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 2020年5月の独想録


 5月27日 食べなくても生きていられると主張する人々
 
昨日、インターネットのニュースサイトを見ていたら、90歳で亡くなったインドのヨガ行者のことが紹介されていました。何と80年もの間、何も飲まず食べないで生きてきたというのです。
 何も食べなくても生きられると主張する人は、他にもたくさんいるようです。日本にもけっこういます。私もそう主張する人と会ったことがあり、一緒にディナーのフルコースを食べました。彼が言うには「自分は食べなくても生きられるのだが、それでは人との付き合いができないから、人と付き合うときとか、子供の誕生日といった祝い事などがあるときは、こうして食べるんです」ということでした。ちなみにそのフルコースは、私には量が多すぎて、最後のデザートは残してしまったのですが、彼は「もったいない」といって、私の分まで食べてしまいました。
 それを見て、実は彼はけっこう食べているなと思いました。というのも、長期に渡ってもし何も食べていなければ、胃腸機能は低下して、大量に食べることはできないはずだし、もし無理に食べたら、最悪、死んでしまうこともあるからです。とうてい、あれだけの量のフルコース料理をケロリと食べられるとは思えません。それとも、こういう人は、胃腸さえも、人間離れした機能を持っているのでしょうか?

 いわゆる「不食の人」として有名で、いわば「不食」の教祖的な存在として知られている人に、ジャスムヒーンという女性がいます。
 この女性が、本当に食べなくても生きていられるかどうか、実験したことがありました。部屋に隔離して、食べたり飲んだりしていないかどうか、24時間監視をしたのです。もちろん、すべての条件は彼女が納得した上で行われました。その結果、日がたつごとに体重が減り、ついには生理的に危機的な状態になったためにドクターストップがかかり、実験は終了してしまいました。つまり、食べないで生きられるというのは、嘘だったのです。もし食べないで生きられるのであれば、体重は減ったりしないし、生理状態は一定のままであるはずです。
 とはいえ、彼女が意図的に嘘をついていたのではないでしょう。なぜなら、もし自分は食べないで生きることはできないことがわかっていたら、その事実があきらかにされてしまう実験には参加したりしないはずだからです。つまり、彼女は本当に、自分は食べないでも生きられると信じていたのだと思います。
 これは要するに、そういう妄想をいだいていた、ということになります。

 精神医学の分野で、パラノイア(偏執病)と呼ばれる、ある種の妄想症状を伴う精神病があります。
 妄想というと、頭に浮かぶのは統合失調症ですが、統合失調症の場合は、程度にもよりますが、その妄想はあまりにも支離滅裂であり、人格の中枢がかなり破綻していますから、誰もがすぐに「おかしい」とわかります(しかし本人は自分がおかしいとは思っていない場合が多い)。そして、まともに職業に従事したり、重症の場合は普通の社会生活さえもできません。
 ところが、パラノイアの場合、一見したところ、おかしいとは感じられないのです。常識があり、論理的に考え、知性も問題ありません。問題ないどころか、医者や弁護士や大学教授といった、高度な専門性が要求される職業についていることもあります。社会生活もちゃんと営んでいます。
 ところが、ある分野に関してのみ、おかしな妄想をいだき、それを信じて疑わないのです。これがパラノイアという病気の特徴です。
 たとえば、心理学のテキストでよく紹介されているのが、「自分は天皇家の子孫だ」といったものです。あるいは「宇宙創世の謎を解明した」などと、膨大な量の論文を書いたりします。その論文を読むと、とりあえず文体はしっかりしており、一見すると論理的に書かれてあるように見えるのですが、読み進めていくとしだいに突拍子もないほど論理が飛躍していき、結局は妄想の領域へとつながっているのががわかります。それでも一見する限りでは、高度な専門知識を土台にしたすごい論文のように感じられたりするので、だまされてしまう人もいるのではないかと思います。
 実際に私がカウンセリングをした、ある若い女性のケースですが、彼女は憧れていた歌手のコンサートに行ったのですが、その歌手が舞台の上から自分のことを見て、眼が合い、その瞬間に自分に好意を寄せているのだとわかったというのです。「こんなことを言うと頭がおかしいと思われるでしょうね。でも、本当なんです。私にははっきりとわかるんです」と彼女は言いました。その他の点では、常識的で礼儀正しい、ごく普通の人だったのですが、この妄想に関してだけは、断固として信じて疑わないのです。私はそれは妄想だと説明しましたが、がんとしてききません。そこで私は「ならば、楽屋に行って、その歌手に私のこと好きですかと尋ねてみたらどうですか? そうすればはっきりしますよ」と言いました。しかし彼女はそれはできないと言いました。なぜできないのでしょうか? それは、「私はあの歌手から愛されている」という願望が否定されてしまうのが怖いからです。言いかえれば、無意識的に自分の妄想が破られるのを拒絶しようとしたのです。

 私は、こうしたパラノイアの、格好の温床になっているのが、スピリチュアルであると思っています。なぜなら、スピリチュアルの世界は実証が難しく、いくらでもごまかしというか、妄想が入り込んでもその妄想が明らかに否定されるという可能性が少ないからです。たとえば、「自分はブッダの生まれ変わりだ」と言っても、誰もそれを証明できません。言いかえれば、否定もできないわけです。
 むしろ、パラノイアの人は心の底から妄想を真実だと信じ込んでいるために、奇妙な自信に満ちていたりします。その自信に圧倒されて、妄想を真実だと信じ込んでしまう人が、世の中には一定数、存在するのです。そうして、パラノイアという精神病の人がカルト教祖になって、それなりの人気を集めているようなところが、私には少なくないように思われます。

 人がパラノイアを病んでしまう原因は、いろいろ考えられるでしょうが、その根底には、自己承認欲求、つまり「認められたい」という欲求があるように思われます。「自分はブッダの生まれ変わりだ」とか「自分は覚者である」などと言えば、中にはそれを信じて、その人を認め、崇拝する人たちがいるわけです。
 そして同じように、「自分は食べなくても生きられる」と言えば、人々から注目され、何か偉大な人のように認められたりするでしょう。そのような、「認められたい」という強い欲求が根底にあり、その強い欲求が理性を麻痺させて妄想に陥らせているのではないかと思うわけです。
 ですから、スピリチュアルの道を歩むときには、よほど注意しないと、簡単に妄想に陥ってしまいます。いちど妄想に陥ると、そこから抜け出すのは容易ではありません。スピリチュアルの道を歩むときは、常に地に足を着けて、現実をありのままに見つめる必要があります。

 では、冒頭で紹介した、80年間、飲まず食べずに生きていたヨガ行者も、パラノイアだったのでしょうか?
 記事によると、二週間、隔離して監視したそうです。その間、うがいをしたり入浴はしたそうなのですが、このときひそかに水を飲んでいた可能性は否定できません。ヨガを続けると、基礎代謝量が非常に低く抑えられるために、きわめて少ない量の食事で生きることは可能になります。ですから、二週間くらい食べなくても、それほど変化はないでしょう。しかし、何年もの間、まったく水も食べ物もとらずに生きられるというのは、私にはかなり疑問です。
 ただ、世の中には科学では解明できない謎があることも確かですから、もしかしたら、そういう仙人のような人も存在するのかもしれませんが、存在したとしてもきわめて稀だと思います。なので、ちまたによくいるような「自分は何も食べないで生きていられる」と主張する人は、ほとんどすべてパラノイアか、その傾向がある人ではないかと思います。そもそもジャスムヒーンという不食の教祖が、あのように正体を暴露されたのですから、彼女を信奉して不食になったという人はほとんどは妄想にすぎないでのはないでしょうか。

 そもそも、何も食べないことにそれほど意義があるでしょうか? 確かに食費は浮くでしょうし、食べるという束縛から解放されるということもあるでしょうが、霊的な道というものは、そんなことよりも、もっと大切なことがあります。ある人が不食だからといって、社会や他の人には何の恩恵もありません。そんなことに関心を持つよりも、たとえば、人のために役立つようなことにエネルギーを向けた方が、ずっと意義があるのではないでしょうか? それが本当のスピリチュアルではないかと思うわけです。
 そのためには、「認められたい」というエゴをなくすことです。「認められたい」という下心があって人のために尽くしても、それは不純であり、スピリチュアルでも何でもありません。
 宗教やスピリチュアルをめざしている皆さん、パラノイアという精神病について、よく知っておいてください。そうすれば、あやしい人物や情報にだまされることも、少なくなるはずです。私の感じるところでは、スピリチュアルの世界はパラノイアだらけです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、パラノイアが入り込まないように、細心の注意を払っています。あくまでも地に足の着いた霊的探求をめざしています。パラノイアの傾向がある人が来ると、暗にそれが妄想であるといったことを説明するのですが、そうすると、その人はもう二度と参加しません。
 そうした光景を見るたびに、多くの人は、程度の差はあれ、自分(エゴ)が気持ちよくなる妄想をいだき、それを破壊する人や情報から避けようとするのだなと感じます。妄想を打破するには、痛みを伴います。その意味で真のスピリチュアルの道というのは、痛みを伴う険しい道なのです。しかし、人は痛みを避けようとします。そのため、いつまでたっても自己変革というものは為されず、結局は、甘美な妄想に浸って人生を夢心地のうちに終えてしまうのではないでしょうか。


 5月23日 明日を思い煩うことなかれ
 まずはご報告とお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミーは、哲学教室「原始仏教2 真の仏教とは」の授業を行う予定でしたが、新型コロナウイルスの外出自粛要請のため、今月も休講となりました。そのかわり、私ひとりで動画配信用として講義を収録しました。釈迦が本当に説いた教えとはどのようなものであったのか、興味のある方はダイジェスト版をご覧下さい。
 動画視聴
釈迦は、この地上人生は本質的に苦しみであり、そこからの脱出を説きました。つまり、二度と地上に生まれ変わらないことを説いたのです。これが釈迦のいう「救済」です。地上世界を住み心地のよいものにして、地上世界を幸せなものにするという考えは、少なくとも直接の目的ではありませんでした。
 しかし、地上を脱出するには、精神性を高め、高潔な人間となることが求められました。そうした高潔な人が増えることによって、結果的に、この地上世界はよりよいものに変わっていくはずです。現在のように危機的な状況にあるなかでは、高潔な人々、とりわけ、高潔な政治家が求められているように思えてなりません。その意味でも釈迦の教えは、現代において非常に重要な意義をもっていると考えています。
 なお、イデア ライフ アカデミーの授業は、新型コロナウイルスの状態がよほどひどいものにならない限り、感染防止を徹底したうえで、来月からは予定通り授業を行っていくつもりです。今のような状況こそ、私たちの精神性を磨き、高め、深めるべきときではないかと思うのです。
 
 さて、本題にうつります。
 コロナ禍が終わったら、世の中は変わると、たくさんの人が言っています。たとえば、密を避けた人との接し方が日常あたりまえになるとか、テレワークなども増えていくといった感じです。国際政治の状況も大きく変わるとも言われています。アメリカと中国、ロシア、アジアなどといった国々の力関係も変わってくる可能性が指摘されています。中国は共産党の世界覇権がますます強大になるとか、あるいは逆に縮小して民主化が促進されるとか、さまざまな意見があります。私個人的には中国共産党の野望は挫かれていくのではないかと考えていますが、どうなるかはわかりません。
 確実に言えるのは、失業者が増えることで、まだしばらくはコロナの影響が続くでしょうから、失業者の増加が大きな問題になることは間違いないでしょう。失業率が1%増えると自殺者が二千人増えるらしいので、ある意味では、コロナよりも深刻になるかもしれません。オリンピックも、私個人的には、開催は無理だと思っていますので、その面でも経済的なダメージはさらに深刻になるのではないかと危惧しています。
 他にも、第三次世界大戦が起こるとか、大地震が起こるという人もいます。戦争はともかく、地震についてはかなり現実味がありますので、こちらも心配です。
 このように、心配の種は尽きることがありません。これから世界はよくない方向に進んでいくといった情報ばかりが蔓延していますので、心配してしまうのも無理はないと思います。
 
 しかし、考えたら心配だらけなのが、そもそも人生なのではないでしょうか。
 たとえコロナ禍がなかったとしても、人生、いつ何があるかわかりません。会社がとつぜん倒産することだってありますし、解雇されることだってあります。いつ悪い病気にかかってしまうかもわかりません。皆さんよく知る歌手の人が声帯に癌ができて歌えなくなるといったことも現実には起きているわけです。家が火事になって、幼い子供を含む一家全員が死んでしまったというニュースが流れていました。交通事故にあって半身不随になってしまった人もたくさんいます。こういうことは稀ではあるでしょうが、絶対に起きないという保証はありません。独身の人には孤独死が待ち受けている可能性が高いです。結婚していても子供がいなくて配偶者が先に死んでしまえば孤独死の可能性大です。老人になればからだの自由がきかなくなってきます。ついには寝たきりとなって下(しも)の世話をしてもらいながら死を待つことになるか、あるいはそれ以前に何らかの病気で死にます。これは百%確実に起こることです。
 他にも、人生で生じる不幸災難を数え上げたらきりがありません。

 つまり、何が言いたいのかというと、コロナ禍が生じようと生じまいと、人生というものは、いつ不幸災難に遭遇するかわからないという点で、それを考えたらどこまでも心配や不安に悩まされなければならない、ということです。
 悩んで、何かいいことがあるでしょうか? 悩めば不幸災難から免れることができるでしょうか? そういうことはありません。
 もちろん、備えをしておくことはできます。たとえば地震に備えて水や食料などを備蓄しておくとか、保険に入っておくとか、不幸災難が起きても被害を最小限にとどめることは、ある程度は可能です。しかし、不幸災難から完全に免れることは不可能です。むしろ、悩めばそれだけストレスとなって病気にかかりやすくなったり、能力がうまく発揮できなくなって状況が悪くなる可能性が高くなります。

 繰り返しますが、想像力を働かせて、あらかじめどのような不幸災難に見舞われる可能性があるかを推測し、それが起きても最小限の被害で留められるように、前もってできるだけの準備をしておくことは大切です。
 しかし、そうしたらあとは、「なるようにしかならない」と、覚悟を決めて、心の中からいっさいの心配や不安を捨て去って生きていくしかないのです。それが人生というものなのです。
 アフターコロナの時代、これから非常な苦難が訪れるかもしれません。あるいは「心配していたほどではなかった」となるかもしれません。あるいは、案外、「以前よりも世の中がよくなった」という可能性だってないとはいえません(私個人的には、長期的にはそうなると思っています)。
 いずれにしろ、将来のことはどうなるかわからないので、心配や不安などを抱いて、今という大切なときを台無しにしてしまうのは、愚かなことです。最悪の事態に備えての準備は大切ですが、あとはイエス・キリストの「明日を思い煩うことなかれ」という教訓を胸に刻んでいきたいと思うわけです。
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