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vol.18
<詩を読む>

牛島敦子『緯線の振子』(砂子屋書房)を読む


三井喬子

 風土性は本当に詩を規定するだろうか。これだけ情報や交通が容易になった時代だ、その問いは少し保留を要する。けれどこの詩集を読む時わたしは、生まれ育った環境といううものを簡単に切り捨ててはならない、という思いに駆られる。

 牛島敦子は富山県出身である。すくなくとも多感な少女時代をそこで過ごした。この詩集は、この春結婚して秋田に移転するまでに書かれた詩によって編まれた。だから当然ではあるけれども、富山の自然・においがする。峻烈にして清浄な立山連峰、まだ荒れていない富山湾。街である富山市でも、空気には清冽な触感がある。

 この詩集を乱暴にも一言で言うとすれば、「富山の詩」なのであろうと思う。あるいは「宮沢賢治に近接する知」といってもいい。中部山岳地帯という屏風で太平洋側とへだてられた富山平野は(あるいは彼女が学生生活を送った京都盆地は)、外部から隔絶されたトポスとして牛島敦子の詩精神に豊かな滋養を与えたに違いない。それをとりあえず垂直の感性と言ってみようか。ここという場所と遥かな天空の高み、今と過去・未来、それは現実の土地感覚と符合する感覚なのだと思われる。同じことを長野の詩人の幾人かにも感じたことがあるのだが、やはりそこも山に囲まれた盆地であった。山々が親しければ、屏風に囲まれることに閉塞感をもってばかりではいられまい。けれど救いをもとめ祈りを捧げることがあるとしたら、それは頭上にある高い青空にではないだろうか。緯線の振子をふることには、生の垂直的な感応があるのである。

  最近の流行であるのか 町には
  総ガラス張りの建築が増えていった

  内側から見るとただのガラスで外からは鏡
  そんな素材が全面を壁していた
  町は明るくなった

  鏡の窓は青空を映し 映った青空がまた向かいのビルに映っていた
  空の中の空
  そうするとその建築群は
  そこにあるのに無いのだった
  在るのに無い

  [中略]

  数々の言葉が逃げ水のよう
  人々のサングラスに私が映っている
  輸送用トラックのサイドミラーに せり出した市庁舎の天井に
  百貨店の設置した憩いの広場の 円錐形の「希望」なるオブジェに
  それぞれに歪みあい お前だと告げるので
  私は一人称を信じることができない!

  見えない自動ドアに向かって 立つ
  見飽きた顔が ぱっくりと割れて
  向こうから人間があらわれる

  [後略]

                「COLLAGE 1999」


 奇異な語法も奇抜な情景もないのに、独特な世界を確立している。まだ20代の女性に似付かわしいとは思えないような言葉だが、「孤高」というのが彼女に冠するにふさわしい言葉ではないだろうか。同人誌に属さず賞荒らしといってもいい人の有りようは、太平洋側からはたぶん見えにくいであろう北陸の、最良の部分を成しているとわたしは思う。若さが甘えや傲慢や無知とは別のところで花ひらいていることに、次世紀の実りを予感できて嬉しい。この人の30代40代を見てみたいと思うのは、わたし一人ではない筈である。



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若林道枝『パッチワークの声』(詩学社) を読む


三井喬子

 生活感というものが何だか希薄になってきているような気がするのだが、それは私が鈍感になってきたということなのだろうか。金持ちにも貧乏にもなりたくなくて、過去を考えても仕方ない将来の暮らしなど眼中にない、わけではないが、やはりない私には、じつに鮮烈な詩集だった。

 若林道枝は渡米して30余年、いやむしろ40年に近い。彼女と私は詩作を始めた当初の短い日々を共有したのだが、始めからがっちりした詩を書く人だった。結婚してアメリカに行くと知った時は仰天した。それなのにご主人は早く亡くなってしまい、三人の子供を抱え、ご多分に漏れず大変な苦労をした。一昨年帰国されたときには、颯爽たる美女が丸いおばさんになって私達の前にあらわれたのだった(彼女もびっくりしただろうが、私達だってびっくりした)。移民の彼女の辛さは、もう想像しても分からない。けれど、一冊の詩集になったとき、その喜びや悲しみは私達を激しく揺さぶる。確かな生が刻印された、と私は思った。時々日本語を口ごもる彼女が日米両語で書くことは至極自然なことで、英語も日本語も彼女のものなのだ。そして目には見えない程度には彼女のものではないのだろう。二つの文化のはざ間に生きる人の切実な思いと姿が浮かぶ。彼女は40年に近い日々を、言語と言う精神生活の基本的なところで、二重生活をして過ごしてきたのだ。

 たとえば、「体験」(部分)。私達もそうなのだけれど、旅から戻ると親しい人に何から何まで報告しないと、その旅が本当には終わらない。


  湖を囲むシエラ山系が
  残雪に包まれて
  いかに五月の空の深い青に
  くっきりと映えていたか


と、「イヴォン、ヨリアー、パトリシア」に報告する。それはまた人生の旅においてもしかりである。


  子供三人育てて
  皆が大学を出て仕事についた時の
  両手から重い荷物が永い音をたてて
  落下していったときの開放感は
  同じ苦労をした仲間と
  大皿の寿司とやきそばとポテトサラダごしに
  けたたましく祝福しないことには
  実感の熱さがやってこない

  瑠美さん、(末ちゃん)、高橋さん


そして、ちょっと英文に移ってみよう。「精神衛生局の受け付けは話声でみたされ/うしろの経理課までしみこんで」いて
  
A woman talks busily to nobody
About the New York City Zoo
About pumpkins for the festival
The names of fifty states
Of birthdays of nieces and nephews

A man talks talks and talks
To his own palm
Opened and closed

The old lady talks only to god in Spanish

Being insane because
Nobody accept his or her experience
Or insanity cuts communication of experiences
I have seen many bridges
Cross darkness
The wards have no windows
Filled with frozen bridges


 二重言語生活者となった若林道枝の言葉は力強い。帰国子女とはまた別の形の言語感覚があって、彼女の独自性として耀いている。ときに幻想的な作品もあるが、むしろ生活詩としてこの一冊を捉えたほうが分かりやすいと思う。ただし、手垢のついていない生活詩である。日本の文化からは海を隔てていて、良いものが汚れないで育っていたのだろう。

 「」の出だしに「常に的確で/ほぼ正しい選択をしている/という錯覚の上に」という言葉がある。母語でない言葉で話しはじめた彼女の暮らしは、もしかしたら何時もそんな距離感をもって続いたのではないだろうか。どこかへ、誰かへ、私達は言葉を届かせたいのだ、錯覚ではなく。第2の言語の習得に難のあった移民の、少なからぬ者が自滅したのだろう。その人やあの人の、あの時やこの時の声がパッチワークのように配置されていて、胸にせまってくる。体験が文字化され普遍化されたとき、それは読む者の体験となりうるし、永続性を持つ。「隣人はやがて/やがていなくなるのだ」が、『パッチワークの声』はその生の証言として命永らえるだろう。




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