郊外の私鉄無人駅のベンチに、腰をかけている。夕刻のラッシュにはまだ遠
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い、午後のこの時間帯に、電車に乗り込む客を見たことがない。足元に汚れた
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乗車券が散らばっている。ホームの広告板は分譲マンションのポスターが、
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横に並べて幾枚も貼ってある。
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読みかけの絵本を取り出す為に、カバンに手を入れると、たくさんの砂粒の
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ようなものに触れた。軽やかに冷たく、指にひっかかる鋭利な粒もある。カバ
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ンの中を覗くと、砂粒に思えたものは、絵本の中の活字だった。冬の弱い日差
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しが一条届いて、雲母のように輝いている。あわてて本を引っ張り出すと、ま
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だ残って絵本に張り付いていた活字が、頁の間からサラサラこぼれ落ちてしま
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った。カバンをゆっくり左右にふると、湾の中に波がよせてくるような音がす
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る。背後で懐かしい誰かが笑っている気配もした。
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今朝の通勤電車の中で私が読んだのは、主人公の少女が学校から帰ってみる
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と、自分の家が忽然と消えていたというところまでだった。少女の父はバイオ
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リン弾きで、家には優しい母と兄がいた。この絵本をどこかで一度読んだ事が
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ある、と思った。それをどうしても思い出さなくてはならないような気がして、
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本を閉じカバンに入れた。その時だったのだろう。活字が次々に剥がれだした
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のは。
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今はどの頁も絵だけが残っている。銅版画のように、濃く細いタッチで、最
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後の頁では痩せた少女が一人後ろ向きに立っている。影が長く長くのびて、家
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々の屋根が揃って右に傾いている。以前に読んだ時、この頁では少女が父親と
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手をつなぎ、片方の手で小犬を抱き、こちらを向いて笑っていたのに。
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ああ、矢張り女の子は家に帰りたくなかったのだな。本当は。・・・・そう
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思った。
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待っていた電車がやって来た。身づくろいをしてノロノロ立ち上がる私に、
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「どうぞ、お急ぎ下さい。」と少し怒ったような顔をして車掌が言った。
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昇降口に立った時、ついと風がたち、誰かとすれ違ったような気がした。
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振り返ると、さっき迄私が座っていたベンチの傍に小さな女の子が立ってい
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た。 |