HOME独想録

 2020年9の独想録


 9月24日 「当たり前」の大切さ
 まずはご報告とお知らせから。
 今月9月19日/20日、イデア ライフ アカデミー哲学教室の授業が行われました。テーマは「W・ジェイムズに学ぶ宗教の本質」。ウィリアム・ジェイムズはアメリカの心理学者、哲学者で、宗教経験の研究とプラグマティズムで有名です。宗教というと、特に信仰を持たない一般の人にとっては、どこか「いかがわしい」といったイメージがありがちですが、それは宗教を組織や教義と同一視しているためです。少なくともジェイムズが主張する宗教とは、宗教組織や特定の教義とは関係のない、個人的な体験のことです。したがって、いわゆる宗教的な行為はせず、自分では宗教を信仰していると思っていなくても、実は宗教的な生き方をしている人もいるのです。授業ではその一例として、ヴァイオリニストの鈴木鎮一を取り上げています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。宗教というものに対するイメージが変わるかもしれません。
→動画視聴

 では、本題にうつります。
 私が最近、つくづく思うことは、大切なことは「基本」であり「当たり前のこと」である、ということです。しかし、このことに心の底から気づくことは、意外に難しいのです。その証拠に、私たちは、基本的なこと、当たり前のことを、はたしてどれだけ実践できているでしょうか?
 たとえば、人生で一番大切なことは、人格の向上であると私は考えています。ひらたくいえば「善い人」になることです。なぜなら、結局のところ、善い人になることが、幸せをつかむためには必要不可欠の要素だからです。これは私独自の主張ではなく、釈迦もイエスも、ソクラテスも孔子も、その他、ほとんどの聖者たちが異口同音に主張していることであり、彼らの教えのエッセンスなのです。聖者たちは、結局は、「当たり前」と私たちが思っていることを説いているのです。
 しかし、「善い人になることが大切である」などと言うと、「陳腐だ」といって片付けられてしまうのです。「説教くさい」とか「そんなことわかっているよ。何を今さら」と思われるかもしれません。
 けれども、わかっているなら、それを実践しているはずですが、はたして私たちは、善い人になるために、どれだけ努力しているでしょうか?

 たとえば、ビジネスや商売をしている人は、寝ても醒めても「どうしたらお金が儲かるだろう? どうしたらお客さんをたくさん集められるだろう?」と考えます。そして、一生懸命、涙ぐましい努力をしています。これほどの情熱をもって善い人になろうと努力している人は、ほとんどいないでしょう。
 もちろん、お金は大切です。お金がなければ生きていけません。生きていけなければ、善い人になろうと思ってもできません。しかし、悪い人がお金を手にすると、まずろくなことはありません。へんなことにお金を使って身の破滅に至ることもしばしばです。お金によって幸せになるには、まず前提として善い人でなければならないのです。善い人がお金をもつとき、そのお金によって幸せになれるのです。ですから、お金よりも善い人になることを優先すべきなのです。「お金儲けもがんばるが、それ以上に善い人になるようにがんばる」ということです。
 さらにまた、地上の物質世界の幸せのみならず、それを超えた霊的な幸せ(魂の救い)という点でも、善い人であることは必須条件です。悪い人が、自分を改めようともせず、神に祈ったり宗教的な行事をしたところで、救いは得られません。
 このように、何よりもまず、善い人になることが、人生でもっとも大切なのであり、それを人生の最優先にするべきなのです。

 ところが、そのために本当に真剣に努力している人は、ほとんどいないように思います。
 お金を儲けることに関しては、寝ても醒めてもそのことばかり考えている人は珍しくありませんが、善い人になるために、寝ても醒めてもそのことばかり考えている人は、どれほどいるでしょうか?
 善い人になることは、容易なことではありません。片手間にできることではなく、全身全霊で努力していかなければ、善い人にはなれません。というのも、私たちは利己主義のかたまりともいうべきエゴの殻に閉じ込められており、その殻を打ち破るのは、並大抵のことではないからです。ひたすら、善い人になるために有益なことを学び、その種の本を読んだり、徳の高い人について教えを受けたり、学んだことを実践するために自ら創意工夫していかなければなりません。
 そうしたことをしていないのなら、本当に善い人になることの重要性をわかってはいないということです。

 私は還暦になってようやく、このことに気づきました。もちろん、表面的な知識としてはわかっていました。しかし、真剣にそのための努力をせず、小手先のテクニックばかり求めてきたような気がします。何事もそうですが、基本ができていなければ、いくらテクニックを学んでも活きてこないのです。善い人になろうとせず、小手先のテクニックばかり捜し求めても、幸せにはなれません。一時的な幸運は訪れるかもしれませんが、そうしたものは、はかなく崩れ去ってしまうでしょう。
 還暦を迎えると、死を意識するようになります。いつ死んでもおかしくないと思うようになります。もちろん、平均寿命を80歳とすると、あと20年は生きられる計算になりますが、善い人になるという大事業を達成するには、ぎりぎりの歳月だと思っています。しかも、老化により、今後は肉体的にも精神的にもこれまでのような活動はできなくなりますから、善い人になるために費やすことができる年月は、実質上、もっと短くなるでしょう。
 この「人生の目的は善い人になることであり、それを最優先にして生きるべきだ」という真理に、もっと早く気づいていればよかったと後悔しています。今まで、まったく余計な回り道をしてきました。しかし、後悔しても失われた時間を取り戻せるわけではありません。
 なので、せめてこの記事を読んでくださっている皆さんには(たぶん私より若い人が多いと思いますので)、こうした後悔はして欲しくありません。ですから、私のつかんだ気づき、すなわち、くり返しますが、「人生の目的は善い人になることであり、それを最優先にして生きる」ということが真理であることを、どうか信じてください。そして、そのために、全身全霊で努力してください。
 無駄なことに時間を浪費しないようにしてください。くだらないテレビ番組ばかり見たり、ゲームばかりしたり、頻繁に意味のない飲み会に出たりしないでください。もちろん、息抜きとして少しくらいはいいでしょうが、善い人になるために役立たないことに余計な時間を費やすことは、なるべく避けてください。時間はあっというまに過ぎ去ってしまいます。
 善い人になるためには、善い教えを学ぶことが基本となります。古今東西のすぐれた思想・哲学・宗教、および、偉人たちの生き方を学ぶことです。しかし、学ぶだけでは単なる知識に終わってしまうので、いかにしたらそれを実践レベルにまで落とし込むことができるか、それを自ら考え、工夫していかなければなりません。そして、コツコツと実践していくことです。そうしてはじめて善い人になる道が開かれていくのです。

 以上の目的を達成するために、古今東西の哲学・思想・宗教をバランスよく紹介しているイデア ライフ アカデミーは、きっと皆様のお役に立てるものと信じています。こう書くと宣伝しているように思われそうで嫌なのですが、金儲けのためにこの教室を運営しているわけではありません。実際、満員になったとしても、授業のために費やした経費や労働力などを考慮すると、ぜんぜん割りに合わないのです。それでもこの教室を続けているのは、私が社会貢献できるものといえば、これくらいしかないからです。金儲けだとか名前を売りたいわけではありません。私の個人的な利害という点では、人が来ても来なくても、あまり変わらないのです。ただ、私としては、人生でもっとも大切なことを学べる場所であるという確信と自負がありますので、せっかくこうした場があるのに利用しないのは、もったいないとは思います。あるいはもちろん、他にもっとよい学びの場がある人は、それはそれでけっこうなことなのですが。
 もし「人生の目的は人格の向上、すなわち、善い人になること」という、あらゆる聖者が口をそろえて語った人生の真理に心の底から気づいた人は、ぜひイデア ライフ アカデミーにいらしてみてください。遠方で来られない方は、動画でも学ぶことができます。ただし、何事も相性というものがありますから、イデア ライフ アカデミーが自分に合わなければ、来なくてもいいのです。そのかわり、あなたにふさわしい学びの場を他に見つけていただきたいと思います。
 いずれにしろ、人生の最も重要な目的をないがしろにして、人生を無駄にしないでいただきたい、余計なおせっかいかもしれませんが、私が言いたいのはそこなのです。


 9月1日 名声を求めることの弊害について
 宗教の世界では、おおむね禁欲が説かれています。食欲や性欲や睡眠欲といった肉体的な欲望を抑制する修行が行われているのです。しかし、そうした欲望よりも弊害が大きいにもかかわらず、またしばしば、そうした欲望を煽る元凶にさえなっているにもかかわらず、ある欲望については、案外、見落とされています。
 この欲望は、肉体的な欲望よりもはるかに弊害が大きく、肉体的な欲望は克服できているような「聖者」でも、この欲望は克服されておらず、むしろそれに振り回されており、しかもやっかいなことに、振り回されていることに気づかないような場合が、ときおり見られます。
 今回は、それについてお話させていただきたいと思います。
 その欲望とは、「名声欲」です。
 名声を求めることは、この世の視点からはともかく、霊性進化という視点から見れば、これほど危険なことはありません。肉体的な欲望を克服するよりも先に、まずはこの欲望を克服すべきではないかと私は考えています。

 ここで言う「名声」という言葉を、私は広い意味で使っています。「有名になること」、「賞賛されること」、「尊敬されること」、「ひとかどの人間だと思われること」、「歴史に名を残すこと」など、こうした欲求すべてを含めて「名声」という言葉で表現しています。単純に言ってしまえば「認められたい」という欲求です。「優越感を満たすことへの欲求」と言ってもいいでしょう。
 人は誰でも認められたいという欲求を持っていると言われます。この欲求があるがゆえに、人は努力します。それは成功の原動力となり、この世的な意味における「立派な人」になるうえでの、強力な動機づけとされていますから、一般的には肯定的に見なされています。
 しかしそれでもなお、名声を求めることは危険であると、申し上げたいと思います。
 名声を求めるのではなく、たとえば自分が好きなことを一生懸命に行うとか、無私の心で何かをするといったようなことをして、あくまでもその結果として、名声が得られるのであれば(そしてその名声に心動かされることがないのであれば)、何も問題はありません。
 しかし、名声そのものを求めて努力することは、人を堕落させ、醜悪にさせ、不幸にさせる可能性がきわめて高いのです。
 名声を求めて一生懸命に努力した結果、それが得られた場合、まず最初に襲ってくる「悪魔」は、高慢さです。最初のうちは、その悪魔は慎ましく振る舞い、名声を得た直後は、まだ謙虚さを保っていることがあっても、名声ある人として世間から尊敬され、崇められ、特別扱いされることに慣れてくると、しだいに、そのような扱いをされないときには不満となり、腹を立てたり、イラついたりするようになってきます。つまり、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 あげくの果ては、あからさまに人を見下す態度をし、威張り散らしたり、いわゆるパワハラのようなことをしたりします。これは人間として醜悪であるばかりか、人を苦しめるという悪業を積むことにもなります。
 一方、名声を求めて一生懸命に努力したのに、得られなかった場合は、「自分には価値がない」という、自己否定感、低い自己価値観、自己卑下や劣等感に襲われます。そして、名声ある人に対する嫉妬や憎悪に駆られるようになります。自分を認めない人間、自分を認めない世の中に敵意を向けたりします。つまり、この場合もまた、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 人間や世の中に対する鬱積した妬みや憎悪のために、自分より立場が下の人に対して意地悪をして鬱憤をはらしたり、インターネットで誹謗中傷したり、極端な場合、自分を認めない世の中に対する復讐の意味で、無差別殺人といったことを起こしたりします。殺す相手は誰でもいいのです。見ず知らずの人々というのは、「世の中」の象徴だからです。典型的な例が、オウム真理教の麻原です。麻原は選挙に出て惨敗しました。彼はそのとき、自分を認めなかった世の中を憎悪し、その復讐のために、地下鉄サリン事件を起こしたのだと思います。

 もちろん、犯罪やモラルに抵触しなければ、名声を求めて努力することで、たとえば一流企業に就職し、出世して高い地位や富を得て、タワーマンションの最上階に住んで高級外車を乗り回すといった、人からうらやましがられるような、いわゆるセレブと呼ばれる人となり、世間的には「立派な人」と見なされ、幸せに暮らせると思われるかもしれません。
 しかし、そう簡単ではないのです。
 一度そのような境遇になれば、その境遇を失うことに相当な苦痛が伴います。今まで高級住宅街に住んでセレブと見なされていたのに、庶民的な街に転居してありふれたマンションに住んで「普通の人」と見なされるようになることなど、考えただけでもぞっとする悪夢であり、もしそうなったら、相当な絶望感に見舞われるでしょう。人が「名声」に対していだく執着というものは、それほどまでに根深いのです。
 そのために、現在の境遇が失われはしないかという不安や恐怖感に、常にさいなまれることになります。これが、高慢さの次に現れる悪魔です。
 そして、セレブの生活を維持するために、大変な努力をし続けなければなりません。仕事が順調にいっている時はいいでしょうが、いつもそうだとは限りません。うまくいかない時もあるでしょう。そうなると、かなりのストレスや重圧に悩まされることになります。その結果、健康を損ねたり、家族関係が悪くなるといったことも生じてきます。
 セレブと呼ばれている人たちは、はたからは、さぞかし幸せだろうと見られがちですが、そういう人たちをカウンセリングしたことのある私からすれば、彼らははたで見るより幸せではありません。必死に幸せを演じているから幸せに見えるだけです。もちろん、一時的には幸せなときもあるでしょう。しかし、いつまでもずっと幸せであり続けるセレブなどというのは、存在しないか、したとしても、きわめてわずかだと思います。

 衣食住に困るのは不幸ですが、最低限の衣食住を維持するだけなら、セレブになる必要はありません。それなのに、人々がセレブに憧れるのは、いろいろ理由はあるでしょうが、もっとも大きな理由は、みんなからうらやましがられ、優越感に浸りたいからです。つまりは、名声欲のためです。
 名声欲を野放しにすると、食欲や性欲といった肉体的な欲望も強くなってきます。たとえば「セレブが食べるような高級料理を食べよう」ということになり、食欲が煽られていきます。また、男性の場合「セレブにふさわしいきれいな女性をパートナーにしよう」となり、性欲が煽られていきます。セレブになると、そうした食欲や性欲を満たすことができるようになってきますが、欲望にはきりがないので、ますます欲望が強くなってくるのです。
 名声というのは、麻薬のようなもので、一度それに浸ってしまうと、今度は名声なくしては苦しくていられなくなります。いわば「名声依存症」という状態になってしまうのです。
 麻薬がなければ苦しみを感じる人と、麻薬などなくても平気な人と、どちらが幸せと言えるでしょうか? つまり、名声がなければ苦しみを感じる人と、名声などなくても平気な人と、どちらが幸せか? ということです。
 麻薬など、へたに手を出したら最後、人生は破滅に向かいます。同じように、名声に取り憑かれたら最後、人生は破滅に向かいます。あるいは、人間として醜悪になります。仮に死後の生や来世というものがあるとしたら、かなり悲惨なものになるでしょう。

 ですから、名声など、求めてはいけないのです。麻薬を求めてはいけないのと同じです。
 そもそも、「人よりすぐれて優越感に浸りたい」などという願望は、卑しくてさもしい人の抱く願望です。名声はエゴの中核であり、悪魔の誘惑の常套手段であり、霊性進化という点から言えば、百害あって一利なしです。今まで立派だったのに、名声を得たとたんに堕落し、高慢で人を見下すような、醜悪な人間になった人を、私は何人か見ています。
 それよりも、すでに述べたように、自分の好きなこと、自分の得意なこと、世のため人のためになることを、一生懸命にすることです。その結果として名声を得たのであれば、そして、その名声に心を動かすことがないのであれば(これがけっこう難しいのですが)、何も問題はありません。名声そのものを求めることが問題なのです。
このページのトップへ