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 2020年8月の独想録


 8月19日 人生の目的
 まずはご報告とお知らせから。
 今月8月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「全託の境地と瞑想」で行いました。全託とはすべてを神にゆだねるという、いわば信仰の極地です。もし全託の境地を体得することができれば、あらゆる悩みはすべて解消されるでしょう。もちろん、それだけにこの境地に至ることは容易ではないのですが、しかし結局、これが幸福になるための一番の近道なのであり、高い霊的覚醒に至った人はすべてこの境地を体得しているわけです。ぜひダイジェスト版の動画をご覧いただき、全託というものについて理解するきっかけになればと思います。
→動画視聴
 来月の哲学教室は、アメリカ心理学の父とも呼ばれ、とりわけ宗教経験の特徴について研究したウィリアム・ジェイムズを取り上げます。今回の「全託」とも大きく関係しており、単なる心理学の知識というよりも「いかに生きるべきか」のヒントを与えてくれるすばらしい人ですので、ぜひ授業にいらしてください。

 それでは本題にうつります。今回は、イデア ライフ アカデミーのテキストに書いた記事がとても重要だと思いましたので、それをそのまま引用させていただきたいと思います。

 もっとも基本的なことですが、「人生の目的を明確に定める」ことです。「自分はこの人生で何を成し遂げたいのか」、その目的を明確にして、それに焦点を当てた生活をすることです。その目的に役に立たないことはしないことです。そうすれば、人生を無駄に過ごすことがなくなります。明確な目的がないと、気まぐれに、あれをやったりこれをしたりして、結局、人生において何もやり遂げずに死んでいく、ということになりかねません。これは、きわめて当然のことなのですが、この当然のことができていない人が大半なのです。つまり、人生の目的を定めないで生きているのです。
 そしてもうひとつ重要なことは、万が一、この目的が間違っていた場合、それでも後悔しないように、あらかじめ対処しておくことです。人間は完全ではありません。「これが人生の目的だ」と結論したとしても、間違っている可能性があるわけです。その場合に備えておく必要があります。俗にいう「リスク管理」です。

 さて、人によって人生の目的は異なるでしょう。ある人は「お金持ちになること」、ある人は「有名になること」、あるいは「人助けをすること」など、いろいろあると思いますが、さらに深く「では、なぜそれが目的なのか?」と追求していくのです。すると、たとえば「お金持ちになること」が目的の人は「贅沢をしたいから」ということになるかもしれません。そしてさらに「なぜ贅沢をしたいのか?」と突き詰めていくと、他の目的でも同じですが、結局は「心の満足」に行き着くと思われます。要するに、すべては心を満たしたいがためなのです。
 ですから、人生の目的というものは、「心の満足」ということになります。あとは、いかにしたら心の満足が得られるか? ということになってくるわけです。

 この「心の満足」というものの究極を問いつめていったら、どうなるでしょうか?
 これは、各人が行う課題ですが、参考のために私の考えを述べてみたいと思います。
 結論から言えば、肉体をもってこの地上世界に生きている限り、完全に心の満足を得ることはできません。なぜなら、肉体の欲望にはきりがなく、地上世界はそのきりがない欲望をどこまでも満たしてはくれないからです。一時的な満足感は得られるでしょうが、それは必ず失われます。すべてが、最終的には肉体の老化と死によって失われてしまいます。人生など短いものです。つまり、やがて失われてしまう満足感などは、はかないもので、完全ではありません。
 
 古今東西の偉人たちの多くが語っている内容が真実であると仮定すれば、人間の本質は肉体ではなく、魂です。魂は肉体に幽閉されているのです。しかし魂の本来の住む場所は、高い霊的世界です。そこは、時間と空間の制限がなく、魂そのものが自己完結的に満足感を懐いているので、霊的な世界でのみ、本当の心の満足が得られるのです。

 しかし、高い霊的世界は、高い徳の世界ですから、自分もそれに見合うように、高い徳を身につけなければ移行できません。さもなければ、再び、地上世界に生まれてくることになります。私たちはそれを何回も繰り返し、地上において本当の心の満足を求めるという、空虚なことをずっと続けてきたのです。
 この地上人生は、仮の宿にすぎません。私たちが地上世界に来た目的は、ここで一生懸命に徳を養い、人格を向上させて、死後に、本当の住処である高い霊的世界に帰還し、真の心の満足を得るためなのです。これが、釈迦やキリスト、その他の偉人たちの教えのエッセンスです。

 このように考えるなら、この地上人生の目的はただひとつ、「徳を養って人格を向上させること」だけということになります。その結果として、地上に生まれ変わることはなくなります。その意味では「二度と地上に生まれ変わらないこと」が目的であるとも言えるわけですが、そのためには徳を養う必要があるわけですから、結局、両者は同じことになります。イデア ライフ アカデミーは、この2つを目的にしています。
 もっとも、中には「地上に生まれ変わりたい」と思う人もいるかもしれません。徳を養って人格を向上させた人は、地上に生まれない選択もできるし、生まれる選択もできます。しかし、徳を養わなかった人は、生まれない選択肢はなく、必ず生まれてきます。ですから、徳を養う生き方をすれば、好きな方を選択できるわけですから、徳を養う生き方をして損はないのです。

 しかし、はたして本当に、人間の本質は肉体ではなく魂なのでしょうか? 霊的世界など存在するのでしょうか? 徳を養って人格を向上させれば、真の心の満足が得られる高い霊的世界に行くことができるのでしょうか?
 それはわかりません。古今東西の偉人たちや、いわゆる心霊科学の調査などにより、ほぼ間違いないとは思われますが、絶対に真実という証明はないのです。もしかしたら、肉体が滅びたら、人はまったくの無になって完全に消滅してしまうのかもしれません。
 ですから、リスク管理として、万が一、そのようなことになったとしても、後悔のない人生を生きる必要があるのです。

 では、魂も死後の生もないとしたら、いったいどのような人生を送れば、後悔がないと言えるでしょうか?
 どうせ死んだら無になるのなら、生きているうちに、地上の快楽をなるべく味わって死んだ方がいいのか、また、死後の世界がないならば、悪いことをしてもバレなければ罰せられることもないわけで、富や名声をつかむために、バレない程度にうまく悪事を働いた方がよいのか、という考えも出てくるでしょう。
 確かに、死後の世界が存在しないとしたら、こういう生き方によって後悔のない人生を送れるかもしれませんが、万が一、死後の世界が存在したら、それこそ悲惨です。霊界の低い階層に生き、そこで長い間、さんざん苦しいめに遭う、さらに地上に生まれてさらに苦しむ可能性があります。ですから、これではリスク管理のある生き方とは言えません。

 では、徳を積んで人格を向上させる生き方をした場合はどうでしょうか。確かにメリットばかりではありません。ともすると地上世界は、「正直者は馬鹿を見る」ようなところがあり、徳の高い人は必ずしもこの世的に幸運であるとは限らず、それどころか不遇となる場合も少なくありません。残念なことに、この地上世界は、狡猾にうまく立ち回って生きる人の方が、この世的な幸運には恵まれる傾向があります。
 しかし、そもそも徳を積んで人格を向上させようという発想をもっている人は、そのような狡猾な生き方をしても、決して心の満足は得られないでしょう。それよりも、たとえこの世的には不遇でも、正しく生きること、そのものに、心の満足を見出すようになるはずです。
 ですから、たとえ死後の世界が存在してもしなくても、どちらにしても、徳を養い人格を向上させる生き方をしていて、後悔することは決してない、ということになるのです。


 8月1日 ALSは「業病」か?
 最近、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者を医師が安楽死させた事件が話題になっています。からだの運動機能がしだいに奪われていき、意識はしっかりしているのに、ついにはからだをまったく動かせなくなるこの病気は、おそらくあらゆる病気のなかでも、もっとも残酷な病気のひとつではないかと思います。今回の事件で医師が行った行為の是非はともかく、自ら命を断ちたくなる気持ちもわかりますし、安楽死という問題も、真剣に議論していくべきではないかと思います。
 ただ、ここで言いたいことは、この事件そのものではなく、この事件に関して、石原慎太郎元都知事がツイッターで語った言葉です。彼はALSのことを「業病(ごうびょう)」と表現していました。
 業病という意味は「前世で悪い行為をした報いとしての病気」です。つまり石原氏は、ALSの方々に対して「過去に悪いことをしたから、このような病気になったのだ」と言っているわけです。

 これは、仏教やスピリチュアルなどで言われるところの、いわゆる「因果応報」、「カルマの法則」です。
 仏教徒やスピリチュアルの信奉者たちは、もしALSの原因は何かと問われたら、いったい何と答えるでしょうか? 彼らは因果応報、カルマの法則を信じているはずですから、石原氏のようにあからさまには言わないかもしれませんが、それでもやはり「それは前世の悪業の結果である」と答えるのではないでしょうか。
 これは、病気に限ったことではありません。生まれつき障害をもって生まれた人も、家が火事で焼けてしまった人も、子供が死んでしまった人も、レイプされた人も、その他、不幸災難に見舞われた人はすべて「前世の悪業の結果である」ということになってしまいます。イエス・キリストが十字架にはりつけにされたのも、前世の悪業の結果ということになってしまいます。
 これほど、人を傷つける主張はあるでしょうか?
 もちろん、たとえいかに人を傷つけようとも、事実として実証されたものであるなら、事実は事実として受け入れなければなりません。
 しかし、カルマの法則などというのは、特定の宗教の教義のひとつであって、科学的に実証されたわけではありません。つまり、それは信仰の問題であって、信じるか信じないか、ただそれだけのことなのです。

 私が「カルマの法則」について、ある程度の距離をおいてそれを扱っている理由がここにあります。もし私がカルマの法則を絶対的に信じていたとしたら、苦しんでいる人に対して、暗黙のうちに「前世の悪しきカルマの報いだ」と決めつけてしまうことになるからです。
 そうしたら、その人はますます苦しみに突き落とされるかもしれません。はたして、これが宗教者のすることでしょうか。いえ、人間のすることでしょうか。ここには、人に対する思いやりのかけらもありません。

ですから、私はカルマの法則に対しては、絶対的な否定も肯定もしない立場でいるのです。そしてまた、特定の宗教を絶対的なものとして信じることもしない立場でいるのです。
 ただ、カルマの法則が存在するという仮定のもとで、いろいろなことを述べることはあります。しかしそれはあくまでも仮定であって、絶対的な真実としてではありません。

 もちろん、カルマの法則を信じることで、よいこともあります。たとえば、悪いことをする人が少なくなるだろう、という点です。悪しき報いを受けるのは誰だって嫌ですから、悪しき行為の抑止力にはなるでしょう。ですから、評価できる点もあります。
 釈迦は、カルマの法則を説きましたが、それは、「今後、悪いことはしないように」という戒めとして説いたのであって、苦しんでいる人に向かって「おまえが苦しんでいるのは、過去に悪いことをした報いだ」といって責めることが目的ではないことは、言うまでもありません。

 不幸災難の原因は、宗教によって異なります。
 ユダヤ教やキリスト教では「神の試練」という考え方が主流のようです。強く立派な人間にするために、苦難を与えて鍛えようとしているのだ、という発想です。この方が、カルマの法則よりも救いがあります。
 では、いったいどちらの教えが真実なのでしょうか?
 それは、誰にもわからないことです。
 ならば、どうせわからないことであるならば、前向きになれる考え方を採用した方がいいのではないかと、私は思うのです。
 こうしたプラグマティズム(功利主義)の考え方は、ご都合主義だと嫌って、とにかくはっきりと白黒つけないと気がすまない人たちがいますが、どんなに追求しても、神だとか宇宙法則といった、形而上学的な事柄は、わからないのです。わからないものを追求し続けるのは時間の無駄です。他にもっとするべきことがあるはずです。形而上学的な探求は、それが具体的な実践レベルにとって有益な土台になるくらいまで追求したら、それ以上の深追いはしない方がよいです。

 いずれにしろ、私は、愛に反するような教えはすべて嫌いです。それは、宗教とは相容れないものです。難病で苦しむ人に対して、いちいちその霊的な原因を追究することに、私はあまり意味を感じられません。とりわけ、その苦しみを増すような教えはなおさらです。
 本人がどうしても原因を知りたいと言ったら、私なら「わかりません。それよりも、これからどうすれば少しでもよくなるかを一緒に考えましょう」と答えるでしょう。あるいは、もし励ましになるかもしれないと判断したら「これは神の試練ですよ」と答えるかもしれません。いずれにしろ、苦しみにある人に対しては、安らぎと希望を抱いてもらえるような対応をすることこそが、真の宗教やスピリチュアルの道ではないかと思うわけです。間違っても「業病」などという、根拠のない愚かな言葉は使うべきではありません。

 余談になりますが、こんな話があります。むかし、ある寒い冬の夜、貧しい家に住む一人の禅僧のもとに旅人がやってきました。しかし、貧しいので暖をとるための薪がありません。旅人は寒くて震えています。するとその禅僧は、大切にしていた仏像を燃やして、旅人を温めてあげたのです。
 これこそ真の宗教者のすることではないでしょうか。そして仏様も「これでよい」と、喜ばれたのではないかと思います。ガチガチの宗教者ではなく、何が一番大切なのかを見究めたうえで柔軟性のある行動がとれる宗教者こそ、真の宗教者だと思うのです。

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