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 2016年8月の独想録


 8月18日 師匠や教団に入信することについてA
 前回は、本物ではないかと思う指導者や宗教団体があったら、とりあえず飛び込んでみたらどうかということを書いた。たとえ、結果的にニセモノであったとしても、それなりに学ぶものがあるからだ。人は失敗を通して、また、いわゆる”反面教師”を通して学ぶものである。実際、私もそういう経験をしてきた。そのために、それなりの時間やお金を使ってきたが、無駄であったとは思わないようにしている。これも「授業料」であり、「必要経費」であると考えて、気持ち的に引きずらないようにしている。
 けれども、そういう経験を何回か繰り返しているうちに、「いつまでもこんなことをしていてはいけないぞ」とも、思うようになってきた。いくら失敗からでも学べるとはいえ、失敗ばかりでは嫌気がさしてきてしまう。
 覚醒をめざしている私にとっては、言葉巧みに教えを説いている「覚者」(本物かどうかはともかく)の存在は、やはり気になるものだ。「本当にこの人の指導を受ければ覚醒できるかもしれない。このチャンスを逃したら、もう二度と、このような人には出会うことはないかもしれない。そうなると、本当に貴重なチャンスを逃してしまうことになる」といった、ある種のあせりの気持ちが、胸の中から湧いてきて、いてもたってもいられなくなるのである。お金や時間が無限にあるならば、片っ端から試してみたいものであるが、なかなかそのようなことはできない。

 しかし、私はあるとき気がついた。
 自分のこのような姿勢は、詐欺商法にだまされる人と本質的に同じではないのかと。
 つまり、いわゆる「儲け話」みたいなものにつられて、結局は大金をだましとられてしまう人というのは、もともと「金が欲しい」という欲望があるから、だまされてしまうわけだ。
 私もむかし、知人に誘われて、社会問題となった、ある詐欺商法の説明会に参加したことがある。しかし、私は金儲けにはそれほど興味がなかったのと、その商法に投資するほどの金銭がなかったので、だまされずにすんだ。ただ、その説明会の話術は、ものすごく説得力があり、これではだまされても仕方がないなと思わせるものがあった。
 しかし、私は金に対する欲望が強くないので、こういう詐欺商法にだまされる可能性は少ないが、覚醒に対する欲望が強いので、その種の詐欺にはだまされやすくなる。何事もそうだが、欲望というものは、弱点にも成り得るものである。
 そんな詐欺にだまされそうになった経験を少し紹介してみよう。
 私が30歳くらいの頃、「自分は悟りを開いた」という、当時50歳くらいの男性に、ある会合で出会った。話を聞くと、とても深いことを延々と語り始める(その内容はラジニーシの教説に近いものだった)。私も知識ではそれなりに持っていたので、彼の語る深い内容から、もしかしたら本当に悟りを開いた覚者かもしれないと思った。
 彼が言うには、自分は世界を救う覚者として日本に誕生することを、ラジニーシが本のなかで予言していると語っていた。また、ダライラマに会うためにチベットまで行ったのだが(それは事実だったようだ)、ダライラマから特別扱いされたと語っていた。
 彼は組織は持っていなかったが、個人指導はしていたようで、どれくらいかかるのかと尋ねると、百万円だという。私はそれほどの大金は出せなかったので、そのかわり、その男は本を出版したいと言っていたので、その本を出版する手伝いをする(彼の語ることをテープに録音して、それを聞いて私が文章にまとめる)から、指導をしてくれないかと頼むと、それでいいというので、私は定期的に彼の家に通って、その教えを受けることになった。
 しかし、彼の説教は、基本的にはラジニーシや禅の教説と同じであり、本にする価値があるのかと思い始めた。が、とりあえず約束なので、私は彼の話をテープに録音し、家でそれを聞きながら文章に起こした。
 ところがまもなく、かつて自分の弟子だったが自分のもとから去っていった人の批判(というより悪口)を、口汚く延々と一時間以上も口にするようになった。
 そこで、私も「これはおかしいぞ」と思い始めた。その気持ちを述べると、「悟っていない奴に悟っている者の意図なんかわかるものか。グルのやることに絶対に間違いはないんだ。これも指導の一環なのだ。信じられないのか!」と怒り出した。
 とりあえず、そんなものかと思って、関係を続けていったが、気持ちとしては本当に覚者なのか、半信半疑になっていた。本物の覚者かどうか、確かめたくなってきた。
 そこで、覚者なら超能力があるはずなので、それを見せてくださいと頼んだことがあった。すると彼は、「超能力はあったが、そんなものに対する欲望は捨てたので、今はない」という。確かに、ヨーガの教典などを見ても、超能力に対する欲望は捨てるべきだと書いてあるので、その点では彼の言葉は正しいと言えるかもしれない。
 ところが、「この超能力ならできる」などといって、ダウジングをやり始めたのである。超能力への欲望は捨てたと言っておきながら、別の超能力ならできると言うのも、何かおかしいと思った。
 彼によれば、悟った状態とは、何が起こっても心が動揺しない不動の平安さが確立されているという。しかし、そう言っている割には、話にかみ合わない点などがあって、そのことを指摘したりすると、すぐにイライラしたり怒りっぽくなるので、「そんなすぐに怒るというのは、本当に悟っているのですか?」と尋ねると、いつも決まり文句のように「こういう態度も弟子の指導のためにわざとやっているのだ。グルのすることなど、弟子にはわかるはずがない。さぞかし詐欺師のように見えるだろうな」と言うのである。
 しかし、彼のささいとも思える言動が(案外、こういうことが大切なのだが)、どう考えても覚者とは思えなかった。たとえば、ある有名な精神世界の本の翻訳者から、自分は呪いをかけられているなどと被害妄想的なことを口にしたり、彼が乗っているクルマの定期点検シールを偽造して「こうすれば検査しなくてもごまかすことができるんだ」などと言ったり、クルマの窓からごみを捨てたりした。また、彼には愛人がいたのだが、その愛人の性に関するえげつない表現など、私のイメージする覚者とは遠いものであった。しかし、そういうことを指摘しても、「覚醒したものは、そういう世間的なものにはいっさいとらわれない自由な境地でいるのだ」などと言うのである。
 結局、私は彼が覚者かどうか以前に、もうついていく気がしなくなったので、弟子との関係は解消すると彼に告げた。すると、「それなら、俺の説教を録音したテープをよこせ」と言ってきた。テープは別のものを録音して説教したものは残っていなかったので、そう告げると、「信じられない。本当かどうか、家のすみからすみまで探させろ」と言ってきた。そんなことをされてはかなわないので、断ると、「おまえがあのテープを悪用しないかどうか、俺は不安なんだよ。もし探させないなら、お前の家の前にいって、拡声器で大声で叫んでやるぞ。そうしたら、お前は今の家にはいられなくなるからな」などと、脅しともいえることを言うのである。
 覚者は何が起こっても心の平安は乱されないと言いながら、「俺は不安なんだ」と言ったり、おまけに「拡声器で騒ぐぞ。家にいられなくなるぞ」などと言う。
 さすがの私も、ようやく、この男はニセモノだと気づいた。その後、何回か電話をかけてきたが、無視しているうちに、関係はきれた。しかし数年後、この男によって大金を巻き上げられた上にひどい目にあった人がいるという噂を耳にした。
 この男の語る内容は、確かに深いものがあった。もっとも、それもラジニーシその他の教説の単なる受け売りに過ぎなかったのだが、それでも、何も知らないで彼の話を聞いた人は、本当に覚者であると信じてしまっても無理はないと思う。ある意味では、一流の詐欺師であった。

 もちろん、彼が本当に覚者かそうでなかったかは、証明はできない。もしかしたら、本当に覚者だったのかもしれない。
 しかし、私はこのときの教訓によって、ひとつの決意をした。それは、「たとえ覚者であったとしても、品格のない、尊敬できない人から教えは受けない(弟子にならない)」という決意だった。
 金の亡者が、金欲しさのあまり詐欺商法にだまれてしまうのは、もちろん、だます方が一番悪いが、だまされる方も、「うまいことして金を儲けてやろう」という、さもしい根性があったからであろう。
 同じように、覚醒したいという、覚醒欲しさのあまり、以上のような詐欺師にだまれてしまうのも、やはり「うまいことして覚醒してやろう」などという、さもしい根性があったからだ。両者とも本質的には同じである。ただ「金」と「覚醒」が入れ替わっただけで、さもしいことには変わりはない。
 立派な教説を語るだけだったら、ちょっと勉強して口がうまければ、誰にだってできる。それでだまされてしまう人も多い。しかし、品格はだますことはできない。私は、覚者であれば品格も高いと信じているが、本当のところはわからない。覚者であっても品格が低い人もいるのかもしれない。
 しかし、仮に本当に覚者であったとしても、すでに述べたように、品格が低く尊敬できない人の教えを受けることはしないと決めた。そうまでして覚醒したいとは思わない。逆に、たとえ覚者でなくても、人格が高く尊敬できる人であれば、喜んで教えを受けたいと思っている。
 法然の弟子であった親鸞は、「たとえ法然師匠の教えを信じて地獄に落ちたとしても悔いはない」とまで、法然を敬愛していた。同じように、「この人の教えを信じて覚醒できなかったとしても悔いはない」と思える人でなければ、師事しようとは思わない。覚醒しているかどうか以前に、人間として尊敬に値する立派な人格を持っているかどうかが、私にとっては大切なことなのだ。
 残念ながら、今まで、そのような覚者には出会ったことがない。もしかしたら、どこかに存在するのかもしれないが、縁がないだけなのかもしれない。
 ただ、「うまいことをして覚醒してやろう」という、さもしい気持ちは捨てた。縁ができて、本当に心から尊敬できるすばらしい覚者に出会うまで(出会えないかもしれないし、出会えても弟子にしてもらえるかどうかもわからないが)、それまでは自力でコツコツと努力を積んでいく覚悟でいる。さもしいマネだけは決してしたくない。
 もちろん、以上のような私の信念を、あなたに押し付けるつもりはない。「品格はどうであれ、とにかく覚醒できればいい」というのも、ひとつの考え方である。ただ、もしだまされる確率を減らしたければ、人間としても尊敬できる人を師匠に選ぶべきだと、私は思う。そうすれば、仮にだまされたとしても、おそらく後悔はないだろう。

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