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 2005年2月の独想録


 2月6日  創造性なき批判について
 エッセイのような文章を書くというとき、何か自分の思いや意見を発表するというときに、人間がもっともおかしやすいこと(あえて“おかす”という言葉を使うけれども)は、世の中や誰かの批判をするというものではないだろうか。
 もちろん、世の中の不正を糾弾することは必要であろう。さもなければ、実際にこの社会はよくならないことも確かであろう。会社に対して批判や圧力をかける「労働組合」などは、なくてすむならないほうがいいと思うが、現実に労働組合がなければ、労働者の職場環境や待遇は今日ほど改善されなかったであろう。野党がいなければ与党は何をするかわからないというのも、残念ながら現実的な事実であろう。
 だが、批判だけで他には何もないとしたら、そこに果たしてどれほどの意味があるのか?
 エッセイなどに類する本を読むと、世の中や人の批判(むしろ“悪口”といった方がいいようなものも少なくない)が書かれてあるものが多い。あるいは、「トンデモ本」といったものに代表されているように、世の中の少し変わった人、変わった研究をしている人を(本人はまじめに研究しているというのに)、あざ笑うかのように批判し冷笑して喜ぶような品性のない人たちもいる(冷静に批判するなら、あのようにふざけた表現は用いないはずだ)。こういう行為は、足の不自由な人が一所懸命に歩いているのに、その歩き方が奇妙だといってあざ笑うのと同じくらい低レベルなことではないだろうか。
 とはいえ、実際のところ、腹が立つようなことが多いこの社会に生きていると、批判も悪口もいいたくなることも確かだ。そのようなネタにはこと欠かないし、文筆家でなくても、話せばそれなりに筋の通った意見を誰もがいえるくらいであろう。
 しかしそれでもなお、批判というのは、それ自体では単なる「破壊活動」に過ぎないものだ。いつだって破壊するよりも創造することの方が難しく、また価値がある。破壊すること、傍観者として世の中を冷笑することは、およそ誰にでもできる非創造的な行為である。自分は何もせず、人のやることにケチをつけたり批判ばかりしている人は、そうすることで自分が偉くなったような錯覚を覚えるのかもしれないが、たとえ千の批判をしたとしても、その価値は、たったひとつの創造的な行為には及ばない。
 人間というものは、どうしても自分に甘く、人には厳しくなってしまう。
 自分が他者を批判するのと同じ物差しで、自分自身も批判されたいと思うかどうかを、他者を批判する前に自問する必要があるのではないだろうか。つまりは、他者を批判する資格が自分にあるかどうかということだが、人はつい、自分を批判する際には、目盛りの甘い物差しに取り替えて自分を計ってしまう。自分以外の第三者が批判されているときは楽しみ喜び、拍手喝采を送るけれども、自分の至らない点をたとえわずかでも指摘されることは喜ばない。自分を棚にあげて世の中や人を批判することは気持ちのいいことであり、その「気持ちよさ」は、ある種の麻薬的な快感をその人にもたらす危険がある。そして他者を批判することがやめられなくなり、ついには依存症(中毒)を起こしてしまう。このような人たちが、インターネットの世界にはたくさんいるようだ。
 人間は、どんなに批判が上手であったとしても、それで愛されることはない。愛される人間とは、むしろ他者の欠点や弱点、場合によってはその罪に対しても寛容で、決して攻撃(批判)しない人なのだ。
 今の時代にもっとも必要なことは、世の中が悪い、誰それが悪い、といった冷たく攻撃的な批判ではなく、人間の善性に訴えかけるような創造性と愛に満ちた意見ではないだろうか。


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 2月10日  人生を深く味わい尽くすということ
 ホスピスに勤めていたときには、当然のことだが、常に死というものに直面した。隔週でホスピスに顔を出すたびに、前回は仲良く話をしていた人が、すでに旅立たれたと告げられることは日常茶飯事だ。
 すぐ忘却の中に埋没してしまう患者さんもいれば、いつまでも忘れられない患者さんもいる。
 そんな患者さんのひとり、まだ40歳で肺癌、奥様と3人の幼い子供がいた。最初のうちは、何とか生きたいとがんばっておられた様子で、われわれ医療スタッフに対しても神経質な注文を出していた。しかし、一度危ない状態になって生死をさまよい、何とかそこから戻ってきてから、穏やかな気持ちになり、死を悟ったのか、身辺の整理をするようになった。
 その彼に、「今までの人生の中で、いつが一番楽しかったですか?」と尋ねてみた。
 すると、意外な言葉が返ってきた。
「今が、一番楽しい。今が一番幸せだ」
 彼は、ほんの小さな親切に対しても、涙を流して「ありがとう」といい、感謝の気持ちを深めていった。その姿は、まわりの人を感動させるくらいだった。
「なぜ、今が一番楽しいのですか?」
 と再び尋ねた。常識的に考えれば、癌の苦しみと戦いながら、家族との別れを迎える日が刻々と近づいているというのに、なぜ、そんな今が一番楽しいというのか?
 この質問に対して、彼がどのような言葉を使って答えてくれたのか、詳しくは思い出せない。だが、内容的には次のような理由であったと思う。
 それは、人間というもの、人生というものを、今ほど深く味わうことができたことはなかった、というものだった。彼の顔は、まさに喜びで輝いているようだった。
 私たちは、どれくらい、人間というもの、人生というものを、「深く」味わっているだろうか?
 誰かと付き合うにしても、表面的にしか付き合っていないのではないだろうか?
 人生に対しても、本気で体当たりすることもなく、さまざまなことから逃げて、要領よく生きてしまっているのではないだろうか?
 確かに、こういう生き方をすれば、余計な労苦を背負うこともなく、傷つくことも少ないから、ある意味では楽な人生であるといえるかもしれない。
 だが、それはたとえるなら、ビールの泡だけをすすっているのと同じようなものだ。
 子供の頃、いたずらでビールを飲んだとき、大人はどうしてあんなまずいものを飲むのかと思ったものだ。鼻が痛くなるような、ツーンとした刺激、あの苦い味、あんなもの、どこがおいしいんだろうかと。しかし、大人になったとき、まさにあの刺激、あの苦みこそがビールの旨味であり、あの刺激や苦みを味わうことが、ビールを飲む喜びなのだということがわかった。刺激も苦みもないビールなど、誰が愛するだろう。
 この世の多くの人が、地上というビアホールにビールを飲みにきて、ただ泡だけをすすって去ってしまう。一流のレストランにやってきて、サラダだけを食べて帰ってしまう。何ともったいないことだろう。こんなうわべだけの生き方の中に、人生の真の喜びは、おそらく存在しない。
 この世の中に生きてきた限りは、そのすべてを、その喜びも苦しみも、じっくりと深く味わってみることの中にこそ、幸せというものがあるのではないだろうか。
 まもなく、その患者さんはお亡くなりになった。
 人が死ぬと「忌中」などという期間がもうけられる。死は忌まわしいものと考えられている。だが、この患者さんの死に遭遇したときに感じたものは、決して「忌まわしい」といったものではなく、むしろ、何か「爽やかなもの」であった。
 亡くなられて、半月ほどだったとき、奥様から一冊の本をいただいた。
「自分が亡くなったら、この本を渡して欲しいと主人から頼まれていました」と。
 それは、「葉っぱのフレディ」という絵本だった。
 一枚の葉っぱが成長し、やがて冬が来て枯れて落ちていってしまう。しかし、枯葉は木の栄養となり、再び新しい若葉が生えてくる。生命の永遠性を感動的に綴った本だ。
 まさに、この本に描かれている生命の不死性を、この患者さんは体現したかのようであった。
 人生というものを、その甘さも苦さも、とことん味わい尽くし、真剣に生きてきた人は、われわれに不死の感覚を与えてくれる。そして実際、そんな人は、文字通りの意味において不死であるに違いない。少なくても、死んでいるも同然の生き方をしている人よりも。


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 2月15日  私の座右の銘
 「あなたの座右の銘は何ですか?」
 という質問を受けた。
 世の中には、さまざまな信条を自分の生き方の基盤にしている人がいる。その信条を言葉にして常に振り返るというのが座右の銘だ。たとえば、西郷隆盛の座右の銘は、「敬天愛人(天を敬い人を愛す)」であった。
 私も、座右の銘をもっていて、それを手帳の一番最初に書き込んでいる。「たぶん斉藤さんのことだから、さぞかし仰々しいに違いない」と思われるかもしれない(笑)。
 けれども、その期待(?)に反して、私の座右の銘は非常にシンプルなのだ。
 それは、英語でたったひとこと。
 「Think!(考えろ)」
 である。
 確か、アップルコンピュータの会長も同じ座右の銘であったと記憶している(それを知って英語で表現するようになったのだが)。 
「考えるということ」
 誰もが、日常的に考えているであろうから、何の変哲もない平凡な言葉のように思われるかもしれない。だが、座右の銘であるからには、それを徹底するということを意味する。つまり、正確に表現すれば、
「どこまでも常に考え続けろ!」
 ということになる。
 なぜ私がこのような座右の銘をもつようになったのかというと、もちろん自戒をこめていうのだが、世の中には「すぐにあきらめてしまう」人が圧倒的に多いからだ。
 誰もが、何かをはじめて努力するが、たいていはそのまま物事がうまくいくはずはなく、ほとんどは失敗や挫折を経験する。そこで、どうすればいいかと考えることになるが、ほとんどの人が、ちょっと考えただけで「もうダメだ」と結論を出し、考えるのをそこで止めてしまう。まるで「それ以上は考えてはならない」と催眠術にでもかけられているかのように。そのため、もう目の前には成功が待っているかもしれないのに、みすみすそれを逃してしまうことになる。
 もし、挫折を経験して「もうダメだ」と思ったら、「では、ダメではなくなるには、どうすればいいだろうか?」と考えるのだ。「もう絶望だ」と思ったら、「本当に絶望だといえるのか?」と考える。多くの場合、よく考えれば絶望ではないことの方が圧倒的に多いことがわかる。仮に絶望的だとしたら、「どのようにしてこの絶望的な状況を打破することができるのか?」と考える。とにかく、しつこいほど考える。
 どこまでもどこまでも、考えて考えて、考え抜くのだ。、問題が解決され道が切り開かれるまで、決して考えることをやめてはならないのだ。
 私の「Think!」という座右の銘には、そのくらいの執念がこめられている。
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