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 2020年11の独想録


11月25日 神仏を愛するとは
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月11月21日/22日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「西田幾多郎と山崎弁栄」というテーマで行いました。日本を代表する哲学者と、あまり知られていないけれども非常に偉大な聖者のお二人を紹介できたことは、私にとっても大きな喜びとなりました。近代日本にこんなすばらしい人がいたということを、ぜひ動画で知っていただければ幸いです。
 動画視聴
 来月は、今年最後の授業となる瞑想教室を行います。瞑想は、一部の変わり者が行う趣味のようなものではありません。本来、すべての人が行うべきものなのです。

 それともうひとつ、カバラ数秘術講座を、ミストラル・アレックス様主催で始めます。
 カバラ数秘術は、文字通り「カバラの数秘術」です。つまり、カバラの思想を土台にした数秘術です。カバラの思想とは、地上から解脱して高い次元に移行することです。ですから、単なる占いではなく、あくまでもカバラの思想、その目的のための数秘術の活用法をご紹介する予定です。
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 それでは本題にうつります。
 今回のイデア ライフ アカデミーの授業で紹介した西田幾多郎は、「愛することは知ることであり、知ることは愛することだ」と言いました。というのは、愛とは自分という意識なく相手と一体になることであり、相手と一体になれば、相手を自分のことのように知ることができるからです。
 一方、山崎弁栄は「ひたすら如来(仏)を愛せ」と言いました。愛することで仏と一体になり救われるのだと。キリスト教でも「神を愛せ」と説いていますが、本質的に同じことだと思います。
 悟りだとか救いといったものは、自力だけでは限界があるのです。もちろん、自力も必要です。しかし自力だけで悟ること、救われることは不可能です。どうしても、神だとか仏、あるいは守護霊といった、名称はどうであれ、高い霊的次元の存在から引き上げてもらう必要があるのです。
 とはいえ、弁栄はこうも言っています。
 「愛せと言われても、姿も見えないし声も聞こえない仏様をどうして愛せるのか、そんなことができるのは頭の狂った人ではないのか、と言われるかもしれませんね」
 確かにその通りだと思います。五感に触れることもなく、そもそも存在しているのかしていないのかさえ明確ではない神や仏を愛せと言われても、難しいのではないでしょうか。それなのに「私は熱烈に神を愛しています!」などと言う人がいたら、少し気味悪くさえ感じてしまいます。ただ弁栄は、「それができたのが、宗教の開祖や宗教的天才である」と述べています。

 とはいえ、私たちは、宗教の開祖ではないし、宗教的天才でもないでしょう。
 しかし、西田幾多郎にせよ山崎弁栄にせよ、また古今東西、多くの聖者は異口同音に「神(仏)を愛せ」と説いているのです。それが、神や仏から引き上げてもらうためには、どうしても必要不可欠の要素らしいのです。
 ならば、いったいどうしたらいいのでしょうか?
 「愛しなさい」と言われて「はい、わかりました」などと、簡単に愛せるものではありません。無理にそんなことをしても自分に嘘をつくだけです。
 こう考えると、悟りや覚醒に至るのは本当に難しいなあと、思わずため息が出てしまいます。
 ただ、この愛の問題さえクリアできれば、あとはかなり順調にいくようなのです。
 ですから、この問題は真剣に考えてみなければなりません。神(仏)を本当に愛することができるかどうか、ここが重要なポイントになってくるのです。
 では、どうしたらいいのでしょうか?

 逆に考えてみたいと思います。すなわち、私たちは五感に触れたものなら愛することができます。たとえば、男性の場合、きれいな女性を愛するでしょう。さらにその女性の性格が優しくて親切で、とにかく自分の好みに合った性格だったとします。すると男性は、その女性を愛するようになるでしょう。
 しかし、それは本当の意味で女性を愛していることになるでしょうか?
 単に、自分を喜ばせるルックスや性格をしている、というだけであって、要するに愛しているのは女性ではなくて自分であり、その女性は、自分を喜ばせるための手段(道具)にすぎない、ということではないでしょうか。

 では、今度は、人格高潔で徳が高く、尊敬に値する非常に立派な人物がいたとします。しかしその人は、あなたに何の喜びも与えてはくれません。それどころか、会ったこともないとします。
 あなたは、その人を愛するでしょうか?
 自分に喜びを与えてくれるわけではないから、愛することはないでしょうか?
 おそらく、ここで、人間の霊的資質というものが分かれてしまうのだと思います。
 確かに、その人は、物質的な喜びはもたらしてはくれないでしょうが、精神的な喜びをもたらしてくれます。すなわち、立派な人格者である、というだけで、喜び(感動)を感じる人は感じるのです。もちろん、感じない人もいます。立派な人を見ても、喜びを感じない人もいます。それはもう、資質の問題としか説明のしようがありません。

 釈迦もイエスも、立派な教えを説き、尊敬に値する人格者でした。そして、自分を犠牲にして人々の救済に全力を尽くしました。
 もちろん、現代においては、釈迦やイエスと会った人はいません。それは記録として知りえるのみです。にもかかわらず、そのようなすばらしい人物がいたことは事実であり、それだけで、釈迦やイエスを愛することができる人もいるわけです。それは彼らの高潔な人格に感動したからです。
 そして、釈迦やイエスを心から愛するならば、彼らの説いた教えも心から愛するでしょう。イエスは「神を愛しなさい」と言いました。「愛するイエスがそういうのなら」ということで、素直に神を認め、愛するようになれるはずです。最初はそれほど深い愛ではないかもしれませんが、しだいに深く、真実の愛になっていくのです。

 では、具体的に神を愛するとは、どういうことでしょうか。
 ただ単に「神様、大好き!」という気持ちだけでは、本当の愛とは言えないでしょう。
 本当に愛しているなら、神を歓ばせたいと思うはずです。
 では、神はどのようなことを歓ばれるでしょうか?
 神は、私たちが、この苦しみである地上世界から解脱して、自分のもとに帰ってきて同化されることを、もっとも歓ばれるのです。なぜなら、神ほど幸せな存在はなく、そんな神に同化されることが、私たちにとっては至高の幸福だからです。西田幾多郎は、そのように同化させようとする働きを「統一力」と呼び、統一力とはすなわち神であると言いました。
 神と同化するには、神と同じ属性、すなわち、高い徳を養う必要があります。すなわち、人格を向上させ、徳を完成させる生き方をすること、これが、神がもっとも歓ばれることなのです。
 ですから、神を本当に愛する人は、自分自身を立派にすることを、人生の最優先課題にするでしょう。
 神も、そんな人を嬉しく思い、いろいろと手を差し伸べてくれるでしょう。

 ただし、だからといって、この世的な喜びを与えるとは限りません。むしろ、この世的には辛い試練を与えることの方が多いでしょう。
 なぜなら、もしこの世的な喜びを与えたら、この世に対する執着が強くなり、この世に縛られてしまって、高い次元の神と同化できなくなってしまうからです。
 ですから、この世的なものに魅力を感じなくさせるために、あえて辛いことを与え、この世的なものに対する執着を断ち切るようにさせるわけです。
 それが、神の愛です。
 ですから、一見すると、神の愛は厳しく感じられることもあるわけですが、遠い視野をもって見るならば、この世の幸せとは比較にならないくらい大きな幸せを与えるための導きなのですから、やはりそれは慈愛ということになるのです。
 こうした理由をよく知って神を本当に愛するならば、何が起こっても「これでいいのだ、これが最善のことなのだ、神様、ありがとうございます」と、感謝して受け入れられる心境になっていくはずです。その心境になればなるほど、私たちは神から引き上げてもらえるようになるのです。
 愛する人は、愛する人のために生きるでしょう。同じように、神を愛する人は、神のために生きるでしょう。神と自己とは本来一体ですから、神のために生きるとは、自己のために生きることになるわけです。逆に言えば、自分のためにのみ生きている人は、本当の意味で自分のために生きていないことになるわけです。


 11月11日 「経済的困難による自殺」の本当の理由
 政府の統計によると、10月の自殺者数は、2153人。昨年度の同時期と比較して39パーセント増加したそうです。この増加の原因は、コロナ禍による、倒産や失職、すなわち経済的な困難が原因ではないかと言われています。
 自殺の原因は、単純ではなく、複数の要因が絡んでいることがほとんどだと思いますが、仮に今回の増加の原因が、単純にコロナ禍による経済的な困難であるとして話を進めてみます。
 確かに、これまで、たとえ、そこそこでも順調に仕事をして生活を続けてきたのに、自分に非がないにもかかわらず、あれよあれよという間に職を失い、生活に困ってしまうというのは、まったくショックであり、絶望的な気持ちになって死にたくなってしまうのも、無理はないと思います。

 ただ、ここで慎重に考えなければならないのは、もし経済的な困難が自殺の直接的な原因だとすると、もともと生活に困っている人、たとえばカツカツの節約生活をしなければ生活できない人や、生活保護を受けている人は、とっくに自殺していることになりますが、そうではありません。
 経済的な困難といっても、日本では、食べ物がなくて飢えて死んでしまうことは、ほぼありません。衣食住にも困るほどの極貧の人たちは、世界人口の約一割とされています。現在の世界人口がだいたい77億人〜78億人ですから、8億人近い人が極貧の生活をしていることになります。そのほとんどは発展途上国かと思いますが、そうした国々で自殺率が高いかというとそうではなく、自殺率が高いのは、実は先進国と言われている国々なのです。
 ですから、経済的な困難がそのまま自殺の原因の引き金になっているのではなく、経済的困難と自殺の間に、ある要因がはさまっていると考えられるのです。

 それは何か、一言でいうと、「物質至上主義」ではないかと思います。あからさまに言えば「お金」です。すなわち、お金のあるなしが、人間としての価値を決めている社会、これが自殺の原因ではないかと思うのです。
 巷では「お金がすべてではない」などと言われたりしますが、実際には、お金を持っている人ほど尊敬される世の中です(それが本当の尊敬かどうかはともかく、少なくとも尊敬される人として扱われます)。そうした人が、いわゆる勝ち組などと言われ、お金がない人は「負け組」などとされます。ほんの少数の人だけが、貧しくても人格が立派な人を尊敬するでしょうが、ほとんどの人はお金のあるなしで、その人に対する態度を決めます。金持ちなら価値ある人と見なして丁重に扱い、貧乏人なら、価値のない人と見なしてぞんざいに扱うのです。
 つまり、日本社会(日本だけではないでしょうが)では、お金を持っている人は人間として価値があるが、お金がない人は人間として価値がない、という価値観に支配されているのです。

 ですから、経済的な困難に見舞われるということは、人間としての価値が失われたということを意味してしまい、それが非常な精神的苦しみをもたらし、その結果として、自殺してしまうのではないかと思われるのです。
 もし、お金があってもなくても、人間としての価値は変わらず、平等に扱われるような社会であれば、これほど多くの自殺者が出ることはないと思います。
 ですから、もし自殺者を減らそうとするならば、まずはそうした物質(カネ)至上主義のような価値観をなくし、どんな人も人間として尊厳を認め合うようにしなければなりません。
 とはいえ、それはなかなか難しいような気がします。少なくともすぐにそのような社会が実現できるとは思えません。

 したがって、せめて個人としては、「お金イコール人間の価値」という価値観は捨てて生きるべきではないかと思います。
 そのような価値観を持って生きていると、お金というものは、いつ失われるかわかりませんので、自殺してしまう危険が高くなるでしょう。
 たとえば、事業がうまくいっていて、金持ちとして崇められ、社員を奴隷のごとく扱って有頂天になっていた人が、事業がうまくいかなくなって倒産し、豪邸もブランド品もすべて手放して狭いアパートに引越しでもしたら、とたんに周囲から、手のひらを返したように蔑まれてしまうわけです。そのショックは大きく、プライドが傷つけられて自殺してしまうかもしれません。
 もちろん、自殺してしまった人が、すべてこうした価値観を持っていた、ということではありません。冒頭で述べたように、自殺の原因は単純ではありませんから。
 しかし、物質至上主義で生きていると、もし物質が失われてしまったときには、自殺してしまう可能性は高いと思うわけです。

 自殺ということは別にしても、「お金イコール人間の価値」という価値観を抱き、自分より金持ちには媚びて、自分より貧しい人には威張るといったことは、非常に醜い行為だと思います。そういう醜い行為が横行しているこの社会は、ある種の美意識が欠如しているのではないかと、私は感じてしまいます。
 お金のあるなしは、人間の価値とはまったく無関係です。ですから、お金のあるなしで態度を変えたりすることは間違いであり、醜悪な行為なのです。
 こうした考え方を持った人が、この社会に少しずつ増えていけば、経済的な困難を理由に自殺してしまう人も、減っていくのではないかと思うのです。
 

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