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 2020年1月の独想録


 1月23日 仏教が説く「不都合な真実」
 次回のイデア ライフ アカデミーのテーマは「原始仏教1」です。原始仏教、すなわち、釈迦の直接の教えです。日本のほとんどすべての仏教は大乗仏教ですが、大乗仏教は釈迦の死後、百年ほどたった後、釈迦の教えとは違う教えを作りだして「これこそお釈迦様の本当の教えだ」と勝手に決めつけ、それが中国にわたって日本にやってきたものです。仏教の定義というものを「釈迦の教え」であるとするなら、大乗仏教は「仏教」とは呼べません。
 ただし、だからといって、大乗仏教には価値がない、というつもりはなく、大乗仏教は大乗仏教なりの価値があると思っています。
 というのも、釈迦の教えを、その通りに実践するには、出家するしかなく、たとえ出家したとしても、その修行は大変にけわしく、すべての人が実践できるわけではないからです。ましてや、在家の人には実践は不可能です。せいぜい、釈迦の教えのうち、わずかに実践可能なものを行うことができるくらいです。
 その点で、大乗仏教は在家の人でも実践できます。それが大乗仏教の価値あるところだと思います。
 しかし、大乗仏教が、釈迦の教えの代替物にはなり得ません。釈迦がめざしていたもの、すなわちそれは「解脱」ですが、それが大乗仏教を実践することで可能になるなら、釈迦は、わざわざ出家しなければならない厳しい実践の教えを説いたりしないでしょう。最初から大乗仏教の教えを説いていたはずです。
 もっとも、大乗仏教でも、真剣に実践するならば、解脱の可能性はあると私は考えています。ただしそのためには、非常に厳しい修行となるでしょう。そのため結局のところ、原始仏教の修行の厳しさとほとんど変わらなくなってしまうわけです。どのみち安易な道というものはないのです。「仏様の名前を適当に唱えてさえいれば解脱できる」などという、虫のいい話はないのです。そんなものは単なる気休めでしかありません。仏様の名前を唱えて解脱するには、それ以外のすべてのものを捨て去って、命がけでひたすら念仏を唱えなければならないでしょう。そこまでしたら、解脱する可能性はあると思います。

 釈迦の教えによれば、解脱するには、この地上世界に対するすべての愛着や欲望を、徹底的に、完全に捨て去り、消滅させなければなりません。
 しかし、そんなことができる人は、どれくらいいるでしょうか。欲望を消滅させることの難しさは釈迦自身、よく理解しており、「激流をわたって向こう岸(彼岸)に至るようなものであり、それができる人はきわめて少ない」と語っています。まさしく「激流」なのです。穏やかな流れであっても、川を泳いで向こう岸にわたるのは難しいのに、激流となったら、ほとんどの人は流されてしまうでしょう。しかも、釈迦という最高の指導者の直接の弟子であっても、すべての弟子が解脱したわけではありません(たぶん、かなり少なかったはずです)。ならば、そのような指導者を持たない、私たちのほとんどは、解脱できる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。
 欲望を消滅させなければ解脱できないという理論(真理)は、大乗仏教でも同じなはずですから、結局、大乗仏教の道を歩んでいたとしても、この世に対するすべての欲望を消滅しなければならないのです。その意味では、原始仏教でも大乗仏教でも、その道はけわしいということになります。

 このように、仏教というものを理解すればするほど、絶望的な気分になってきます。人間存在というものの、救われがたさ、という現実を直視させられるのです。釈迦は冷徹なほどの合理主義者であり現実主義者でした。「苦しみたくなければ欲望を捨てなさい。欲望を捨てられないのなら苦しみなさい。以上」といった感じで切り捨てます。釈迦は慈悲深い方だったと思いますが、だからといって、真理をねじ曲げてまで気休めを言うことはありませんでした。
では、いったい、どうしたらいいのでしょうか?
 「欲望を捨てない限り苦しみはなくならない」というのは、真理であると思います。「大食していたら痩せない。痩せたければ大食してはならない」という理屈と同じくらい明白です。苦しみから解脱したければ、欲望を消滅していく道を歩んでいくしかないのです。たとえそれがどんなにけわしかったとしてもです。
 もちろん、急にすべての欲望を完全に消滅させることなど不可能です。しかし、根気強く、時間をかけて、少しずつこつこつと欲望を減らしていくことはできます。その道を歩んでいくしかないのです。あとはただ、いかに効率よくその道を歩むか? です。
 イデア ライフ アカデミーでは、そのような道について、考えていきたいと思っています。
 「原始仏教1」の授業は、2月15日/16日です。
 


 
1月1日 新年の決意
 新年あけましておめでとうございます。
 皆様は、今年はどのような年にしたいと思っておられるでしょうか?
 私は今年、60歳になります。ついこの間まで40歳になったと思っていたのに、いつのまにか60歳、老年の域に突入する歳になってしまいました。20歳までは人生、長く感じましたが、だんだん時がたつスピードが早くなり、40歳から今までの20年は、あれよあれよという間でした。ということは、これからの20年はさらに早く、あっという間に80歳になってしまうのだろうと思います(80まで生きられれば、の話ですが)。
 この文章を読んでくださっている方の多くは、私より若いのではないかと思いますが、40歳を過ぎていたら、(脅かすわけではありませんが)60歳なんてあっというまに来てしまいますよ(笑)。だから、しっかりとやるべきことはやって後悔のないように生きるようにした方がよいです。
 歳を取るにつれ、容色は衰えからだの機能は低下していきます。これは受け入れなければなりません。しかし、脳(精神)の機能は、適切な管理をすれば、肉体ほど低下しません。実際、70歳を過ぎても抜群の記憶力や判断力、思考力を持っている人に、少なからずお会いしてきました。
 肉体は老けてしまっても、精神だけは死ぬまで若々しくありたいと思います。
 では、どうしたら、若々しい精神を保つことができるだろうかと、最近よく考えます。肉体年齢は若いのに精神的にはずいぶん老けていると感じる人もいて、この差はどこから来るのでしょうか?
 その理由はいろいろ考えられるでしょうが、「目標をもって挑戦し続ける」ということが、大きな要因としてあげられるのではないかと思います。脳というものは、何か目標を懐き、挑戦しようとするとき、自動的にその目標を達成すべくフル回転します。しかし、目標も挑戦もなければ、脳はみるみる萎縮していきます。

 私の60歳からの目標は、「真善美に生きる」です。
 今まで、古今東西の哲学や宗教をいろいろ研究してきてわかったことは、およそ哲学や宗教の目的というものは、一言で集約するならば、「真善美に生きる」ということなのです。真善美について、頭で理解しただけでは真に理解したことにはなりません。実際に真善美に生きることができて初めて、真善美という、およそあらゆる哲学・宗教のエッセンスを理解したことになるのです。それこそが真の哲学者であり真の宗教者です。
 しかし、このことだけが動機なのではなく、他に2つの動機があります。
 ひとつは、過去の偉人の名前を汚さないためです。というのは、私はこれまで、フランクルやブーバー、その他、過去の偉人について書いた本を執筆してきたのですが、もし私が真善美に反するような生き方をしたら、そんな私のことを知った人は、私が本に書いた偉人のことも、あまりよく思わないでしょう。「斉藤はフランクルやブーバーについて本を書いていたけれど、斉藤があんなひどい人間であるなら、フランクルやブーバーなんていうのも、ろくなものではないんだろうな」と思う人がいるのではないでしょうか。少なくとも印象を悪くしてしまうことは間違いありません。私ひとりが不名誉になるなら自業自得ですが、私のせいで、偉大なフランクルやブーバーが不名誉に思われてしまうということは、決してゆるされることではありません。つまり、私は彼らについての本を書いたことで、ある意味、彼らの看板を背負っていることになるのです。ですから、彼らの名前を汚さないために、私は立派な生き方をしなければならない義務があると思っているのです。

 もうひとつの動機は、「恩返し」です。これが一番大きな動機です。
 私は、本当に多くの人から助けられ、多大な恩を受けてきました。私が今日あるのは、私を助けてくれた、たくさんの人たちの善意と親切のおかげです。恥ずかしながら、助けられてばかりの60年でした。
 私は、残りの人生をかけて、その方々に恩返しをしなければなりません。
 しかし、どうやって恩返しをしたらいいでしょうか? お金が裕福にあったらお金で恩返しができますが、残念ながら私にそれだけのお金はありません。お金以外に恩返しといっても、何をしたらいいのか思いつきません。しかも、私を助けてくれた人の中には、見ず知らずの人もいるのです。匿名で、本当に大きな助けを与えてくださった人もいるのです。どこの誰だかわからないその人に、いったいどうやって恩返しをすればいいのでしょうか?
 私は考えました。そして、苦肉の策として、これしかないと思いました。
 それが「真善美に生きる」なのです。どういうことかというと、仮に私が悪いことをする人間になったとします。すると、私を助けてくれた人は、悪人を助けたことになり、間接的に悪事の加担をしたことになるでしょう。ということは、仮にカルマの法則というものが存在するとしたら、私を助けてくれた人は悪しきカルマを積んだことになり、その悪しき報いを受けなければなりません。つまりこれは「恩を仇で返す」ことになるわけで、人間としてもっともやってはいけないことです。
 しかし、もし私が善いことをする人間になったら、私を助けてくれた人は間接的に善事をしたことになり、つまりは善いカルマを積んだことになって、そのよい報いを受けることになるはずです。
 ですから、私はこれからあらゆる機会を見つけて、善いことをどんどんする人間になろうという目標をたてたのです。それを一言で表現したのが「真善美に生きる」です。
 今日から毎日、夜寝る前に一日の反省をし、必ず悪事よりも善事の方が多くなるようにして、「私の善き行いに対する報いはすべて、私を助けてくれた人々のもとにいきますように」という祈りを捧げることにしました。
 私は死ぬまでこのように生きるという決意をしました。

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