分の利益や幸せを追い求めることだ。もし後者の人生を選択したのなら、自分の利益や幸せをあとにしても、人や世の中のために生きることだ。
 というより、断固として覚悟をもって決断したのであれば、自然とそうするだろう。そのとき迷うのは、しっかりと決断していなかった証拠である。
 とはいえ、そこまでしっかりと決断することは、なかなか難しい。やはりどうしても、いざというときは迷いが出てしまう。
 けれども、むかしの侍はその決断ができていた。侍(武士)は、誇りを重んじて、恥じる生き方をしなければならないときには、切腹をして死ぬ覚悟を持っていた。そのために、戦のためと自害のための二本の刀を腰にさしていた。
 私は、このような侍、いわゆる「武士道」の生き方を全面的に肯定するつもりはないにしても、学ぶべきことは多いと思っている。死を覚悟してまで決意したのであれば、それはいかなる事態に遭遇しても揺るぎないものとなるだろう。
 あえて私個人のことを言えば、正直、ここまで強い決意を持てる自信はないが、どちらの生き方が後悔しないかについては、その解答は明らかだと思っている。
 それは後者だ。なぜなら、どんなに人格を低劣にしてまで自分の利益や幸せを追求したとしても、それは得られないからだ。一時的には得られても、最終的には幸せは得られない。どこまでもどこまでも飽くなき追求はやまず、渇きが癒されることはない。それは地上の物質的な「幸せ」というものは、本質的に依存性のある快楽だからである。すなわち、基本的には麻薬やアルコールと同じレベルなのだ。
 一方、後者のように、いくら世のため人のために生きたとしても、幸せになれるとは限らない。むしろ、確率的に言えば、苦労や困難が多くなるであろう。
 つまり、どちらを選択したとしても、この地上世界では幸せは得られないのである。
 ならば、どうせ幸せを得られないのなら、高潔に生きた方が少しはマシではないだろうか?
 たとえ、高潔に生きたとしても、誰からも称賛されず、何の得もなかったとしても、高潔な人格で生きるならば、少なくとも低劣な人格で生きるよりも、自分を愛せるようになるだろうし、そんな自分に誇りを持てるようになるに違いない(これはナルシシズムや傲慢さではない。ナルシシズムは利己的であり、傲慢さは他者に対してひけらかすことによって成り立つが、真の自己愛は利己的ではなく、真の誇りは他者からの称賛を必要としないからである)。
 もしこの地上に幸せというものが存在するとしたら、高潔な人格を貫いて生きることによって得られる自分自身に対する愛と誇り、これではないだろうか。
 そして、そんな愛と誇りを得られる人生であったならば、その人生はおそらく、後悔することはないであろう。

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