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 2022年2月の独想録


 2月22日 精神的な終活と孤独
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「イスラム神秘主義スーフィズム 1」というテーマで行いました。スーフィズムは奥が深いので、とてもダイジェスト版だけで説明しきれないのですが、ほんのさわりだけでもご覧下さい(より詳しく知りたい方は、完全版をご購入ください)
動画視聴→
 スーフィズムは仏教とけっこう似たところがあります。このブログを読んでおられるような、霊的探求の求道者であれば、非常に得ることが多いと思います。

 では、本題にはいります。
 人生も終わりに近づいた人の中には、「終活」をはじめる人が多くいます。持ち物を整理したり、遺産相続の配分だとか、銀行預金の暗証番号だとか、葬儀はどのようにして欲しいといったことを書き込む、いわゆる「エンディング・ノート」に人気があるようです。
 こうした終活をしないと、残された家族などが大変な思いをするので、とても意義があると思います。しかし、こうした「終活」は、基本的に外面的で物質的なものです。
 私は、内面的で精神的な「終活」も大切であると思うのです。
 そうすれば、精神的に満たされて(少なくとも悔いのないように)死んでいくことができるでしょう。精神的な終活をしないと、苦しんで死んでいくことになるかもしれません。
 私がホスピスのカウンセラーをしていたとき、あるいは人から聞いた話をまとめると、自分の好きなように生きてきた人は、死ぬときも満足した様子で死ぬことが多いようです。それに対して、やりたいことがあったけれど、まともな就職をしてまともな仕事をするように親から言われたり、自分も好きなことに挑戦する勇気がなかったといった理由で、やりたかったけれど、できなかったことがある人は、死ぬ直前までそのことを悔いる傾向があるようです。
 なので、もし本当にやりたいことがあるのなら、それに挑戦するのがいいのではないかと思います。しかし、「やりたいこと」というのは、たいていはリスクが多くて成功することが少ないものであるのが普通ですから、たとえ失敗しても後悔しないという決意をしておく必要があります。失敗して、安いアルバイトや派遣で質素な生活をしなければならなくなるかもしれません。そのとき「ああ、最初からまともな仕事についていればよかったなあ」とは、決して後悔しないことです。もし後悔しそうなら、最初から冒険はやめておいた方がいいかもしれません。言い換えれば、その程度の恐怖心で躊躇するようなら、本当にそれは、やりたいことではないのです。本当にやりたいという燃えるような情熱があれば、誰がなんといおうと、あらゆるリスクがあろうと、やっているでしょう。

 それはともかく、好きなことをやってきた人が比較的安らかに死を受け入れることができるのは、もうこの世にあまり未練がないからなのでしょう。この世に未練、言い換えれば「執着」があると、死ぬ間際に苦悶することになるようです。

 そして、これからは霊的な話になるので、仮に本当のこととして話を進めると、人は死んで肉体から魂が抜け出し、地上から去っていくわけですが、もう魂には肉体もなければ物質的な地上世界とは離れていくわけですから、もし肉体的な欲望があっても、肉体がないので、その欲望を満たすことができなくなります。そのために、激しい苦しみに襲われるらしいのです。また、物質的ではない霊的な世界に移行するので、物質的なものに対する執着が強い場合も、その物質がもう手に入らないわけですから、やはりひどく苦しむらしいのです。
 以上の話が本当だとすると、私たちは、ある程度の年齢に達したら、物欲だとか、この世に対する執着を少しずづ減らしていく生き方をするべきではないでしょうか。
 そもそも、いくらお金があっても、あの世には持っていけません。また、いくら名声を得て、歴史に名を刻んで久しく自分の名声が後の人たちに知られることになったとしても、地上を離れてしまっては、そのようなことを見聞できなくなるでしょうから、これも意味がなくなります。さらに、この世では名声ある人(尊敬される人)とされても、霊的な世界では、地上の名声がそのまま評価されるとは限りませんし、霊的な世界の住民から尊敬されるとは限りません。
 いろいろな文献を読みますと、あの世で尊敬される人は、いわゆる「徳の高い人」です。すなわち、善行を行い、謙虚で思いやりがある人です。そういう人が霊的な世界で尊敬されるらしいのです。しかしこういう徳の高い人は、ほとんど例外なく肉欲や物欲が少ない人(魂)なのです。

 いずれにしろ、物質的な執着を持ち続けていると、今後は、ろくなことはないと考えた方がよさそうです。物質的な執着のみならず、人間に対する執着も、生きているうちになるべく捨てるようにすることです。なぜなら、死んでしまったら、もう愛着を寄せる人とは会えなくなる(少なくとも交流はできなくなる)からです。
 物質的な執着を捨てることも難しいですが、愛する人への執着を捨てるのは、さらに難しいです。疎遠な友達程度なら簡単ですが、親友や恋人、ましてや、親や兄弟、子供といった家族に対する執着を捨てるのはとても難しい。
 もちろん、実際に縁を切って離れるという意味ではありません。精神的に離れるようにするのです。いっぺんには無理ですから、少しずつ執着を減らしていくのです。

 そうして、孤独に慣れるようにしておくことです。
 個人差はありますが、歳をとるにつれて人は孤独になっていきます。独身の人だけでなく、たとえ結婚して子供がいたとしても、子供はやがて巣立っていき、夫婦二人だけとなり、いつかはどちらかが先に死ぬことになるでしょう。ですから、最終的には人は孤独になるのです。もちろん、中には老年になっても友人仲間がたくさんいて孤独ではない人もいるでしょうが、たいてい歳をとると、そのような社交的なことからは自然に足が遠のいて、孤独になっていく傾向があります。

 孤独は寂しく辛いですが、世の聖者たちは、孤独の中で内面性を進化させていきました。孤独であることは、人や社会への執着を断ち切るうえで、きわめて有効なのです。
 世間では、「老人になっても孤独にならないように、友達や仲間を作って大切にしましょう」などと言われたりしていますが、性格的に、そのようなことが簡単にできる人ばかりではありません。女性は比較的そうしたことができやすい傾向がありますが、男性は苦手な人が多いです。
 しかし、苦手なものを無理にやってもうまくいかないと思います。また、緊密な人間関係はよい面ばかりでなく、不愉快な面もあります。なので、無理に友達を作ろうとあせることはしない方がいいと思います。
 それよりも、孤独に慣れることです。孤独の中でこそ、人は内面的成長を大きく促すことができるのですから、孤独は社会が言っているほど悪いものではなく、内的成長を志す人にとっては、この世の執着を捨てるための、とてもすばらしい機会なのです。


 2月5日 真の信仰心とは
 年始になると、大勢の人が神社仏閣に初詣に行きます。初詣に限らず、神社仏閣をよく訪れる人は、信仰深い人のように見えますし、本人もそう思っているかもしれません。
 しかし、そうでしょうか?
 神社仏閣に行き、賽銭箱に小銭を投げ入れ、神仏にお願い事をする、こういう行為は、信仰深さとは何の関係もありません。むしろ、信仰とはまったく逆な行為です。
 もし、願いを叶えてくれなければ、神社仏閣に行くことも、神仏に手を合わせることもないとすれば、それは信仰ではありません。欲望を叶えるための手段として神を利用しているだけです。言い方を変えれば、欲望を満たしてくれるものであれば、別に神でなくてもいいわけです。賽銭箱にいくばくかのお金を投入し、そのかわり願い事を叶えてもらおうとするのは、神仏をある種の「自動販売機」のように考えています。これほど神仏に対して不敬な行為があるでしょうか。
 もちろん、この地上人生においては、大きな苦しみに見舞われることがあります。そういうときに神仏にすがって、苦しみから救ってもらいたいという気持ちは、人情としては理解できますし、別にそれが悪いと言うつもりもありません。どうしても耐えられない苦しみであれば、神仏に祈ればいいと思います。
 しかし、苦しいときにはそうして祈るけれども、苦しくないときには神仏のことはすっかり忘れて祈りもしない、というのでは、信仰心とは言えないと思うわけです。
 ところが、神仏に祈願することが「信仰心」であると勘違いしている人が、日本人には多いように思われるのです。

 考えてもみていただきたいのですが、神仏は、私たちを助けよう、幸せに導いてあげようと思っているはずです。そして言うまでもなく、私たち人間よりはるかに知恵があるでしょう。神仏はすべてお見通して、私たちが苦しんでいることも、すべてわかっているはずです。そして、どうしたら救われるか、どうすれば幸せになれるか、ということも、神仏は私たちよりもはるかによくご存知なのです。
 そう考えるなら、いちいち神仏にお願い事をする必要はないわけです。第一、自分の願いごとを叶えることが、本当に幸せになるかどうかなど、人間にはわかりません。たとえば「Aさんと結婚できたら幸せになれる」と自分では思い、そう神仏に祈願しても、実は「Aさんと結婚したら不幸になる」かもしれず、だとすれば、神仏はそうなることがわかっているわけですから、その願いを叶えてあげようとはしないでしょう(神仏以外の運命的な原因が作用してAさんと結婚でき、そうなれたのも神仏のおかげだと人間が勝手に思い込むことはあるでしょうが)。
 また、苦しみを経験することによって、最終的には幸せになるという場合もあります。そういう場合は、神仏はその人に苦しみを与える(少なくとも、その人が苦しむのをゆるす)ということもありえるでしょう。

 ですから、私たちは、すべてを神にゆだねていればいいのです。人生で起こることは、それが嬉しいことであれ苦しいことであれ、神の意思によるものだと考えられるからです。何が起こっても、「私を幸せに導こうとしてくれている神のご意思なのだ」と感謝して、すべてを受け入れて生きていく、これしかないし、これがベストなのだと思います。そのように信じて、あとは自分としては悪を避け善をなし、過剰な欲望を謹んで心を浄めていく、これが本当の「信仰心」です。

 仏教もキリスト教も、根本的にはこうした信仰心を説いていたと思います。イスラム教、とりわけイスラム教の神秘主義などは、このような信仰心の本質を、さらにわかりやすく、しかも徹底して実践しています。彼らに比べたら、日本人の「信仰心」など、幼稚園レベルです。「イスラム」(正確にはイスラームと発音)とは「神に帰依する、神にゆだねる」という意味です。彼ら、とりわけ神秘家たちは、神にすべてをゆだね、神以外のものは求めません。世俗を汚濁とみなして、そこから離脱し、究極的には神と対面、あるいは合一することが彼らの目標です。そのために、命がけともいうべき真剣な信仰心をもって修行に励みます。そのような姿勢を、なまぬるい信仰心に甘んじている私たち日本人はおおいに見習わなければならないと思うのです。
 私たち日本人には、イスラム教は、仏教やキリスト教と比べると、あまり馴染みがありません。どんな教えかと問われても、ほとんどの人はよくわからないのではないでしょうか。しかし、このようなブログを読んでいる皆さんには、いつかイスラム教、とりわけ神秘主義(スーフィズム)をじっくり学ぶことをお勧めいたします。とても得るものが多いです。

 今月(2月19日/20日)のイデア ライフ アカデミーでは、こうしたイスラム教神秘主義について、2回(2月と4月)に分けて紹介します。興味のある方はぜひご参加ください。

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