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 2020年2月の独想録


 2月22日 仏教ほど残酷な宗教はない 
 まずはご報告とお知らせから。
 今月、2月15日/16日にイデア ライフ アカデミーの哲学教室が開催されました。テーマは「原始仏教1」です。私たちが「仏教」と思っていたものが、実は釈迦の説いた教えとは無縁であり、その意味で仏教とは言えないことを紹介しました。では、釈迦は何を説いたのか? ぜひダイジェスト版をご覧下さい。これまでの仏教に対するイメージがひっくりかえるかもしれません。
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 次回は瞑想教室(3月21日/22日)で、「人格障害(パーソナリティ障害)」について説明しながら、エゴの罠に陥らない方法を模索していく予定です。人格障害は特別な人に当てはまるものではありません。程度の差はあれ、誰もが人格障害の傾向をもっているのです。その程度を大きくしないために、人格障害について理解を深めることは大切です。

 それでは本題に入ります。
 今回、あらためて原始仏教、すなわち釈迦の教えを学び直してみると、その徹底した現世否定の姿勢には驚かされます。在家信者には「悪いことをするのはやめなさい。善いことをしなさい」といった、月並みな道徳を説き、現世と来世、あの世での幸せを説きましたが、これは「善いことをして功徳を積めば、来世か、あるいは来来世で仏教の修行ができて解脱するかもしれない」という、いってみれば出家修行者になるための準備段階の意味しか持ち得ません。
 釈迦の真の教えの真髄は、出家修行者に向けられました。現世のみならず、あの世の生も否定し、二度と生まれ変わらないことを目的にしました。最終的には、地上にも霊界にも存在しなくなり、議論の対象をはるかに超えた領域に移行することです。その根本にあるのが、この地上人生は原理的に苦しみであり、救われがたい場所であるという見解です。現世に何も求めず、期待せず、「切に世を厭い嫌う者となれ」と言って、現世を棄てることを説いているのです。

 釈迦の教えは、まったくの「非社会的」な教えです(反社会的、ではありません)。たとえば、釈迦の教えを聞いた若い人たちがたくさん出家して家から出ていってしまったので、親達が釈迦の集まりを非難したというエピソードが伝わっています。釈迦は「このような騒ぎは七日でおさまるであろう」と言い、実際にそうなったようですが、現在であれば、「怪しいカルト教団に子供を奪われた」ということになり、かつてのオウム真理教のような問題を起こしていたわけです。実際、当時の釈迦の集まりは、今日でいうところのカルトでした(カルトの本来の意味は、必ずしも悪いものではなく、一人の指導者の教えに共鳴した者たちが自然発生的に生じた集まりのことです)。
 世俗の社会的な基準から言えば、こうした釈迦のカルトは「反社会的だ」と非難されるでしょう。しかし、慎重によく考えてみるならば、「地上世界は苦しみである」という釈迦の教えは、真実ではないでしょうか? 釈迦の教説にはスキがありません。いかに心情的に認めたくなくても、認めざるを得ないのです。地上人生は、あきらかに苦しみです。もちろん、人によっては一生、平穏無事に幸せに送る人もいるでしょう。しかし、世の中には悲惨きわまる人生を送っている人がたくさんいます。そういう人たちに自分もならないとは限りません。

 ところが、私たちは「自分にはそういう悲惨な人生は起こらない」と思い込んでいる傾向があります。その証拠に、いざ悲惨な状況に見舞われると、多くの人が「なぜ私にこんなことが起こるのか」と言います。「なぜ私に」という言葉が出るということは、「自分にはこんなことが起こるわけない」と思い込んでいた証拠でしょう。
 世を広く見渡すと、悲惨なことが容赦なく起こっています。その悲惨なことが現実に起こっており、いつその悲惨なことが自分に訪れるかわからないという点において、この地上人生というものは、どう考えても「苦しみだ」と結論するしかないのです。

 ここ最近、新型コロナウイルスが世界的な大問題になっています。これがどういう結末をたどるのかはわかりませんが、正しい情報が得られていないようなので(その証拠に専門家の意見が最初の頃から変わってきています)、こういう場合は、最悪のシナリオを考えておくべきだと思います。宇宙にとっては、人類など、地球という小さな惑星の表面に点在しているダニのようなものです。そのダニが死滅しようとしまいと、宇宙にとっては痛くもかゆくもありません。かつてムー大陸もアトランティス大陸も容赦なく水没してしまったように、こうした感染症で人類が滅びてしまうことだって、起こるときには容赦なく起こるものです。それが人生の現実というものです。釈迦はそれを看破して、「地上人生は苦しみだ」と言い放ったのです。釈迦にとって「救済」とは、この地上人生で起こる不幸災難を回避することではなく、この地上人生そのものから脱出することにあったのです。
 釈迦は、その卓越した感性と、抜群に優秀な頭脳によって、この地上人生の本質を見抜き、「これではいけない」と考えて、地上人生から解放される道を探しあてたのです。釈迦は、先の先まで見通してしまうほど、あまりにも頭がよかったのです。

 以上が、釈迦の説いた仏教、つまり真の仏教の本質です。釈迦は自らの教えを「世の人々の考えとは正反対である」と言いましたが、実際、彼の教えの本質を知ったなら、ほとんどの人は見向きもしないでしょう。それでも仏教に関心を持つような人は、ある種の「社会不適応者」だと言えるでしょう。今日、仏教がこれほど人気を集めているのは、それが大乗仏教、つまり、釈迦の真の教えではないから、あるいは、釈迦の教えを誤解しているからです。仏教ほど容赦ない、残酷な宗教はないかもしれません。出家、すなわち世を捨てなければ救われないと言っているのです。さらには、自分という存在さえも捨てろと言っているのです。

しかしながら、私たちは誰もが出家して厳しい修行をすることはできません。そういう人はほんのわずかですし、また、仮にすべての人が出家してしまったら、出家した人は在家の人から養われているわけですから、出家修行も成り立たなくなってしまいます。
 そこで、出家することなく、仕事を持ち社会生活を営みながら、何とかこの地上人生から解脱する方法を見つけて歩んでいくしか、他に道はないのです。
 いったいそれはいかなる道なのか? これが私の研究テーマであり、イデア ライフ アカデミーのめざしているところなのです。

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