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 2016年6月の独想録


 6月10日 憎悪と復讐の念からの解放
 人はほとんど無意識的にあやまちや罪を犯してしまう傾向がある。
 ここで、「無意識的」というのが恐ろしいところだ。自覚さえあれば、理性や意志によってコントロールできる可能性もあるが、自覚がなく無意識であれば、コントロールすることはほとんど不可能に近いからである。そのため、私たちは自分でも気づかないうちに、長期に渡ってあやまちや罪を犯し、人を傷つけ、苦しめ続けてしまう場合が生じてくる。
 たとえば、よく問題にされるのが、子供の虐待であろう。親から虐待されて育った子供は、自分が親になったとき、やはり子供を虐待してしまう。親はなぜ過剰なまでにイライラし、子供を虐待しているのかよくわからない。虐待した後で自分の行為を後悔し自己嫌悪に陥ってしまう。
 絶対にそうなるとは限らないが、かなりの割合でそうなることが多いようだ。 そして、その子供も同じように親になったときに子供を虐待し、その子供も・・・というように、世代間連鎖が続くことになる。
 こうしたことは、親子の間だけではない。あらゆる人間関係にも当てはまる。無意識的に他者を傷つけ苦しめていることがあるのだ。
 当然、これでは霊性の向上は望めない。
 今回は、そのようなあやまちや罪の行いを自覚するためのヒントについて書いてみたい。

 さて、実際には、完全に無自覚、無意識というケースは珍しいと思われる。ほとんどの場合、多少なりとも自覚できていることが多いようだ。少なくとも初期の段階では自覚がある場合が多い。
 ところが、そのとき、あやまちや罪の行いを正当化してしまう巧妙な悪知恵が働いてしまう。ひらたくいえば「言い訳」をしてしまう。典型的なのが、責任を他者に押しつけるという言い訳だ。すなわち、「こうするのは相手が悪いからだ、相手に責任があるからだ」と、あらゆる理屈を持ってきて正当化し、良心を麻痺させて相手を傷つけ苦しめる行為に及ぶのである。
 「責めているのではない」などと前置きして、実際には激しく相手を責めるといったことも同じだ。つまり、その前置きで良心をごまかしているのである。あるいは、正当防衛を盾にする場合もある。「自分を攻撃したから(あるいは攻撃しようとしたから)、自分の身を守るために相手を攻撃したまでだ」というのだ。
 中途半端に頭がいい人ほど、こうした「言い訳」を見つけだしてくるのがうまい。そして、このような言い訳によって一度良心が麻痺させられると、しだいに不適切な行為をしているとの自覚が失われていき、ついにはほとんど無意識になってしまう。
 こうなると、よほどのことがない限り、それを自覚することは難しくなってしまう。
 そうならないために大切なことは、どんなに認めたくないことでも、目を背けずに直視する勇気、強力な自己観察、そして強い理性と意志を持つことだ。これが最初のヒントである。さもないと、一生涯、言い訳という幻想に埋没し、人を苦しめ続ける最低の人生を送ることになってしまう。

 次のヒントは、「自分は今まで他者からどのように扱われてきたか」ということを思い出すことだ。なぜなら、「人はされたようにする」という原則があるからだ。
 先ほど、親による子供の虐待の例をあげたが、このことは、兄弟、友人、会社の人間関係、地域や国家など、人と人とが交流する状況のすべてにおいて当てはまる。
 たとえば、相手が親であろうと、誰であろうと、もし屈辱的な扱いを受けたならば、その人間は、目下を抱える何らかの権威や地位を持ったとき、仮に社長のような立場になったとき、社員に対して屈辱を与えるような行為に走りやすくなる。暴言を吐いたり、威張ったり、皮肉を言ったりする。社員は自分より地位や立場が下なので、逆らうことができない。それを(無意識的に)乱用して、抑圧されていた卑しい品性をあらわにする。

 そのような行為の根底には、屈辱によって形成された「自己無価値感」、ひらたくいえば「劣等感」がある。そのため、劣等感を感じさせる社員に我慢ができない。
 たとえば、自分より能力が高い社員、自分より学歴が高い社員、自分よりきれいな社員、自分より目立つ社員、自分より愛される社員、自分に少しでも批判的な社員がゆるせない。そのような社員と自分を比較すると、相対的に自分の価値が下がったと思い込み、劣等感を覚えるからだ。そこで、そういう社員が会社にいられないように工作したりする。そのため、こういう社長が経営する会社は、人の入れ替わりが激しいのが特徴だ。社員が入社したと思ったらすぐに辞めていったりする。当然、優秀な人間はいなくなり、社長を教祖のように持ち上げることに長けた「太鼓持ち」ばかりとなる。会社はまるで宗教団体のようになるか、社長の自己価値観を高めるために作られた「劇団」みたいになる。社員は社長を称賛する脇役に徹することを求められ、主役である社長より目立ったり、反論することはゆるされない。

 そうして、忌まわしい連鎖が始まる。すなわち、社長から屈辱的な扱いを受けた社員は、部下に屈辱を与えるようになり、その部下はまたその部下に屈辱を与えるようになる。部下がいない社員は、気が弱くて自分に反抗しないような同僚に屈辱を与えたり、新入社員に屈辱を与えたりする。社内で誰にも屈辱を与えられない場合は、家で妻に屈辱を与えるかもしれない。妻は子供に屈辱を与え、子供は学校で自分より弱い友達に屈辱を与えたり、動物を虐待するかもしれない。こうして、悪の連鎖が末端にまで波及していく。
 彼らは、自分がそのような卑劣で醜悪な行いをしていることをほとんど自覚していない。「自分がこうするのは部下に責任があるからだ」と、責任を相手に押しつけ、理屈をつけて正当化する。そして、他罰的な傾向が強くなってくる。
 結局、このようにして会社は腐っていく。そうなれば当然、経営もうまくいかなくなる。社長はそれを社員のせいにし、上司は部下のせいにする。また、子会社や取引先や世の中のせいにする。
 人は、虐待を受けたり屈辱的に扱われたりすると、憎悪の感情にかられ、その感情を抱えきれずに復讐という形で発散したくなるのだ。もし立場や力の関係で復讐できない場合、その憎悪の感情を、自分より力の弱い人間に向けてしまうのである。そうして、「弱い者いじめ」というものが生まれてくる。
 この憎悪や復讐の念というものは強力で、それにうち勝つことは容易ではない。ゾンビに襲われた人間が同じゾンビになってしまうように、悪の連鎖はどこまでも続いていく。

 けれども、なかには、ゾンビにならない人間もいる。憎悪や復讐の念に負けず、それに支配されない人間もいる。すなわち、自分は虐待されたり屈辱的に扱われたり、いじめられたりしても、それを誰にも向けることなく、復讐の念を捨て、悪しき連鎖を断ち切ることができる人もいる。
 そのような人こそ、まさに真の強者、勝利者であり、霊性が高い人である。社会にはびこる悪の連鎖をくい止める英雄だ。
 しかし残念ながら、そのような人はそう多くはない。大多数の人間は「されたようにする」。憎悪や復讐の念というものはすさまじく凶暴なので、それをため込むのは健康によくない、吐き出した方がいいと説く人もいる。たとえば、怒りの感情を紙に書いたり、皿を割ったり枕をぶん殴ったりするとよいなどとアドバイスする。
 しかし実際のところ、憎悪や復讐の念というものは、そのような無害な形で吐き出せるほど生やさしいものではない。もしもストレートに解き放したならば、人のひとりやふたり簡単に殺してしまうくらいの威力を持っていたりする。それほど根深いのである。
 では、いったいどうしたらいいのだろうか?

 残念ながら、私にはわからない。
 ただ、自覚することは大切だ。自覚すれば、何か対策がとれる可能性はある。自覚しない限り、その可能性はゼロだ。
 そのためのヒントとしてあげられるのは、今まで自分が人から何をされたか、ということをよく思い出してみることだ。繰り返し述べているように、「人はされたようにする」という傾向があるからだ。あなたが、親やその他の人からどのように扱われたかをよく思い出し、分析してみていただきたい。そうすれば、あなたは無意識的に同じことを誰かにしていることを自覚するかもしれない(その誰かとは、多くの場合、あなたより力の弱い人である)。自分がされたように誰かに対してしていないかどうか、厳しい目で自分を見つめていただきたい。
 そうして自分を厳しく見つめてもなお、自分は不当なことはしていないと確信が持てたならば、それはすばらしいことだ。ただし、「言い訳」でごまかしていないか、本当に正しく自分を見つめたうえで結論を出さなければならない。
 もし、自分が「されたようにしている」、あるいは、「しようとしている」ということに気づいたら、断固として憎悪や復讐の念と闘うべきである。すぐには勝利しないかもしれないし、ときには負けることもあるかもしれないが、それでも闘いを放棄してはいけない。ゾンビに噛まれても、ゾンビになってはいけないのだ。
 グロテスクで醜いゾンビにはなりたくない。弱い者をいじめる人間はもっとも醜く、卑劣なゾンビである。社会にはそんなゾンビがうようよしている。自分がされたからといって、同じ行為をしたら、自分も同じく醜悪で卑劣なゾンビになったことになる。
 ゾンビは、動く死体に過ぎない。もはや人間ではない。憎悪や復讐の念に支配されるということは、すでに死んだも同然で、人間であることをやめるのと同じことである。

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