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 2020年10月の独想録



 10月22日 私が占い師をやめた理由
 まずはご報告とお知らせから。
 今月10月17日/18日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「密教の瞑想法」ということで、真言密教に伝わる「阿字観瞑想法」を紹介しました。なかなか面白くて効果的な瞑想法です。そのさわりをご紹介してありますので、興味のある方はご覧ください。また前半は「なぜ瞑想するのか?」という根本的なことを話させていただきました。
動画視聴
 来月は哲学教室で、日本における哲学者として最初ともいうべき西田幾多郎と、親鸞以後、おそらくもっともすぐれた念仏行者、山崎弁栄(やまざきべんねい)を取り上げます。今までは海外の哲学者や宗教者などを取り上げてきましたが、日本にもこんなにすぐれた人がいたのかということを、皆様にお伝えできればと思っております。ぜひ授業にいらしてみてください。

 では、本題にうつります。
 今から10年以上前、都内のある「占いの館」に所属して、週に一日、占い師をしていたことがあります。2年くらい続けたかと思いますが、結局、やめました。今回はそのやめた理由をお話しようと思います。
 そのお店に、人気ナンバーワンの女性占い師がいました。お客さんが行列をなしてひっきりなしに来るのです。私はその占い師と出演日が同じではなかったので、直接にお会いしたことはありませんでしたが、その占い師をよく知っている別の占い師から、その人気の秘密を教えてもらったことがあります。それには驚かされました。
 その女性占い師は、どんな相談や悩み事に対しても、すべて「うまくいきますよ」と答えるのだそうです。たとえば、「彼氏とうまくいくでしょうか?」と相談されると、一応、占ってみるのですが、その結果が「うまくいかない」と出ても、(そのことは相談者に知らせずに)、「うまくいきますよ!」と言うのだそうです。
 しかし、占いの結果の通り、彼氏とうまくいかなかった相談者は、また来てそのことを占い師に告げます。するとその占い師は「もう少し時間が立てばうまくいくようになりますよ」と言って、とにかく、相談者が喜ぶようなことしか言わないというのです。
 私は、これでは占い鑑定をする必要はないではないか、占い師でなくても、誰でもできるではないかと思いましたが、実際、占いをすることは、この女性占い師にとっては、ある種のパフォーマンスなのでしょう。最初から言うことは決まっているわけですから。

 こういう占い師(?)が、人気ナンバーワンなのかと思うと、そもそも占いの意味とは何なのだろうかと不思議に思いました。一生懸命に占いを勉強し、占いの技術を高めても、それがそのまま人気占い師になるわけではないのです。あからさまに言えば、人気占い師になるには、占いの技術よりも、いかにお客さんの心をとらえるか、その「話術」にあると言えるのかもしれません。
 そして、すべての人がそうだとは言いませんが、占い師に相談に来る人の多くは、当たるかどうかよりも、心の満足を求めて来ているように思われます。

 また、お客さんでこんな人がいました。女性なのですが、占い師の間で有名なのです。その女性は、ある男性が好きで、その男性とうまくいくかどうか、あらゆる占い師に訪ね歩いているのです。彼女のお財布の中を見た占い師の一人は、そこにたくさんの札束が入っていたと言っていました。その女性が私のところに来ました。鑑定してみると「この男性は他に好きな人がいて、残念ながらうまくいかない」と出たので、そのことを彼女に伝えました。以後、彼女が再び来ることはありませんでしたが、他の占い師さんたちから話を聞くと、その女性は他の多くの占い師のところにも来たらしいのです。しかし、鑑定結果は私と同じに出たので、そのことを告げたところ、二度と来なくなった、というのです。
 なぜ彼女は、同じことを何人もの占い師に言われているのに、他店も含めて多くの占い師のもとに行き、多大なお金を費やしているのかというと、「彼氏とうまくいく」と言ってくれる占い師を捜し求めていたようなのです。
 この話からもわかるように、結局、人は自分に都合のいいことを言ってくれるのを望んでいるのだなと感じました。だから、占いの鑑定結果を無視してまでも、お客さんのご機嫌を取ることを言う占い師に人気が出てくるのかと合点がいきました。

 私は占いだけを学んでいたわけではなく、さまざまな哲学や宗教も学んできた、というより、そちらの方がむしろ専門なので、「お客さんが本当に幸せになるにはどうすればいいだろう?」ということを考えて相談に応じてきました。
 しかし、哲学や宗教を学ぶとわかるのですが、人間が本当に幸せになるには、ほとんどの場合、苦しみの道を一度は通り抜けないと、そうはならないことが多いのです。たとえば、「彼氏とうまくいくか?」と尋ねられ、鑑定の結果、「うまくいく」と出ても、その彼氏と交際することは、この人の幸せのためにはよくないと思われるようなことも出てくるわけです。彼のことを忘れる苦しみを経た後に、もっと幸せな恋愛に恵まれるだろうと判断できることもあるのです。
 したがって、私は「彼とは付き合わない方がよい」と言うのですが、そんなことを言うと、たいていもうそのお客さんは二度と相談に来ません。
 ほとんどの人は、そんな遠い幸せなどよりも、とにかく目先の欲求をかなえたいのです。その気持ちもわからなくはないのですが、しかし、そのためにもっとすばらしい幸せを逃してしまったなら、何と残念なことでしょうか。

 この世の大半の人は「手っ取り早く幸せになりたい」のです。そのために、そのような欲望をくすぐる詐欺商法にだまされたり、「引き寄せの法則」などという、まるでハリーポッターの魔法の世界のようなことを、いい歳をした大人までが信じ込んで、その種の本やセミナーにお金をつぎ込んでいるわけです。
 手っ取り早く幸せになれる方法があるなら、とっくに過去の聖者たちが見つけているはずです。釈迦は、老いた身にムチ打ちながら苦労して教えなど説かなかったでしょうし、イエスなどは、はりつけにならなかったでしょう。
 本当の幸せに至る道は険しく苦しいものです。安易な欲望を満たすような道は、最終的には堕落とひどい苦しみが待っています。これが世の真理です。この真理をわかっていながら、ご機嫌を取ってまでお客さんに来てもらおうとすることは、罪であると思いました。かといって、そんな真理を語っても、ほとんど耳を傾けてもらえず、お客さんは来ないでしょう。
 だから、私は占い師をやめたのです。



 10月11日 マズローの「欲求六段階説」は本当か?
 アメリカの心理学者アブラハム・マズローが唱えた「欲求五段階説」というものがあります。自己啓発系セミナーなどでよく引き合いに出されたりしています。有名なのでご存知の方も多いと思いますが、ざっと説明すると、人間の欲求は五段階のピラミッドのように積み重なっており、低次の欲求が満たされてはじめてその上の欲求を満たそうとするようになるという理論です。ピラミッドの一番下に位置するのは食欲などの「生理的欲求」、それが満たされると、その上に位置する「安全欲求(安全・安心した暮らしがしたい)」を満たそうとします。その安全欲求が満たされると、その上に位置する「社会的欲求(集団に帰属したり仲間が欲しい)」という欲求を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する「尊厳欲求(認められたい、尊敬されたい)」を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する最上位の「自己実現欲求(自分の能力を活かして創造的な活動がしたい)」を満たそうとする、という理論です。
 この理論は、確かにある程度、その通りではないかと思います。
 ただ、マズローは晩年、さらにその上に「自己超越欲求」を付け加えたようです。これは、自分よりも世のため人のために生きたいといった、エゴを超越した博愛主義的な崇高な生き方への欲求です。
 ということは、マズローは最終的に「欲求六段階説」を唱えたことになると思われます。
 仮にそうだとすると、最上位となった「自己超越欲求」は、その下の「自己実現欲求」が満たされないと発揮されず、自己実現欲求はその下の「社会的欲求」が満たされないと発揮されず、社会的欲求はその下の……ということになり、結局、最下位の生理的欲求が満たされないと、その上の欲求はすべて発揮されない、ということになります。

 しかし私は、マズローのこの理論には疑問を抱いています。
 というのも、この社会を見渡すなら、生理的欲求も満たされ、安全欲求も社会的欲求も満たされ、尊厳欲求も、自己実現欲求も満たされているのに、まったく自己超越欲求、つまり自分よりも世のため人のために生きようとしている人を、あまりにも見かけないからです。私の経験からいっても、会社を立ち上げてそこそこ成功し、本も何冊も書いて、十分に五段階すべての欲求を満たしていると思われた社長のもとで一時期働いたことがありますが、博愛のかけらもなく、そればかりか、エゴの塊のような人でした。

 逆に、生理的欲求さえも満たされていないのに、自己超越欲求を発揮したという例が、数多く見いだされます。たとえば、ナチス強制収容所の経験をもつ精神科医ヴィクトール・フランクルの証言がそれを示しています。強制収容所では、食べ物さえ満足に与えられず、いつ殺されるかもわかりませんでした。つまり、生理的欲求も安全欲求も満たされない状況だったわけで、いわんや社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などは問題外でした。そんな中で、少数ではあったにせよ、ただでさえ少ない自分の食べるぶんを人に分け与えたり、一生懸命に仲間を励まし慰めてまわる人たちがいたというのです。
 また、私自身、ホスピスでカウンセラーをしていたとき、もうすぐ亡くなってしまう患者さんの中に、つまり、五つの欲求が満たされているとはいえない人の中に、すばらしい博愛的精神に目覚めた人も、何人か見てきました。
 さらに、古今東西の博愛的聖者たちの伝記を研究すると、彼らは必ずしも五段階欲求を満たした人ばかりではありません。それどころか、自己超越をするために、あえて生理的欲求も安全欲求も社会的欲求も尊厳欲求も自己実現欲求も否定してきた人たちばかりです。
 以上のような理由から、マズローの「欲求六段階説」には、大きな疑問を抱いているのです。むしろ、彼のいう五段階の欲求が満たされない方が、最上位の自己超越欲求(博愛精神)が発揮されるのではないかとさえ思うくらいです。

 五段階説の頂点である自己実現までは、基本的にエゴです。したがって、五段階説だけなら、ある程度は真実であるかもしれません。しかし、その段階の上に「自己超越欲求」を積み重ねるのは無理があります。なぜなら、自己超越欲求とは、エゴを捨てることだからです。自己実現欲求まではエゴで突っ走ってこれます。基本的にエゴが推進力となっています。ですから、その延長線上に、エゴのない博愛精神である「自己超越欲求」を配置することはできないのです。今までエゴで突っ走ってきたのに、急にエゴが消滅するなんてことはありません。何か別のファクターがそこに導入されたと考えなければ、説明がつきません。
 では、その「ファクター」とは、いったい何なのでしょうか?

 それはおそらく、すでに聖者の行いについて少し触れたように、マズローのいう五つの欲求を否定することが、そのファクターではないかと思うのです。これは五つの欲求が満たされてはじめて自己超越欲求が生まれるとするマズローの考え方とは正反対です。むしろ逆に、五つの欲求が抑制されたとき、自己超越欲求が生まれるのではないかと思うわけです。
 すでに述べたように、五つの欲求の発展は、基本的にはエゴの推進力に基づいています。しかし、自己超越欲求とは、エゴの消滅という方向性をもったものですから、エゴに基づく五つの欲求は、否定されなければならないわけです。
 具体的には、食欲などの生理的欲求を抑え、安全や安心を求める気持ちを捨て自己を守ろうとせずに安全欲求を抑え、集団に帰属しようとせず孤独を受け入れることで社会的欲求を抑え、自分が認められたり尊敬されようとする気持ちを捨てて謙虚になることで尊厳欲求を抑え、自己を前面に打ち出して創造的な活動をしようとするのではなく、ただ神や仏といった、おおいなる存在に身をゆだねることで自己実現欲求を抑えることです。
 こうしたことは、仏教にせよ、キリスト教にせよ、聖者と呼ばれている人たちが行った修行の内容そのものです。

 マズローは、生理的欲求・安全欲求・社会的欲求の三つを「低次の欲求」、尊厳欲求と自己実現欲求を「高次の欲求」と分類しましたが、むしろ、これら五つはすべて低次の欲求であり、自己超越欲求だけが唯一、高次の欲求であると分類するべきではないかと思います。
 仏教にせよキリスト教にせよ、めざしているものは、エゴを滅却させた自己超越欲求を開発することです(厳密に言えば、最終的にはそのような欲求の主体である「自己」さえも滅却することですが)。
 以上のような視点から、あらためてマズローの理論を振り返ると、霊的求道者にとってひとつの指針になるかもしれません。

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