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 2016年7月の独想録


 
 7月12日 師匠や教団に入信することについて@
 今日、多くの人が「覚者」や「霊的教師」と名乗り、教団を組織して大々的な活動をしていたり、あるいは比較的こじんまりとした形で弟子や信者を指導したり講演をしたりしている。この文章を読んでいるあなたも、そうした指導者や教団に属して指導を受けているかもしれないし、あるいは、気になる指導者や教団があって入信しようかどうか迷っているかもしれない。実際、「この人に師事しようかどうか、この教団に入ろうかどうか、迷っているのですが、斉藤さんはどう思われますか?」と尋ねられることもある。
 今回は、この「師匠や教団に入信すること」について、私の見解を述べてみたいと思う。

 ここで問題となるのは、果たしてその指導者が本物かどうか、その教団が真の教えを説いているかどうか、ということであろう。言うまでもないが、なかには明らかに怪しいと思われるものもあり、悪質で身の破滅につながりかねない教団もあるだろう。その最たるものがオウム真理教であったわけだが、あそこまで凶悪でなくても、大金をまきあげられたとか、心にトラウマを負ったといった被害などは、しばしば耳にする。
 奇妙なことだが、このようにだれが見てもおかしく、詐欺であることが明白であるのに、そういう指導者や教団にだまされる人が世の中には必ずいるということだ。これはおそらく、ある一定の割合で、異常なものに惹きつけられる病的な精神傾向を持った人がいることによるものと思われる。
 それはともかく、たいていの場合は、本物であるかそうでないか、とても微妙だ。そのために迷ってしまう。
 たとえば、教祖の書いた本にはいいことが書いてある。「人を愛しなさい。善い行いをしなさい」といったように。そして、「私は覚者である、キリストの生まれ変わりである、救世主である・・・」といったことを言う。
 立派なことを語るくらいだから、教祖は本当に覚者であり、キリストの生まれ変わりであり、救世主かもしれないと思われてくる。最初は多少、半信半疑かもしれないが、一度入信して繰り返し教えを耳にするうち、いよいよこれは本物に間違いないと思われてくる。
 私も若い頃は、いろいろな宗教を遍歴した。仏教、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、ヨーガ、神道、神智学、心霊学、いくつかの新興宗教団体に属したこともあった。
 そして面白いことに、ある教えを集中的に学んでいるときは、その教えこそ本物に違いないと思われたということだ。仏教を学んでいるときは仏教こそ最高の教えだと思われたし、キリスト教を学んでいるときはキリスト教こそ最高の教えだと思われた。新興宗教に関しても、やはりそこに属していたときは、「この教祖、この教団こそ本物で最高だ」と思われた。
 しかし、このようにいろいろな教えをかじって時間が経過すると(言い換えれば、頭が冷めると)、かつては「これこそ本物で最高の教えだ」と思っていたものが、実はそうではなく、欠点や弱点や汚点や問題点もあるということに気づくようになった。
 今の私は、世の中に完全無欠の教えなど存在しないと考えており、完全な指導者もいないと考えている。仮に本当にその人が覚者であり、あるいはキリストの生まれ変わりであり、あるいは救世主であるとしても、この不完全な地上世界に存在している以上、完全ではないと思っている。
 ところが、ある特定の教えにすっかり埋没している教団関係者は、かつての私のように「この教えこそ本物で最高だ」と思い込んでいる。これは単なる視野狭窄、あるいは洗脳に過ぎないと思われるのだが、とにかく教団の幹部や信者たちはそう思い込んでいるので、当然のことながら、「自分たちの教え、自分たちの教祖こそ唯一本物であり最高だ」と主張し宣伝し布教するようになる。
 そして、彼らの話を聞いていると、しだいにその通りではないかと思われてしまう。
 なぜそう思ってしまうかというと、一言でいえば、どの教団も自分に都合のよい部分しか見ていないからだ。
 たとえば、わかりやすく説明するために、非常におおざっぱな分け方をすると、キリスト教は愛の宗教であり、(原始)仏教は知恵の宗教とされている。
 キリスト教では、救われるためには愛を最高のものと考える。そしてイエスや聖書の教えを見ると、盛んに愛が説かれている。それに対して仏教は、あまり愛(仏教で愛に相当する言葉は「慈悲」)ということを語っていない。つまり、キリスト教の信者からすれば、救いに必要な愛をあまり説いていないがゆえに、仏教はキリスト教よりも劣った宗教ということになる。
 反対に、仏教徒は知恵こそ救われるために必要なものと考え、釈迦や(原始)仏典などを見ると、その大切な知恵についてたくさん説かれている。ところが、キリスト教では、知恵の重要性についてあまり説かれていない。そのため、仏教徒からすれば、救いに必要な知恵をあまり説いていないがゆえに、キリスト教は仏教よりも劣った宗教ということになる。
 では、いったいどちらの宗教が正しいのだろうか?
 私個人の見解では、どちらも一面では正しいが、一面だけでは真の救いを得ることはできないと考える。
 つまり、救われるには、愛と知恵の両方が必要なのだ。キリスト教を学ぶことも必要であり、仏教を学ぶことも必要なのである。その他にも、できる限り多くの宗教を学ぶことが必要であると思う。そうしていくうちに、真理というものの全体像が何となくわかってくるからだ。あたかも、ジグソーパズルをひとつずつはめ込んでいくうちに、しだいに全体の絵がわかってくるのに似ている。

 したがって、「これは」と思う教祖や教団を見つけたら、どんどん飛び込んでみたらどうかというのが、私の基本的な考えだ。もちろん、そのまま洗脳されてずっとその教団から抜け出せないというリスク、大金を巻き上げられたり、心のトラウマを受けるといったリスクもある。そのようなリスクがあることは、一応覚悟しておいた方がよい。
 ただ、人生の教訓というものは、実際に体験してみないと得られないものである。人生というのは冒険のようなものだ。冒険とは未知の領域へ挑むことである。未知の領域には当然、危険が待ち受けている可能性がある。しかし危険を怖れていたら、何も得られない。だから、飛び込んでみることだ。そして教訓を学んでいくことだ
 もちろん、あきらかにいかがわしい教団、インチキ教祖だとわかっていて飛び込むことはない。しかし、何回も熟慮した末に「この教祖、この教団は本物かもしれない」と気になって仕方がないのであれば、後はもう飛び込んでみるしかないのだ。
 たとえその結果、そこがインチキだとわかったとしても、それはそれで何かを学ぶことができるだろう。もっとも、そのための「授業料」は高くついてしまうかもしれないが、それは仕方がない。すでに述べたように、人生は冒険なのだから。

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