ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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2012年

7月6日(金) XP悩みの種

バルーン  ポッと浮かんでまたバルーン  WinXP画面右下に出る「ネットワークケーブルが接続されていません」のバルーンは、あまりにも無用なことで有名だ  ネットにちゃんと接続していても出てくるスグレモノ  マイクロソフト社HPでも原因と対策をあれこれ書いているが、どれもこれも的外れなことばかり  この程度のことを何年経っても適切に改善できないでいる


「Vista」だ「7」だ「IE9」だと言う前に、たかがバルーン問題を解決できなかったのかと、大変惜しまれる  この奇怪なバルーンがいい加減な対応で済まされ続ける理由は、「特別に実害が生じるわけでもない」という有用性重視の視点からだ  たしかにそうだが、日本には「無用の長物」ということわざがあるのを知らないか  英語にもあるのかwhite elephant


私の考えでは、この謎のバルーンはマイクロソフト本社では実は全然関知していないように思う  日本向けの翻訳過程で翻訳間違いが起きたと見るのが妥当だ  ブラウザでHPを見ている時は出現しないので、「ネットワークケーブルの接続に問題は見られません」あたりが正解ではないか  XPが出る頃はPCブームだったから、下請けに低賃金急ぎ働きを強要したか

5月13日(日) Win98論外論

PCでの作曲作業をいまだにWin98で行なっている者が存在するとは驚きである  こう言ってはナンだが、発展途上国も含めて恐らく世界で私ひとりだろう(^O^)  そのWin98に対応した中堅のウイルス対策ソフトフリー版が、ついに消滅した  昨年までウイルスデータベースのダウンロードができていた avast! というソフトが、Win98から撤退したのだ  残念だ


それで他を探し回ったら、オープンソースの clamwin というフリーソフトが見つかった  英語表記のままではあるが、それを使うことにした  始めにavast! を削除してみたら、このウイルス対策ソフトが如何にWin98を重くしていたかを実感した   avast! に限らず、ウイルス対策ソフトがそれ自体ウイルスのようにPC動作を変にしていることは、まぎれもない事実である


ウイルス対策ソフトがひとつのソフトでどのOSにも対応するためには、どうしても重くなるという話だ  最新のWindows7だけに対応すればいいのなら、非常に軽くなるらしい  しかし現状では Vista やXP あたりまでは対応しなければ売れないし、場合によってはWin2000までは考慮はされることだろう  だがWin98はもはや論外  その論外で今日も曲作りに励んだ^^

5月1日(火) フリー素材を追いかけて

半ばどうでもいいけど気になる慣習が、ネット上にはある  HP作成でお世話になることの多い「フリー素材」サイトへのリンクである  たいていは「リンクを貼って云々」との表記があるので、当然のこととしてそのサイトへのリンクを貼るようにしてきた  ところが数年経ち、そのサイトがなくなっていることに気づくのだ  完全に消滅した場合と、URLが移転した場合がある


当HPには、「フリー素材」サイトへのリンクは現在1件しかないが、本当は5つも6つも載せなければならないのだ  私が気になるのは次の1点  フリー素材を利用する者は、10年経とうが20年経とうが、その素材サイトを追いかけ回し、URLが変われば直ちにリンク修正をし続けなくてはならないのか、という点だ  向こうから変更を知らせてくるのが本筋ではなかろうか


本筋ではなかろうかなどと、青筋立てて言うほどのことでもないとは思う  フリー素材を公開している人の多くは、たんに愉しみでやっているだけだろうから  そしてこちらも、許される範囲で楽しく利用しているに過ぎないから  ゆるい関係と考えていいのだろう  とすると、フリー素材サイトによく書いてある「商用利用はお断り」という文言の厳しさは、いったい何なのか

1月5日(木) I'm cloudy.(私、曇ってます)

クラウド・コンピューターとかクラウド・コンピューティング、あるいは単にクラウドなどというIT用語が普通に行き交っている  私も時々空を見上げ、行き交う雲を追ってはいるのだ  「あの雲にしよう」とか「あぁ、形が崩れてきた…もう使えないな」などとつぶやきながら、時流に乗り遅れまいともがく日々  たとえ空一面が暗雲でも、風景を引き立てる美しい雲を探して


地上の屋根屋根に何処からか光が差し込み、そこだけ輝いて見える  冬の曇天だから寂しい感じはあるものの、温かく懐かしい風景を歩く  …さてクラウド・コンピューティングだ  其処此処で見聞きする説明によると、情報をネット上のサーバーに置いて管理するシステムらしい  それはすなわち何でもない普通のことではないか  あの雲この雲  もがく必要もなかった


PCで作ったファイル保存の技術が長続きしない  しかも保存したファイルが将来読み取れるかどうかもわからない  そのファイルがちゃんとしてても読み取る機器がもはやない場合や、ファイルが自然破損してしまう場合など、デジタル保存は案外厄介だ  それはネット上でも同じこと  だから、クラウドとは言い得て妙だ  湧き出して形ができ、やがて崩れて雲散霧消

2011年

8月5日(金) リンク

前回の続き  他サイトへのリンクを貼らないと書いたが、それは「本文中に貼らない」ということ  検索で見つけたサイトへ飛んだら、その本文中に、関連するサイトへのリンクが貼ってあったとしよう  喜び勇んでクリックしたら「File Not Found」「404」「指定されたページは削除された云々」  誰にも経験はあると思いますが、「なァんだ、チェッ」みたいな気分に陥る


で、私がこだわるのはその気分ではなく、そのリンクを放置したままにしている制作姿勢なのだ  以前書いた文章をアトから検証する作業は、多くの人は普通あまりしないだろう  私もあまりしない  ただ、検索というものがここまで進化すると、過去の深みに隠れている忘れたような文章が、検索にかかることはあるのだ  手入れの行き届かない我が家を見られる恥ずかしさ


もちろん、他のサイトの本文中に貼ってあるリンクに救われたことは数知れない  旬の話題にリンクを貼ってくれるのは大変ありがたいし、たとえ違法でも旬の音楽へのリンクもありがたい  何よりもPCや身体のトラブルで急を要するようなときには、とにかく辿りに辿る  ネットはリンクが命だなぁと、しみじみ思う  私自身、本文中にリンクを貼りたいときも結構あるのだ

7月24日(日) ガイアの知性

私は本文中に他サイトへのリンクを滅多に貼らないのだが、それはそのサイトが常にそこに在るとは限らないからだ  平家物語や方丈記さながらに、流転無常の世界はこんにちもネット上で厳然と生きている  リンクを辿ってそれが消滅しているのに出くわした時の「がっかり」感  親切にリンクを貼ってくれたのだから文句を言う筋合いではないが、小さな無責任を感じる


この文章は、あるサイトをコピー整形し、自分のサイト内にアップし直したものだ  したがって消滅の恐れはない…はずです^^;  もともと中学国語教科書に掲載されている短い文章だ  中学教科書は来年一新されるので、この文章が教科書から消えるかも知れず、せめてPC内に保存しておこうとネット上を探した  幾つもあった  それだけ注目を集めた名文章なのだ


イルカやシャチがなぜ芸をするのか、なぜ人間の指示に従うのか、ずっと不思議だった  ここにはその理由が、実例をもとにした仮説ではあるが、ある程度はっきりと書かれている  イルカやシャチは自分が捕われの身であることを理解しつつも、眼前の指導員を友として認識するらしい  限られた運命の中、友を喜ばせることで、狭いプールで自らも楽しむ生を選ぶというのだ

2010年

11月22日(月) またお前かよ

Windows7、Vistaなどではどうなのかはわからない  少なくともXPではその現象は起きないから、ここ数年のWindwsは大丈夫なのだろう  私が音楽用に使っているWin98では、どうも腑に落ちない動きをする有名なソフトがあるのだ  プリインストールされていたQuickTimeである  全く使っていないし、かなり前に削除しているのだが、これが何故か時々顔を出す


しかも常駐ソフトアイコンが数個並ぶ場所に、気がつくとちゃっかり居座っているのだ  気がつくたびに腹が立つ  QuickTimeよ、いったいお前は何なんだ  「プログラムの追加と削除」からはとっくの昔に消しているから、ソフト自体はもう存在しないはずだ  腑に落ちないのは、「システム設定ユーティリティ」で常駐チェックを外しているのに、時折常駐していることだ


削除しても何かが残るソフトは結構あるし、手動で何とかできそうなものは手動で始末をつけてきた  中には「追加と削除」からどうしても削除できず、無理矢理一切をゴミ箱に入れたものもある  あ…何でもないや…てなことが何度もあった  しかしQuickTimeの腹立たしさは別格である  常駐チェックを外しても外しても、こいつは常駐チェックを自らつける  悪質である

6月7日(月) gooたらメール

4月半ばに久し振りにgooメールにログインしたら、動作が変だった  既にその時はネットで大騒ぎになっていたようだ  私はたまに試験送信みたいなことで使う程度なので、気づくのが遅かった  それで実害というものはない(と思う)のだが、gooメールを中心にやり取りしている人は多く、2ヶ月過ぎても解決しない現状に、goo投稿欄は阿鼻叫喚の炎上地獄と化している


好感を持たれていたメールシステムやデザインが、突然一挙に変更されたのだ  生活や業務で日常頻繁に使っている人たちにもたいした説明がないままだったらしい  変更後は重くて動かず送受信に支障をきたし、便利機能もなくなった  就職活動で企業との連絡に使っていた人や、取引先との連絡に使っていた企業などが結構多く、実害は相当あるように感じる


その後私も何度かログインして様子を確かめてみた  数々の欠陥のほかに、デザインがとても悪く、魅力がなくなっている  そのくせ絵文字が妙に充実している  画面右側に出る広告がむやみに大きい  …いや、今この時期にgooメール画面に広告を出す企業があること自体、驚きだ  誰もそんなモノに興味をもつ暇はないのだ  動くか動かないかが問題のこの時に

4月26日(月) 流浪のネット世界

詐欺でもなく営業トークにしてやられたのでもないのに、いつの間にか何かに入会させられていたという経験はないだろうか  私はネット上であれよあれよという経験をした  ネットを始めて間もない頃から、どういうわけだか何かとgooをチェックしてきた  Yahoo!でもExciteでもなく、gooが好みに合っていたようだ  そこで起きた、不思議だが本当の話である


gooには当初ホームページ作成機能があり、私もWeb練習用みたいに使っていたことがある  これが廃止され、機能全てがHOOPS!という所に移行された  しかしそこも長続きせず、今度はiswebという所に移された  そうしたらiswebがinfoseekの傘下となり、ここは今に至っているから安定はしているものの、スグinfoseekと楽天が合体して楽天と同じサイトになった


ややこしいからそのままにしてあるが、結局私は望んだわけでもないのにinfoseek登録会員になっていたのであり、メールボックスには楽天広告がこれでもかこれでもかと言わんばかりに表示されることになった  もっとも、移行した時にログイン権を取得せずに放っておけばすべてなくなったのだろうけれど、そこは浅ましくも「HP容量50MB」という宣伝に惹かれたのであった

2008年

6月25日(水) 栗駒山の男たち

若い頃ヒッチハイクをしたと、2年前に本欄で書いた  その旅の目的地は平泉  先日大地震のあった栗駒高原に近い  39年が経ち、もう顔は覚えていないが、そしてどの人も高齢になっているだろうが、地震災害に巻き込まれていないことを祈るばかりだ  あのヒッチハイクは日程が順調に進み、予定外であった栗駒高原に向かう余裕ができて、そちらへ向かった


通りがかりの車に山の上まで乗せてもらい、1時間ほどぶらぶらした後、なんと徒歩で下り始めた  上りの車の中で、「このくらいなら歩いて帰れる」と考えたのだ  やがて、それがとんでもない暴挙だと気付いたのは言うまでもない  小雨になり、日暮れも近くなり、「しまった」と気づいた時はもはや引き返せない場所にいたのである  とにかく歩き続けた


山林の仕事関係らしいジープがそばを追い抜いていったが、ナップザックの中に何かを探していたかして、過ぎ去るまで私は気がつかなかった  車に乗せて貰える絶好の機会を逃した  ところが30メートルほど先でジープが止まった  数人の男が窓からこちらを見ている  気に留めてくれたのだ  乗せてくれた  やがて一関の標識が見えたときは、本当に安堵した

2007年

7月15日(日) 知らない娘さん

ビジネススーツに身を包んだその娘さんは、就職活動の帰りだろうか、あるいは3ヶ月の新人研修を終えて慣れない営業回りをしているのだろうか  数日前の夕方、電車の中で真向かいの長椅子にちょこんと座っていた姿が、今でも気になっている  ややうつむいて落ち着かない目をしていると思うと、ふっと顔を上げて網棚の上辺りに目を走らせ軽いため息をつく


時折何か思い出したかのように肩を震わせる  隣に中年のおじさんが荒々しく座っても身を正すでもない  ひたすら頭の中の何か一念を思い続けている様子なのだ  どうしたのだろうかと、私がびっくりしたように目を凝らして見たりするもんだから、時々目が合うのだが、その娘さんは全然動じない^^;  いちばん気になったのは、沈んで落ち着かない目の動きであった


就職活動がうまくいかないのか、仕事で失敗でもしたのか  娘さんの顔立ちが純朴なだけによけい気になるのであった  派手な付き合いや生活とはまず無縁な様子であった…
「またコンビニ弁当になりそうだわ  今日はシャケ弁ね  いや、いなりがいいわ  それともマックで済ませようかしら…」  純朴娘の悩みは震えるほどに深かろう

5月17日(木) ヒカルの電話

昔、といっても八、九年前、固定電話機を買い換えたとき、どうしても欲しいと思っていた機能が存在しないことに愕然とした  着信時に光で知らせる機能だ  今では当たり前になったこの便利な機能が、当時私が買える価格内で調べた限り、どこにもなかったのである  店員に尋ねたら、何を言ってるのだこの客は、というような顔をされた


なぜ光る機能が必要だったかというと、ヘッドホンで音楽を聴いている最中に、着信がわかるようにしたかったから  それまでに1、2度、そういう状況で電話に出損なったことがあった  趣味と仕事の両立という観点から、着信お知らせ光線^^;は、ぜひ必要なのだった  今では着信に限らず、多くの操作に光合図が利用されている  見たか、時代の読めぬ店員め(^0^)


言うまでもないことだが、この機能の充実・発展は、ヘッドホン愛好家の声が大きくなったからではなく、聴覚障害者や彼らをサポートする人々の努力のおかげだろう  あるいは、騒音に悩まされる地域の人々の声もあったに違いないし、自らの騒音で呼び出し音が聞きにくい工場内電話の改善策として考え出された面もあったろう  ただ、…ちょっと光り過ぎてないか、この頃…

3月29日(木)お呼びでない面々

春の選抜高校野球たけなわである  球場に響き渡るアナウンスが心地よい  「4番センター不始末クン」  一体どんな選手だ  目を凝らすと、「なんとか甘言水」をがぶ飲みしながら、あの人がバッターボックスに立った  法にのっとり適切に処理している姿が美しい  球審が札束を掲げてプレー再開を合図した  懸賞金か  いや、これがあの「不適切な金銭供与」だ


ピッチャーマウンドには不二家のペコちゃんがいる  女の子も出られるのか、春の選抜は…  いや待て、ペコちゃんが女の子だと誰が見分けたんだ  外見で判断してはいけない  ペコちゃん、謹慎が解けてよかったね  謹慎といえば、見分けがつかない「モー娘。」で、不祥事ゆえに唯一見分けがついたあの子がまた…  わかっちゃいるけどやめられないんだよ、人間だもの


植木等が亡くなった  私は小中学生の頃にリアルタイムでそのギャグと歌声を聴くことができて、日曜の夜「お呼び?お呼びでない↓」は大きな楽しみだった  声自体が既に歌声となっている、稀有な人だ  いちばんの聴き所は、「スーダラ節」の中の「わかっちゃいるけどやめられない」に続く挿入句、「あ、ホレ」という部分である  あの絶妙の浮遊感に、ニッポンが離陸した

3月19日(月)濁世を生き抜くのだ3

北寄りの猛烈な風の中を帰宅した  うがいのためコップにぬるま湯を注ぎ、ふと気がつくとイソジンではなく台所用洗剤を握っていた  濁世である  何が起きるかわからない毎日なのだ  街を歩けば、何処から出てくるのかと思うほどの人の波  向かい来る人を避け過ぎ行く人に道を譲り、今このスクランブル交差点にいるのは、本当にすべて人間なのかとの、素朴な疑い


中には人間でない者も混じっているのではないか  物の怪・生霊・死霊などが、いかにもそれらしくはもはや生きられない時代  彼らがほぼ人間として暮らしていることは、十分に考えられる  そういう化け物は「妄念の産物」と否定できても、「人間に限りなく近いけれど人間ではない」者が、私どもと共棲していることは確かだ  耳目を塞ぎたくなる「人でなし」事件の多発


日本語で「人でなし」と呼び、時には「ケダモノ」「虫けら以下」と、ケダモノや虫に失礼な言い方をしてきた、所謂「人でなし」は、実は本当に人ではないのかも知れない  類人猿と人間の間にもうひとつ、類猿人が存在するという説だ  私が作った^^;  肉体遺伝子は人間と同等だが、何かが…何かが足りない類猿人  この概念を使うと、猥雑な現実の多くが説明できる

3月17日(土)濁世を生き抜くのだ2

宗教が描く純然たる世界には、私はとても耐えられない  仏教では、弥勒菩薩がすべての人間を救い出すのは56億7千万年後だそうだ  私は其処でやっと救われるクチだろうけど、あまりにも長過ぎる  キリスト教では、最後の審判ですべての人間を篩(ふるい)にかけた後、選ばれた人間には永遠の命が与えられるという  私は、永遠の命よりも一切消滅したいくらいだ


むしろ、今ここが地獄であるとか天国であるとかいわれる方が、納得できる感じがする  世界を説明し尽くせる教義(と信者は信じている教義)を持つ大きな宗教というものは、必要ないのだ  少なくとも私は馴染めそうにない  私が神を頼るとしたら、エックハルトの言うような神であり、仏を頼るとしたら、かつて私の身代わりに折れた傘なのだ(傘さん、ありがとう)←かさじぞう


私がわかるたったひとつのことがある  自分が感じ取れないからといって、神仏が(あるいはそれに付随するものが)存在しないとは、決して言えないということだ  このことは「いいぞ、ハイドン」や「だじゃる丸」に、何年も前に書いたことがある  …つまり私はこの何年か、全然成長せずに、同じことを繰り返し言ってることになる  成長?これがまた問題を孕む言葉だ…

3月16日(金) 濁世を生き抜くのだ

仏教では仏、キリスト教では神  これらが特別な存在というわけではなく(本当は特別なんだろうが)、実は私の身近にいつもいる、という考えが私は好きだ  身近どころか、中世ドイツの異端神学者エックハルトの言では、「神は常に私と共にあり、私よりもよく私を知る」のである  あらゆる思い、あらゆる悩みは、まず神を通過したのち私に至る  これがエックハルトの説だ


仏教にも、仏は本来の威光を和らげて私や周囲の人、身辺雑物に現れるという教えがある  つまり目の前のすべての現象を仏の化身とみる考えである  あぁ、いいなと感応できることばかりではなく、あぁ、イヤだなと思うことも皆、私を悔心悟達へ導く機縁というわけだ  現実の日常生活では、イヤなことを受け入れるのは至難の技だが、考えとしては気に入っている


修行などの特別な努力をせずとも、神も仏もそこにいる、身に備わっているというのは、一見安易にみえる  しかしその感覚を本当に身につけるのは難しいことだ  逆に、「この修行をすればこのレベルに達する」という自力修行の方が、マニュアル頼りで安易だと、言えなくもない
私はこういう青臭い話が好きだ  というより、このほかに話せることなんか、ないかも…

2月26日(月) 昼下がりの東京電車

多少混み合っている昼の電車だった  十代半ばの女の子数人が乗り込んできた  のべつ幕なしに喋り合う中に、ひときわ感じの悪い声があった  喉を全開して怒鳴るように喋る  いちいちの発声に力が入り過ぎ、耳が疲れてしまう  むやみに大きい声で、電車内を圧するかのように喋るのだ  乗客の乗り降りにつれ、座っている私の真ん前に移動してきたからたまんない


万事休すと観念したその時、向かいの座席が数席空いた  女の子たちはおめき叫ぶような笑い声と共に、空いた席に皆座ったのだ  彼女たちと隣合わせになった、五十がらみの婦人こそ気の毒であった  その人はずっと本を読んでいたのだが、彼女たちが座った途端、口を歪めうんざりした表情で本をバッグに仕舞い込んだ  ところがしばらくして思いも寄らぬ異変が起きた


ある駅でかなりの人が降り、そしてあまり乗ってこなかった  つまり車内が急激にすいてきたのである  すると女の子たちが、中でもアノ子が、俄(にわ)かにトーンを落として喋るようになった  驚いたのなんの、「ふ、普通に喋ってる…」  のべつ幕なしも声の聞き苦しさも相変わらずだが…  女の子たちは乗客の大半を蹴散らした後、静かにお喋りを楽しむのであった

1月11日(木) 膨張するHP宇宙

2001年ハルに開設して以来膨らみ続けたこのサイトを一刀両断、シンプルな構成にした
かつてPCに「秀丸エディタ」を入れた理由は、必要だったからではなく単なる見栄であった^^;  ある本に「秀丸とWinLPrtのアイコンが並んでると、「おぬし、なかなかやるな」と言われるかも」と書いてあったのだ(爆)  「秀丸」も半年ぐらいは、メモ書き程度にしか使えなかった


転機は「ファイル操作の隠し技(学研)」という本に出会ったこと  テキストエディタの本当の魅力を理解することができるようになった  メモ帳でもホームページができると知り、ホントにメモ帳でできたから、びっくりした(たしか始めは、「あ」と書いた^^)  そこから「秀丸」を使い怒涛の勢いでHPづくりを始めたが、あまりにも多岐肥大雑多になり過ぎたので、整理しました


現存ページの中で開設時の面影を残す^^;のは、「いいぞ、ハイドン」のみになった  文の改行の仕方がほかと違う  400字詰原稿用紙丸写しだ  背景も制作時のまま  作り直そうと思わないでもないが、このレイアウトには「地表に現れた古層」といった趣きがあり、今回はそのまま残すことにした  読んでくれる人に、安心感のようなものを感じて貰える気がするのだ

2006年

9月1日(金) 新ロマン紀行・冥王星

「たとえ惑星扱いではなくなっても冥王星は冥王星であり、事実が変わるわけではない」と捉える人も少なくはないようだが、果たしてそうだろうか  たしかに事実が寸分変わるわけではなく、私たちの勝手な区分けが変わるだけである…かのように見える  しかし天文の世界では、この「勝手な区分け」というのがかなり大切なもののような気がする


夜の星々を見上げればわかるが、そもそも地球から見る星の散在は、殆ど無秩序だ  わずかに、北極星を中心として何がしかの規則性を見出せる程度である  それも星自体の規則性ではなく、あくまでも地球から見た規則性ではあるが…  古代、いろいろな地域で様々な星座や星物語が作られたのは、そのわずかな規則性に宇宙の不思議や秩序を感じたからであろう


その感覚に間違いはなかった  本来はバラバラな星々を、星座というイメージで区分けしたことが、こんにちの天文学の基礎になったと私は思うのだ  星座そのものに学問としての意味はないけれど、天文学が発達するために星座は必要だったということである  天文学にはロマンが要るのだ  冥王星が矮惑星一千個と共にあることは、新しいロマンの始まりである

8月23日(水) 自分がコワい2

ふと脳裡に浮かんだことにまつわる事象が、しばらくして現実のものとなる…  このようなことは、枚挙に暇(いとま)がない  例えば、友人の骨折りと手筈(てはず)で、オーケストラ演奏会を堪能した帰路のことだ  「初めて生(なま)のオーケストラを聴いたのは学生の頃で、たしか岩城宏之指揮のN響だったな…」などとひとりで回想しつつ、夜空を眺めて帰ったものだ


その数日後、岩城宏之が亡くなった  (この人はピアノも何も弾けずに、打楽器1本で音楽界に斬り込んだ異端児である  ピアノはおろか打楽器もできない私に勇気を奮い起こさせてくれる数少ないひとりであった)
ふと脳裡に浮かんだ人が死ぬ…  これはいやだ  こんなのはたまたまだ!…と思いたい


それに私の場合は、予知でも予感でもなく、まして予告などではさらさらない  なぜなら、「たんにその人が脈絡なくふと脳裡に浮かぶ」に過ぎないからだ  数時間後、数日後、これこれのことが起こる、という意識を伴って浮かぶ訳ではないので、予知予感予告になど全然なってない  もっとも、全くのでたらめでもないだろう  五感で感じるものがすべてだとは、私は思わない

8月21日(月) 自分がコワい

お盆休みで実家に帰っていたときのことだ  夜のTV番組に、見覚えのある人が出ている  しばらく考えてから、「これ、今田耕司か?」と弟に確かめたら、「そうだ」との返事  だから何だと言われればそれまでだが…  実はその日の朝、起き掛けに「あの今田耕司というタレントはどうしてるんだろう」と、脈絡もなくふと頭に浮かんでいたのであった


あっと言う間にお盆休みも明けて、松戸に戻り仕事を再開した頃の、やはり朝  今田耕司の兄貴分に当たるダウンタウンの浜ちゃん、近頃あまり見ないけどどうしてるんだろうとふと脳裡に浮かんだ  するとその日の夜、たまたま見たTV番組で司会をやっているではないか  今田のときも浜ちゃんのときも、番組表や予告編をあらかじめどこかで見ていることはない…


恐ろしや、極めつけは「決勝戦引き分け再試合」である  過日(5月28日)本欄に、1969(昭和44)年の青森・三沢高校の快進撃に触れた  あの話の後、三沢高校は決勝まで進み、愛媛・松山商業との間で引き分け再試合という名勝負を成し遂げたのである…  ふと脳裡に浮かんだことが、無意味な予知であったりする  私は今夏決勝を予知していたのだろうか…

8月3日(木) ラストシーン

ラストシーンがすべてを決める  ラストシーンだけが名編ということもある  何十年も前に読んだものなのに、ラストシーンが(ラストシーンだけが)忘れられないマンガがいくつかある  戦記マンガの「紫電改のタカ」では、主人公が特攻出撃するシーンと、それを知らない母親と恋人が主人公の好物を持って飛行場最寄り駅に到着するシーンとが交錯して、泣けるのだった


「火の鳥」未来編で、半ロボットのロビタが「神よ、ロビタを救いたまえ」と地に臥すラストシーンも、泣ける  どうしても忘れられないシーンである  「紫電改」も「ロビタ」も、ストーリーの殆どは忘れてしまった  でもこのふたつのラストシーンは、私にとって何か大切なものが含まれているシーンなのだろう、わりあい鮮明に覚えているのだ


亀田興毅である  試合直後、コーナーの椅子に腰掛けて、恐らくは自ら負けを覚悟したであろう亀田である  昨日の対ランダエタ戦での、拳闘史上最も醜悪なラストシーン、彼のタレントぶりで何とかならなかったものか  「みんな、ありがとう  でもこのベルトは、今日は貰えない」と言って、チャンピオンベルト受け取り拒否に及んだなら、凄い奴だということになったろうに…

7月13日(木) プロとは何か

プロとアマの違いを言う言い方はいろいろあるだろうが、私が好きなのは吉本隆明による定義だ  (吉本は、今では「ばななの父」と言った方が通りがいいかも知れない)  明日の朝までに原稿用紙50枚書かねばならぬ状況に追い込まれて、とにもかくにも書き上げてしまうのがプロだ  正確ではないかも知れないが、これが吉本の定義だ  学生の頃、友人に教わった


なるほど、完成度の高い詩作を日に1篇のペースで自分に課し、異常とも思えるレベルとボリュームでそれを成し遂げた、若き伝説の人らしい言い方である  この人は未完・未熟な者に対して心根の優しい人だから、上記の定義を述べる際にも、「出来不出来は問わない」というようなひとことを付け足していたように記憶している  出来は悪くても完全に仕上げるのがプロだ


そこそこ仕上げて「あとは明日やろう」…これはアマチュアだ  いやたとえ普段はプロであっても、「あとは明日やろう」と思う時点でアマチュアになっていると言うべきだろう  そしてアマにはほぼ必ず、あとは明日やることに決めたについての事情があり都合があり言い訳がつく  ぎりぎりの瀬戸際にいるわけではないからだ  逃げ道があるのがアマだ、とも言えるだろう

6月29日(水) 続・Web 0.02

昨日(28日)の続き  ほかにも幾つか「妙な感じ」はあるものの、これからも当該サイトへのリンクは貼り続けるつもりである  かのお騒がせ堀江氏の言でいちばん印象に残ったのは、お金で買えないモノ発言ではなく、「リンクはネットの命」という発言だ  全くその通りで、比喩ではなく「リンクを辿ったことで救われた命」は、実際にあると思う  それくらい、リンクは大事だ


だが一方で、頑なにリンクを拒む傾向もネット界に出てきている  SNSというコミュニティ・システムである  めくるめくSNS世界へ入るためには、既にそこに入ってる人から招待される必要があるものと、誰でも簡単に入れるものとがあるらしい  前者の場合、初期のメンバーは誰に招待されたのかという疑問が残り、後者の場合「意味ないじゃん」という感慨を抱く


完全な招待制をとるSNSは、「Web2.0」どころか、200年前の鎖国制度すら連想させる  江戸時代の鎖国の方がむしろ健全だったろう  「出るな」「入るな」の両面が一応機能していたからだ  SNSは「部外者は入るな」といいつつ、一方でメンバーはネットを自由に行き来する  SNSが求められる背景はわかるが、健全なあり方とは言えないのではないだろうか

6月28日(水) Web 0.02

ここ数ヶ月、相互リンク依頼のメールをたびたび受けた  以前は殆どなかった^^;  ありがたいありがたいと喜んで応じていたが、2件目、3件目あたりからどうも妙な気がしてきた  いずれも「趣味」を前面に出したサイトで、その限りではおかしな所はないのだが、ページの作りがどれも何となく似ている  何よりも、共通して「掲示板」が存在しない


当サイトも始めは「掲示板」はなかったが、明らかにサイト建設中という未熟・未完成の感じが、サイト全体を覆っていたはずだ(今でもか^^;  しかし上記のサイトはどれも形式が既に完成していて、今後も「掲示板」を設置する気はない感じを受ける  それはそれでひとつの見識かも知れない  しかし、そこの「リンク集」が多方面で精緻を極めている共通項は一体何なのか


リンク集を充実させることがアクセスアップにつながるのはだいたいわかるが、あそこまで充実させておきながら自らのサイトにアクセスカウンターが存在しないのも不思議である  個人サイトでありながら、上記のどこのサイトにもアクセスカウンターがない  なくても不自然ではないけど…  「ちょっと情けないかも知れない」我がアクセス数、近頃は快感でさえある(^○^)

5月29日(月)これを書かずに死ねない4

十二泊すべてで民家に泊めてもらったと書いたが、一泊だけ記憶違いがあった  最後の夜である  1台のトラックで福島・栃木・埼玉を過ぎ、東京に入ったのは深夜11時前後  3県を1台で通過できた幸運の後に、当時は決して賑やかではなかった東京・千住近辺で降りることになってしまった  その夜、電話ボックスの中で丸くなって休んでたのは私ですm(_ _)m


これで旅の運も使い果たしたかと思われたその翌日、自宅からそう遠くない、しかし顔見知りでもない靴専門店の車が通りかかり、私を乗せてくれたのだ  いくら通りかかっても、「何だろう、あの少年は… 気になるな… 話だけでも聞いてみるか」という気持ちが運転手に湧いてこなければ、通り過ぎていく  止まってくれるだけでも本当にありがたいことなのだ


思えば、最初の日の最初の車から、いい運転手に巡り会い続けた  最初に乗ったのは、町工場へ出勤途中の経営者の車であった  工場の近くまでなら、という当然の条件付きで乗せてもらった  ところがその工場のある近辺を過ぎても、次の町、次の橋を過ぎても、止まらない  結局「ここを真っ直ぐ歩いていけば、岩手へ着くよ」という地点まで連れていってくれたのだった

5月28日(日)これを書かずに死ねない3

真夏である  「傷むといけないから梅干しか入れてないけど」と言って、その日の昼食用におにぎりを持たせてくれるお宅もあった  その家を出た後、日盛りの中を延々と歩く1日が待っているのだ  私が歩き続けたのは、往きも帰りもおもに国道4号線である  運が良ければ、そこを通るトラックや乗用車に乗せてもらうこともあるわけだが…


その夏、東北は燃えていた  目的地である岩手県を折り返した旅の後半から、町々のざわつきが、往きとは違う感じがした  それは、青森の三沢高校が太田幸司投手の力投のもと、甲子園で快進撃を続けているためとわかった  宮城でも福島でも、たまたま入った食堂の雰囲気などがざわざわしていた(それは後から形造られた合成記憶かも知れないが)


何台ものトラックや乗用車が過ぎていく  今度ダメだったらもういいから、歩こう  ヤケを起こしながら手を挙げて合図を送る  あぁ、びゅんびゅん過ぎていく…  と、トラックの後ろを走っていたオートバイが、速度を落として寄ってきた  後ろを指して「乗れ」と…  こうして、親切なあんちゃんオートバイの尻にまたがったこともある  映画「ローマの休日」男版であったよ

5月25日(木)これを書かずに死ねない2

夜7時か8時の団欒どき、玄関でチャイムが鳴った  出てみると、薄汚れた身なりの暗い顔をした少年が立っているではないか  困惑し怪しみ追い払うのが妥当であろう  仮に、今玄関のチャイムが鳴ったら、私は、あなたは、その少年を迎え入れるだろうか  十二泊すべての夜、私は温かい普通の家に迎え入れられたのである  これを奇跡と呼ばずにいられようか


ヒッチハイクをするからには、野宿野糞(失礼^^;はある程度覚悟の上であった  しかし薄汚れた身なりの暗い顔をした少年は、一生かかっても返せない多くの親切を頂いて帰ることができた  帰宅後、それぞれのお宅に礼状を出したが、無論そんなことでは収まり切らない大恩を、私はずっと感じてきた  ホントに、単なる奇跡、幸運、偶然だったのだろうか


夜9時を回っていた  今夜こそ野宿だなと、人気(ひとけ)のない境内でしゃがみ込んでいたら、5、6人の若者が現れてそのまま何処かへ消えた  1時間ほど経って再び彼らが現れた時、暗闇の中にまだ私が居るのに気づいたひとりが、声をかけてくれたのだ
今では何処の町かも思い出せないが、あの人たちの大恩に報いる生き方を、私はしてきたか

5月24日(水)これを書かずに死ねない

いつかまとめて書きたいと思いながら、かなりの長文になりそうで機会を見つけられないままに過ぎていたこと  今日はその一端だけでも書いておきたい
若い旅行者を偶然に世話した友人のことを書いた、今朝の朝日新聞投書欄の一文に、私は昔の自分を思い出し、あわや落涙であった  高校生の頃、私も旅先で多くの親切を体験した


当時ヒッチハイクがブームだったとはいえ、ホントにやった人は多分少ないだろう  無鉄砲な私は、十二泊ほどのヒッチハイクにひとりで出たのであった  その時に親切にしてくれた何人もの運転手さんがいるから、今でも「私、運転手の味方です」  そして、見ず知らずの私を泊めてくれた何軒ものお宅  今も「よく泊めて下さったものだ…」と、思い出すたびに胸が熱くなる


どう迷い込んだか、とある新興住宅地ですっかり暗くなった時のことだ  そういう地域はガードが固く、知らない人を泊めるなんて殆どあり得ないことだ  当然、断られ続けた  ところがある家で、困惑する奥さんの後方から、ご主人らしき人の「泊めてあげなさい」という声が聞こえてきたのだ  今思えば三十代そこそこの夫婦、ごく普通のサラリーマン家庭であった…

5月21日(日) 博士に聞きたい数式

九九表を眺めていて、いくつかおもしろいことに気がついた
・各位の数字の和…九の段→9、18=9、27=9、…81=9のように、9になる
            五の段と二の段→1〜9まで揃う(出てくる順序には規則がある)
            三の段→3、6、9を繰り返す


各段の総和の各位の和…すべて9
 (各段の総和…九の段405、八の段360、七の段315、…三の段135、二の段90、…)
・8×1=8の8と、9×2=18の18を足すと、26  9×3=27の27へつながる
 7×1=7の7と、8×2=16の16を足すと、23  8×3=24の24へつながる


・八の段…各位の数字の和が、8、7、6、5、4、12、11、10、9となる  12→1+2=3、11→1+1=2、10→1+0=1とすれば、1〜9まで揃う  また、そこまで無理しなくても、4〜12が揃っている  似たことは、四・六・七の段にも生じる(六の段は6、3、9の繰り返し)
なぜそうなるかよりも、そうなってることを楽しもう(^0^)←説明できないときは人生訓として活かす

4月18日(火) 私の五千円

今、松戸では(正確には千葉7区では)衆議院補欠選挙が行われている  偽メール引責辞職とは無関係の理由による選挙だが、時期が時期だけにかなりややこしい状況だ  かつて「金権千葉」とあだ名がついたこともあったほど、千葉は日本有数の金鉱に恵まれていた  今日も選挙カーの人が「五千円、ありがとうございます」と叫びながら過ぎていくから、びっくりした


江戸川の水運を利用した醸造業などの発達で、松戸よりさらに上流の流山・野田といった地域には、いわゆるお大尽(金持ち)が沢山いたそうだ  彼らの遊びはカネに糸目をつけないお大尽遊び  その名残で、選挙カーにおひねりを投げ込む人が後を絶たないという(←嘘です^^;


その日私は、ある食品の素材を買いにイトーヨーカドーへ赴いたのだった  そして入り口の安売り服に目が眩み、食品素材はすっかり忘れて上階の服飾売場をさまようことになった  これはと思う物は皆高い  たださまよい、手持ち五千円をぐっと我慢して帰る羽目になった^^;
我慢の財布票は何処へいく  今日も聞こえる「ご声援、ありがとうございます」

4月11日(火) 挫折しないブログ

ブログは2度挫折した^^ゞ  最初は'04年  ひと月もたずに…  2度目は昨秋から今年の2月まで…  どちらも「プリントゆうえんち」訪問者向け学習コラムだったが、「怠け日を自動表示するカレンダー(笑)」に気力体力が追いつかない  それで、挫折しないブログを始めることにした  トップの「緊急時用告知板」がそれである  書かないことを本来の姿とするブログ


トラブルの際に使うだけ  果たしてPCトラブルかネット接続トラブルか、自然災害かあるいは私自身が誘拐されるのかはさておき、トラブルに巻き込まれた時の迂回・連絡ルートを用意しておくことは、ネットに限らず現実世界でも大事なことだ  日に日にその必要性は増している
私の予感は結構当たるのだ  今日も当たった↓


1時間ほどの外出予定  あと2時間ぐらいは雨が降りそうにない空模様だった  しかし西日本での大雨情報から、降るかも…と思い、折り畳み傘を持って出たら、帰る頃に降り出したのだ
スグには降りそうになくても折り畳み傘を持って出る理由は、もうひとつある  畳んだ折り畳み傘を手に歩いてると、決して悪人には見えないのだ(爆)  畳んであることがポイント^^

3月10日(金) アニメ日米格差

アメリカ・アニメに比べて、日本のアニメは動きがぎこちないとしばしば言われてきた  TVアニメ初期の「鉄人28号」は、その「粗雑な動き」の典型であった  これに対し「ポパイ」「フェリックスちゃん」など当時から既にアメリカ・アニメは動きが滑らかで、可能な限り「一瞬前」の動きに忠実につなげようとしていた  日米のその違いは今のアニメでも歴然と存在するようだ


しかしアメリカ・アニメに見られる、滑らかな動きのヌメッとした感触が私には肌が合わない  ディズニーアニメを思い浮かべてみるとわかるが、登場人物(動物)の動きは、滑らかゆえにかえって不自然である  単位当たりのコマ数を多くすれば自然な動きになるという発想は、かなり単純だ  繊細と省略の歴史が長い日本人の感性に到底適うものではない


日本人は、平安絵巻の「屋根を省いて室内の様子を俯瞰(ふかん)する」手法など、大切な要素が欠けていても決して不自然さを覚えない  俳句短歌など省略の文学に多くの人が親しむのも、「あるべきものがない」状態を楽しみ、必要なら頭の中で補うだけの知性が、誰にでもあるからだ  日本人にとっては、現実の忠実な再現はかえってリアルから遠ざかる

1月9日(月) 博士の愛した数式3

映画化された「博士の…」はまだ見ていないが、小説と比べていちばん異なるのは、たぶん義姉の存在感ではないかと想像する  小説では、義姉は影のような存在から次第に存在感を高めていく経過を辿る  一方、映画ではたしか浅丘ルリ子が演じており、初めからインパクトが強いに違いない


ところで、この小説の最大の妙味は、博士と義姉との関係ではなく、eπi+1=0 なる数式が博士と義姉とにもつ意味でもない  いや、本当はそこを想像させたい小説なのかも知れないが…  私が妙味と思うのは、子供に注ぐ博士の情愛の深さである  登場する子供は「ルート」しかいないから、情愛の対象はルートだけだが、ほかに子供が出てくれば同じように接したに違いない


子供に対する博士の情愛は「無条件」である  博士にとって子供は、まず「何をおいても守るべき存在」であり、「ほめながら方向をつけてあげる存在」であり、過ちをも「選択できる道のひとつであった」と「勇気づけ道筋をつけてあげるべき存在」なのだ  つまり、何ひとつ否定しない  子供の人生では、たとえ0を掛けて一切が0になっても、そこに1を足せばいいのである

1月8日(日) 博士の愛した数式2

80分間しか記憶が保てないという設定は、大変に微妙なさじ加減だろう  60分では短か過ぎ、120分ではたいていの日常事が完了してしまう  この80分設定について、小説の進行の中で整合性が疑われる場面もなくはないが、細かい理屈で辻褄合わせをしないままなのは、かえってよかった  この小説にとって大事な整合性は、数式だけなのだ


数式や素数が頻繁に登場する  それについて述べる博士の言は、そういった内容が殆ど理解できない語り手である「私」や、同じく理解できない読者である私が心打たれるほどに、一途な思いに溢れている  語り手の「私」は、それが現世とやりとりする際に博士が交換できる唯一の名刺なのだと早くに悟るのだ  大投手江夏でさえも、博士は数で語っている


この小説のいちばんの見所は、江夏を巡る博士と「私」、「私」の息子(愛称ルート)の三者三様の熱いエピソードだろう  有名なノンフィクション「江夏の21球」など、現役時代すでに多く語られてきた江夏も、不祥事以後は球界人としてまともに語られることは殆どなかったのではないか  この小説で、江夏は完全復帰を果たしたといえるかも知れない

1月5日(木) 博士の愛した数式

これほど内容が予期できない小説も珍しい  単行本発売時に文庫本化を願い待ち望んでいたほど、この小説が気になっており、期待もしていた  その上、「第1回」本屋大賞を受けたとあって、更に期待は膨らんだ  「第1回」本屋大賞は、最初しか受けられない栄誉である(笑)
正月三が日で、「博士の愛した数式(小川洋子・作)」読了^^



この小説のいちばんの美点は、作中の誰もが、誰に対しても、また何に対しても、悪口を言わないことであろう  不平不満をこぼす場面は結構あるが、人でも物でも、悪く言ったり悪意をもって接したりということは、全くない  これひとつだけでも、架空のおとぎ話としての「博士の…」を読んだ値打ちはあろうというものだ


職業意識の強さということも、特筆できる美点だ  語り手である「私」は、家政婦として偶然接するだけなのに、本来の字義通りに「家政」を全うしていく  必要にして十分に、全うしていく
これはまた、老人介護の物語でもある  取り繕いようのない、どうしようもない場面も少なくないのだが、「私」の職業意識の強さが全編を清潔で清冽な感じに仕上げている

2005年

12月25日(日) イブの幸福論2

幸福は才能である… その才能は磨かなければ光らない  幸福を感じる才能にも、持って生まれた大小や出来不出来はたぶんあるに違いない  でも肝心なのは才能を磨く技術の方である  大きな才能も磨き方がまずければ汚く光る  逆に、持って生まれた才能が小さく不出来でも、磨き方が上手ければ美しく光り、周りの人々を温かく照らし喜ばせるのだ


幸福感得力を磨く技術といえば、世界名作アニメ「愛少女ポリアンナ」を思い出す^^;  今から19年ほど前に放送され、さしたる話題も呼ばずに終わったが、作中で繰り返される「よかったさがし」という技術が私には忘れ難い  (文庫本の表題は「少女パレアナ」)
「よかったさがし」は神を身近に感じる方法のようだが、一種の遊びであるのが大変いいと思う


私たちの多くは、生まれてこのかた「不幸は拡大レンズで、幸福は縮小レンズで」見る癖が染み付いているから、どうしても幸福に対する感覚が鈍っている
「よかったさがし」は意識して幸福を探す訓練であり、いい大人がやろうとしても始めは全然ダメだろう  ただし、限界はあってもそれが技術である限り、ある程度は身につくのだ

12月24日(土) イブの幸福論

「この歳になって…」の最たるものが、箴言の類いを読んだり作ったりするのをやめられないことだ  時折ふっと手に取って読む数行の、なんと目に染み入ることか  ブヨブヨになった日常を、少しではあるが締め直してくれるのだ
クリスマス・イブの今日、脳裡に何かが降臨したかのように、ある言葉が浮かんだ


──幸福は才能である──
億単位の資産を持ち妻子に恵まれ、事業も発展し続け、たとえ気持ちにゆとりがあっても、幸福を感じ取る能力がなければ、その人は幸福には決してならないだろう  幸福を感じ取る能力に長けていれば、その人は聖書に名高いヨブのように、真実、とっても羨ましい人生になる(^^)


幸福は才能である…  貧しく小さな暮らしの中に、幸福な人をより多く見ることがあるのは、幸福が一定の尺度で測り得るものではなく、人それぞれの感得能力に負っているからだ  そういう人は、ごく簡潔にニコニコしてるからわかる
なお、「幸福は才能である」の由来はわからないが、たぶん何かで読んだ、知られた箴言だろう

11月30日(水) ウイルス哲学2

というわけで、セキュリティ対策はオンラインで行なうのがいちばん妥当ではなかろうか  PC内に擬似ウイルスを抱え込まなくて済むからだ  数年前、McAfee社がオンライン型に変えたときは、あまり評判がよくなかったらしく、すぐにPCインストール型のソフトに戻した  オンライン型を行なうのは、当時の日本では時期尚早だったのだろう


韓国製のセキュリティソフト「バイドクター」は、DLファイルのサイズから、どうやらオンライン型のようだ  しかも、起動時に必ず配給元サーバに接続しようともがき苦しんでいる^^;  殆どの場合、接続できない  試用している人が大変多いとみえて、HPにも満足につながらない混雑状況である  ネット上には早くも「誤検出が多い」などと非難の声が載りつつある


誤検出はともかく、ブロードバンド先進国の韓国だから「バイドクター」が歓迎されたのだろう  仮に日本で歓迎されないのなら、ブロードバンド未発展国の証明になりかねない
オンラインでのセキュリティ対策は、今後もっと広まっていい  個々のPCに、今までの全ウイルス・全スパイウエアに対応した検知ファイルが内蔵されるなんて、スペースの無駄である

11月29日(火) ウイルス哲学

よく言われることかも知れないが、アンチウイルスソフトは、それ自体がウイルスである、または限りなくウイルスに近い  プログラム知識は皆無でも、何となくわかる  それは、ITの先端をいくアンチウイルスソフトが、実は古来からの身体解毒法にのっとってるということである


ウイルスを検知するには、2つの方法があるだろう  ひとつは、凸に対して凹が食らいついてはめ込むように、ウイルスを自らに取り込み一体となり無害化もしくは排出する方法  もうひとつは、ウイルスの害悪部分が「123abc」というコードなら、「delete-123abc」というようなコードで対応し検知削除する方法


どちらにせよ、パターンファイルとか定義ファイルなどの名前で、PC内に大量の擬似ウイルスを飼っていることには変わりない  無害化されているとはいえ、不気味な予感を覚える  上の例の「delete-」の部分を一挙に消すウイルスが出現しないとも限らないヽ(。・o・ヽ)  こんなことを思いつく私は「越後屋ぁ、おぬしもワルよのぅ」かも(爆)

11月25日(金) フリーウエア万歳

Win98にとっては超重量級・難起動巨艦「大和」と化した「ウイルスバスター」  本欄4月21日に書いた通り、常駐から外して久しいが、それを完全に削除することにした
理由は、ほぼ無駄と思われるお金がかかるからである^^;  サイトもPCも安軽単でいきたい  そんな気持ちからフリーのものを探したら、とてもいいものが3つ見つかった


「バイドクター」  本来はアンチウイルスソフトだが、「スパイウエア検索」に威力が大きいことがわかって、「スパイウエア」専用に使うことにした  ネット上に数日前に躍り出て、今やサーバーに繋がりにくい状態が続いている  韓国製だが、表記は日本語(奇妙な日本語訳だ^^)
「AVG」  すべて英語表記  ただ、軽くて高性能なので、アンチウイルスはこれに決めた


「ZoneAlarm」  何年も前から使いたかったが、海外製で英語表記のため、敬遠していた  今回調べるうちに、完全日本語表記版になっていることがわかり、ファイアウォールはこれを使うことにした(フリー版はファイアウォール機能のみ)
上記3つのうち2つを常駐にしたが、巨艦「バスター」に比べれば大変軽く、ありがたい

11月18日(金) 冬のアフロディティ

その人とすれ違ったのは、或る小春日和の昼過ぎ、河原の土手を散策しているときだった  前からか後ろからか、どこから聞こえてくるのだか、綺麗な歌声が流れてくる  と思ったら、向こうから人が来る、それも髪の盛り上がった…いやあれはアフロヘアだ  ん?待てよ…  その時である、歴史が動いたのは^^;  それはアフロヘアなんかじゃなかった!


なんと、色とりどりの落ち葉をアフロヘアのように上手にまとめてかぶり、両手を大きく振って元気よく歩いていたのだ  しかも綺麗な歌声はその女の人のメゾソプラノだとわかった  落ち葉の帽子に天上の歌声  童話の国へ迷い込んだかと錯覚した  半円形にあまりにも膨満したアフロ落ち葉なので顔はきちんとは見られなかったが、三十前後の人かと思われた


落ち葉の中から小鳥が飛び出すかも知れない!  そう直感した私は、狭い土手をすれ違うときにちらっと落ち葉の間を盗み見た  これでもかというくらい、落ち葉がぎっしり詰められはめ込まれていたが、小鳥は留守らしかった  いや、初冬の青空のもと、高らかに闊歩(かっぽ)して歌うその人が小鳥かも知れなかった

9月29日(木) まとまりなく9月末

プロ野球楽天の田尾監督解任は、その理不尽さから推して、昨年の就任時すでに決まっていたのだろう  あの時もシダックス野村監督に白羽の矢が立った  しかしシダックス側としてはタイミングが悪く、やむを得ず「1年後に」という密約が…  そんな事情があったように思える


ハリケーンは、決して「Hurry、Kane!(急げ、ケーン!)」ではない  実は、ハリケーンのケーンは映画「市民ケーン」のケーンではないかと仮説を立てたのだ  「ケーン」という人名は、「いかにもアメリカ」を指す男性の人名で、だからこそハリケーンに女性の名前がつく  「急げ、ケーン!カトリーナの暴風雨に巻き込まれるぞ」…てな具合に…  おもしろい勘違いであった


カラスが鳴いている  増え過ぎて好き勝手し放題、糞害やゴミ荒らしで人を悩ませる  しかし…  カラスが、道端で死んでいるのを見たことがない  彼らはいったい何処で死ぬのだろう  きっと死ぬときには人目につかない場所へ移るんだろうけど、そこへ行く途中で力尽きてしまったカラスがいてもいいはずだが…  わからない

9月9日(金) メールアドレスの公開

迷惑メールの淵源を確かめるべく、この身を人身御供としておよそ8ヶ月間  トップページのメールアドレスを偽装して、迷惑メールが減るかどうかを見続けたが、結果は「増えた」(^^;
だから現在は偽装実験をやめ、ここも「プリントゆうえんち」も、正しいアドレスに戻している


HPにアドレスを公開していることと、迷惑メールがやってくることは、それほど関係はないようだとわかった  考えてみれば、HPを持たない人にも迷惑メールは数多く届くのだ  HPで公開されたアドレスが迷惑メールの発現地となる割合は、数年前に比べ小さくなっているのだろう


私の所に飛来する迷惑メールは、普段は日に6、7通で、多くても10〜15通ぐらいだ  街なかを歩いていても、10人や15人はアブナイ人とすれ違っているだろうから^^;、じゅうぶんに気を引き締めて甘言に近寄らず(爆)、その上で「これくらいは甘受」せざるを得ない数なのかも知れない

7月20日(水) 存在と治癒

海外旅行のガイドブックなどで、写真からとても懐かしい感じを受けることがある  その多くは南国なのだが、そこへ行ったわけではないし、昔の日本に風情が似ているわけでもない  懐かしい感じといっても、見たことがある感じ(既視感)とはちょっと違う…


南の島の市場などで人が行きかっている写真が、とくに懐かしい感じを抱かせる
きっと、私はそこで生きたかったのだ(^^;  そこで生まれ育っていれば、世界の見方が今とは全く違うだろうし、柔らかくて広々とした心が自然に身についたに違いない…それは幻想で、生きやすく思えるその地にも、その地ならではの苦界があるとわかってはいるが…


単なる現実逃避だ  そう自分を戒めてきたが、最近はそうでもない気がしている  パプアニューギニアに、もうひとり自分がいてほしいのだ(^0^)  いや、本当にいるのではないだろうか  そう思うと、何だか救われるものがある  決して出会うことのない、ひとりのふたりだ

7月6日(水) 汗顔の至り恥の上塗り

アンダン亭6月7日(火)記事はたいへんな知識不足であった  勤労の義務のみが憲法に明記されていると思い込んでいたが、勤労の権利が義務よりも先に明記されていることに、今日たまたま気づいた  人生におけるミスとズレには慣れてはいるが、ムチも加わったか^^;


まがりなりにも仕事があること、仕事ができる身体であることに、感謝と喜びをまず感じるべきなのに、そしてそういう時期もたしかにあったのに、何ということだ  マンネリ気分に陥っているとしか思えない  なぜなら仕事柄、憲法には時々目を通すのだ…


マンネリとは、同じことの繰り返しを意味するものではない  マンネリとはまず第1に、自分に対して気持ちが動かなくなることを意味するのだ  次いで仕事がうまく回転しない理由を、自分の外にあるものに見つけ始める  自戒しよう…  マンネリになるほど生きてはいない!

6月25日(土) PC小さな話

PC使用者の9割以上が Windows で、Mac使いは1割に満たないそうだ  それなのに価格がほぼ同じなのは、なぜなのか  広く出回ってる卵は、数量限定の有機卵よりずっと安い!
Windows は今の百分の一の価格が妥当と思われる  20万円のが2千円(T▽T)


画像ソフト「HyperPaint」がバージョンアップをやめた  ソフトとして一応の完成に達したとの弁が掲載されていた  大変お世話になったフリーウエアである  このホームページの画像・写真処理はすべて「HyperPaint」を使った  バグ修正の要望を1度だけ出し、「バグ確認」の返事も頂戴した  目立つ部分ではないのだが、最終版でもバグのままであった^^;


メーラー「JupiterU」の後継である統合ソフト「Jupiter5」が開発中止になった  作者療養のためとあり、既にHPは閉鎖状態である  OEに代わるメーラーを探していて、このフリーウエアに出会った(OEは、設定がわかりにくくて馴染めなかった)
「JupiterU」も数ヶ月で使わなくなったが、OEに頼る必要はないことを十二分に教えてくれた

5月21日(土) ぽちタマ系アダルト

最近「プリントゆうえんち」掲示板に、タチの悪い書き込みが繰り返されるようになった  「プリントゆうえんち」も、ようやく1人前になったというわけか(爆c爆)


アダルトサイトへのリンクを装う書き込みの多くは、「管理人が女性」「サイト対象が子供」の掲示板で行なわれる  男が集まる掲示板に書き込めば、それなりに効果がある(^^;のに、効果の薄い「女性・子供」掲示板になぜか多く書き込まれるのだ  女性管理人や子供訪問者なら、安心できるのだろうか  ぽちタマじゃな


たとえアダルト系であっても、いい感性でいい作品を制作する人は必ずいるに違いない  世間一般の良識の目は厳しいが、自分の欲望を形にする作業を全否定する気はない  「自分の欲望を」という点に自覚があれば、だ  その自覚がある人は、ムダな書き込みはしないだろう
なんだか、応援になっちゃったみたいだが、違うぞ^^;

5月10日(火) なぜ人を殺しては2

昨日の文末近くに、「いのち」の視点では、この問いは片付かないと書いた
人間のいのちだけが大切なわけではないからだ  人も蚊とんぼも、等しく世界に開かれている  大切さの軽重はない  そして人も動植物も、生きるためにお互いに殺生をするわけだから、「なぜ人を殺してはいけないのか」の説明がそもそも成り立たちにくいのである


では、プライバシーの視点はどうか  あらゆる生命体の中で、人間だけがプライバシーを持っている(あるいは感じ取れる)  プライバシーは人間固有のものであり、これこそ人間の尊厳なのだ


「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いは、「いのちは大切に」の視点にこだわる限り、答えに窮するものが含まれているのは確かだ
しかし、「あなたを24時間毎日覗かせてくれますか」という単純なプライバシーの視点を持てば、思い浮かべることさえ不可能な問いなのである

5月9日(月) なぜ人を殺しては

「なぜ人を殺してはいけないのか」…この問いは、神戸の児童殺傷事件のあとずいぶん取り上げられた  きわめて真摯な心から発せられた問いだとは思うが、同時にきわめて傲慢な心から発せられた感じも抱く


「それなら、24時間あなたの部屋を覗き続けていいか」…私、辻の発言である^^;
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発した人や、似た疑問をもつ人は、自分自身が24時間覗かれ続けることを容認するだろうか  傲慢な感じを抱くと言ったのは、その点である  自身のプライバシーは頑なに守った上で、他人のプライバシーを軽く扱ってもいいかのような問いを発するのは、傲慢であり、かなり卑怯でもある


覗かれるのがイヤなら、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという、自省のかけらもないような問いは2度と発しないことだ
「いのち」の視点では、この問いは片付かない  この問いは、「覗かれるのはチョーいやだ」というプライバシーの視点で、肩透かしを食わせなければならない

4月30日(土) 仮想現実メモ

若者やインターネット、あるいはゲームや犯罪を語るキーワードに、「仮想現実」「バーチャル」というものがある  マイナス面を言いたい時に使われることが多い
例えば「仮想現実と実際の世界との境界が曖昧になって…」というように  しかし、曖昧になる程度の境界なら、始めから境界などではなかったのだろう
境界が曖昧になるという言い方を認めるならば、2つの現実は境界で接しているわけである  つまり、行き来が可能なのである  あるいは、オーバーラップして存在しているとも言える


そもそも、実際の現実の底辺は、仮想現実である  文字通り「仮に想ふ」現実  例えばナイフ  危ない使い方をして指を切る場面を思い描く  血が流れる  これはイメージトレーニングである  イメージトレーニングの上手い下手が、現実を決めることになるのだ  スポーツでよく使われるが、あらゆる現実現場の根幹は、仮想現実である


でも日本の現実は奇怪だ  仮想現実を否定しがちな層の、少なからぬ人が、根性・根気・やる気などという仮想現実をフル活用して他人にハッパをかけるんだから

4月21日(木) PC常識からの離脱

私のPCはWin98という年代物  近頃は、起動の際サウンド・デバイスを読み込めずに、音楽が鳴らないこともある  そこで、初心に帰ることにした
初心というのは、私の初心ではなくて、PCの初心である  PCの常識とされていることから、離脱することにした


WindowsとIEの切り離し  Windowsはどのバージョンも、IEがWinでありWinがIEであるような仕組みになっているそうだ  それを、「いえきる」というソフトで切り離した  これでかなり軽くなった
さらに、ウイルス対策ソフトの常駐を外した  Win98にとっては、あまりにも無意味有害なソフトと化している  時々は更新と検索をするが、普段は眠っていてもらおう


現在、ルータだけが砦となっている中で、PC自体はきわめて軽い  ハッカーなどからすれば、私のPCは透け透けであろうけど…というのが従来の常識なのだが、何をやってもハッカーの方が上手(うわて)なんだから、そこらへんは諦めが肝心なのである^^

4月1日(金) 名川中校歌のこと

「音楽照葉樹林」に、名川中学校校歌を掲載した  この春、青森に統合新設された中学だそうだ  何故私がそのMIDI吹奏楽版を手がけたかについて、少し説明します


この話を持ちかけてくれたのは、ネットで親しくなった彩女さんである(リンク集・「私のHP」)  今年始めであった  私は他人の作品を編曲した経験がなく、まるで自信はなかったが…
ただ、向こう(町教委)にもまだちゃんとしたピアノ伴奏譜がないらしく、好きなようにやって構わないとのこと  結局それが、救いになった^^
ネットでメロディ譜を拝見し、子どもたちが歌っているMP3を聴いた  校歌には珍しい、静かな抒情を湛えたメロディだと思った  これならできるかも^^ と感じた


作ってるうちにアレもやりたいコレも取り入れようと、すっかり楽しくなった
とりあえず非公式な形ではあるが、関係する方々に吹奏楽の1バージョンを提供できたことが、とても嬉しい  生徒たちがホントに吹いてくれたらもっと嬉しい (T▽T)

3月22日(火) 再々インストール

18日に再インストールしたXP(18日参照)を、再び再インストールする羽目になった


あの後、Windowsのアップデートを施しただけのクリーンな状態のPCに、試しに、いや…魅入られたように、YAMAHAのソフトMIDI音源をインストールしてみた  この、試しにってぇのがいけない…興味本位、好奇心が、穏やかなPCライフを何度粉砕してきたことか  でもまあ試しに^^
ものの見事に「起動直後に再起動」を繰り返し始めたから、しょんぼりと強制切断した


結局、YAMAHAのソフトMIDI音源がXPに合わなかったようだ  ただ、相性が悪いときは、たしか「このソフトはXPでは使えません」というような表示が出るようになっているはずなのだが…やはり原因の多くは、首尾一貫性に欠けるXPの方にあるだろう


ところで、「起動直後に再起動」の繰り返しはどれほど続いたら終わるのだろう  試しに…いや、それはやめておこう^^;

3月18日(金) 反復再起動○○回

塾で子どもたちに自由に使わせているPC(XP)が、突然「落ちる」ということを繰り返すようになった  起動直後に「落ちて」、その後勝手に再起動  それを飽かずにやるのである、XPともあろうものが(笑)


実は子どもがやったのではなく、私の操作が原因(…爆泣)  YAMAHAのソフトMIDI音源がSSWのCD−ROMに同梱されているのを思い出して、それをインストールしたら、「起動直後に再起動」を繰り返すようになったのだ
ほかのソフトMIDI音源は入れていないし、ネットへのリンクショートカットと幾つかの小ゲーム以外は殆ど何も入ってないPCなのに…^^;


結局XP再インストールの道を選んだ  デバイスマネージャーに表示されるはずのデバイス(ドライバ)が、全て消し飛んでいるのがわかったからである  最低限のデバイスすら認識されなくなっていた


修復機能の高いXPがこんなことになろうとは…これが「うちの子に限って」というヤツか…^^;

2月27日(日) 迷惑メール

迷惑メールファンタジー その1「白身あります」
白身あります…この件名を理解するのに数秒  Amazon.comの魚屋さんか…とか


自身あります…でした  7年前の老眼鏡だからなあ^^;  「テニスの玉子さま」と読んでひんしゅくを買ったこともある  予備知識なしの状態では、テニスとくればタマでしょう…決して的外れな誤読ではないのだ(的外れでないことだけは自信あります)


自信あります…何でもない漢字を間違えたその焦りに親しみを覚えて、つい開けてしまった  あるURLをクリックせよとあったので、クリックしなかった  ああ、これがめくるめく禁断の幻想世界へつながってるんだなあ…ダメダメ!白身ありますを思い出せ!


それにしても、トップページのアドレスを偽装して1ヶ月以上過ぎたのに、いまでも正しいアドレスで迷惑メールが襲来する  自動収集ロボットで1度収集されたアドレスは、絶対に消えないのか  あるいは何者かが手作業でシコシコと数字の5を消しているのか φ(。。* )シコシコ
私としては後者であってほしい  ロマンがあるから ヾ(∇^〃)o(__)ノ彡_☆

2月20日(日) 聴覚の不思議

「不思議な電車音」の続き
自分の身体の音は、ほかのどの音よりも至近にあり、それも決して小さな音ではないだろう  呼吸音や心臓音血流音はその代表だが、ほかにも軋む音やうごめく音など、様々な音が体内を走っていると思う
でも、何故聞こえないのだろう (^^?)


これも恐らく、聞こえないように体内スイッチがセットされているのだと思う  自分の体内音は異物ではない  そのことが、胎児から幼児へのいずれかの時点で、きちんと仕組まれるのだ
私の記憶によると…大変覚束ない記憶ではあるが…幼児の頃は、自分の体内音がわりあいによく聞こえていた気がする  いや、たんに母親の胎内音を恋しがって、胎児時の記憶をテープやMDのように再生していたということかも知れないが…

2月17日(木) 不思議な電車音

ウォークマンのシャカシャカ音、ケータイの呼び出し音や話し声、各駅の発車合図音、電車内での車掌のアナウンス…そのどれよりも、電車の走行音は大きいし、絶え間ない  それなのに、「電車の音が大きい!」と車内で腹を立てる人はいない  何故だ (^^?)


たぶんだが、走行を続けるにつれ、走行音は各人の人体にとって異物ではなくなってくるのだ  音も振動も身体全体で受け止めざるを得ず、身体全体でなじんでいく  本当はきわめて危険な音であり振動なのだが、動物のもつ危機回避術のひとつなのだろう  カメレオンみたいに、自分を電車化するのだ  元祖電車男電車女である^^;


そのほかの車内でのさまざまな音は、耳という特定の感覚器官だけを、しかも唯一ふたのできない感覚器官だけを、ちょびちょび刺激する  出現の仕方が不規則で、刺激したりしなくなったりする  音側のその身勝手さに、私たちは苛立つのだろう  自分をシャカシャカ化、ケータイ化することができない苛立ちである

1月29日(土) 不殺を誇るべからず

アウシュビッツ収容所解放60周年とのことで、ここ数日ニュース等でその建物を見聞きする  私にも、あながち無関係なことではないので、ちょっと書いておきたい


第2次大戦中に設けられたナチスの各収容所の凄まじい姿を私が知ったのは、「夜と霧(フランクル著)」という本からである  大学3年の時だったか、たまたま同級生の引越しの手伝いをしていて、その本に出会った  新居に並べられた書棚を眺めていて、「何だコレ?」と手に取ったのが私の人生の転回点になった  まさに、出会ったというにふさわしい偶然と必然の綾


私もまたナチスと同じことをするかも知れないということ  逆に、もしかしたら、より弱い人の代わりに、先に死ぬことを選ぶかも知れないということ  いえいえ、誰かを身代わりに立てて、自分はうまいこと生き延びようとするかも知れないということ  時・機会・立場・成り行きで、そのどれもが私にはあり得るのだ
それに思い至ってからというもの、ずいぶん謙虚になりました^^;

1月14日(金) 新銀河鉄道の夜

自動改札で私の前の若者が怒鳴り、機械を蹴っ飛ばしていた  無理もない  前の人がミスをしたためにしばらく機械が作動せず、人の流れも気分の流れも停滞したからである
しかしその若者が蹴っ飛ばすとフタが開いたからおもしろかった(^_^;)\(・。・。) ォィォィ


何百何千という人波の中だから怒鳴ったり蹴っ飛ばしたりできるのだろう  駅構内にいるのが前の人・若者・私の3人だけだったら、その若者はおのずと穏やかに対処したに違いない
たった3人  もしもそれが人類最後の3人で、もうほかに誰もいなくて(スミマセン^^;何かの都合で改札を通らなければならない3人だったら…若者はいちばん静かで寡黙であろう


仮に「新銀河鉄道の夜」が書かれたら、こんな風に怒鳴ったり蹴ったりする若者も、怒鳴ったり蹴ったりする死者として美しく描かれることになるのだ

2004年

12月23日(木) ’04年十番勝負

マツケンサンバとエビ様…引きずり出しで産婆の勝ち
「気合だあっ」と長嶋ジャパン…肩すかしで長嶋ジャパンの勝ち
上越新幹線と羽田新ターミナル…揺さぶりをかけられた拍子にまわしが外れて新幹線の負け


小泉首相とクマ出没…丸投げで首相の勝ち
振り込め詐欺と日歯連事件…引き落としの後、とったりで技のデパート振り込め詐欺の勝ち
スポーツ界の愛と亜衣と藍…べそ払いから「サ〜ッ」の掛け投げ連続技で永遠に愛の勝ち
ヨン様と欠陥車…隠し技タイヤ落としで欠陥車の勝ち
最年少芥川賞と「世界の中心で愛を叫ぶ」…背中蹴りとばしで最年少芥川賞の勝ち


相次ぐ台風と地震雷火事おやじ…家事おやじの新規参入で未曾有の混乱、勝負つかず
負け犬と勝ち犬…「只今のショ〜ブについてご説明致します  写真判定の結果…」

11月28日(日) 初冬の色

黄や赤に変色した葉っぱの、多くはもう路上に落ちている裏通り  落ち葉をカサカサカサと鳴らしながら、後ろから車が追い抜いていった
巻き上がった風と落ち葉と埃が、私の身体に当たる  このときの幸福感は、例えば春の桜吹雪を浴びたときの酔いしれる至福感とは、全く違うものだ


この幸福感の材料は、車によって巻き起こった不規則な風であり、巻き上げられて埃とともに身体に当たった切れ切れの落ち葉であり、青く乾いた空である
喧騒と排気ガスが育てたような枝々が、異様に美しく静かなあの世を垣間見せてくれた
点々と木々の並ぶ無計画で無神経な街なか  明るい日を受けてはいるが、既に空気は否応なく冷たい

9月26日(日) この日アップ

「FM303」を新しく始める。おもに詩・音楽を軸に、あれこれを書いていくつもり
また、未完の花咲くページのいくつかを削除した


「だじゃる丸」についてひとこと
詩を書き始めて以来、その付録・余禄・落ち穂のように、いろんな言葉くずしが生まれた
ガチガチに硬直してる現実に対し、関節を外した言葉で少しは膝カックンできるようになったのも、だじゃる丸さまのお蔭
これからも大事に育てていく。でもちょっと整理しないとな (^^;


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