生きているときはいつも
関 富士子
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夜更けに男が帰ってきて |
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どしんばたんしながらベッドに入る |
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ひどく酔っていて |
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力いっぱい抱きしめられる |
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イッショニ死ノウ |
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イッショニ死ノウヨ |
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苦しくて声も出せない |
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気が遠くなる |
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いつかこうして死ぬのだ |
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からだをぐったりさせて |
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息をすっかり吐いて |
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そのときを待っている |
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悪のかぎりを尽くして |
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男に幸福に殺される |
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そのときを待っていると |
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男の腕から力が抜けて |
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もう眠っている |
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潮風の吹くキッチンで |
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あたりを泡だらけにして |
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ぬぐってもぬぐっても |
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夕方には油に汚れている |
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死はまだやってこないらしい |
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今夜も生き延びて |
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つないだ手をそっとほどいて |
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男の腕から離れていく |
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ひとりにならなければ |
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生きられない |
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眠るまでのどれだけの時間か |
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胸の中に分け入って |
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涼しい流れの音がきこえるまで |
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待たなければならない |
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そこではたったひとりでいながら |
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すべての生き物と交わっている |
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悪のかぎりを尽くして |
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このうえなく幸福である |
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なぜだかどうしてもわからない |
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ひとりにならなければ |
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生きられない |
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そのことを裏切りと思う |
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でもずいぶん前から男は知っている |
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わたしの腿のあいだに指を |
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差し入れたまま |
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ひとりで眠っている |
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手探りでほおに触れると |
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男の窪んだまぶたには |
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涙がいっぱいたまっている |
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なぜこんなに求めながら |
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どうしようもなくひとりなのだろう |
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いつかイッショニ死ヌ |
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男に幸福に殺されるのだ |
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そうしたらほんとうに |
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いっしょになれるだろうか |
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生きているときはいつも |
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ひとりだったわたしたち |
「gui」no.58 nov.1999より
迷い人
関 富士子
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―迷い人が発生しました |
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防災カーの拡声器が響く |
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交差点の騒音でよく聞こえない |
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―髪は短く…… |
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白いポロシャツに紺のズボン |
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灰色のゴムゾウリをはいています |
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お心当たりの方は…… |
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わたしが探している男にちがいない |
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背中には過酷な労働でできた瘤がある |
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まばらに生えた白い鬚に |
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汗の塩がこびりついている |
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きっと今はそんな様子のはず |
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―くり返し迷い人のお知らせです |
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今日11時50分ごろ |
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ミハラ陸橋の下で姿が見えなくなりました |
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身長160センチぐらい |
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85歳のおじいさんです |
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名前は…… |
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そのとき交差点の赤信号の向こうに |
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男の姿を見つけた |
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少しかがんだ肩のあたり |
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膝の抜けた作業ズボン |
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黄ばんだシャツ |
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すり切れたゴムゾウリを引きずって |
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猛スピードのバイクに掠られた |
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思わず息をのむが |
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よろけてようやく立ち止まった |
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今角を曲がろうとしている |
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あれはわたしのたいせつな男 |
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女神川の川原で見えなくなってからずっと |
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流れを泳ぎに泳いで |
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わたしのあらゆる時間をめぐっていた |
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わたしたちは七歳だった |
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ふるさとの石ころだらけの川原で |
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かがんで小魚たちを見ていた |
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水は踝に巻き付いてはほどけた |
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尻のあたりはびしょぬれだが構わない |
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いつもしまいには裸になってしまう |
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あまり熱心に水の中をのぞいているので |
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わたしはそっとそばの岩の後ろに隠れた |
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静かな短い時間のあと |
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男ははっとして立ち上がった |
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あたりを見回し驚愕の目をみひらいて |
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その瞳はみるみる涙でうるんだが |
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わたしは岩の陰から出ていかなかった |
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後ろに川の音が高まるのを聞きながら |
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いつまでも見つめていた |
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時間が洪水のようにわたしたちを押し流した |
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防災カーの拡声器がビルの壁にこだまする |
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―迷い人が発生しました |
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ちぢれた赤い髪に赤いスカート |
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赤い口紅をつけたおばあさんを探しています |
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目は赤くただれています |
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左の肩に薄い刺青のあとがあります |
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男がわたしを探している |
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今はあの角を曲がったところを歩いている |
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交差点のこちら側で後ろ姿を見た |
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わたしのたいせつな男 |
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よろよろしているから遠くには行かない |
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今度こそ岩陰から出ていかなければ |
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信号が青になるまでのあいだに |
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バッグからちびた口紅を取り出す |
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震える指でくちびるのあたりをなぞって |
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むき出しの肩の薔薇にも紅をさす |
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曲がり角は車の流れにさえぎられ |
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かすんで見えない |
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うるんだ目をなんどもこすってみる |
「rain tree」no.13 1999.9.25 より
小花模様のサンドレス
関 富士子
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蒸し暑いので袖なしの小花模様の |
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ばあちゃんのサンドレスみたいなのを着たら |
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肩も腕もすうすうして気持ちがいい |
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胸の下で紐を結んで白い日傘をさして下駄をかたかた |
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裏の菜園にきゅうりを採りにいったら |
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支え棒の陰に白い日傘が動いていて |
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がざごそしゃがんでいる人がいる |
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誰かと思ったらばあちゃんが |
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小花模様のサンドレスのお尻をからげて |
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おしっこをしていたのだった |
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わたしはびっくりして背を向けた |
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あれはどうもうちのばあちゃんみたい |
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20年前に死んだけど |
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よく畑でおしっこをしていたし |
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汲み取り便所は黒くて深くて臭い穴から |
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蛆がのたくって出てくるので恐ろしい |
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でも畑は涼しい風が吹いて土におしっこが |
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しみていくのがおもしろくて |
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わたしもよくおしっこをした |
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ばあちゃんはもう何年も惚けていて |
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夜中に家を脱け出してよその家の庭の蛇口を開けて |
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頭から水を浴びてずぶぬれになっていたり |
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(暑いと言っていた) |
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山道を越えてすたすた歩いていたり |
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(かあちゃんに会いたいと言っていた) |
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国道の真ん中に寝そべっていたり |
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(死にたいと言っていた) |
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家じゅうにおしっこのにおいがしみていて |
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子供を7人も産むとお尻の筋肉がのびてしまうらしい |
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きっとわたしもあんなふうに惚けるのだ |
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しまいにはサンドレスの裾もからげず |
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しゃがみもしないで立ったまま |
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だらだら垂れるのだ |
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小花模様が風にひるがえって |
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ばあちゃんは気持ちよさそうだった |
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もういいかなと思って後ろを向いたら |
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そこには誰もいなくて |
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夏の夕方の風がさやさや |
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きゅうりの毛深い葉っぱを揺らしていた |
「イリプス」創刊号 1999.10より
<詩>セント・オーガスティン(水島英己)
<詩>迷い人(関富士子)へ
<詩>生きているときはいつも(関富士子)へ
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