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 2022年9月の独想録


 9月22日 金持ちは天国に行けるか?
 
まずはご報告とお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「E・フロム 真の自由と愛」というテーマで行いました。フロムはナチスのファシズムの危険性を訴えた社会心理学者ですが、彼の教説はこのまま私たち現代に通用する、いえ、ある意味では、当時よりもっと彼の教えに耳を傾ける内容であると思っています。とりあえず、ダイジェスト版をごらんください。
→動画視聴
 来月は、ケン・ウィルバーを取り上げます。よろしければご参加ください。

 では、本題に入ります。
 「金持ちが天国に入ることは、ラクダが針の穴に入るよりも難しい」という、イエス・キリストの有名な言葉があります。私はこの言葉を初めて聞いたとき、いくら何でも大袈裟だろうと思いました。ラクダが針の穴に入るのは、難しいというより不可能です。ですから、金持ちが天国に入るのは不可能だと言っているわけです。
 そこで弟子の一人が言いました。「それでは、誰が救われることができるのですか?」と。イエスは答えました。
「人にはできないことも、神にはできる」と。それ以上の説明はありません。
 正直なところ、この言葉は謎めいていて、よくわかりません。神がその気なら、ラクダはともかくとして、金持ちでも天国にいける、ということなのでしょうか。
 しかし、イエスは「富も家族もすべてを捨てた者が天国へ行くのだ」といった意味のことを言っています。

 金持ちは、本当に天国に行けないのでしょうか?
 そもそも、どれくらいお金を持っている人が「金持ち」となるのでしょうか? 「いくら以上お金を持っている人は金持ちで、それ以下は金持ちではない」という基準値のようなものはあるのでしょうか?
 また、仮に金持ちが天国に行けないとすると、その理由は何なのでしょうか?
 お金持ちの中には、多額の寄付をして、困っている人々を助けている人も少なくありません。それでも天国に行けないのでしょうか?
 あるいはまた、お金持ちは天国に行けないが、貧乏人なら、天国に行けるというのでしょうか?

 いろいろ考えた末の、私の結論はこうです。
 お金持ちはお金が好きです(だからこそお金持ちになったのでしょう)。しかし、おそらく天国にお金は存在しません。物質というものが存在しません。純粋に精神的な世界、それが天国だろうと思います。
 したがって、お金好き、物質(モノ)好きなお金持ちは、そもそもお金も物質もない天国に魅力を感じないのです。つまり、「天国に行けない」のではなく、「天国に行かない」のです。そして、(これは仏教的な思想ですが)死後、天国には行かずに、お金と物質が溢れている地上に再び生まれ変わってくるのではないかと思います。

 したがって、たとえ貧しくても、お金や物質に執着を持っていれば、天国には行けない(行かない)のです。逆に、いくらお金を持っていたとしても、お金や物質に執着がなく、精神的な喜びを重視している人は、天国に行くのではないかと思われます。
 もっとも、お金や物質に執着がなければ、お金を持っていても、それを貧しい人に分け与えてしまい、「お金持ち」ではなくなるはずです。
 こう考えると、結局のところ、やはりお金持ちは天国には行けない、というより、「行かない」ということになるのでしょう。仮に天国に行ったとしても、お金も物質もないそんな場所は、退屈で楽しくないかもしれません。

 しかし、地上世界(物質世界)の実相は、無常であり悲惨と苦しみに満ちています。たまたま運よくお金持ちになって、そうした苦難を経験せずにすむ人生もあるでしょうが、おそらく誰もがいつかは、悲惨と苦難のどん底に突き落とされる人生を送ることになるでしょう。イエスも釈迦も、そんな物質世界の本質を見抜いていたので、地上に幸せを求めず、霊的な領域に幸せを求めるべきだと説いたわけです。
 しかし、いくらそんな教えを説いても、ほとんどの人はお金や物質(モノ)に惹かれ、引き寄せられます。そうして、数えきれないほど生まれ変わりを繰り返し、イヤというほど地上人生の苦難を味わって、ようやく、真の幸せは物質世界には存在しない、ということがわかり、霊的な領域に幸せを求めるようになるわけです。このブログを読んでいるようなあなたは、すでにそうなっているか、それに近い状態ではないかと思います。さもなければ、こんなブログなど読んでいないでしょう。「いかにしたら金が儲かるか」といったブログを読んでいることでしょう。
 そして、さらに実践まで踏み込んで、こうした救いの道に進むことができる人というのは、やはり自力だけではなく、他力、すなわち、神の援助がなければ不可能だと思うのです。これが「人にはできないことも、神にはできる」という意味ではないかと思うわけです。

もし天国に行きたければ、お金や物質に対する執着を捨て、真・善・美といった精神的な事柄に喜びを覚える境地に達しなければ無理です。
 ところが、お金を持っている人が、そのお金の大半を貧しい人に寄付して質素な生活をし、物質に依存しない精神的な喜びで満足するというのは、なかなかできるものではありません。おそらく不可能に近いでしょう。
 しかし、もともとあまりお金のない、質素な生活をしている人は、比較的、お金に対する執着は少ないのです。なぜなら、執着が強いと苦しいので、自然と執着を捨てて質素な生活をするように、ある種の鍛錬が為されていることが多いからです。こういう人は、今後、さらに執着を捨てることも、比較的容易にできるようになるのです。

 ですから、世間では、「お金持ちは幸せな人」と思うかもしれませんが、必ずしもそうとは言えないのです。霊的な領域の、あまりにもすばらしい永遠の至福に比べたら、この物質世界の幸せなど、ゴミのようなものです。ゴミに埋もれて、それよりはるかにすばらしい宝物を、みすみす逃している残念な人たち、それが金持ちと呼ばれる人たちなのです。
 一方、あまり豊かでない、質素な生活を送っている人は、お金に対する執着を、お金持ちよりは捨てやすいので、死後、すばらしい至福を得られるチャンスを持っているのです。つまり、天国に行くという、すばらしい幸運が待っているわけです。

 こういうことを言うと「現実逃避だ」と言う人がいます。「天国なんて弱者が作り出した想像の産物に過ぎない。そんなものはない。あるのはこの地上の現実だけだ。だから、この地上の現実で“勝ち組”になるべく、一生懸命にがんばるしかないのだ」と。
 そう思って生きたい人は、そうすればいいと思います。いろいろな考え方、いろいろな生き方があっていいのです。しかし、彼らの言い分からすれば、釈迦もイエスも「現実逃避した弱者だ」ということになります。
 しかし、そんな「現実逃避した弱者」が、あれほどの深遠な教理、あれほどの崇高な教えを残すことができるでしょうか。
 私にはとうていそうは思えないのです。


 9月7日 地上人生の目的 B
 
物質的なものについては、最低限の衣食住と、健康を維持できるほどのお金、老後に人に迷惑をかけない程度のお金があれば十分なのです。言い換えれば、快楽や見栄のための贅沢なものは必要ありません。すべての人が質素な生活をすれば、環境破壊なども起こりません。過剰な欲望を満たそうとするために、空気や水を汚し、森林を破壊して、しだいに地球を住めない星にしようとしているのです。また、節度ある生活に満足しているなら、戦争も起こらないでしょう。

 ところが、人間は欲が深く、とどまるところを知りません。「もっと!もっと!」と、きりがないのです。ある種の「中毒」のような状態になっているわけです。タバコや酒と同じです。最初は少量だったのが、しだいに量が増えて、ついには健康を害するまでになるのです。
 そうすると、タバコや酒を止めようという人が出てきます。世の中には禁煙や断酒に挑んでいる人がたくさんいます。それはなぜでしょうか? それは、タバコや酒がもたらす喜びよりも、健康である喜びの方が大きいからでしょう。だから、タバコや酒を止めようとするのです。

 同じように、聖者と呼ばれる人は、物質的な喜びよりもはるかにすばらしい喜びを、垣間見たのです。それは霊的な喜びです。その経験をした人は、「たとえ地上のすべての富を得られるとしても、この霊的な喜びと交換するつもりはない」とさえ言っています。
 つまり、ある快楽を放棄しようという動機を持つには、それよりはるかに高い快楽を知ることが必要なのです。
 この地上で一生懸命に高潔な人格をめざしてがんばった人が、死後に待っているのは、そうした限りない「永遠の至福」であるというのが、神秘主義の聖者たちが異口同音に説いていることです。だから彼らは物質的なことに関して、自然と禁欲的になり、生活は質素に(しばしば貧しく)なるのです。
 この地上でちょっと我慢すれば、その後、永遠に至福が得られると思ったら、この地上でいかに多くの苦難を味わったとしても、たいしたことはない、それどころか、その永遠の至福を得るに値するには、もっと苦しんでもいいくらいだ、とさえ思えるらしいのです。
 
 しかし、普通の人は、霊的なことは知覚できません。苦難を通して人格を向上させれば、死後に永遠の至福が得られると言われても、雲をつかむような感じで、ほとんどの人は信用できません。聖者たちが垣間見たという至福の喜びは、単に脳内麻薬が分泌された結果として経験した幻想に違いない、と思ったりもします。科学者と呼ばれる人たちは、おそらくそう解釈しているでしょう。
 果たして、聖者たちが口にする死後の「永遠の至福」は、単なる幻想なのでしょうか?
 そもそも「死後の生」だとか「死後の世界」などというものはなく、人は死んだら「無」になるのでしょうか?

 結論から言えば、それは証明しようがありません。つまり、わからないのです。
 私としては、仮に死後の生などというものは存在せず、まったくの無になるのだとしても、それはそれでけっこうなことだと思っています。喜びは味わえないでしょうが、苦しみも味わうことがないわけで、つまり、何も感じなくなるということですから。死後に悪いところに落ちて苦しむとか、再び地上に生まれ変わって苦しむといった心配も必要なくなります。これはこれで大変にめでたいことではないでしょうか。

 問題は、死後の世界、死後の生があった場合です。その場合、おそらく聖者たちの教説は正しいと思われます。つまり、この地上で悪いことをした人、人格向上に努めなかった人は、死後、霊界でかなり苦しむことになる、反対に、善いことをした人、人格の向上に努めて高潔な人格になった人は、死後、永遠の至福の領域に入るということです。もし死後の世界があるとしたら、このことはおそらく間違いないでしょう。

 なので、どちらを信じてこの地上を生きるかということは、ある種の大きな「賭け」であると言えるかもしれません。
 もしも、死後の生などというものはなく、人は死んだら無になるのだと思うなら、この地上の快楽を味わいたいだけ味わう生きかたをすればいいでしょう。そのためには人を苦しめたりだましたりしてもいいでしょう。人を苦しめても、バレなければ罰を受けることはないからです。そのへんをうまくやれば、この世の富や名声をできるだけ得て、人よりも多く快楽を味わった人が、いわゆる人生の成功者ということになります。
 しかし、もしも死後の生が存在していて、死後にそのことを知ったら、そのときは、想像も絶する恐ろしいことが待ち受けていることなります。どんなに後悔してもしきれないほど長い時間を壮絶な苦しみを味わって過ごすことになるのです。

 一方、死後の生を信じて、死後の永遠の至福を得るために、贅沢はせず、清く正しく、世のため人のために生き、過去の悪しきカルマを浄化して人格を磨くために、ありとあらゆる不運や苦難も受け入れて耐える一生を送ったとします。物質的な快楽はなるべく避けた質素な生活、苦労の連続の一生です。つまり、この世(物質世界)の価値観からすれば、外面的には恵まれない不幸な一生を送ったとします(内面的には幸せであることもあるのですが)。
それで、死後の世界などはなく、死後、まったく無になったとしても、すでに述べたように、それはそれでけっこうなことですし、もし死後の世界が存在していたら、永遠の至福が待っているのです。
 つまり、どちらにしても、よいことが待っている、ということになります。

 だから、私は後者の生きかたの方が、リスク管理という点からしても最善の選択だと思うのですが、世の中には物欲や虚栄心が強くて、質素な生活などとてもできない、そんな生活は苦しみで耐えられない、という人が少なくないわけです。
 一方、質素な生きかた、名誉も富にも関心なく、自分を磨いて、なるべく世のため人のために何かできることはする、といった生きかたに、それほど苦痛を感じない人もいます。苦痛を感じないどころか、喜びを感じる人もいるでしょう。こういう人は少ないかもしれませんが、一定数、いることはいるのです。
 私はそういう人こそ、この地上における「本当に幸せな人」であると言いたいのです。たとえ今は苦しかったとしても、未来は必ず明るいからです。光に向かって歩んでいる人たちだからです。
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